『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2024年12月1日(日)91回 ― 2024年12月01日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の12回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「四 死後の霊界における霊」(p146~163)です。
前回「三 霊界」の次章であり、さらにこの章でも霊界について学んでいくことになります。
先ず146ページに記載がある
「・・・人間の体的本性を貫いて働きかけているものは、霊に他ならず、物体界で作用するための意図、方向は霊からきている。」この文章をおさえておきます。
P147
「・・・地上の活動の目標と意図とは、「霊たちの国」で形成されるのである。」
P148
「人間は、物質の性質や力を、この世の舞台で学ぶ。この舞台の上で、創造活動を行いながら、物質界がそこで働く自分に何を要求するのかについて、経験を蓄積する。そして自分の思想、理念を具体化するための資材の性質を知ることを学ぶ。しかし思想や理念そのものは、素材から吸収することができない。このようにして、地上世界は、創造の場であると同時に、学習の場でもある。「霊界」ではこの学習の成果が、霊の活発な能力に変化させられる。」
P149
「霊は体的本性から解放されて、今やあらゆる方向へ向けて自己を形成し、そして生前の地上の経験の諸成果を、この形成の中に取り込む。だから死後の霊は、常に眼差しを、ふたたび課題を果たすべき舞台である地上に向けており、自分の活動場所としての地球の必然的な発展過程をどこまでも追い続ける。霊は、自分がこの世に生をうける度に、その時点での地球上の変化に応じて尽力できるように、心掛ける。」
同じくp149
「「霊界」における人間の霊の成熟は、そこでの諸領域の事情に通じることによって達成される。・・・」
R・シュタイナーは、霊界を第一領域~第七領域に区分して示している。
P150~153
「霊界の第一領域における人間は、地上の事物の霊的原像にとりまかれている。この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人間は知ることができた。地上では単に考えられるだけのものが、この領域では体験されるものとなる。この領域で、人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思考内容というのは、現実の生きた存在なのである。地上生活においては感覚で知覚されたものも、今や思考内容の形式をとって、彼に働きかけてくる。しかもその思考内容は、事物の背後にかくれた影として現れるのではなく、事物を産み出す生命に満ちた現実そのものなのである。人間はいわば、その中で地上の事物が形成される思想工房の中にいる。なぜなら「霊界」では、すべてが生命に満ちた営為であり、活動であるからである。ここでは思想界が、創造し、形成する生きた存在の世界として、活動している。人は、地上で体験したものが如何にして形成されるのかを、見る。肉体をもった人間が感覚的事物を現実として体験するように、今、霊となった人間は、霊の形成する諸力を現実として体験する。
霊界における思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を感じる。霊的存在だけが自分に属すると、感じられる。そして自分の遺体を、もはや物質としてではなく、記憶の中でのように、思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に属するものとして眼の前に現れる。かっての自分の肉体を、外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。もはや、自分の体的本性を自分の自我に親和した外界の他の事物から区別しようとはしなくなる。外界全体の中に、自分の身体をも含めて、ひとつの統一性を感じるようになる。自分の身体も、周囲の世界とひとつに融合している。
このように、物質的、身体的現実の諸原像を、みずからもそれに属していた統一体として観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に学びとる。人は自分に向かって、「今ここでお前の周りに拡がっているものは、かってはお前自身であったのだ」、ということを学ぶ。・・・
地上生活において影のような思想として把握されていたもの、すべての叡智の目標であったものが、「霊界」においては、直接体験される。というよりも、霊界の生活の中でのひとつの事実であるからこそ、それが地上生活の中で思考されるのである。
このように、人間は霊界に生きるとき、地上生活におけるときの状況と事実とを、高次の立場から、いわば外から、観る。その際、「霊界」の最下位の領域にいる人間は、物質的、身体的な現実と直接係わるような仕方で、地上の状況と向き合っている。
人間はこの世で、家族、民族の一員としての生をうけ、きまった土地で生活する。このようなすべての事情に、人間の地上生活は規定されている。この世の状況が命じるままに、友達が選ばれ、特定の職業に従事する。これらすべてによって、人間の生活状況が規定される。さて、これらすべては、「霊界」の最初の領域での生活の中で、生きた思考存在として立ち現れてくる。人間はこれらすべてを、一定の仕方で、もう一度、活動する霊の側面から体験しなおすのである。
彼の抱いた家庭愛や友情は、彼の中で内側から甦り、彼の諸能力がこの方向において強められる。家庭愛や友情の力として人間精神の内に働くものが強められる。彼はこの点において、その後より完全な人間としてふたたび地上に生れ変る。
「霊界」のこの最下位の領域内で成果として実るものは、地上生活上のいわば日常的状況である。そしてこの日常的状況にもっぱら没頭してきた霊的部分は、死から再生に至る霊界生活の主要期間中、この領域に親近感を持ち続けるであろう。
この世でともに生きてきた人びととは、霊界でも再会する。肉体と結びついたすべてが魂から離れ落ちるように、地上生活において魂と魂とを結びつけていた絆も、物質界でのみ意味や効力をもっている諸制約から解放される。しかし死後、霊界の中においても、地上生活での魂と魂の係わりはすべて存続し続ける。物質的状況を表現する言葉は、霊界に生じる事柄を不正確にしか表現することができないが、しかしこのことを前提とした上で、地上で一緒に暮した魂同士は、霊界で再開し、かつての共同生活を霊界に相応した仕方で継続するということは、まったく正しいであろう。」
P153~155
「第二の領域は、地上での共通の生命が思考存在として、いわば「霊界」の液体成分として流れている場所である。肉体をもった人間が世界を観察する場合、生命は個々の生物と結びついた仕方で現象する。霊界ではしかし、生命は個々の生物から分離され、生命の血として、いわば霊界全体を循環する。それは霊界の一切の中に存在するところの、生ある統一体となっている。
この世での生命は、ただその残照だけが人間に現象し、世界の全体、統一、調和に対して人間が抱くあらゆる形式の畏敬として現れていた。人間の宗教生活は、この残照に由来するのである。生存の包括的意味が、無常のものの中や個々の事物の中にあるのではない、ということを人間はしる。人間は無常なものを永遠なる調和的統一の「比喩」と模像として考察する。人間はこの統一を、畏敬と崇拝との中で仰ぎ見、この統一のために宗教的祭祀を行う。
「霊界」では、残照ではなく、生きた思考存在として、その現実の形姿が現れる。人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることができる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果が、この領域の中に現れてくる。人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを区別すべきでない、と認識する。自分を全体の一員として認識する能力は、この領域で形成される。宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受けとるであろう。そして能力を向上させつつ、この方向に沿って、ふたたび人間は、この世に生を受けるであろう。
人は第一の領域では、生前この世の絆によって身近な縁を結んでいた魂たちとともにいるが、第二の領域では、同じ崇拝対象、同じ信条等によってひとつに結ばれていると感じられたすべての魂たちの領域に入る。ここで強調しておかねばならないが、すでに通過した領域の霊的体験は、それに続く領域の中でも存続し続ける。だから人は、家族、友人等によって結ばれた絆から、第二、第三の領域の生活に入ったあとでも、決して切り離されることはない。
また「霊界」の諸領域は、「仕切られた部屋」のように、互にはっきり区別されているのではない。諸領域は互いに浸透し合っている。そして人は、新しい領域の中へ何らかの仕方で外から「入って」いったからではなく、以前には知覚できなかったものを知覚する内的能力を獲得したからこそ、その新しい領域での体験を持つのである。
P155~156
「霊界」の第三領域は、魂界の原像を含んでいる。魂界に存在する一切が、この第三領域の中で、生きた思考存在として現れている。欲望、願望、感情等の原像がここに見出される。しかし霊界のこの領域では、如何なる種類の利己的欲求も、その魂には付着していない。第二領域での一切の生活と同じように、この第三領域でも、すべての欲望と願望、すべての快と不快は、ひとつの統一を形成している。他人の欲望、と願望と自分の欲望、と願望とは区別されない。大気が地球をとりまいているように、すべての存在の感情と情緒は、一切を包含するひとつの共通世界なのである。
この領域は「霊界」のいわば大気である。ここでは、人が地上で社会のため、隣人のために、没我的態度で奉仕したときの一切の行為が、実を結ぶのである。なぜなら、このような奉仕によって、人はすでにこの世で「霊界」の第三領域の残照の中に生きていたからである。人類の偉大な慈善家、献身的人物、共同体に大きな奉仕を為した人物は、かって前世において、この領域と特別の親和関係を作ったのちに、この領域でこのような行為のための能力を獲得した人びとなのである。
P156
「以上に述べた「霊界」の三領域が、霊界の下に立つ物質界と魂界とに対して、特定の関係をもっていることは明瞭である。なぜなら、この二つの世界の中で身体をもち、魂をもっているものの原像である、生きた思考存在が、この三領域に存在しているからである。
P156~158
「純粋な霊界」は、第四の領域とともに始まる。しかしこの領域も、まだ完全な意味でそうなのではない。第四領域が下位の三領域と区別されるのは、これらの三領域で出会うのが、人間自身が物質界と魂界に積極的に働きかける以前に存在している物質的、魂的諸状況の原像だからである。・・・
この世で獲得した科学の成果、芸術の着想と形式、技術の思想は、この第四領域でその成果を実らせている。それ故、芸術家、学者、大発明家は、「霊界」に滞在している間に、彼らの創造衝動をこの領域から受けとり、彼らの天分を高めたからこそ、ふたたび地上に生を受けたときに、人類文化の発展に一層寄与できるようになったのである。
「霊界」のこの第四領域が、特に優れた人物にしか意味をもたぬ、と考える必要はない。すべての人間にとって意味をもっている。地上の生活中に、日常的な願望の領分を超えて人間が努力したものはすべて、その源泉をこの領域にもっている。もし人が死から再生に至る間にこの領域を通過しなかったとすれば、その後はもはや狭い個人的な生活空間を超えて、普遍的=人間的なものへ向おうとする興味をもたなくなるであろう。
この領域が完全な意味で「純粋な霊界」と呼ぶことができないというとは、すでに述べた。なぜそうなのかといえば、人がかって生きていた時代の文化状況が、死後この領域にいる彼の霊にも影響し続けるからである。「霊界」のこの領域においては、自分の素質に従い、また自分の属する民族、国家等の水準に従って果し得た業績の成果だけが享受されるのである。
P158~162
「霊界」のもっと高次の諸領域における人間の霊は、どのような地上的束縛からも自由である。人間の霊は、この「純粋な霊界」にまで高まると、霊界が地上の生活のために立てた目標や意図の真の意味を体験することができる。地上においてすでに実現されているものは、どんなものも、最高の目標や意図の、多かれ少なかれ無力な模造品であるに過ぎない。結晶体、樹木、動物のどれ程驚嘆すべき形態も、そして人間精神のどれ程見事な作品も、すべては霊が意図しているものの模造品でしかない。そして人間は繰り返しこの世に生まれてきては、完全な意図や目標のこの不完全な模造品と係わり合う。人間自身もまた、さまざまの転生のどれかひとつの中では、その都度霊界で意図してきたものの不完全な模造でしかありえない。「霊界」における霊としての本来の人間の姿は、死と新生の中間状態にある人間が「霊界」の第五領域にまで上昇したとき、はじめて現れる。この領域での人間こそが、本来の人間なのである。それは、輪廻転生を重ねつつ、その都度、身体存在となって現れる自我の真の姿である。
第五領域における人間のこの真我は、あらゆる方向に向って思う存分自由に生きている。常に新たにこの世に出生してくる自我は、この真我のひとつの現れである。自我は、生れる度に必ず、「霊界」の下位の諸領域で獲得した能力を伴って現れ、それによって、前世で得た成果を次の人生の中へ持ち込む。自我はこれまでの転生の諸成果の担い手なのである。
したがって「霊界」の第五領域を生きる真我は、意図と目標の王国にいる。建築家が作業現場で明らかになった欠陥箇所に教えられ、次の仕事では、その不完全な箇所を完全なものに変えて設計することができるであろうように、第五領域の真我は、これまでの地上生活の諸成果のうち物質界と魂界の不完全さと結びついている部分を取り除き、今生きている「霊界」の意図を、これまでの地上生活の諸成果でもって一層成熟させる。
明らかに、この領域から汲み取れる力は、真我が意図の世界の中に持ち込むにふさわしい成果を、生前の自我がどれ程獲得することができたかによってきまる。生前、自我が活発な思想生活、洞察を伴った博愛行為によって、霊の意図を実現しようと努めていたとすれば、真我は、この領域から多くを得る権利を有しているといえるだろう。日常的状況の中にまったく埋没して、ただ無常の事物の中でしか生きてこなかった自我は、永遠の宇宙秩序の意図にふさわしい役割を果たすことのできるような種子を播かなかった。ただ日常の利害関係を超えて生きた少数の自我だけが、地上で播いた種子を「霊界」の上位の諸領域の中で実らせることができる。
「地上の名声」を得ることが大事だというのではない。そうではなく、狭い生活空間の中の一つひとつの小さな事柄に、生命の永遠の生成発展にとっての意味を見出すことが、まさに問題なのである。
この領域では、この世の生活の場合と評価の規準が異なっていることをよく理解していなければならない。たとえばこの第五領域と同質の霊性を、わずかしか獲得しなかった人間には、来世の運命(かるま)の中に、この欠陥に応じた結果が現れるように生きようとする衝動が生じる。その結果、次の人生においては、苦しみの多い生活が与えられる。そのときになって、それが当人にとってどれ程深い苦悩の対象となるにしても、「霊界」のこの領域にいたときには、それこそ自分にとってまったく必要な運命なのだ、と感じていたのである。
第五領域の人間は、本来の真我として生きているので、この世に生きていたときに自分を包んでいた低次の世界の成分のすべてから脱却している。彼は輪廻転生を通じて、常に同一の存在だったし、これからも常に同一の存在であり続けるだろう。彼は、自分が地上生活のために自我の中に組み込んだ意図に従って生きている。彼は自分の過去を回顧して、これまで体験してきたことが、未来に実現されるべき意図の中に、すべて取り入れられるであろうと感じる。これまでの人生に対する一種の記憶と、これからの人生に対する予見的展望とが一瞬にして明らかになる。
本書で「霊我」と名づけられたものは、この領域に生きているのである——それぞれの発展段階に応じた、それぞれにふさわしい仕方で。そのようにして霊我は成熟し、そして新しい人生において霊的意図を地上の現実の中で遂行するための準備をするのである。
「霊界」の諸領域に滞在する「霊我」は、自分が霊界を完全に自由に移動できるまでに成長したとき、真の故郷をますますこの霊界に求めるだろう。霊的生活は、地上の人間にとっての物質的な現実生活がそうであるように、霊我にとって熟知したものとなるだろう。霊界の観点は、そのときから、意識的にせよ、無意識的にせよ、多かれ少なかれ、その後の地上生活の基準的観点となる。自我が自分を神的宇宙秩序の一分肢と感じるようになれば、もはや地上の制約と法則とが、自我の内奥の本性を侵すことはなくなるだろう。自我が活動するための力は、すべて霊界から来るようになる。しかも霊界はひとつの統一体だから、霊界に生きる人は、永遠なものがどのようにして過去に創造を行ったかを知っている。そしてこの永遠なものを基準にして、自分の未来の方向を決定することができる。
過去への眼は、どこまでも拡大される。この段階に到達した人は、来世において遂行すべき目標をみずから設定する。彼は自分の未来に影響を与えて、未来が霊的意味において真実の道を歩めるようにする。このような人は、死と新生の中間状態で、神的叡智を直接見ることのできる崇高な神霊たちすべての面前に立っている。彼はこれらの崇高な神霊たちをさえ理解できる段階に達したのである。
P162
「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在にもっとも適った仕方で遂行するであろう。なぜなら、彼は自分のためになるものをではなく、宇宙秩序に則って生起すべきものを求めるのだから。
P162~163
「霊界」の第七領域は、人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中へ、宇宙的使命の達成のために移植された「生命核」たちに向き合う。こうして三つの世界の果てに立つ人間は、それとともに自分自身の生命核を認識する。この結果、三つの世界の謎が解決され、彼はこれらの世界のすべてのいとなみを見通す。この世の通常の生活状況の中では、霊界でこの体験をすることができた魂の諸能力は意識されずにいる。これらの能力は、無意識の深みの中で、物質界の意識を成立させる肉体の諸機官に働きかけている。なぜこれらの能力が、この物質界においては知覚されぬものとなっているのか。その理由は、まさにここにある。
眼もまた自分が見えない。なぜなら、眼の中には他のものを可視的にする諸力が働いているからである。出生から死までの人生が、どの程度まで前世の成果を示しているかを理解しようと思うなら、地上生活そのものに内在する観点が——もちろんはじめは誰でも、この観点に立たざるをえないのだが——この理解を不可能にしているということを、知らねばならない。たとえば、なぜ地上の生活が苦しみに充ちた、不完全なものなのかを、この観点は理解することができないだろう。けれども、地上生活の外に立つ観点なら、まさに地上生活のこのような相こそ、その苦しみと不完全さこそ、以前の諸人生の結果なのだ、ということを明らかに理解するだろう。」
P163
「本書の最後の章に述べられている意味での認識の小道を歩むことによって、魂は肉体生活の諸条件から解放される。それによって魂は、死と新生の間で体験される事柄を像として知覚することができる。このような知覚が、本書で素描されたような「霊界」の諸事象の記述を可能にしてくれたのである。魂の在り方の全体は、肉体に宿るときと、純粋な霊的な体験におけるときとでは、異なっている。このことを忘れたら、本書の記述を正しい光の下に見ることはできないであろう。」
長い引用をさせて戴くことになった。当書ちくま学芸文庫『神智学』は翻訳書であるが、言葉一つひとつの表現に深い意味が隠れている。てにをは一つひとつが大切な表現になっている。読み進めるなかでそのように感じる。『神智学』の読書人の一人として一言一句が大事で、はずすことが出来なくなる。繰り返して、再度、繰り返しながら読む。ちくま学芸文庫R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳)を手に取り繰り返し読む。
今回の読書は「三つの世界」―「四 死後の霊界における霊」(p146~163)です。
前回「三 霊界」の次章であり、さらにこの章でも霊界について学んでいくことになります。
先ず146ページに記載がある
「・・・人間の体的本性を貫いて働きかけているものは、霊に他ならず、物体界で作用するための意図、方向は霊からきている。」この文章をおさえておきます。
P147
「・・・地上の活動の目標と意図とは、「霊たちの国」で形成されるのである。」
P148
「人間は、物質の性質や力を、この世の舞台で学ぶ。この舞台の上で、創造活動を行いながら、物質界がそこで働く自分に何を要求するのかについて、経験を蓄積する。そして自分の思想、理念を具体化するための資材の性質を知ることを学ぶ。しかし思想や理念そのものは、素材から吸収することができない。このようにして、地上世界は、創造の場であると同時に、学習の場でもある。「霊界」ではこの学習の成果が、霊の活発な能力に変化させられる。」
P149
「霊は体的本性から解放されて、今やあらゆる方向へ向けて自己を形成し、そして生前の地上の経験の諸成果を、この形成の中に取り込む。だから死後の霊は、常に眼差しを、ふたたび課題を果たすべき舞台である地上に向けており、自分の活動場所としての地球の必然的な発展過程をどこまでも追い続ける。霊は、自分がこの世に生をうける度に、その時点での地球上の変化に応じて尽力できるように、心掛ける。」
同じくp149
「「霊界」における人間の霊の成熟は、そこでの諸領域の事情に通じることによって達成される。・・・」
R・シュタイナーは、霊界を第一領域~第七領域に区分して示している。
P150~153
「霊界の第一領域における人間は、地上の事物の霊的原像にとりまかれている。この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人間は知ることができた。地上では単に考えられるだけのものが、この領域では体験されるものとなる。この領域で、人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思考内容というのは、現実の生きた存在なのである。地上生活においては感覚で知覚されたものも、今や思考内容の形式をとって、彼に働きかけてくる。しかもその思考内容は、事物の背後にかくれた影として現れるのではなく、事物を産み出す生命に満ちた現実そのものなのである。人間はいわば、その中で地上の事物が形成される思想工房の中にいる。なぜなら「霊界」では、すべてが生命に満ちた営為であり、活動であるからである。ここでは思想界が、創造し、形成する生きた存在の世界として、活動している。人は、地上で体験したものが如何にして形成されるのかを、見る。肉体をもった人間が感覚的事物を現実として体験するように、今、霊となった人間は、霊の形成する諸力を現実として体験する。
霊界における思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を感じる。霊的存在だけが自分に属すると、感じられる。そして自分の遺体を、もはや物質としてではなく、記憶の中でのように、思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に属するものとして眼の前に現れる。かっての自分の肉体を、外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。もはや、自分の体的本性を自分の自我に親和した外界の他の事物から区別しようとはしなくなる。外界全体の中に、自分の身体をも含めて、ひとつの統一性を感じるようになる。自分の身体も、周囲の世界とひとつに融合している。
このように、物質的、身体的現実の諸原像を、みずからもそれに属していた統一体として観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に学びとる。人は自分に向かって、「今ここでお前の周りに拡がっているものは、かってはお前自身であったのだ」、ということを学ぶ。・・・
地上生活において影のような思想として把握されていたもの、すべての叡智の目標であったものが、「霊界」においては、直接体験される。というよりも、霊界の生活の中でのひとつの事実であるからこそ、それが地上生活の中で思考されるのである。
このように、人間は霊界に生きるとき、地上生活におけるときの状況と事実とを、高次の立場から、いわば外から、観る。その際、「霊界」の最下位の領域にいる人間は、物質的、身体的な現実と直接係わるような仕方で、地上の状況と向き合っている。
人間はこの世で、家族、民族の一員としての生をうけ、きまった土地で生活する。このようなすべての事情に、人間の地上生活は規定されている。この世の状況が命じるままに、友達が選ばれ、特定の職業に従事する。これらすべてによって、人間の生活状況が規定される。さて、これらすべては、「霊界」の最初の領域での生活の中で、生きた思考存在として立ち現れてくる。人間はこれらすべてを、一定の仕方で、もう一度、活動する霊の側面から体験しなおすのである。
彼の抱いた家庭愛や友情は、彼の中で内側から甦り、彼の諸能力がこの方向において強められる。家庭愛や友情の力として人間精神の内に働くものが強められる。彼はこの点において、その後より完全な人間としてふたたび地上に生れ変る。
「霊界」のこの最下位の領域内で成果として実るものは、地上生活上のいわば日常的状況である。そしてこの日常的状況にもっぱら没頭してきた霊的部分は、死から再生に至る霊界生活の主要期間中、この領域に親近感を持ち続けるであろう。
この世でともに生きてきた人びととは、霊界でも再会する。肉体と結びついたすべてが魂から離れ落ちるように、地上生活において魂と魂とを結びつけていた絆も、物質界でのみ意味や効力をもっている諸制約から解放される。しかし死後、霊界の中においても、地上生活での魂と魂の係わりはすべて存続し続ける。物質的状況を表現する言葉は、霊界に生じる事柄を不正確にしか表現することができないが、しかしこのことを前提とした上で、地上で一緒に暮した魂同士は、霊界で再開し、かつての共同生活を霊界に相応した仕方で継続するということは、まったく正しいであろう。」
P153~155
「第二の領域は、地上での共通の生命が思考存在として、いわば「霊界」の液体成分として流れている場所である。肉体をもった人間が世界を観察する場合、生命は個々の生物と結びついた仕方で現象する。霊界ではしかし、生命は個々の生物から分離され、生命の血として、いわば霊界全体を循環する。それは霊界の一切の中に存在するところの、生ある統一体となっている。
この世での生命は、ただその残照だけが人間に現象し、世界の全体、統一、調和に対して人間が抱くあらゆる形式の畏敬として現れていた。人間の宗教生活は、この残照に由来するのである。生存の包括的意味が、無常のものの中や個々の事物の中にあるのではない、ということを人間はしる。人間は無常なものを永遠なる調和的統一の「比喩」と模像として考察する。人間はこの統一を、畏敬と崇拝との中で仰ぎ見、この統一のために宗教的祭祀を行う。
「霊界」では、残照ではなく、生きた思考存在として、その現実の形姿が現れる。人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることができる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果が、この領域の中に現れてくる。人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを区別すべきでない、と認識する。自分を全体の一員として認識する能力は、この領域で形成される。宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受けとるであろう。そして能力を向上させつつ、この方向に沿って、ふたたび人間は、この世に生を受けるであろう。
人は第一の領域では、生前この世の絆によって身近な縁を結んでいた魂たちとともにいるが、第二の領域では、同じ崇拝対象、同じ信条等によってひとつに結ばれていると感じられたすべての魂たちの領域に入る。ここで強調しておかねばならないが、すでに通過した領域の霊的体験は、それに続く領域の中でも存続し続ける。だから人は、家族、友人等によって結ばれた絆から、第二、第三の領域の生活に入ったあとでも、決して切り離されることはない。
また「霊界」の諸領域は、「仕切られた部屋」のように、互にはっきり区別されているのではない。諸領域は互いに浸透し合っている。そして人は、新しい領域の中へ何らかの仕方で外から「入って」いったからではなく、以前には知覚できなかったものを知覚する内的能力を獲得したからこそ、その新しい領域での体験を持つのである。
P155~156
「霊界」の第三領域は、魂界の原像を含んでいる。魂界に存在する一切が、この第三領域の中で、生きた思考存在として現れている。欲望、願望、感情等の原像がここに見出される。しかし霊界のこの領域では、如何なる種類の利己的欲求も、その魂には付着していない。第二領域での一切の生活と同じように、この第三領域でも、すべての欲望と願望、すべての快と不快は、ひとつの統一を形成している。他人の欲望、と願望と自分の欲望、と願望とは区別されない。大気が地球をとりまいているように、すべての存在の感情と情緒は、一切を包含するひとつの共通世界なのである。
この領域は「霊界」のいわば大気である。ここでは、人が地上で社会のため、隣人のために、没我的態度で奉仕したときの一切の行為が、実を結ぶのである。なぜなら、このような奉仕によって、人はすでにこの世で「霊界」の第三領域の残照の中に生きていたからである。人類の偉大な慈善家、献身的人物、共同体に大きな奉仕を為した人物は、かって前世において、この領域と特別の親和関係を作ったのちに、この領域でこのような行為のための能力を獲得した人びとなのである。
P156
「以上に述べた「霊界」の三領域が、霊界の下に立つ物質界と魂界とに対して、特定の関係をもっていることは明瞭である。なぜなら、この二つの世界の中で身体をもち、魂をもっているものの原像である、生きた思考存在が、この三領域に存在しているからである。
P156~158
「純粋な霊界」は、第四の領域とともに始まる。しかしこの領域も、まだ完全な意味でそうなのではない。第四領域が下位の三領域と区別されるのは、これらの三領域で出会うのが、人間自身が物質界と魂界に積極的に働きかける以前に存在している物質的、魂的諸状況の原像だからである。・・・
この世で獲得した科学の成果、芸術の着想と形式、技術の思想は、この第四領域でその成果を実らせている。それ故、芸術家、学者、大発明家は、「霊界」に滞在している間に、彼らの創造衝動をこの領域から受けとり、彼らの天分を高めたからこそ、ふたたび地上に生を受けたときに、人類文化の発展に一層寄与できるようになったのである。
「霊界」のこの第四領域が、特に優れた人物にしか意味をもたぬ、と考える必要はない。すべての人間にとって意味をもっている。地上の生活中に、日常的な願望の領分を超えて人間が努力したものはすべて、その源泉をこの領域にもっている。もし人が死から再生に至る間にこの領域を通過しなかったとすれば、その後はもはや狭い個人的な生活空間を超えて、普遍的=人間的なものへ向おうとする興味をもたなくなるであろう。
この領域が完全な意味で「純粋な霊界」と呼ぶことができないというとは、すでに述べた。なぜそうなのかといえば、人がかって生きていた時代の文化状況が、死後この領域にいる彼の霊にも影響し続けるからである。「霊界」のこの領域においては、自分の素質に従い、また自分の属する民族、国家等の水準に従って果し得た業績の成果だけが享受されるのである。
P158~162
「霊界」のもっと高次の諸領域における人間の霊は、どのような地上的束縛からも自由である。人間の霊は、この「純粋な霊界」にまで高まると、霊界が地上の生活のために立てた目標や意図の真の意味を体験することができる。地上においてすでに実現されているものは、どんなものも、最高の目標や意図の、多かれ少なかれ無力な模造品であるに過ぎない。結晶体、樹木、動物のどれ程驚嘆すべき形態も、そして人間精神のどれ程見事な作品も、すべては霊が意図しているものの模造品でしかない。そして人間は繰り返しこの世に生まれてきては、完全な意図や目標のこの不完全な模造品と係わり合う。人間自身もまた、さまざまの転生のどれかひとつの中では、その都度霊界で意図してきたものの不完全な模造でしかありえない。「霊界」における霊としての本来の人間の姿は、死と新生の中間状態にある人間が「霊界」の第五領域にまで上昇したとき、はじめて現れる。この領域での人間こそが、本来の人間なのである。それは、輪廻転生を重ねつつ、その都度、身体存在となって現れる自我の真の姿である。
第五領域における人間のこの真我は、あらゆる方向に向って思う存分自由に生きている。常に新たにこの世に出生してくる自我は、この真我のひとつの現れである。自我は、生れる度に必ず、「霊界」の下位の諸領域で獲得した能力を伴って現れ、それによって、前世で得た成果を次の人生の中へ持ち込む。自我はこれまでの転生の諸成果の担い手なのである。
したがって「霊界」の第五領域を生きる真我は、意図と目標の王国にいる。建築家が作業現場で明らかになった欠陥箇所に教えられ、次の仕事では、その不完全な箇所を完全なものに変えて設計することができるであろうように、第五領域の真我は、これまでの地上生活の諸成果のうち物質界と魂界の不完全さと結びついている部分を取り除き、今生きている「霊界」の意図を、これまでの地上生活の諸成果でもって一層成熟させる。
明らかに、この領域から汲み取れる力は、真我が意図の世界の中に持ち込むにふさわしい成果を、生前の自我がどれ程獲得することができたかによってきまる。生前、自我が活発な思想生活、洞察を伴った博愛行為によって、霊の意図を実現しようと努めていたとすれば、真我は、この領域から多くを得る権利を有しているといえるだろう。日常的状況の中にまったく埋没して、ただ無常の事物の中でしか生きてこなかった自我は、永遠の宇宙秩序の意図にふさわしい役割を果たすことのできるような種子を播かなかった。ただ日常の利害関係を超えて生きた少数の自我だけが、地上で播いた種子を「霊界」の上位の諸領域の中で実らせることができる。
「地上の名声」を得ることが大事だというのではない。そうではなく、狭い生活空間の中の一つひとつの小さな事柄に、生命の永遠の生成発展にとっての意味を見出すことが、まさに問題なのである。
この領域では、この世の生活の場合と評価の規準が異なっていることをよく理解していなければならない。たとえばこの第五領域と同質の霊性を、わずかしか獲得しなかった人間には、来世の運命(かるま)の中に、この欠陥に応じた結果が現れるように生きようとする衝動が生じる。その結果、次の人生においては、苦しみの多い生活が与えられる。そのときになって、それが当人にとってどれ程深い苦悩の対象となるにしても、「霊界」のこの領域にいたときには、それこそ自分にとってまったく必要な運命なのだ、と感じていたのである。
第五領域の人間は、本来の真我として生きているので、この世に生きていたときに自分を包んでいた低次の世界の成分のすべてから脱却している。彼は輪廻転生を通じて、常に同一の存在だったし、これからも常に同一の存在であり続けるだろう。彼は、自分が地上生活のために自我の中に組み込んだ意図に従って生きている。彼は自分の過去を回顧して、これまで体験してきたことが、未来に実現されるべき意図の中に、すべて取り入れられるであろうと感じる。これまでの人生に対する一種の記憶と、これからの人生に対する予見的展望とが一瞬にして明らかになる。
本書で「霊我」と名づけられたものは、この領域に生きているのである——それぞれの発展段階に応じた、それぞれにふさわしい仕方で。そのようにして霊我は成熟し、そして新しい人生において霊的意図を地上の現実の中で遂行するための準備をするのである。
「霊界」の諸領域に滞在する「霊我」は、自分が霊界を完全に自由に移動できるまでに成長したとき、真の故郷をますますこの霊界に求めるだろう。霊的生活は、地上の人間にとっての物質的な現実生活がそうであるように、霊我にとって熟知したものとなるだろう。霊界の観点は、そのときから、意識的にせよ、無意識的にせよ、多かれ少なかれ、その後の地上生活の基準的観点となる。自我が自分を神的宇宙秩序の一分肢と感じるようになれば、もはや地上の制約と法則とが、自我の内奥の本性を侵すことはなくなるだろう。自我が活動するための力は、すべて霊界から来るようになる。しかも霊界はひとつの統一体だから、霊界に生きる人は、永遠なものがどのようにして過去に創造を行ったかを知っている。そしてこの永遠なものを基準にして、自分の未来の方向を決定することができる。
過去への眼は、どこまでも拡大される。この段階に到達した人は、来世において遂行すべき目標をみずから設定する。彼は自分の未来に影響を与えて、未来が霊的意味において真実の道を歩めるようにする。このような人は、死と新生の中間状態で、神的叡智を直接見ることのできる崇高な神霊たちすべての面前に立っている。彼はこれらの崇高な神霊たちをさえ理解できる段階に達したのである。
P162
「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在にもっとも適った仕方で遂行するであろう。なぜなら、彼は自分のためになるものをではなく、宇宙秩序に則って生起すべきものを求めるのだから。
P162~163
「霊界」の第七領域は、人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中へ、宇宙的使命の達成のために移植された「生命核」たちに向き合う。こうして三つの世界の果てに立つ人間は、それとともに自分自身の生命核を認識する。この結果、三つの世界の謎が解決され、彼はこれらの世界のすべてのいとなみを見通す。この世の通常の生活状況の中では、霊界でこの体験をすることができた魂の諸能力は意識されずにいる。これらの能力は、無意識の深みの中で、物質界の意識を成立させる肉体の諸機官に働きかけている。なぜこれらの能力が、この物質界においては知覚されぬものとなっているのか。その理由は、まさにここにある。
眼もまた自分が見えない。なぜなら、眼の中には他のものを可視的にする諸力が働いているからである。出生から死までの人生が、どの程度まで前世の成果を示しているかを理解しようと思うなら、地上生活そのものに内在する観点が——もちろんはじめは誰でも、この観点に立たざるをえないのだが——この理解を不可能にしているということを、知らねばならない。たとえば、なぜ地上の生活が苦しみに充ちた、不完全なものなのかを、この観点は理解することができないだろう。けれども、地上生活の外に立つ観点なら、まさに地上生活のこのような相こそ、その苦しみと不完全さこそ、以前の諸人生の結果なのだ、ということを明らかに理解するだろう。」
P163
「本書の最後の章に述べられている意味での認識の小道を歩むことによって、魂は肉体生活の諸条件から解放される。それによって魂は、死と新生の間で体験される事柄を像として知覚することができる。このような知覚が、本書で素描されたような「霊界」の諸事象の記述を可能にしてくれたのである。魂の在り方の全体は、肉体に宿るときと、純粋な霊的な体験におけるときとでは、異なっている。このことを忘れたら、本書の記述を正しい光の下に見ることはできないであろう。」
長い引用をさせて戴くことになった。当書ちくま学芸文庫『神智学』は翻訳書であるが、言葉一つひとつの表現に深い意味が隠れている。てにをは一つひとつが大切な表現になっている。読み進めるなかでそのように感じる。『神智学』の読書人の一人として一言一句が大事で、はずすことが出来なくなる。繰り返して、再度、繰り返しながら読む。ちくま学芸文庫R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳)を手に取り繰り返し読む。
最近のコメント