『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2025年5月30日(金)93回 ― 2025年05月30日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の14回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「六 思考形態と人間のオーラ」(p177~190)です。「三つの世界」の最後の章になります。
次の引用からスタートしていきます。
P178~180より
「・・・官能的な生活から出た思考内容は、赤い色調で魂界に浸透している。
思索する人を高次の認識へ引き上げるような思想は、美しい明るい黄色で現れる。帰依の感情に充ちた愛から生じる思考内容は、すばらしい薔薇色に輝いている。思考のこのような内容と並んで、内容そのものの中に見られる明晰さのさまざまの度合も、超感覚的にきまった現れ方を示している。思想家の厳密な思考内容は、はっきり輪郭づけられた形態を示し、混乱した観念は、雲のような模糊とした形態をとって現れる。
そして人間の魂と霊の本性も、人間の存在全体における超感覚的部分として、このような仕方で現れる。
「霊眼」によって知覚されるこの色彩活動が、人間のオーラなのである。それは生きた身体の周囲に輝いており、その身体を卵形をした雲のように包んでいる。オーラの大きさは、人間によってさまざまである。けれども平均して、身長の二倍の長さと四倍の幅をもって いると考えることができる。
オーラには、極めて多彩な色調の流れがある。そしてこの流れは、人間の内面生活を忠 実に映し出している。人間の内面生活がそうであるように、オーラの個々の色調もまた、 多様な変化を示している。けれども、特定の永続的な性質、つまり才能や慣習や性格は、基本的な色調の中で、変化せずに現れている。」
P181より
「人間の気質や心根次第で、オーラは非常に異なってくる。また霊的な進化の度合によっても異なる。動物的衝動にふけっている人は、豊かな思想の中に生きている人とはまった く異なるオーラをもっている。宗教的性質をもった人のオーラは、日常の陳腐な体験の中 に埋没している人のオーラから本質的に区別される。これに加えて、一切の気分の変化、一切の好き嫌いや喜び悲しみも、オーラによって表現される。」
P184~186より
「「霊眼」を一層発達させると、人間を取り巻いて流動し、放射状に拡散するこの「オーラ」の中に、三種類の色の現れ方を区別できるようになる。第一に、多かれ少なかれ不透 明で輝きのない性質の色彩がある。とはいえ、もちろん肉眼で見る色と較べれば、これら の色も軽やかで透明である。しかし、超感覚的世界の中でのこれらの色の満たす空間は、その他の空間に較べれば、不透明なのである。その色彩空間は、霧の集まりのようである。
第二の種類の色は、いわば、完全に光と化している。これらの色の満たす空間は、明るさに貫かれている。空間は、これらの色によって、光の空間になっている。
第三の種類の色は、これら二種類の色とはまったく異なって、光線を放ち、火花を散らし、きらめきを発するような現れ方をしている。これらの満たす空間は、単に明るく照ら し出されているだけではなく、空間そのものが輝き、光を放射するのである。これらの色 は、活発で動的である。前の二種類の色が静的で、外へ光を投げかけることがないのに対し、この色は絶えず、いわば、自分自身から色光を出している。
前の二種類の色によって、空間は静かに同じ状態を維持する、精妙な液体に満たされているようであるが、第三の種類の色によって、空間は決して休もうとはしない。活発で、絶えず内から沸き起こってくる生命に満たされている。
以上三種類の色は、人間のオーラの中で、隣合って並存しているのではない。互に別々 な空間を占めて存在するのではなく、多様極まる仕方で、浸透し合っているのである。た とえば鐘の形を見ながら、同時にその響きを聞くこともできるように、オーラの同じ部分に、これら三種類の色が現れるのを、人は同時に見ることができる。このようにしてオーラは非常に複雑な現象となる。いわば三種の入りまじった複合体となって現れる。
しかし、これら三種類のオーラの一つひとつに注意を向けるなら、個々の形態を明らか にすることができる。感覚的世界の中で、たとえば音楽の印象に没頭するために目を閉じ るのと同じような事を、超感覚的世界の中でもすることができる。「見者」は、これら三種類の色に対して、三種類の知覚器官をもっている。そして観察を乱さぬ為に、これらの 器官のどれかひとつだけを開いて印象を受け入れ、他の器官は閉じておく。或る「見者」の場合、第一の種類の色の器官だけしか開発されていないから、一種類だけのオーラしか 見ることができない。他の二種類のオーラは、見えないままの状態にある。同様に別の見 者は、第一と第二の種類のオーラだけから印象を受け、第三のものからは印象を受けることができずにいる。」
P186~188より
「「見霊能力」の高次の段階にある人は、これら三種類のオーラのすべてを見ることができ、しかも交互に注意を向けながら、オーラを観察することができる。
三重のオーラは、人間の本性を超感覚的=可視的に表現したものである。その中に体、 魂、霊の三部分が表現されている。
第一のオーラは、体が人間の魂に及ぼす影響の映像である。第二のオーラは、直接感覚 を刺激するものを超えてはいるが、まだ永遠なるものに向き合ってはいない。魂だけの生 活を表現している。第三のオーラは、人間における永遠の霊による無常の人間部分への働 きかけを映し出している。以上のように、オーラは、観察し難いだけでなく、なかんずく記述し難い。したがって、このような記述は、示唆以上に出るものではない。
魂の特質は、このように、オーラとなって表現されている。その時々の感覚的衝動や欲 望にふけったり、一時的な外的刺激に我を忘れたりしている魂の場合、その第一の種類の オーラは、非常にけばけばしい色調を示しているし、その第二の種類のオーラは、虚弱な 現れ方をし、乏しい色彩しか示さない。そして第三の種類のオーラとなると、ほとんど形 態らしいものさえ見られない。ただそこここに、感覚的なものによって抑圧されているが、素質としてなお存在し続けている永遠なものが、色彩のきらめく小さな火花として暗 示されているだけなのである。
人間が本能的衝動から脱却すればする程、オーラの第一部分の支配力は弱まり、第二部 分のオーラはますます増大し、人体を包むその色彩体をますます完全に、その輝く力で満たす。人間が「永遠なものの従者」として生きるようになればなる程、どれ程までに霊界 の市民であるかを証明する第三のオーラが、その美しい姿を現す。なぜなら聖なるあの霊 我が、人間のオーラのこの部分を通して、地上界に光を投げかけるからである。このよう なオーラを示す人は、神霊がそれによってこの世を照らす焔なのだといえる。そのような 人は、自分のためにではなく、永遠の真実、高貴な美と善のために、生きる用意ができて いること、換言すれば、宇宙の壮大ないとなみの祭壇に自分を捧げる力を、自分を狭い自我の中から取り出す用意のあることを、オーラを通して示している。
このように、オーラは、人間の輪廻転生を通して、自分の中から作り出してきたものの 表現なのである。」
P188~190より
「三つの種類のオーラのすべての中には、多様極まりない色合いが含まれている。しかしこれらの色合いは、人間の進化の程度によって変化する。
赤から青に至るあらゆる色合いの中で、オーラの第一部分は、未発達な衝動生活を表現 している。これらの色合いは、くすんだ不透明な性質をもっている。赤色のくどい色合い は、感覚的欲望、肉体的快楽、味覚の楽しみへの欲求をあらわしている。緑の色合いは、鈍感で冷淡な人間にありがちの、あらゆる享楽にふけることには貪欲でありながら、それ を満たす努力をいやがる人間の場合に、主として見出される。情熱が何らかの目標を激しく求めながら、それを達成する能力がこれに伴わない場合、茶がかった緑や黄味を帯びた 緑がオーラに現れる。現代の或る種の生活態度は、いうまでもなく、まさにこの種のオーラを培養している。
低級な欲望に根ざした個人的な自己感情、つまり利己主義の最低の段階は、不透明な黄 から茶に至る色調を示している。とはいえもちろん、動物的な衝動生活もまた、好ましい 性質をもつことがありうる。すでに動物界の中に、純粋に本能的で、しかも高度の自己犠 牲の能力が見られる。本能的な母性愛において、動物的な衝動はそのもっとも美しく完成 した姿を示している。このような没我的本能衝動は、第一種類のオーラの中で、淡紅色か ら薔薇色に至る色合いとして表現される。明白な事実から目をそむけようとする法懦な心は、茶がかった青か、灰色がかった青として、オーラに現れる。
第二のオーラも同様に、極めて多様な色合いを示している。誇りや名誉心のような、非常に発達した自我感情は、茶やオレンジ色の構成体となって表現される。好奇心もまた赤 黄色の斑点によって表現される。淡紅色は、透徹した思考や知性の反映である。緑は、人生や世間に対する理解の表現である。楽々と知識を吸収する子どもたちは、オーラのこの 部分に多くの緑色をもっている。記憶力の良さは、第二のオーラにおける「黄緑色」として現れる。薔薇色は、善意と愛に満ちた性質を示している。青は、敬虔さのしるしである。敬虔が宗教的高揚感に接近すればする程、この青は紫の方へ移る。高度の理想主義に貫か れた真剣な人生態度は、藍色として現れる。
第三のオーラの基本色は、黄と緑と青である。淡黄色は、思考が普遍的な高い理念に充 たされ、個々の事柄を神的宇宙秩序の全体から理解するときに現れる。この黄色は、思考 が直観的な思考形式をとり、この思考と結びつく感覚的表象がまったく純粋な在り方を示すようになるとき、黄金の輝きをもつようになる。緑色は、あらゆる存在に対する愛を表 現している。青色は、あらゆる存在のための没我的な献身能力の現れである。この献身が、世のために奉仕したいという強力な意志にまで高まるとき、この青が薄紫色に澄み透ってくる。高度に発達した魂の質をもちながら、まだ誇りと名誉心という利己主義の最後の残 滓が存在しているとき、黄色と並んで、オレンジがかった色合いが現れてくる。
この部分のオーラにおける色彩が、感覚界で見慣れている色合いとまったく異なっているのは当然である。それは、地上の世界では比較できるものが見当らぬくらい、美しく、 崇高である。
「オーラを見ること」は、物質界で知覚されうるものの限界を拡大し、それに新しい充実を加える。このことに主要価値をおかぬ者は、「オーラ」のこの表現の真意を正しく理解できない。このような知覚の拡大こそ、感覚的現実以外に霊的現実をも担っている魂本来 の在り方を認識させてくれるのである。以上の表現全体は、幻覚的に知覚されたオーラに よって、人間の性格や思想を解釈することとはまったく無関係である。それは認識を霊界の方向に拡大しようとする試みなのであり、人間の魂をそのオーラから解釈する疑わしい技法とはいかなる関係をも、もとうとはしていない。
私=小川は、この章で特に印象が強く、大切だと思う文章の一つ、以下の一文を再表記いたします。
「「オーラを見ること」は、物質界で知覚されうるものの限界を拡大し、それに新しい充実を加える。」
このR・シュタイナーの文章の大切さを感じ取ることが出来るようになるまでの私自身の成長。そのことを見つめることが出来るようになってきたこと。つくづく、感謝致します。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の原盤での読書をお願い致します。
今回の読書は「三つの世界」―「六 思考形態と人間のオーラ」(p177~190)です。「三つの世界」の最後の章になります。
次の引用からスタートしていきます。
P178~180より
「・・・官能的な生活から出た思考内容は、赤い色調で魂界に浸透している。
思索する人を高次の認識へ引き上げるような思想は、美しい明るい黄色で現れる。帰依の感情に充ちた愛から生じる思考内容は、すばらしい薔薇色に輝いている。思考のこのような内容と並んで、内容そのものの中に見られる明晰さのさまざまの度合も、超感覚的にきまった現れ方を示している。思想家の厳密な思考内容は、はっきり輪郭づけられた形態を示し、混乱した観念は、雲のような模糊とした形態をとって現れる。
そして人間の魂と霊の本性も、人間の存在全体における超感覚的部分として、このような仕方で現れる。
「霊眼」によって知覚されるこの色彩活動が、人間のオーラなのである。それは生きた身体の周囲に輝いており、その身体を卵形をした雲のように包んでいる。オーラの大きさは、人間によってさまざまである。けれども平均して、身長の二倍の長さと四倍の幅をもって いると考えることができる。
オーラには、極めて多彩な色調の流れがある。そしてこの流れは、人間の内面生活を忠 実に映し出している。人間の内面生活がそうであるように、オーラの個々の色調もまた、 多様な変化を示している。けれども、特定の永続的な性質、つまり才能や慣習や性格は、基本的な色調の中で、変化せずに現れている。」
P181より
「人間の気質や心根次第で、オーラは非常に異なってくる。また霊的な進化の度合によっても異なる。動物的衝動にふけっている人は、豊かな思想の中に生きている人とはまった く異なるオーラをもっている。宗教的性質をもった人のオーラは、日常の陳腐な体験の中 に埋没している人のオーラから本質的に区別される。これに加えて、一切の気分の変化、一切の好き嫌いや喜び悲しみも、オーラによって表現される。」
P184~186より
「「霊眼」を一層発達させると、人間を取り巻いて流動し、放射状に拡散するこの「オーラ」の中に、三種類の色の現れ方を区別できるようになる。第一に、多かれ少なかれ不透 明で輝きのない性質の色彩がある。とはいえ、もちろん肉眼で見る色と較べれば、これら の色も軽やかで透明である。しかし、超感覚的世界の中でのこれらの色の満たす空間は、その他の空間に較べれば、不透明なのである。その色彩空間は、霧の集まりのようである。
第二の種類の色は、いわば、完全に光と化している。これらの色の満たす空間は、明るさに貫かれている。空間は、これらの色によって、光の空間になっている。
第三の種類の色は、これら二種類の色とはまったく異なって、光線を放ち、火花を散らし、きらめきを発するような現れ方をしている。これらの満たす空間は、単に明るく照ら し出されているだけではなく、空間そのものが輝き、光を放射するのである。これらの色 は、活発で動的である。前の二種類の色が静的で、外へ光を投げかけることがないのに対し、この色は絶えず、いわば、自分自身から色光を出している。
前の二種類の色によって、空間は静かに同じ状態を維持する、精妙な液体に満たされているようであるが、第三の種類の色によって、空間は決して休もうとはしない。活発で、絶えず内から沸き起こってくる生命に満たされている。
以上三種類の色は、人間のオーラの中で、隣合って並存しているのではない。互に別々 な空間を占めて存在するのではなく、多様極まる仕方で、浸透し合っているのである。た とえば鐘の形を見ながら、同時にその響きを聞くこともできるように、オーラの同じ部分に、これら三種類の色が現れるのを、人は同時に見ることができる。このようにしてオーラは非常に複雑な現象となる。いわば三種の入りまじった複合体となって現れる。
しかし、これら三種類のオーラの一つひとつに注意を向けるなら、個々の形態を明らか にすることができる。感覚的世界の中で、たとえば音楽の印象に没頭するために目を閉じ るのと同じような事を、超感覚的世界の中でもすることができる。「見者」は、これら三種類の色に対して、三種類の知覚器官をもっている。そして観察を乱さぬ為に、これらの 器官のどれかひとつだけを開いて印象を受け入れ、他の器官は閉じておく。或る「見者」の場合、第一の種類の色の器官だけしか開発されていないから、一種類だけのオーラしか 見ることができない。他の二種類のオーラは、見えないままの状態にある。同様に別の見 者は、第一と第二の種類のオーラだけから印象を受け、第三のものからは印象を受けることができずにいる。」
P186~188より
「「見霊能力」の高次の段階にある人は、これら三種類のオーラのすべてを見ることができ、しかも交互に注意を向けながら、オーラを観察することができる。
三重のオーラは、人間の本性を超感覚的=可視的に表現したものである。その中に体、 魂、霊の三部分が表現されている。
第一のオーラは、体が人間の魂に及ぼす影響の映像である。第二のオーラは、直接感覚 を刺激するものを超えてはいるが、まだ永遠なるものに向き合ってはいない。魂だけの生 活を表現している。第三のオーラは、人間における永遠の霊による無常の人間部分への働 きかけを映し出している。以上のように、オーラは、観察し難いだけでなく、なかんずく記述し難い。したがって、このような記述は、示唆以上に出るものではない。
魂の特質は、このように、オーラとなって表現されている。その時々の感覚的衝動や欲 望にふけったり、一時的な外的刺激に我を忘れたりしている魂の場合、その第一の種類の オーラは、非常にけばけばしい色調を示しているし、その第二の種類のオーラは、虚弱な 現れ方をし、乏しい色彩しか示さない。そして第三の種類のオーラとなると、ほとんど形 態らしいものさえ見られない。ただそこここに、感覚的なものによって抑圧されているが、素質としてなお存在し続けている永遠なものが、色彩のきらめく小さな火花として暗 示されているだけなのである。
人間が本能的衝動から脱却すればする程、オーラの第一部分の支配力は弱まり、第二部 分のオーラはますます増大し、人体を包むその色彩体をますます完全に、その輝く力で満たす。人間が「永遠なものの従者」として生きるようになればなる程、どれ程までに霊界 の市民であるかを証明する第三のオーラが、その美しい姿を現す。なぜなら聖なるあの霊 我が、人間のオーラのこの部分を通して、地上界に光を投げかけるからである。このよう なオーラを示す人は、神霊がそれによってこの世を照らす焔なのだといえる。そのような 人は、自分のためにではなく、永遠の真実、高貴な美と善のために、生きる用意ができて いること、換言すれば、宇宙の壮大ないとなみの祭壇に自分を捧げる力を、自分を狭い自我の中から取り出す用意のあることを、オーラを通して示している。
このように、オーラは、人間の輪廻転生を通して、自分の中から作り出してきたものの 表現なのである。」
P188~190より
「三つの種類のオーラのすべての中には、多様極まりない色合いが含まれている。しかしこれらの色合いは、人間の進化の程度によって変化する。
赤から青に至るあらゆる色合いの中で、オーラの第一部分は、未発達な衝動生活を表現 している。これらの色合いは、くすんだ不透明な性質をもっている。赤色のくどい色合い は、感覚的欲望、肉体的快楽、味覚の楽しみへの欲求をあらわしている。緑の色合いは、鈍感で冷淡な人間にありがちの、あらゆる享楽にふけることには貪欲でありながら、それ を満たす努力をいやがる人間の場合に、主として見出される。情熱が何らかの目標を激しく求めながら、それを達成する能力がこれに伴わない場合、茶がかった緑や黄味を帯びた 緑がオーラに現れる。現代の或る種の生活態度は、いうまでもなく、まさにこの種のオーラを培養している。
低級な欲望に根ざした個人的な自己感情、つまり利己主義の最低の段階は、不透明な黄 から茶に至る色調を示している。とはいえもちろん、動物的な衝動生活もまた、好ましい 性質をもつことがありうる。すでに動物界の中に、純粋に本能的で、しかも高度の自己犠 牲の能力が見られる。本能的な母性愛において、動物的な衝動はそのもっとも美しく完成 した姿を示している。このような没我的本能衝動は、第一種類のオーラの中で、淡紅色か ら薔薇色に至る色合いとして表現される。明白な事実から目をそむけようとする法懦な心は、茶がかった青か、灰色がかった青として、オーラに現れる。
第二のオーラも同様に、極めて多様な色合いを示している。誇りや名誉心のような、非常に発達した自我感情は、茶やオレンジ色の構成体となって表現される。好奇心もまた赤 黄色の斑点によって表現される。淡紅色は、透徹した思考や知性の反映である。緑は、人生や世間に対する理解の表現である。楽々と知識を吸収する子どもたちは、オーラのこの 部分に多くの緑色をもっている。記憶力の良さは、第二のオーラにおける「黄緑色」として現れる。薔薇色は、善意と愛に満ちた性質を示している。青は、敬虔さのしるしである。敬虔が宗教的高揚感に接近すればする程、この青は紫の方へ移る。高度の理想主義に貫か れた真剣な人生態度は、藍色として現れる。
第三のオーラの基本色は、黄と緑と青である。淡黄色は、思考が普遍的な高い理念に充 たされ、個々の事柄を神的宇宙秩序の全体から理解するときに現れる。この黄色は、思考 が直観的な思考形式をとり、この思考と結びつく感覚的表象がまったく純粋な在り方を示すようになるとき、黄金の輝きをもつようになる。緑色は、あらゆる存在に対する愛を表 現している。青色は、あらゆる存在のための没我的な献身能力の現れである。この献身が、世のために奉仕したいという強力な意志にまで高まるとき、この青が薄紫色に澄み透ってくる。高度に発達した魂の質をもちながら、まだ誇りと名誉心という利己主義の最後の残 滓が存在しているとき、黄色と並んで、オレンジがかった色合いが現れてくる。
この部分のオーラにおける色彩が、感覚界で見慣れている色合いとまったく異なっているのは当然である。それは、地上の世界では比較できるものが見当らぬくらい、美しく、 崇高である。
「オーラを見ること」は、物質界で知覚されうるものの限界を拡大し、それに新しい充実を加える。このことに主要価値をおかぬ者は、「オーラ」のこの表現の真意を正しく理解できない。このような知覚の拡大こそ、感覚的現実以外に霊的現実をも担っている魂本来 の在り方を認識させてくれるのである。以上の表現全体は、幻覚的に知覚されたオーラに よって、人間の性格や思想を解釈することとはまったく無関係である。それは認識を霊界の方向に拡大しようとする試みなのであり、人間の魂をそのオーラから解釈する疑わしい技法とはいかなる関係をも、もとうとはしていない。
私=小川は、この章で特に印象が強く、大切だと思う文章の一つ、以下の一文を再表記いたします。
「「オーラを見ること」は、物質界で知覚されうるものの限界を拡大し、それに新しい充実を加える。」
このR・シュタイナーの文章の大切さを感じ取ることが出来るようになるまでの私自身の成長。そのことを見つめることが出来るようになってきたこと。つくづく、感謝致します。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の原盤での読書をお願い致します。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2025年1月27日(月)92回 ― 2025年01月27日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の13回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき」(p164~176)です。
この章を読み進めて特に感じたことは、改めて『神智学』を理解することの難しさを思い知らされます。当書籍を繰り返し何度も繰り返し読むことが必要だと思います。先ず霊学用語を一つ一つ理解していくことが問われます。シュタイナーは論理的に文章を展開していると感じます。それ故に繰り返し読書することで、理解に漕ぎつけることが可能であると感じます。そこには希望が有ります。
「三つの世界」―「五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき」(p164~176)は改めて、その用語の理解が私には問われています。即理解の難しい文章は先ずそのように押さえておき、繰り返す読書の中で、理解の輝きを見つけたいと思っています。
この章で先ず次の文章を取り上げました。
P170~180
「人間は、植物と動物がもっている能力以外に、感覚内容を再現して思考内容に作りかえ、衝動を思考の力で統禦する能力を身につけている。
植物の場合、形態として現れ、動物の場合、魂の力として現れる思考内容が、人間の場合、思考内容そのものとして、その本来の形式において現れる。
動物の本質は魂にあり、人間の本質は霊にある。人間の場合、霊的本性がさらにもう一段低いところにまで降りてきている。動物の場合、この霊的本性は魂を形成する。人間の場合、感覚的素材の世界そのものの中にまで入ってきている。霊は人間の感覚体の中に顕在している。
ただその霊は、感覚的衣装をまとっているために、思考内容が霊的存在を表現するときの、あの影絵のような反照としてしか顕現することができない。ただ肉体の脳組織の諸条件のもとでのみ、霊は人間の中に現象する。」
P172~174
「肉体、エーテル体、感覚的魂体、悟性魂は、霊的原像が感覚界の中に濃縮されたものであるということができる。肉体は人間の原像が感覚的現象にまで濃縮されることによって出現する。だから肉体を、感覚界で可視的になるまでに濃縮された、第一元素界の本性である、ともいうことができる。
エーテル体が生じるのは、このようにして生じた形態が、感覚界に働きかける非感覚的、不可視的本性によって、生きいきと保たれていることによる。この非感覚的な本性の特質を完全に記そうとするなら、その根源が霊界の最上位の諸領域にあり、その第二領域の中で生命の原像に形成され、そのような原像として感覚界で作用している、という点が先ず述べられねばならない。
感覚する魂体(アストラル体)を構築する本性も、同様に、その根源を霊界の最上位にもち、その第三領域で魂界の原像にまで形成され、そのような現像として感覚界で作用している。
しかし悟性魂は、思考する人間の原像が霊界の第四領域で思考内容に形成され、直接思考する人間本性となって感覚界で作用することによって、生じる。
このような仕方で、人間は感覚界内に立っており、このような仕方で、霊は人間の肉体、エーテル体並びに感覚する魂体に働きかけている。このような仕方で、この霊は悟性魂の中に現出する。
だから、人間の三つの下位部分(肉体、エーテル体、アストラル体)における原像たちは、ある意味では人間と外的に向かい立つ本性として、人間に協力している。そして悟性魂においては、人間自身が自分に対する(意識的な)作用者になる。
そして人間の肉体に働きかける本性たちは、鉱物界を形成する本性たちと同一である。人間のエーテル体に働きかける本性たちは、植物界に生きる本性たちと同一であり、感覚する魂体に働きかける本性たちは、動物界で感覚的には知覚できぬ仕方で生きながら、その作用を鉱物界、植物界、動物界にまで及ぼす本性たちと同一である。
このような仕方で、さまざまな世界がともに働いている。人間の生きる世界は、この共同作用の表現なのである。」
この章では、「民族霊(民族精神)」、「時代霊(時代)精神」、「霊眼と霊耳を開いた人」、「感覚に隠されている事柄への洞察を通して、人間は自己の存在を拡大する。」などの記載があります。是非、R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手にとり、読んでいただきたい。
R・シュタイナーは理知的な表現で、自己の体験を通じて獲得した知識を、私たちに提供してくれていると思っています。そして今後「霊眼と霊耳を開く」ことに挑戦して行きたいとも考えています。
今回の読書は「三つの世界」―「五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき」(p164~176)です。
この章を読み進めて特に感じたことは、改めて『神智学』を理解することの難しさを思い知らされます。当書籍を繰り返し何度も繰り返し読むことが必要だと思います。先ず霊学用語を一つ一つ理解していくことが問われます。シュタイナーは論理的に文章を展開していると感じます。それ故に繰り返し読書することで、理解に漕ぎつけることが可能であると感じます。そこには希望が有ります。
「三つの世界」―「五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき」(p164~176)は改めて、その用語の理解が私には問われています。即理解の難しい文章は先ずそのように押さえておき、繰り返す読書の中で、理解の輝きを見つけたいと思っています。
この章で先ず次の文章を取り上げました。
P170~180
「人間は、植物と動物がもっている能力以外に、感覚内容を再現して思考内容に作りかえ、衝動を思考の力で統禦する能力を身につけている。
植物の場合、形態として現れ、動物の場合、魂の力として現れる思考内容が、人間の場合、思考内容そのものとして、その本来の形式において現れる。
動物の本質は魂にあり、人間の本質は霊にある。人間の場合、霊的本性がさらにもう一段低いところにまで降りてきている。動物の場合、この霊的本性は魂を形成する。人間の場合、感覚的素材の世界そのものの中にまで入ってきている。霊は人間の感覚体の中に顕在している。
ただその霊は、感覚的衣装をまとっているために、思考内容が霊的存在を表現するときの、あの影絵のような反照としてしか顕現することができない。ただ肉体の脳組織の諸条件のもとでのみ、霊は人間の中に現象する。」
P172~174
「肉体、エーテル体、感覚的魂体、悟性魂は、霊的原像が感覚界の中に濃縮されたものであるということができる。肉体は人間の原像が感覚的現象にまで濃縮されることによって出現する。だから肉体を、感覚界で可視的になるまでに濃縮された、第一元素界の本性である、ともいうことができる。
エーテル体が生じるのは、このようにして生じた形態が、感覚界に働きかける非感覚的、不可視的本性によって、生きいきと保たれていることによる。この非感覚的な本性の特質を完全に記そうとするなら、その根源が霊界の最上位の諸領域にあり、その第二領域の中で生命の原像に形成され、そのような原像として感覚界で作用している、という点が先ず述べられねばならない。
感覚する魂体(アストラル体)を構築する本性も、同様に、その根源を霊界の最上位にもち、その第三領域で魂界の原像にまで形成され、そのような現像として感覚界で作用している。
しかし悟性魂は、思考する人間の原像が霊界の第四領域で思考内容に形成され、直接思考する人間本性となって感覚界で作用することによって、生じる。
このような仕方で、人間は感覚界内に立っており、このような仕方で、霊は人間の肉体、エーテル体並びに感覚する魂体に働きかけている。このような仕方で、この霊は悟性魂の中に現出する。
だから、人間の三つの下位部分(肉体、エーテル体、アストラル体)における原像たちは、ある意味では人間と外的に向かい立つ本性として、人間に協力している。そして悟性魂においては、人間自身が自分に対する(意識的な)作用者になる。
そして人間の肉体に働きかける本性たちは、鉱物界を形成する本性たちと同一である。人間のエーテル体に働きかける本性たちは、植物界に生きる本性たちと同一であり、感覚する魂体に働きかける本性たちは、動物界で感覚的には知覚できぬ仕方で生きながら、その作用を鉱物界、植物界、動物界にまで及ぼす本性たちと同一である。
このような仕方で、さまざまな世界がともに働いている。人間の生きる世界は、この共同作用の表現なのである。」
この章では、「民族霊(民族精神)」、「時代霊(時代)精神」、「霊眼と霊耳を開いた人」、「感覚に隠されている事柄への洞察を通して、人間は自己の存在を拡大する。」などの記載があります。是非、R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手にとり、読んでいただきたい。
R・シュタイナーは理知的な表現で、自己の体験を通じて獲得した知識を、私たちに提供してくれていると思っています。そして今後「霊眼と霊耳を開く」ことに挑戦して行きたいとも考えています。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2024年12月1日(日)91回 ― 2024年12月01日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の12回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「四 死後の霊界における霊」(p146~163)です。
前回「三 霊界」の次章であり、さらにこの章でも霊界について学んでいくことになります。
先ず146ページに記載がある
「・・・人間の体的本性を貫いて働きかけているものは、霊に他ならず、物体界で作用するための意図、方向は霊からきている。」この文章をおさえておきます。
P147
「・・・地上の活動の目標と意図とは、「霊たちの国」で形成されるのである。」
P148
「人間は、物質の性質や力を、この世の舞台で学ぶ。この舞台の上で、創造活動を行いながら、物質界がそこで働く自分に何を要求するのかについて、経験を蓄積する。そして自分の思想、理念を具体化するための資材の性質を知ることを学ぶ。しかし思想や理念そのものは、素材から吸収することができない。このようにして、地上世界は、創造の場であると同時に、学習の場でもある。「霊界」ではこの学習の成果が、霊の活発な能力に変化させられる。」
P149
「霊は体的本性から解放されて、今やあらゆる方向へ向けて自己を形成し、そして生前の地上の経験の諸成果を、この形成の中に取り込む。だから死後の霊は、常に眼差しを、ふたたび課題を果たすべき舞台である地上に向けており、自分の活動場所としての地球の必然的な発展過程をどこまでも追い続ける。霊は、自分がこの世に生をうける度に、その時点での地球上の変化に応じて尽力できるように、心掛ける。」
同じくp149
「「霊界」における人間の霊の成熟は、そこでの諸領域の事情に通じることによって達成される。・・・」
R・シュタイナーは、霊界を第一領域~第七領域に区分して示している。
P150~153
「霊界の第一領域における人間は、地上の事物の霊的原像にとりまかれている。この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人間は知ることができた。地上では単に考えられるだけのものが、この領域では体験されるものとなる。この領域で、人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思考内容というのは、現実の生きた存在なのである。地上生活においては感覚で知覚されたものも、今や思考内容の形式をとって、彼に働きかけてくる。しかもその思考内容は、事物の背後にかくれた影として現れるのではなく、事物を産み出す生命に満ちた現実そのものなのである。人間はいわば、その中で地上の事物が形成される思想工房の中にいる。なぜなら「霊界」では、すべてが生命に満ちた営為であり、活動であるからである。ここでは思想界が、創造し、形成する生きた存在の世界として、活動している。人は、地上で体験したものが如何にして形成されるのかを、見る。肉体をもった人間が感覚的事物を現実として体験するように、今、霊となった人間は、霊の形成する諸力を現実として体験する。
霊界における思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を感じる。霊的存在だけが自分に属すると、感じられる。そして自分の遺体を、もはや物質としてではなく、記憶の中でのように、思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に属するものとして眼の前に現れる。かっての自分の肉体を、外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。もはや、自分の体的本性を自分の自我に親和した外界の他の事物から区別しようとはしなくなる。外界全体の中に、自分の身体をも含めて、ひとつの統一性を感じるようになる。自分の身体も、周囲の世界とひとつに融合している。
このように、物質的、身体的現実の諸原像を、みずからもそれに属していた統一体として観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に学びとる。人は自分に向かって、「今ここでお前の周りに拡がっているものは、かってはお前自身であったのだ」、ということを学ぶ。・・・
地上生活において影のような思想として把握されていたもの、すべての叡智の目標であったものが、「霊界」においては、直接体験される。というよりも、霊界の生活の中でのひとつの事実であるからこそ、それが地上生活の中で思考されるのである。
このように、人間は霊界に生きるとき、地上生活におけるときの状況と事実とを、高次の立場から、いわば外から、観る。その際、「霊界」の最下位の領域にいる人間は、物質的、身体的な現実と直接係わるような仕方で、地上の状況と向き合っている。
人間はこの世で、家族、民族の一員としての生をうけ、きまった土地で生活する。このようなすべての事情に、人間の地上生活は規定されている。この世の状況が命じるままに、友達が選ばれ、特定の職業に従事する。これらすべてによって、人間の生活状況が規定される。さて、これらすべては、「霊界」の最初の領域での生活の中で、生きた思考存在として立ち現れてくる。人間はこれらすべてを、一定の仕方で、もう一度、活動する霊の側面から体験しなおすのである。
彼の抱いた家庭愛や友情は、彼の中で内側から甦り、彼の諸能力がこの方向において強められる。家庭愛や友情の力として人間精神の内に働くものが強められる。彼はこの点において、その後より完全な人間としてふたたび地上に生れ変る。
「霊界」のこの最下位の領域内で成果として実るものは、地上生活上のいわば日常的状況である。そしてこの日常的状況にもっぱら没頭してきた霊的部分は、死から再生に至る霊界生活の主要期間中、この領域に親近感を持ち続けるであろう。
この世でともに生きてきた人びととは、霊界でも再会する。肉体と結びついたすべてが魂から離れ落ちるように、地上生活において魂と魂とを結びつけていた絆も、物質界でのみ意味や効力をもっている諸制約から解放される。しかし死後、霊界の中においても、地上生活での魂と魂の係わりはすべて存続し続ける。物質的状況を表現する言葉は、霊界に生じる事柄を不正確にしか表現することができないが、しかしこのことを前提とした上で、地上で一緒に暮した魂同士は、霊界で再開し、かつての共同生活を霊界に相応した仕方で継続するということは、まったく正しいであろう。」
P153~155
「第二の領域は、地上での共通の生命が思考存在として、いわば「霊界」の液体成分として流れている場所である。肉体をもった人間が世界を観察する場合、生命は個々の生物と結びついた仕方で現象する。霊界ではしかし、生命は個々の生物から分離され、生命の血として、いわば霊界全体を循環する。それは霊界の一切の中に存在するところの、生ある統一体となっている。
この世での生命は、ただその残照だけが人間に現象し、世界の全体、統一、調和に対して人間が抱くあらゆる形式の畏敬として現れていた。人間の宗教生活は、この残照に由来するのである。生存の包括的意味が、無常のものの中や個々の事物の中にあるのではない、ということを人間はしる。人間は無常なものを永遠なる調和的統一の「比喩」と模像として考察する。人間はこの統一を、畏敬と崇拝との中で仰ぎ見、この統一のために宗教的祭祀を行う。
「霊界」では、残照ではなく、生きた思考存在として、その現実の形姿が現れる。人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることができる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果が、この領域の中に現れてくる。人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを区別すべきでない、と認識する。自分を全体の一員として認識する能力は、この領域で形成される。宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受けとるであろう。そして能力を向上させつつ、この方向に沿って、ふたたび人間は、この世に生を受けるであろう。
人は第一の領域では、生前この世の絆によって身近な縁を結んでいた魂たちとともにいるが、第二の領域では、同じ崇拝対象、同じ信条等によってひとつに結ばれていると感じられたすべての魂たちの領域に入る。ここで強調しておかねばならないが、すでに通過した領域の霊的体験は、それに続く領域の中でも存続し続ける。だから人は、家族、友人等によって結ばれた絆から、第二、第三の領域の生活に入ったあとでも、決して切り離されることはない。
また「霊界」の諸領域は、「仕切られた部屋」のように、互にはっきり区別されているのではない。諸領域は互いに浸透し合っている。そして人は、新しい領域の中へ何らかの仕方で外から「入って」いったからではなく、以前には知覚できなかったものを知覚する内的能力を獲得したからこそ、その新しい領域での体験を持つのである。
P155~156
「霊界」の第三領域は、魂界の原像を含んでいる。魂界に存在する一切が、この第三領域の中で、生きた思考存在として現れている。欲望、願望、感情等の原像がここに見出される。しかし霊界のこの領域では、如何なる種類の利己的欲求も、その魂には付着していない。第二領域での一切の生活と同じように、この第三領域でも、すべての欲望と願望、すべての快と不快は、ひとつの統一を形成している。他人の欲望、と願望と自分の欲望、と願望とは区別されない。大気が地球をとりまいているように、すべての存在の感情と情緒は、一切を包含するひとつの共通世界なのである。
この領域は「霊界」のいわば大気である。ここでは、人が地上で社会のため、隣人のために、没我的態度で奉仕したときの一切の行為が、実を結ぶのである。なぜなら、このような奉仕によって、人はすでにこの世で「霊界」の第三領域の残照の中に生きていたからである。人類の偉大な慈善家、献身的人物、共同体に大きな奉仕を為した人物は、かって前世において、この領域と特別の親和関係を作ったのちに、この領域でこのような行為のための能力を獲得した人びとなのである。
P156
「以上に述べた「霊界」の三領域が、霊界の下に立つ物質界と魂界とに対して、特定の関係をもっていることは明瞭である。なぜなら、この二つの世界の中で身体をもち、魂をもっているものの原像である、生きた思考存在が、この三領域に存在しているからである。
P156~158
「純粋な霊界」は、第四の領域とともに始まる。しかしこの領域も、まだ完全な意味でそうなのではない。第四領域が下位の三領域と区別されるのは、これらの三領域で出会うのが、人間自身が物質界と魂界に積極的に働きかける以前に存在している物質的、魂的諸状況の原像だからである。・・・
この世で獲得した科学の成果、芸術の着想と形式、技術の思想は、この第四領域でその成果を実らせている。それ故、芸術家、学者、大発明家は、「霊界」に滞在している間に、彼らの創造衝動をこの領域から受けとり、彼らの天分を高めたからこそ、ふたたび地上に生を受けたときに、人類文化の発展に一層寄与できるようになったのである。
「霊界」のこの第四領域が、特に優れた人物にしか意味をもたぬ、と考える必要はない。すべての人間にとって意味をもっている。地上の生活中に、日常的な願望の領分を超えて人間が努力したものはすべて、その源泉をこの領域にもっている。もし人が死から再生に至る間にこの領域を通過しなかったとすれば、その後はもはや狭い個人的な生活空間を超えて、普遍的=人間的なものへ向おうとする興味をもたなくなるであろう。
この領域が完全な意味で「純粋な霊界」と呼ぶことができないというとは、すでに述べた。なぜそうなのかといえば、人がかって生きていた時代の文化状況が、死後この領域にいる彼の霊にも影響し続けるからである。「霊界」のこの領域においては、自分の素質に従い、また自分の属する民族、国家等の水準に従って果し得た業績の成果だけが享受されるのである。
P158~162
「霊界」のもっと高次の諸領域における人間の霊は、どのような地上的束縛からも自由である。人間の霊は、この「純粋な霊界」にまで高まると、霊界が地上の生活のために立てた目標や意図の真の意味を体験することができる。地上においてすでに実現されているものは、どんなものも、最高の目標や意図の、多かれ少なかれ無力な模造品であるに過ぎない。結晶体、樹木、動物のどれ程驚嘆すべき形態も、そして人間精神のどれ程見事な作品も、すべては霊が意図しているものの模造品でしかない。そして人間は繰り返しこの世に生まれてきては、完全な意図や目標のこの不完全な模造品と係わり合う。人間自身もまた、さまざまの転生のどれかひとつの中では、その都度霊界で意図してきたものの不完全な模造でしかありえない。「霊界」における霊としての本来の人間の姿は、死と新生の中間状態にある人間が「霊界」の第五領域にまで上昇したとき、はじめて現れる。この領域での人間こそが、本来の人間なのである。それは、輪廻転生を重ねつつ、その都度、身体存在となって現れる自我の真の姿である。
第五領域における人間のこの真我は、あらゆる方向に向って思う存分自由に生きている。常に新たにこの世に出生してくる自我は、この真我のひとつの現れである。自我は、生れる度に必ず、「霊界」の下位の諸領域で獲得した能力を伴って現れ、それによって、前世で得た成果を次の人生の中へ持ち込む。自我はこれまでの転生の諸成果の担い手なのである。
したがって「霊界」の第五領域を生きる真我は、意図と目標の王国にいる。建築家が作業現場で明らかになった欠陥箇所に教えられ、次の仕事では、その不完全な箇所を完全なものに変えて設計することができるであろうように、第五領域の真我は、これまでの地上生活の諸成果のうち物質界と魂界の不完全さと結びついている部分を取り除き、今生きている「霊界」の意図を、これまでの地上生活の諸成果でもって一層成熟させる。
明らかに、この領域から汲み取れる力は、真我が意図の世界の中に持ち込むにふさわしい成果を、生前の自我がどれ程獲得することができたかによってきまる。生前、自我が活発な思想生活、洞察を伴った博愛行為によって、霊の意図を実現しようと努めていたとすれば、真我は、この領域から多くを得る権利を有しているといえるだろう。日常的状況の中にまったく埋没して、ただ無常の事物の中でしか生きてこなかった自我は、永遠の宇宙秩序の意図にふさわしい役割を果たすことのできるような種子を播かなかった。ただ日常の利害関係を超えて生きた少数の自我だけが、地上で播いた種子を「霊界」の上位の諸領域の中で実らせることができる。
「地上の名声」を得ることが大事だというのではない。そうではなく、狭い生活空間の中の一つひとつの小さな事柄に、生命の永遠の生成発展にとっての意味を見出すことが、まさに問題なのである。
この領域では、この世の生活の場合と評価の規準が異なっていることをよく理解していなければならない。たとえばこの第五領域と同質の霊性を、わずかしか獲得しなかった人間には、来世の運命(かるま)の中に、この欠陥に応じた結果が現れるように生きようとする衝動が生じる。その結果、次の人生においては、苦しみの多い生活が与えられる。そのときになって、それが当人にとってどれ程深い苦悩の対象となるにしても、「霊界」のこの領域にいたときには、それこそ自分にとってまったく必要な運命なのだ、と感じていたのである。
第五領域の人間は、本来の真我として生きているので、この世に生きていたときに自分を包んでいた低次の世界の成分のすべてから脱却している。彼は輪廻転生を通じて、常に同一の存在だったし、これからも常に同一の存在であり続けるだろう。彼は、自分が地上生活のために自我の中に組み込んだ意図に従って生きている。彼は自分の過去を回顧して、これまで体験してきたことが、未来に実現されるべき意図の中に、すべて取り入れられるであろうと感じる。これまでの人生に対する一種の記憶と、これからの人生に対する予見的展望とが一瞬にして明らかになる。
本書で「霊我」と名づけられたものは、この領域に生きているのである——それぞれの発展段階に応じた、それぞれにふさわしい仕方で。そのようにして霊我は成熟し、そして新しい人生において霊的意図を地上の現実の中で遂行するための準備をするのである。
「霊界」の諸領域に滞在する「霊我」は、自分が霊界を完全に自由に移動できるまでに成長したとき、真の故郷をますますこの霊界に求めるだろう。霊的生活は、地上の人間にとっての物質的な現実生活がそうであるように、霊我にとって熟知したものとなるだろう。霊界の観点は、そのときから、意識的にせよ、無意識的にせよ、多かれ少なかれ、その後の地上生活の基準的観点となる。自我が自分を神的宇宙秩序の一分肢と感じるようになれば、もはや地上の制約と法則とが、自我の内奥の本性を侵すことはなくなるだろう。自我が活動するための力は、すべて霊界から来るようになる。しかも霊界はひとつの統一体だから、霊界に生きる人は、永遠なものがどのようにして過去に創造を行ったかを知っている。そしてこの永遠なものを基準にして、自分の未来の方向を決定することができる。
過去への眼は、どこまでも拡大される。この段階に到達した人は、来世において遂行すべき目標をみずから設定する。彼は自分の未来に影響を与えて、未来が霊的意味において真実の道を歩めるようにする。このような人は、死と新生の中間状態で、神的叡智を直接見ることのできる崇高な神霊たちすべての面前に立っている。彼はこれらの崇高な神霊たちをさえ理解できる段階に達したのである。
P162
「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在にもっとも適った仕方で遂行するであろう。なぜなら、彼は自分のためになるものをではなく、宇宙秩序に則って生起すべきものを求めるのだから。
P162~163
「霊界」の第七領域は、人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中へ、宇宙的使命の達成のために移植された「生命核」たちに向き合う。こうして三つの世界の果てに立つ人間は、それとともに自分自身の生命核を認識する。この結果、三つの世界の謎が解決され、彼はこれらの世界のすべてのいとなみを見通す。この世の通常の生活状況の中では、霊界でこの体験をすることができた魂の諸能力は意識されずにいる。これらの能力は、無意識の深みの中で、物質界の意識を成立させる肉体の諸機官に働きかけている。なぜこれらの能力が、この物質界においては知覚されぬものとなっているのか。その理由は、まさにここにある。
眼もまた自分が見えない。なぜなら、眼の中には他のものを可視的にする諸力が働いているからである。出生から死までの人生が、どの程度まで前世の成果を示しているかを理解しようと思うなら、地上生活そのものに内在する観点が——もちろんはじめは誰でも、この観点に立たざるをえないのだが——この理解を不可能にしているということを、知らねばならない。たとえば、なぜ地上の生活が苦しみに充ちた、不完全なものなのかを、この観点は理解することができないだろう。けれども、地上生活の外に立つ観点なら、まさに地上生活のこのような相こそ、その苦しみと不完全さこそ、以前の諸人生の結果なのだ、ということを明らかに理解するだろう。」
P163
「本書の最後の章に述べられている意味での認識の小道を歩むことによって、魂は肉体生活の諸条件から解放される。それによって魂は、死と新生の間で体験される事柄を像として知覚することができる。このような知覚が、本書で素描されたような「霊界」の諸事象の記述を可能にしてくれたのである。魂の在り方の全体は、肉体に宿るときと、純粋な霊的な体験におけるときとでは、異なっている。このことを忘れたら、本書の記述を正しい光の下に見ることはできないであろう。」
長い引用をさせて戴くことになった。当書ちくま学芸文庫『神智学』は翻訳書であるが、言葉一つひとつの表現に深い意味が隠れている。てにをは一つひとつが大切な表現になっている。読み進めるなかでそのように感じる。『神智学』の読書人の一人として一言一句が大事で、はずすことが出来なくなる。繰り返して、再度、繰り返しながら読む。ちくま学芸文庫R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳)を手に取り繰り返し読む。
今回の読書は「三つの世界」―「四 死後の霊界における霊」(p146~163)です。
前回「三 霊界」の次章であり、さらにこの章でも霊界について学んでいくことになります。
先ず146ページに記載がある
「・・・人間の体的本性を貫いて働きかけているものは、霊に他ならず、物体界で作用するための意図、方向は霊からきている。」この文章をおさえておきます。
P147
「・・・地上の活動の目標と意図とは、「霊たちの国」で形成されるのである。」
P148
「人間は、物質の性質や力を、この世の舞台で学ぶ。この舞台の上で、創造活動を行いながら、物質界がそこで働く自分に何を要求するのかについて、経験を蓄積する。そして自分の思想、理念を具体化するための資材の性質を知ることを学ぶ。しかし思想や理念そのものは、素材から吸収することができない。このようにして、地上世界は、創造の場であると同時に、学習の場でもある。「霊界」ではこの学習の成果が、霊の活発な能力に変化させられる。」
P149
「霊は体的本性から解放されて、今やあらゆる方向へ向けて自己を形成し、そして生前の地上の経験の諸成果を、この形成の中に取り込む。だから死後の霊は、常に眼差しを、ふたたび課題を果たすべき舞台である地上に向けており、自分の活動場所としての地球の必然的な発展過程をどこまでも追い続ける。霊は、自分がこの世に生をうける度に、その時点での地球上の変化に応じて尽力できるように、心掛ける。」
同じくp149
「「霊界」における人間の霊の成熟は、そこでの諸領域の事情に通じることによって達成される。・・・」
R・シュタイナーは、霊界を第一領域~第七領域に区分して示している。
P150~153
「霊界の第一領域における人間は、地上の事物の霊的原像にとりまかれている。この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人間は知ることができた。地上では単に考えられるだけのものが、この領域では体験されるものとなる。この領域で、人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思考内容というのは、現実の生きた存在なのである。地上生活においては感覚で知覚されたものも、今や思考内容の形式をとって、彼に働きかけてくる。しかもその思考内容は、事物の背後にかくれた影として現れるのではなく、事物を産み出す生命に満ちた現実そのものなのである。人間はいわば、その中で地上の事物が形成される思想工房の中にいる。なぜなら「霊界」では、すべてが生命に満ちた営為であり、活動であるからである。ここでは思想界が、創造し、形成する生きた存在の世界として、活動している。人は、地上で体験したものが如何にして形成されるのかを、見る。肉体をもった人間が感覚的事物を現実として体験するように、今、霊となった人間は、霊の形成する諸力を現実として体験する。
霊界における思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を感じる。霊的存在だけが自分に属すると、感じられる。そして自分の遺体を、もはや物質としてではなく、記憶の中でのように、思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に属するものとして眼の前に現れる。かっての自分の肉体を、外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。もはや、自分の体的本性を自分の自我に親和した外界の他の事物から区別しようとはしなくなる。外界全体の中に、自分の身体をも含めて、ひとつの統一性を感じるようになる。自分の身体も、周囲の世界とひとつに融合している。
このように、物質的、身体的現実の諸原像を、みずからもそれに属していた統一体として観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に学びとる。人は自分に向かって、「今ここでお前の周りに拡がっているものは、かってはお前自身であったのだ」、ということを学ぶ。・・・
地上生活において影のような思想として把握されていたもの、すべての叡智の目標であったものが、「霊界」においては、直接体験される。というよりも、霊界の生活の中でのひとつの事実であるからこそ、それが地上生活の中で思考されるのである。
このように、人間は霊界に生きるとき、地上生活におけるときの状況と事実とを、高次の立場から、いわば外から、観る。その際、「霊界」の最下位の領域にいる人間は、物質的、身体的な現実と直接係わるような仕方で、地上の状況と向き合っている。
人間はこの世で、家族、民族の一員としての生をうけ、きまった土地で生活する。このようなすべての事情に、人間の地上生活は規定されている。この世の状況が命じるままに、友達が選ばれ、特定の職業に従事する。これらすべてによって、人間の生活状況が規定される。さて、これらすべては、「霊界」の最初の領域での生活の中で、生きた思考存在として立ち現れてくる。人間はこれらすべてを、一定の仕方で、もう一度、活動する霊の側面から体験しなおすのである。
彼の抱いた家庭愛や友情は、彼の中で内側から甦り、彼の諸能力がこの方向において強められる。家庭愛や友情の力として人間精神の内に働くものが強められる。彼はこの点において、その後より完全な人間としてふたたび地上に生れ変る。
「霊界」のこの最下位の領域内で成果として実るものは、地上生活上のいわば日常的状況である。そしてこの日常的状況にもっぱら没頭してきた霊的部分は、死から再生に至る霊界生活の主要期間中、この領域に親近感を持ち続けるであろう。
この世でともに生きてきた人びととは、霊界でも再会する。肉体と結びついたすべてが魂から離れ落ちるように、地上生活において魂と魂とを結びつけていた絆も、物質界でのみ意味や効力をもっている諸制約から解放される。しかし死後、霊界の中においても、地上生活での魂と魂の係わりはすべて存続し続ける。物質的状況を表現する言葉は、霊界に生じる事柄を不正確にしか表現することができないが、しかしこのことを前提とした上で、地上で一緒に暮した魂同士は、霊界で再開し、かつての共同生活を霊界に相応した仕方で継続するということは、まったく正しいであろう。」
P153~155
「第二の領域は、地上での共通の生命が思考存在として、いわば「霊界」の液体成分として流れている場所である。肉体をもった人間が世界を観察する場合、生命は個々の生物と結びついた仕方で現象する。霊界ではしかし、生命は個々の生物から分離され、生命の血として、いわば霊界全体を循環する。それは霊界の一切の中に存在するところの、生ある統一体となっている。
この世での生命は、ただその残照だけが人間に現象し、世界の全体、統一、調和に対して人間が抱くあらゆる形式の畏敬として現れていた。人間の宗教生活は、この残照に由来するのである。生存の包括的意味が、無常のものの中や個々の事物の中にあるのではない、ということを人間はしる。人間は無常なものを永遠なる調和的統一の「比喩」と模像として考察する。人間はこの統一を、畏敬と崇拝との中で仰ぎ見、この統一のために宗教的祭祀を行う。
「霊界」では、残照ではなく、生きた思考存在として、その現実の形姿が現れる。人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることができる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果が、この領域の中に現れてくる。人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを区別すべきでない、と認識する。自分を全体の一員として認識する能力は、この領域で形成される。宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受けとるであろう。そして能力を向上させつつ、この方向に沿って、ふたたび人間は、この世に生を受けるであろう。
人は第一の領域では、生前この世の絆によって身近な縁を結んでいた魂たちとともにいるが、第二の領域では、同じ崇拝対象、同じ信条等によってひとつに結ばれていると感じられたすべての魂たちの領域に入る。ここで強調しておかねばならないが、すでに通過した領域の霊的体験は、それに続く領域の中でも存続し続ける。だから人は、家族、友人等によって結ばれた絆から、第二、第三の領域の生活に入ったあとでも、決して切り離されることはない。
また「霊界」の諸領域は、「仕切られた部屋」のように、互にはっきり区別されているのではない。諸領域は互いに浸透し合っている。そして人は、新しい領域の中へ何らかの仕方で外から「入って」いったからではなく、以前には知覚できなかったものを知覚する内的能力を獲得したからこそ、その新しい領域での体験を持つのである。
P155~156
「霊界」の第三領域は、魂界の原像を含んでいる。魂界に存在する一切が、この第三領域の中で、生きた思考存在として現れている。欲望、願望、感情等の原像がここに見出される。しかし霊界のこの領域では、如何なる種類の利己的欲求も、その魂には付着していない。第二領域での一切の生活と同じように、この第三領域でも、すべての欲望と願望、すべての快と不快は、ひとつの統一を形成している。他人の欲望、と願望と自分の欲望、と願望とは区別されない。大気が地球をとりまいているように、すべての存在の感情と情緒は、一切を包含するひとつの共通世界なのである。
この領域は「霊界」のいわば大気である。ここでは、人が地上で社会のため、隣人のために、没我的態度で奉仕したときの一切の行為が、実を結ぶのである。なぜなら、このような奉仕によって、人はすでにこの世で「霊界」の第三領域の残照の中に生きていたからである。人類の偉大な慈善家、献身的人物、共同体に大きな奉仕を為した人物は、かって前世において、この領域と特別の親和関係を作ったのちに、この領域でこのような行為のための能力を獲得した人びとなのである。
P156
「以上に述べた「霊界」の三領域が、霊界の下に立つ物質界と魂界とに対して、特定の関係をもっていることは明瞭である。なぜなら、この二つの世界の中で身体をもち、魂をもっているものの原像である、生きた思考存在が、この三領域に存在しているからである。
P156~158
「純粋な霊界」は、第四の領域とともに始まる。しかしこの領域も、まだ完全な意味でそうなのではない。第四領域が下位の三領域と区別されるのは、これらの三領域で出会うのが、人間自身が物質界と魂界に積極的に働きかける以前に存在している物質的、魂的諸状況の原像だからである。・・・
この世で獲得した科学の成果、芸術の着想と形式、技術の思想は、この第四領域でその成果を実らせている。それ故、芸術家、学者、大発明家は、「霊界」に滞在している間に、彼らの創造衝動をこの領域から受けとり、彼らの天分を高めたからこそ、ふたたび地上に生を受けたときに、人類文化の発展に一層寄与できるようになったのである。
「霊界」のこの第四領域が、特に優れた人物にしか意味をもたぬ、と考える必要はない。すべての人間にとって意味をもっている。地上の生活中に、日常的な願望の領分を超えて人間が努力したものはすべて、その源泉をこの領域にもっている。もし人が死から再生に至る間にこの領域を通過しなかったとすれば、その後はもはや狭い個人的な生活空間を超えて、普遍的=人間的なものへ向おうとする興味をもたなくなるであろう。
この領域が完全な意味で「純粋な霊界」と呼ぶことができないというとは、すでに述べた。なぜそうなのかといえば、人がかって生きていた時代の文化状況が、死後この領域にいる彼の霊にも影響し続けるからである。「霊界」のこの領域においては、自分の素質に従い、また自分の属する民族、国家等の水準に従って果し得た業績の成果だけが享受されるのである。
P158~162
「霊界」のもっと高次の諸領域における人間の霊は、どのような地上的束縛からも自由である。人間の霊は、この「純粋な霊界」にまで高まると、霊界が地上の生活のために立てた目標や意図の真の意味を体験することができる。地上においてすでに実現されているものは、どんなものも、最高の目標や意図の、多かれ少なかれ無力な模造品であるに過ぎない。結晶体、樹木、動物のどれ程驚嘆すべき形態も、そして人間精神のどれ程見事な作品も、すべては霊が意図しているものの模造品でしかない。そして人間は繰り返しこの世に生まれてきては、完全な意図や目標のこの不完全な模造品と係わり合う。人間自身もまた、さまざまの転生のどれかひとつの中では、その都度霊界で意図してきたものの不完全な模造でしかありえない。「霊界」における霊としての本来の人間の姿は、死と新生の中間状態にある人間が「霊界」の第五領域にまで上昇したとき、はじめて現れる。この領域での人間こそが、本来の人間なのである。それは、輪廻転生を重ねつつ、その都度、身体存在となって現れる自我の真の姿である。
第五領域における人間のこの真我は、あらゆる方向に向って思う存分自由に生きている。常に新たにこの世に出生してくる自我は、この真我のひとつの現れである。自我は、生れる度に必ず、「霊界」の下位の諸領域で獲得した能力を伴って現れ、それによって、前世で得た成果を次の人生の中へ持ち込む。自我はこれまでの転生の諸成果の担い手なのである。
したがって「霊界」の第五領域を生きる真我は、意図と目標の王国にいる。建築家が作業現場で明らかになった欠陥箇所に教えられ、次の仕事では、その不完全な箇所を完全なものに変えて設計することができるであろうように、第五領域の真我は、これまでの地上生活の諸成果のうち物質界と魂界の不完全さと結びついている部分を取り除き、今生きている「霊界」の意図を、これまでの地上生活の諸成果でもって一層成熟させる。
明らかに、この領域から汲み取れる力は、真我が意図の世界の中に持ち込むにふさわしい成果を、生前の自我がどれ程獲得することができたかによってきまる。生前、自我が活発な思想生活、洞察を伴った博愛行為によって、霊の意図を実現しようと努めていたとすれば、真我は、この領域から多くを得る権利を有しているといえるだろう。日常的状況の中にまったく埋没して、ただ無常の事物の中でしか生きてこなかった自我は、永遠の宇宙秩序の意図にふさわしい役割を果たすことのできるような種子を播かなかった。ただ日常の利害関係を超えて生きた少数の自我だけが、地上で播いた種子を「霊界」の上位の諸領域の中で実らせることができる。
「地上の名声」を得ることが大事だというのではない。そうではなく、狭い生活空間の中の一つひとつの小さな事柄に、生命の永遠の生成発展にとっての意味を見出すことが、まさに問題なのである。
この領域では、この世の生活の場合と評価の規準が異なっていることをよく理解していなければならない。たとえばこの第五領域と同質の霊性を、わずかしか獲得しなかった人間には、来世の運命(かるま)の中に、この欠陥に応じた結果が現れるように生きようとする衝動が生じる。その結果、次の人生においては、苦しみの多い生活が与えられる。そのときになって、それが当人にとってどれ程深い苦悩の対象となるにしても、「霊界」のこの領域にいたときには、それこそ自分にとってまったく必要な運命なのだ、と感じていたのである。
第五領域の人間は、本来の真我として生きているので、この世に生きていたときに自分を包んでいた低次の世界の成分のすべてから脱却している。彼は輪廻転生を通じて、常に同一の存在だったし、これからも常に同一の存在であり続けるだろう。彼は、自分が地上生活のために自我の中に組み込んだ意図に従って生きている。彼は自分の過去を回顧して、これまで体験してきたことが、未来に実現されるべき意図の中に、すべて取り入れられるであろうと感じる。これまでの人生に対する一種の記憶と、これからの人生に対する予見的展望とが一瞬にして明らかになる。
本書で「霊我」と名づけられたものは、この領域に生きているのである——それぞれの発展段階に応じた、それぞれにふさわしい仕方で。そのようにして霊我は成熟し、そして新しい人生において霊的意図を地上の現実の中で遂行するための準備をするのである。
「霊界」の諸領域に滞在する「霊我」は、自分が霊界を完全に自由に移動できるまでに成長したとき、真の故郷をますますこの霊界に求めるだろう。霊的生活は、地上の人間にとっての物質的な現実生活がそうであるように、霊我にとって熟知したものとなるだろう。霊界の観点は、そのときから、意識的にせよ、無意識的にせよ、多かれ少なかれ、その後の地上生活の基準的観点となる。自我が自分を神的宇宙秩序の一分肢と感じるようになれば、もはや地上の制約と法則とが、自我の内奥の本性を侵すことはなくなるだろう。自我が活動するための力は、すべて霊界から来るようになる。しかも霊界はひとつの統一体だから、霊界に生きる人は、永遠なものがどのようにして過去に創造を行ったかを知っている。そしてこの永遠なものを基準にして、自分の未来の方向を決定することができる。
過去への眼は、どこまでも拡大される。この段階に到達した人は、来世において遂行すべき目標をみずから設定する。彼は自分の未来に影響を与えて、未来が霊的意味において真実の道を歩めるようにする。このような人は、死と新生の中間状態で、神的叡智を直接見ることのできる崇高な神霊たちすべての面前に立っている。彼はこれらの崇高な神霊たちをさえ理解できる段階に達したのである。
P162
「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在にもっとも適った仕方で遂行するであろう。なぜなら、彼は自分のためになるものをではなく、宇宙秩序に則って生起すべきものを求めるのだから。
P162~163
「霊界」の第七領域は、人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中へ、宇宙的使命の達成のために移植された「生命核」たちに向き合う。こうして三つの世界の果てに立つ人間は、それとともに自分自身の生命核を認識する。この結果、三つの世界の謎が解決され、彼はこれらの世界のすべてのいとなみを見通す。この世の通常の生活状況の中では、霊界でこの体験をすることができた魂の諸能力は意識されずにいる。これらの能力は、無意識の深みの中で、物質界の意識を成立させる肉体の諸機官に働きかけている。なぜこれらの能力が、この物質界においては知覚されぬものとなっているのか。その理由は、まさにここにある。
眼もまた自分が見えない。なぜなら、眼の中には他のものを可視的にする諸力が働いているからである。出生から死までの人生が、どの程度まで前世の成果を示しているかを理解しようと思うなら、地上生活そのものに内在する観点が——もちろんはじめは誰でも、この観点に立たざるをえないのだが——この理解を不可能にしているということを、知らねばならない。たとえば、なぜ地上の生活が苦しみに充ちた、不完全なものなのかを、この観点は理解することができないだろう。けれども、地上生活の外に立つ観点なら、まさに地上生活のこのような相こそ、その苦しみと不完全さこそ、以前の諸人生の結果なのだ、ということを明らかに理解するだろう。」
P163
「本書の最後の章に述べられている意味での認識の小道を歩むことによって、魂は肉体生活の諸条件から解放される。それによって魂は、死と新生の間で体験される事柄を像として知覚することができる。このような知覚が、本書で素描されたような「霊界」の諸事象の記述を可能にしてくれたのである。魂の在り方の全体は、肉体に宿るときと、純粋な霊的な体験におけるときとでは、異なっている。このことを忘れたら、本書の記述を正しい光の下に見ることはできないであろう。」
長い引用をさせて戴くことになった。当書ちくま学芸文庫『神智学』は翻訳書であるが、言葉一つひとつの表現に深い意味が隠れている。てにをは一つひとつが大切な表現になっている。読み進めるなかでそのように感じる。『神智学』の読書人の一人として一言一句が大事で、はずすことが出来なくなる。繰り返して、再度、繰り返しながら読む。ちくま学芸文庫R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳)を手に取り繰り返し読む。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2024年5月27日(月)90回 ― 2024年05月27日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の11回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「三 霊界」(p135~145)です。
いよいよこの書籍『神智学』から「霊界」について学ぶ時がやってきました。うれしくあり、魂界の学習と共に心身が引き締まり、そして、神妙な気持ちです。「霊界」とはどのような世界なのか。じつは「魂界」について学んでいた時「霊界」についても一部学んでいました。けれども今回からは「霊界」を中心に学習します。しっかり深く広く学びたいと考えております。読書とは書籍の文章を読み進めながら考える作業です。この「場所」では当書籍の文章を記述させていただき、各自、思い巡らし、考えていただきます。不十分な引用記述なので、各自、当書籍の購入をお願いします。
136~141ページ
「三 霊界」(p135~145)は次の文章で始まる。
「さて、霊がさらにどのような旅を続けていくのかを考察する前に、霊の歩み入る領域そのものを観察する必要がある。この領域というのは、「霊界」のことである。」
「霊界は物質界と全然似たところがないから、物質的感覚だけに信頼をおく人には、すべてが空想としか思われないであろう。・・・物質界に相応した言語手段が、どれほど不完全にしか霊界の経験を記述できないものか、このことを筆者はこの部分の執筆に際して常に意識していた。
特に強調しておかなければならないのは、霊界が、人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって織り成されている、ということである。「素材」という言葉も比喩的に用いられているのだが、人間の思考内容の中に生きている素材は、この素材の真の 本性の影であるに過ぎず、図式であるに過ぎない。壁に投影された事物の影がその事物そのものに対するように、人の頭に浮ぶ思考内容は、それが示唆する「霊界」の本性に対している。」
「人間は、霊的感覚が目覚めたとき、ちょうど肉眼が机や椅子を見るように、この思考内 容の本性をはじめて本当に知覚できるようになる。その人の周囲を思考の本性が取り巻く。肉眼は獅子を知覚し、感覚的知覚と結びついた思考は、獅子のこの知覚像に関する思考内 容を図式もしくは影絵としてもつ。霊眼は「霊界」の中で獅子に関する思考内容を、肉眼によって知覚された獅子の物質的形姿と同じ位の生まなましさで、見る。ここでも、魂界 のために用いた比喩が役に立つ。——手術によってはじめて眼が見えるようになった人にとって、周囲が一度に新しい色と光の中に現れるように、霊眼を用いることを学んだ人に とって、周囲は新しい生きた思考内容や霊たちの世界によって満たされるのである。
まず、物質界と魂界に存在するすべての事物や生物の霊的原像が、この世界の中に現れてくる。・・・
・・・問題は、「霊界」の中に、すべての事物の原像が存在する、そして事物や生物の物質的存在形態は、この原像の模像に過ぎない、ということなのである。
・・・
霊界では、一切が絶え間のない活動状態を保ち、止むことのない創造行為を続けている。物質界に存在するような休息、停滞は、ここには存在しない。なぜなら、創造する本性が 原像なのだからである。
原像は、物質界と魂界に生じる一切のものの創造者である。原像の形態は、急速に変化 する。どの原像にも、無数の特殊形態をとる可能性が存する。いわば特殊形態を、自分自身の中から湧き出させる。原像は、一つの形態を産み出すかと思えば、すぐにまた次の新 しい形態を現出させる。そして或る原像と別の原像とは、互に多かれ少なかれ親密な関係にある。それらは孤立して作用することがない。創造活動のために、互に相手の協力を必 要としている。魂界や物質界の中に特定の存在が生じるために、無数の原像が共同で働く ことさえまれでない。
「霊界」の中には、「霊視」されるものの他に「霊聴」の対象として考察すべき別の原像が存在する。「見霊者」が魂界から霊界へ上ると、やがてその知覚された原像は、響きは じめるようになる。この「響き」は、純粋に霊的な事実である。それは物質界の音とは、まったく別様に理解されなければならない。それを体験する人は、音の海の中にいるかの ような自分を感じる。そしてこの音響、この霊的響きの中で、霊界の精霊たちが自己を語 る。この音響の和声とリズムと旋律の交響する中で、彼らの存在の原則や相互関係、親和 関係が明瞭に示される。
物質界の中で、悟性が法則や理念として認めるものが、「霊耳」には霊的音楽として表 現される。ピタゴラス派が霊界のこの知覚内容を「天体音楽」と名づけたのは、このことによる。「霊耳」をもつ者にとって、「天体音楽」は象徴的、寓意的なものではなく、よく知られた霊的現実なのである。
・・・「形象」として「光輝くもの」として述べているものは、同時に「響きを発するもの」でもある。色と光を知覚するとき、霊的な音が、そして色の組み合わせによる効果には、和音や旋律等が同時に聞えているのである。また、音響が支配しているところでも、「霊眼」の知覚活動は止んでいない。このことはどんな場合にも忘れてはならない。すなわち、常に響きには輝きが対応しているのである。
したがって以下で「原像」のことが語られるとき、「原音」のことも同時に考えるべき である。比喩的に、「霊的味覚」等と呼びうる、その他の霊的な知覚内容についても同様である。・・・
さて、さまざまの種類の原像を互いに区別することがまず必要である。「霊界」においても、位置づけが正しく行えるように、特定の段階もしくは領域を、分類しておかなければ ならない。個々の領域は、「魂界」の場合と同じように、ここでも層をなしてはっきり上下に区別されるのではなく、相互に浸透し合い、混淆し合っている。
P141~142
「最初の領域には、物質界の中の無生物の原像が存在している。鉱物の原像、さらに植物 の原像もここに見出せるが、その場合は、植物が純物質的である限り、つまり生命が顧慮 されぬ限りでの植物の原像なのである。だからここでは、動物や人間の物質的形態にも出 会う。この領域に存在するものは、以上で尽きる訳ではない。ただ明白な例をあげて説明 したに過ぎない。
この領域が「霊界」の土台をなしている。それは、地球上の陸地と比較されうる。「霊界」の大陸部分なのである。この領域と物質界との関係は、比喩的にしか述べることがで きないが、次のように考えることによって、ひとつの観念を得ることができる。或る限定 された空間に、あらゆる種類の物体がつめこまれているとしよう。今、心の中でこれらの 物体を消し去り、それらの占めていた空間に、それらの形が残した虚空間を考える。一方、それまで何も存在していなかった空間(虚空間)の部分は、消し去られた物体たちと多様 な関係をもつ、ありとあらゆる形態によって埋め尽くされている、と考えるのである。
原像世界の最下位の領域は、ほぼこのような様相を呈している。そこでは、物質界の中に形態をもっている事物や生物が、「虚空間」として存在している。そしてこの虚空間を取り巻く空間の中では、原像の(そして「霊的音楽」の)活発な活動が行われている。物質界にあっては、この虚空間の部分が物質の素材でいわば充塡されている。肉眼と霊眼とを同時に働かせて空間を観察するなら、物体の存在と同時に、物体と物体との間に、創造する原像が活発に働いている様を観るだろう。」
P142
「霊界の第二の領域には、生命の原像が存在している。しかし生命は、この領域の中では、ひとつの完全な統一体をなしている。それは液体成分として、霊界のいたるところに流れ込み、いわば血液のように脈打ちながら、あらゆるところにまで及んでいる。それは地球にとっての海や湖沼や河川のような部分であるともいえる。しかしその分布の仕方からいえば、海や河川よりも動物のからだに流れている血液の方に近い。思考内容を素材にした流動する生命、人は「霊界」のこの第二段階をそう名づけることができよう。この流動する生命という活動領域の中に、物質的現実の中で生命ある存在として現れるすべてのものの根源的創造力が存している。この領域の中では、一切の生命がひとつの統一体であり、人間の生命もその他一切の生物仲間の生命と同質である、ということが示されている。」
P142~143
「「霊界」の第三領域としては、一切の魂あるものの原像が挙げられねばならない。ここは、はじめの二つの領域よりも、もっと精妙な領域である。比喩的にそれを「霊界」の大気圏と名づけることができる。物質界や魂界で魂がいとなむすべては、この領域にその霊的対応物をもっている。一切の感情、本能、情念は、霊的な在り方で、この領域内にもう一度現れる。この霊界の大気圏における気象状況は、物質界、魂界での生物の苦しみと喜びに相応している。人間の魂の憧れは微風のように現れる。激情の発作は暴風のようである。この領域の観察内容に通じている人は、どの生物に注意を向けても、その生物の嘆きに深く入っていける。たとえば、電光のひらめきと雷鳴の轟音を伴う激しい雷雨について語ることができる。その場合、事態をさらによく見極めるなら、地上の激戦中の戦場から発するさまざまの情念が、このような「霊的悪天候」として表現されていることが分かる。」
P143
「第四領域の原像は、物質界、魂界とは直接関係をもたない。この原像は、或る点では、低次の三領域の原像を統率し、相互の連携を可能にする本性たちである。したがって彼らは、低次の三領域の原像に秩序を与え、組分けする仕事に従事している。だからこの領域は低次の三領域よりも、もっと包括的な役割を引き受けている。」
P143
「第五、第六、第七領域は以上の領域から本質的に区別される。なぜなら、これらの領域の本性たちは、低次の諸領域の原像に活動の原動力を提供するのだから。原像の創造力そのものが、彼らの中に存在している。この高次の諸能力まで上がることのできた人は、われわれの世界の根底にある「意図」を知るようになる。
ここにも思考存在として多様極まりない形式をとっている原像が、生きた胚種として存在している。この胚種が下位の諸領域に移されると、いわばふくらみはじめ、そして多様極まりない形態を示すまでに至る。物質界における人間精神の創造性の源である諸理念は、霊界の高次領域におけるこの思考種子の影であり、残照である。
「霊耳」をもった観察者が、「霊界」を低次の領域から高次領域へ上昇すると、どのようにして音響が「霊語」に転化するか、知ることができる。彼は「霊言」を聴きはじめ、事物や生物の本性を音楽によってだけでなく、「言語」によって学ぶようになる。それらの本性は、自分たちの——霊学でいう——「永遠の名」を、彼に告げる。
ここで知っておく必要があるのは、以上の思考種子が合成されたものだということである。思考世界の成分から、いわば胚乳だけが取り出される。そしてこの胚乳が、本来の生命の核を包んでいる。この生命の核とともに、われわれは「三つの世界」の限界にまで達したことになる。なぜならこの核は、三つの世界よりも、もっと高次の諸世界に由来するのだから。前章で人間をその構成部分に従って記述したとき、人間の生命の核の構成部分は、「生命霊」並びに「霊人」と呼ばれた。人間以外の世界(宇宙)存在者たちにも同様の生命核が存在する。これらの核は、もっと高次も諸世界に由来し、自己の使命をそこで成就するために、この三つの世界に移されているのである。
さて以下に、死後から新生に至るまでの人間の霊が、霊界においてその遍歴をさらにどう続けていくのか、述べなければならない。その際「霊界」の状態と特徴とが、もう一度明示される筈である。」
この「霊界」の章で、シュタイナーは「霊界」を七つの領域に分けて考察を進めています。
第一領域は、物質界の中に無生物の原像が存在している。
第二領域は、生命の原像が存在している。
第三領域は、一切の魂あるものの原像の霊的対応物の存在がある。
第四領域は、低次の三領域の原像を統率し、相互の連携を可能にする本性の存在がある。
第五、第六、第七領域は以上の領域から本質的に区別される。活動の原動力を提供し、原像の創造力そのものが存在している。
霊界の概要をこの章は示しています。
今回、「三つの世界」―「三 霊界」(p135~145)を読書することにより、霊界の概要をイメージすることができました。
さらに次ページの読書を進めながら、より深く詳しく「霊界」について認識を拡げ深めて行きたいと思います。
今回の読書は「三つの世界」―「三 霊界」(p135~145)です。
いよいよこの書籍『神智学』から「霊界」について学ぶ時がやってきました。うれしくあり、魂界の学習と共に心身が引き締まり、そして、神妙な気持ちです。「霊界」とはどのような世界なのか。じつは「魂界」について学んでいた時「霊界」についても一部学んでいました。けれども今回からは「霊界」を中心に学習します。しっかり深く広く学びたいと考えております。読書とは書籍の文章を読み進めながら考える作業です。この「場所」では当書籍の文章を記述させていただき、各自、思い巡らし、考えていただきます。不十分な引用記述なので、各自、当書籍の購入をお願いします。
136~141ページ
「三 霊界」(p135~145)は次の文章で始まる。
「さて、霊がさらにどのような旅を続けていくのかを考察する前に、霊の歩み入る領域そのものを観察する必要がある。この領域というのは、「霊界」のことである。」
「霊界は物質界と全然似たところがないから、物質的感覚だけに信頼をおく人には、すべてが空想としか思われないであろう。・・・物質界に相応した言語手段が、どれほど不完全にしか霊界の経験を記述できないものか、このことを筆者はこの部分の執筆に際して常に意識していた。
特に強調しておかなければならないのは、霊界が、人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって織り成されている、ということである。「素材」という言葉も比喩的に用いられているのだが、人間の思考内容の中に生きている素材は、この素材の真の 本性の影であるに過ぎず、図式であるに過ぎない。壁に投影された事物の影がその事物そのものに対するように、人の頭に浮ぶ思考内容は、それが示唆する「霊界」の本性に対している。」
「人間は、霊的感覚が目覚めたとき、ちょうど肉眼が机や椅子を見るように、この思考内 容の本性をはじめて本当に知覚できるようになる。その人の周囲を思考の本性が取り巻く。肉眼は獅子を知覚し、感覚的知覚と結びついた思考は、獅子のこの知覚像に関する思考内 容を図式もしくは影絵としてもつ。霊眼は「霊界」の中で獅子に関する思考内容を、肉眼によって知覚された獅子の物質的形姿と同じ位の生まなましさで、見る。ここでも、魂界 のために用いた比喩が役に立つ。——手術によってはじめて眼が見えるようになった人にとって、周囲が一度に新しい色と光の中に現れるように、霊眼を用いることを学んだ人に とって、周囲は新しい生きた思考内容や霊たちの世界によって満たされるのである。
まず、物質界と魂界に存在するすべての事物や生物の霊的原像が、この世界の中に現れてくる。・・・
・・・問題は、「霊界」の中に、すべての事物の原像が存在する、そして事物や生物の物質的存在形態は、この原像の模像に過ぎない、ということなのである。
・・・
霊界では、一切が絶え間のない活動状態を保ち、止むことのない創造行為を続けている。物質界に存在するような休息、停滞は、ここには存在しない。なぜなら、創造する本性が 原像なのだからである。
原像は、物質界と魂界に生じる一切のものの創造者である。原像の形態は、急速に変化 する。どの原像にも、無数の特殊形態をとる可能性が存する。いわば特殊形態を、自分自身の中から湧き出させる。原像は、一つの形態を産み出すかと思えば、すぐにまた次の新 しい形態を現出させる。そして或る原像と別の原像とは、互に多かれ少なかれ親密な関係にある。それらは孤立して作用することがない。創造活動のために、互に相手の協力を必 要としている。魂界や物質界の中に特定の存在が生じるために、無数の原像が共同で働く ことさえまれでない。
「霊界」の中には、「霊視」されるものの他に「霊聴」の対象として考察すべき別の原像が存在する。「見霊者」が魂界から霊界へ上ると、やがてその知覚された原像は、響きは じめるようになる。この「響き」は、純粋に霊的な事実である。それは物質界の音とは、まったく別様に理解されなければならない。それを体験する人は、音の海の中にいるかの ような自分を感じる。そしてこの音響、この霊的響きの中で、霊界の精霊たちが自己を語 る。この音響の和声とリズムと旋律の交響する中で、彼らの存在の原則や相互関係、親和 関係が明瞭に示される。
物質界の中で、悟性が法則や理念として認めるものが、「霊耳」には霊的音楽として表 現される。ピタゴラス派が霊界のこの知覚内容を「天体音楽」と名づけたのは、このことによる。「霊耳」をもつ者にとって、「天体音楽」は象徴的、寓意的なものではなく、よく知られた霊的現実なのである。
・・・「形象」として「光輝くもの」として述べているものは、同時に「響きを発するもの」でもある。色と光を知覚するとき、霊的な音が、そして色の組み合わせによる効果には、和音や旋律等が同時に聞えているのである。また、音響が支配しているところでも、「霊眼」の知覚活動は止んでいない。このことはどんな場合にも忘れてはならない。すなわち、常に響きには輝きが対応しているのである。
したがって以下で「原像」のことが語られるとき、「原音」のことも同時に考えるべき である。比喩的に、「霊的味覚」等と呼びうる、その他の霊的な知覚内容についても同様である。・・・
さて、さまざまの種類の原像を互いに区別することがまず必要である。「霊界」においても、位置づけが正しく行えるように、特定の段階もしくは領域を、分類しておかなければ ならない。個々の領域は、「魂界」の場合と同じように、ここでも層をなしてはっきり上下に区別されるのではなく、相互に浸透し合い、混淆し合っている。
P141~142
「最初の領域には、物質界の中の無生物の原像が存在している。鉱物の原像、さらに植物 の原像もここに見出せるが、その場合は、植物が純物質的である限り、つまり生命が顧慮 されぬ限りでの植物の原像なのである。だからここでは、動物や人間の物質的形態にも出 会う。この領域に存在するものは、以上で尽きる訳ではない。ただ明白な例をあげて説明 したに過ぎない。
この領域が「霊界」の土台をなしている。それは、地球上の陸地と比較されうる。「霊界」の大陸部分なのである。この領域と物質界との関係は、比喩的にしか述べることがで きないが、次のように考えることによって、ひとつの観念を得ることができる。或る限定 された空間に、あらゆる種類の物体がつめこまれているとしよう。今、心の中でこれらの 物体を消し去り、それらの占めていた空間に、それらの形が残した虚空間を考える。一方、それまで何も存在していなかった空間(虚空間)の部分は、消し去られた物体たちと多様 な関係をもつ、ありとあらゆる形態によって埋め尽くされている、と考えるのである。
原像世界の最下位の領域は、ほぼこのような様相を呈している。そこでは、物質界の中に形態をもっている事物や生物が、「虚空間」として存在している。そしてこの虚空間を取り巻く空間の中では、原像の(そして「霊的音楽」の)活発な活動が行われている。物質界にあっては、この虚空間の部分が物質の素材でいわば充塡されている。肉眼と霊眼とを同時に働かせて空間を観察するなら、物体の存在と同時に、物体と物体との間に、創造する原像が活発に働いている様を観るだろう。」
P142
「霊界の第二の領域には、生命の原像が存在している。しかし生命は、この領域の中では、ひとつの完全な統一体をなしている。それは液体成分として、霊界のいたるところに流れ込み、いわば血液のように脈打ちながら、あらゆるところにまで及んでいる。それは地球にとっての海や湖沼や河川のような部分であるともいえる。しかしその分布の仕方からいえば、海や河川よりも動物のからだに流れている血液の方に近い。思考内容を素材にした流動する生命、人は「霊界」のこの第二段階をそう名づけることができよう。この流動する生命という活動領域の中に、物質的現実の中で生命ある存在として現れるすべてのものの根源的創造力が存している。この領域の中では、一切の生命がひとつの統一体であり、人間の生命もその他一切の生物仲間の生命と同質である、ということが示されている。」
P142~143
「「霊界」の第三領域としては、一切の魂あるものの原像が挙げられねばならない。ここは、はじめの二つの領域よりも、もっと精妙な領域である。比喩的にそれを「霊界」の大気圏と名づけることができる。物質界や魂界で魂がいとなむすべては、この領域にその霊的対応物をもっている。一切の感情、本能、情念は、霊的な在り方で、この領域内にもう一度現れる。この霊界の大気圏における気象状況は、物質界、魂界での生物の苦しみと喜びに相応している。人間の魂の憧れは微風のように現れる。激情の発作は暴風のようである。この領域の観察内容に通じている人は、どの生物に注意を向けても、その生物の嘆きに深く入っていける。たとえば、電光のひらめきと雷鳴の轟音を伴う激しい雷雨について語ることができる。その場合、事態をさらによく見極めるなら、地上の激戦中の戦場から発するさまざまの情念が、このような「霊的悪天候」として表現されていることが分かる。」
P143
「第四領域の原像は、物質界、魂界とは直接関係をもたない。この原像は、或る点では、低次の三領域の原像を統率し、相互の連携を可能にする本性たちである。したがって彼らは、低次の三領域の原像に秩序を与え、組分けする仕事に従事している。だからこの領域は低次の三領域よりも、もっと包括的な役割を引き受けている。」
P143
「第五、第六、第七領域は以上の領域から本質的に区別される。なぜなら、これらの領域の本性たちは、低次の諸領域の原像に活動の原動力を提供するのだから。原像の創造力そのものが、彼らの中に存在している。この高次の諸能力まで上がることのできた人は、われわれの世界の根底にある「意図」を知るようになる。
ここにも思考存在として多様極まりない形式をとっている原像が、生きた胚種として存在している。この胚種が下位の諸領域に移されると、いわばふくらみはじめ、そして多様極まりない形態を示すまでに至る。物質界における人間精神の創造性の源である諸理念は、霊界の高次領域におけるこの思考種子の影であり、残照である。
「霊耳」をもった観察者が、「霊界」を低次の領域から高次領域へ上昇すると、どのようにして音響が「霊語」に転化するか、知ることができる。彼は「霊言」を聴きはじめ、事物や生物の本性を音楽によってだけでなく、「言語」によって学ぶようになる。それらの本性は、自分たちの——霊学でいう——「永遠の名」を、彼に告げる。
ここで知っておく必要があるのは、以上の思考種子が合成されたものだということである。思考世界の成分から、いわば胚乳だけが取り出される。そしてこの胚乳が、本来の生命の核を包んでいる。この生命の核とともに、われわれは「三つの世界」の限界にまで達したことになる。なぜならこの核は、三つの世界よりも、もっと高次の諸世界に由来するのだから。前章で人間をその構成部分に従って記述したとき、人間の生命の核の構成部分は、「生命霊」並びに「霊人」と呼ばれた。人間以外の世界(宇宙)存在者たちにも同様の生命核が存在する。これらの核は、もっと高次も諸世界に由来し、自己の使命をそこで成就するために、この三つの世界に移されているのである。
さて以下に、死後から新生に至るまでの人間の霊が、霊界においてその遍歴をさらにどう続けていくのか、述べなければならない。その際「霊界」の状態と特徴とが、もう一度明示される筈である。」
この「霊界」の章で、シュタイナーは「霊界」を七つの領域に分けて考察を進めています。
第一領域は、物質界の中に無生物の原像が存在している。
第二領域は、生命の原像が存在している。
第三領域は、一切の魂あるものの原像の霊的対応物の存在がある。
第四領域は、低次の三領域の原像を統率し、相互の連携を可能にする本性の存在がある。
第五、第六、第七領域は以上の領域から本質的に区別される。活動の原動力を提供し、原像の創造力そのものが存在している。
霊界の概要をこの章は示しています。
今回、「三つの世界」―「三 霊界」(p135~145)を読書することにより、霊界の概要をイメージすることができました。
さらに次ページの読書を進めながら、より深く詳しく「霊界」について認識を拡げ深めて行きたいと思います。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2024年2月29日(木)89回 ― 2024年02月29日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の10回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「二 魂の世界における死後の魂」(p121~135)です。
貴方にとって重要と思う個所はどこですかと問われたなら、全ての文章ですよと返答したでしょう。最初の一行から重要に思います。しかし、全てを引用するわけにはいきません。ですので、今回は、「死後の魂界」に関わる文章を見ていきたいと思います。
124~126ページ
「死後の魂の運命を知るには、その解消過程を考察しなければならない。魂は霊を物質の方に向わせる課題を背負っていた。この課題を果し終えた瞬間に、魂は霊の方向に向かう。
この課題との関係からいえば、体が魂から離れ、したがって魂がもはや結合部分の役割を果たす必要がなくなるとき、魂は本来なら、ただちにもっぱら霊的に活動できる筈である。
体におけるいとなみを通して体の影響をうけ、体に惹きつけられることさえなければ、魂 はもっぱらそのように活動することができた筈である。体に宿ることで、その影響に染ま ることがなかったなら、体を脱したあと、ただちに霊的、魂的な世界の法則だけに従い、感覚体験を今までのように求めたりはしなかったであろう。もし人間が死に際して、完全 に地上世界への関心がなくなる程にまで、地上存在と結びついた欲望、願望等のすべてを 満足させていたなら、そうできたかも知れない。しかし現実にそうできない場合には、こ の方向でまだ充たされていないものが、魂に付着している。
混乱を避けるために、ふたたび生れ変ってきたときに償いをつけることができるようなこの世の因縁と、死後の魂を生前の特定の生活に執着させるようなこの世の因縁とを注意深く区別しておかなければならない。前の場合は、運命の法則、カルマを通して解決されるが、後の場合は、死後の魂が自分でその因縁を取り除くことしかできない。
死後の魂は、もっぱら自分が霊的、魂的な世界の法則に従うことで、霊を自由に活動させるために、物質存在への執着を一切絶つのに必要な一時期をもつ。魂が物質的なものに拘束されていればいるほど、もちろんこの期間は延長される。物質生活への依存度の少なかった人の場合は、期間が短く、物質生活への関心が強く、死後もなお多くの欲望、願望等が魂の中に残っている人の場合は、長く続く。」
127~128ページ
「死後、魂の世界に入った魂は、この世界の諸法則の下に生きる。その諸法則が魂に働きかける。物質的なものを志向する魂の傾向が、どのような仕方で消滅するに至るかは、この働きかけにかかっている。この働きかけは、魂が入っていった領域の素材と力の種類によって異なってくる。とはいえ、種類の如何にかかわらず、この働きかけによって純化し、浄化する感化力が、魂に影響を及ぼす。そしてすべての反感作用が魂の中で、次第に共感の力によって克服され、共感そのものも、最高の頂点にまでもたらされる。最高度の共感とは、魂が魂界全体に融合し、魂界とひとつになることをいう。そのとき、魂の利己的傾向は、完全に消える。魂は、もはや物質的、感覚的な存在に関心をもとうとはしなくなる。このようにして、霊が魂を通して解放される。
このようにして魂は、完全なる共感の領域で、魂界全体とひとつになるまで、上述した魂界の諸領域を通過しながら、浄化を続ける。もしも霊が、魂の解脱の最後の瞬間まで、この魂そのものと結びついていたとすれば、それは霊が、地上生活を送る間に、魂と完全に同化してしまったからに他ならない。この同化は、体との同化よりもずっと徹底してい る。なぜなら、霊は、体とは魂を通して間接的に結びついていたのだが、魂との結びつきは直接的なのだから。魂は、霊の個人生活としていとなまれている。だから霊は、腐敗する肉体にではなく、次第に解脱を遂げつつある魂と結びついている
霊は魂と直接結びついているから、魂が魂界全体とひとつになったときはじめて、霊は魂から自由になった自分を感じることができる。」
128~135ページ
「死後の人間の最初の滞在の地である魂の世界は、「欲望の場所」と呼ばれるが、魂のこの状況を知り、それを教義に取りいれているさまざまな宗教体系は、この「欲望の場所」を「煉獄」、「浄火」等と名づけている。
魂界のもっとも低い領域は、燃える欲望の領域である。死後、この領域を通過する間に、物質生活にかかわる粗野で利己的な欲望が消滅させられる。なぜなら、この欲望をまだ捨てることができずにいる魂は、まさにこの欲望を通して、この領域の力の或る作用をまともに受けざるをえないからである。この作用の起点となるものは、物質生活への、まだ充 たされぬままに残っている欲望である。この魂の共感は、自分の利己的欲求を充たしてくれるものにしか及ぼうとはしない。その他のいたるところには、反感が働いており、その反感が魂を圧倒している。ところがこの場合、欲望は魂界の中では充足させられない物質的享受を求めている。… 」
「共感と反感が均衡を保っているのが、魂界の第二領域の状態である。死後、これと同じ状態にある人間の魂は、この第二領域の作用を受ける。人生の外的事情に心を奪われたり、感覚の一時的な印象に喜びを求めたりすることが、この状態を作り出す。このような状態にある魂の要求から自由になれない人は、この領域の中に留まり続ける。このような人は、日常の瑣事にいちいちこだわる。しかしその際、共感が特にひとつの事物に向けられることがないから、どんな印象も、特別の影響を与えることなく、急速に通り過ぎる。しかもこの些細な、無価値なもの以外はすべて、このような人の反感を呼び起こす。…」
「第三に、魂界の中には、共感と願望の支配する状況が観察される。魂は死後、願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、この第三の領域の作用を受ける。この願望もまた、成就させることが不可能なので、次第に消滅する。」
「魂界の第四領域である快と不快の領域は、魂に特別の試練を課す。肉体に宿っているとき、魂は体に関するすべての事柄に関与する。快と不快の働きは、体と結びついている。体が快感と満足感、不快感と不満足感を惹き起す。だから人間は、地上生活において、自分の身体を自分の自我と感じるのである。自己感情と呼ばれるものは、この事実に基づいている。そして人間が感覚的傾向を強くもっていればいる程、その自己感情は、このような特徴をもっている。
…
この第四領域の作用は、したがって、肉体即自我の幻想を打破することにある。魂は体 的本性を、もはや本質的なものとは感じなくなる。魂は、体的本性への執着から解放され、純化される。これまで魂を物質界に強く拘束してきたものが、このようにして克服されたので、今や魂は、外へ拡がる共感の諸力を存分に発揮することができるようになる。魂は、いわば自己を脱却して、魂界全体の中へ自分を進んで注ぎ込むようになる。
以上との関連で、是非述べておかなければならないのは、自殺者の問題である。自殺者は、特別な仕方で、この領域の諸体験に耐えていかなければならない。彼は不自然な手段を用いて肉体を棄てたが、肉体に係わるすべての感情は、そのまま彼の魂の中に残されている。自然死の場合は、肉体の衰弱とともに、肉体に結びついた諸感情も、部分的に消滅していく。自殺者の場合は、突然穴が空けられてしまったという感情が生み出す苦悩の他に、自殺の原因となった充たされぬ欲望と願望とが、苦悩を生み出す。」
「魂界の第五段階は、魂の光の段階である。この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で、低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して、喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。
たとえば自然に没入しようとする態度も、もしそれが感覚的性質のものであったら、たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。それは自然の事物やそのいとなみの中に顕現する霊を体験しようとする場合である。このような自然感情は、その人の霊性を開発し、魂の中に永続的部分を築き上げる。しかし感覚的享受を動機にもつ自然体験は、この自然感情とは異なる。魂は、物質的なものだけに向けられた欲求と同じように、このような自然体験をも、浄化しなければならない。また多くの人びとは、物質的な福祉をもたらす諸制度、たとえば快適な生活を築 くための教育制度の中に、一種の理想を見出している。この人びとが利己的衝動だけに従っているとは、もちろんいえない。しかしその人びとの魂は、感覚世界を志向している限り、魂界の第五領域を支配している共感の力によって、浄化されなければならない。この共感の力には、そのような外的充足手段が欠けているから、魂は別の手段でこの共感を充足させなければならない。そしてそのような手段とは、魂が魂界の環境に共感することによって実現されるところの、魂の空間の中への自己流出以外にはないのである。
宗教活動を通して物質生活の向上を期待していた人びとの魂も、この領域で浄化を受ける。その人びとの憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。いずれの場合も、このような人びとの魂は、「魂の国」の中で、この楽園に出会うであろうが、それは結局、このような楽園の空しさを悟るためなのだからである。以上は、この第五領域で生じる浄化についての個々の例に過ぎない。例はいくらでも増やすことができる。」
「第六の領域は、魂の活動力の領域である。利己的な性格をもたなくても、行為の動機が 感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。活動意欲に燃えている人は、一見まったくの理想主義者であるような印象を与える。犠牲的精神に富んだ人物であるようにも見える。しかし深い意味において、そのような場合の動機となっているのは、感覚的な快感の高まりなのである。芸術的な人や面白いというだけの理由で学問研究に没頭している人の多くも、この部類に属する。芸術や学問の存在理由がそのような面白さにあると信じることが、その人たちを物質界につなぎとめている。」
「本来の魂の生命の領域である第七領域は、感覚的、物質的な世界への執着から最終的に人間を解放する。これまでのどの領域も、魂の中にあるその領域と同質の部分を、魂から取り上げてきた。最後に残された魂の部分は、感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然として覆い包んでいるのである。
非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外のことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。この信念は、打破されねばならない。そしてそれはこの第七領域において為される。この領域での魂は、真の現実 の中には唯物論信仰の対象となるようなものは何も存在しない、ということを悟る。氷が日に当たって溶けるように、魂のこの信念もこの領域で消えていく。魂は今や、魂界に残りなく吸収し尽され、霊はあらゆる束縛から自由になる。霊は今、本来の諸領域へ向かって飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は、自己本来の環境の中にいる、ということができる。
「魂は生前、この世の課題に応えてきた。そして死後、この課題のうち、霊にとっての束縛であったものが解消された。魂は、地上生活のこの残滓を、残りなく捨て去ることにより、魂自身、その本来の領域の中に戻っていく。
以上に述べたことから分かるように、魂界における諸体験と、それを体験する死後の魂の状態とは、肉体に宿っていた魂の中の、肉体と同質化してしまった部分がますます拭い去られるに応じて、魂にとっても好ましい様相を示すようになる。
魂は、この世の生活の中であらかじめ作られてきた条件次第で、以上の諸領域のどれかに長く留まったり、短く留まったりする。魂は、同質の領域に、この同質性がすっかり消滅するまで留まり続ける。同質の部分が全然存在しないところでは、何も感知することなく、魂はその影響圏を通過する。この章では、魂界の基本性質と魂界における魂のいとな みの一般的特徴だけを扱ったが、この点は霊界についての以下の記述でも同じである。魂 界と霊界の特質を、もっと詳細に論じようとするなら、とても一冊の本には収めきれないものになってしまうであろう。物質界における空間の関係や時間の進行に比較されるようなものについてだけでも、それが物質界とはまったく異なるものなので、理解を容易にしようと思えば、非常に詳細にわたって述べる必要があるからである。この点に関する若干の重要な内容は、私の『神秘学概論』の中に見出せる。」
R・シュタイナ-は現世の現象世界の他に魂界と霊界が実際に存在すると言い切っている。人間は、肉体の死後、この物質世界から魂界に行き、この魂界で物質世界・現象世界に執着している人間の意識の浄化を経て、霊界に向かうという考えをシュタイナーは示している。このことをシュタイナーは事実であると言っている。
今回の読書である「魂の世界における死後の魂」(p121~135)を読み、肉体の死後、人間がたどる魂界での七つの領域について、シュタイナーのこの『神智学』から知ることができた。肉体の死後、魂界を巡る意識=霊魂は現象世界で体験した物事を人間は魂界まで持ち込んでしまう。魂界においては、その現象世界で体験した物事に執着している意識の断片は問われていく。現象世界の物事に執着した意識の衣は、拭い去り、捨て去り、廃棄し、物事への意識から無に帰することが必要になる。意識は空無になること。クリーンな意識の状況が魂界では必須のようである。
「魂の世界における死後の魂」(p121~135)を読みながら、あらためて魂界とは何かと問う。そしてあらためて思う。現象世界を生きた結果を問い直すことが、魂界の役割の一つではないのか。現象世界の人間一人ひとりの生き方、夫々の人生の交流、その現象世界での生存の仕方は魂界で問われる。それは魂界の役割である。あらためて述べることであるが、魂界とは現象世界の一人ひとりの生き方を問い、現象世界に執着した意識を無に帰する役割がある。魂界で意識を無にすることにより、次の世界、霊界に進むことが出来る。そのため魂界とは、地獄でもあり、天国でもある世界を体験できる場でもある。魂界とは、成長を続ける自己意識には、大切な世界でもある。魂界についてそのような考えを今は抱いている。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読みながら、実際に存在すると考えられている魂界、霊界について思い巡らし、認識を深めていきたい。
今回の読書は「三つの世界」―「二 魂の世界における死後の魂」(p121~135)です。
貴方にとって重要と思う個所はどこですかと問われたなら、全ての文章ですよと返答したでしょう。最初の一行から重要に思います。しかし、全てを引用するわけにはいきません。ですので、今回は、「死後の魂界」に関わる文章を見ていきたいと思います。
124~126ページ
「死後の魂の運命を知るには、その解消過程を考察しなければならない。魂は霊を物質の方に向わせる課題を背負っていた。この課題を果し終えた瞬間に、魂は霊の方向に向かう。
この課題との関係からいえば、体が魂から離れ、したがって魂がもはや結合部分の役割を果たす必要がなくなるとき、魂は本来なら、ただちにもっぱら霊的に活動できる筈である。
体におけるいとなみを通して体の影響をうけ、体に惹きつけられることさえなければ、魂 はもっぱらそのように活動することができた筈である。体に宿ることで、その影響に染ま ることがなかったなら、体を脱したあと、ただちに霊的、魂的な世界の法則だけに従い、感覚体験を今までのように求めたりはしなかったであろう。もし人間が死に際して、完全 に地上世界への関心がなくなる程にまで、地上存在と結びついた欲望、願望等のすべてを 満足させていたなら、そうできたかも知れない。しかし現実にそうできない場合には、こ の方向でまだ充たされていないものが、魂に付着している。
混乱を避けるために、ふたたび生れ変ってきたときに償いをつけることができるようなこの世の因縁と、死後の魂を生前の特定の生活に執着させるようなこの世の因縁とを注意深く区別しておかなければならない。前の場合は、運命の法則、カルマを通して解決されるが、後の場合は、死後の魂が自分でその因縁を取り除くことしかできない。
死後の魂は、もっぱら自分が霊的、魂的な世界の法則に従うことで、霊を自由に活動させるために、物質存在への執着を一切絶つのに必要な一時期をもつ。魂が物質的なものに拘束されていればいるほど、もちろんこの期間は延長される。物質生活への依存度の少なかった人の場合は、期間が短く、物質生活への関心が強く、死後もなお多くの欲望、願望等が魂の中に残っている人の場合は、長く続く。」
127~128ページ
「死後、魂の世界に入った魂は、この世界の諸法則の下に生きる。その諸法則が魂に働きかける。物質的なものを志向する魂の傾向が、どのような仕方で消滅するに至るかは、この働きかけにかかっている。この働きかけは、魂が入っていった領域の素材と力の種類によって異なってくる。とはいえ、種類の如何にかかわらず、この働きかけによって純化し、浄化する感化力が、魂に影響を及ぼす。そしてすべての反感作用が魂の中で、次第に共感の力によって克服され、共感そのものも、最高の頂点にまでもたらされる。最高度の共感とは、魂が魂界全体に融合し、魂界とひとつになることをいう。そのとき、魂の利己的傾向は、完全に消える。魂は、もはや物質的、感覚的な存在に関心をもとうとはしなくなる。このようにして、霊が魂を通して解放される。
このようにして魂は、完全なる共感の領域で、魂界全体とひとつになるまで、上述した魂界の諸領域を通過しながら、浄化を続ける。もしも霊が、魂の解脱の最後の瞬間まで、この魂そのものと結びついていたとすれば、それは霊が、地上生活を送る間に、魂と完全に同化してしまったからに他ならない。この同化は、体との同化よりもずっと徹底してい る。なぜなら、霊は、体とは魂を通して間接的に結びついていたのだが、魂との結びつきは直接的なのだから。魂は、霊の個人生活としていとなまれている。だから霊は、腐敗する肉体にではなく、次第に解脱を遂げつつある魂と結びついている
霊は魂と直接結びついているから、魂が魂界全体とひとつになったときはじめて、霊は魂から自由になった自分を感じることができる。」
128~135ページ
「死後の人間の最初の滞在の地である魂の世界は、「欲望の場所」と呼ばれるが、魂のこの状況を知り、それを教義に取りいれているさまざまな宗教体系は、この「欲望の場所」を「煉獄」、「浄火」等と名づけている。
魂界のもっとも低い領域は、燃える欲望の領域である。死後、この領域を通過する間に、物質生活にかかわる粗野で利己的な欲望が消滅させられる。なぜなら、この欲望をまだ捨てることができずにいる魂は、まさにこの欲望を通して、この領域の力の或る作用をまともに受けざるをえないからである。この作用の起点となるものは、物質生活への、まだ充 たされぬままに残っている欲望である。この魂の共感は、自分の利己的欲求を充たしてくれるものにしか及ぼうとはしない。その他のいたるところには、反感が働いており、その反感が魂を圧倒している。ところがこの場合、欲望は魂界の中では充足させられない物質的享受を求めている。… 」
「共感と反感が均衡を保っているのが、魂界の第二領域の状態である。死後、これと同じ状態にある人間の魂は、この第二領域の作用を受ける。人生の外的事情に心を奪われたり、感覚の一時的な印象に喜びを求めたりすることが、この状態を作り出す。このような状態にある魂の要求から自由になれない人は、この領域の中に留まり続ける。このような人は、日常の瑣事にいちいちこだわる。しかしその際、共感が特にひとつの事物に向けられることがないから、どんな印象も、特別の影響を与えることなく、急速に通り過ぎる。しかもこの些細な、無価値なもの以外はすべて、このような人の反感を呼び起こす。…」
「第三に、魂界の中には、共感と願望の支配する状況が観察される。魂は死後、願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、この第三の領域の作用を受ける。この願望もまた、成就させることが不可能なので、次第に消滅する。」
「魂界の第四領域である快と不快の領域は、魂に特別の試練を課す。肉体に宿っているとき、魂は体に関するすべての事柄に関与する。快と不快の働きは、体と結びついている。体が快感と満足感、不快感と不満足感を惹き起す。だから人間は、地上生活において、自分の身体を自分の自我と感じるのである。自己感情と呼ばれるものは、この事実に基づいている。そして人間が感覚的傾向を強くもっていればいる程、その自己感情は、このような特徴をもっている。
…
この第四領域の作用は、したがって、肉体即自我の幻想を打破することにある。魂は体 的本性を、もはや本質的なものとは感じなくなる。魂は、体的本性への執着から解放され、純化される。これまで魂を物質界に強く拘束してきたものが、このようにして克服されたので、今や魂は、外へ拡がる共感の諸力を存分に発揮することができるようになる。魂は、いわば自己を脱却して、魂界全体の中へ自分を進んで注ぎ込むようになる。
以上との関連で、是非述べておかなければならないのは、自殺者の問題である。自殺者は、特別な仕方で、この領域の諸体験に耐えていかなければならない。彼は不自然な手段を用いて肉体を棄てたが、肉体に係わるすべての感情は、そのまま彼の魂の中に残されている。自然死の場合は、肉体の衰弱とともに、肉体に結びついた諸感情も、部分的に消滅していく。自殺者の場合は、突然穴が空けられてしまったという感情が生み出す苦悩の他に、自殺の原因となった充たされぬ欲望と願望とが、苦悩を生み出す。」
「魂界の第五段階は、魂の光の段階である。この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で、低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して、喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。
たとえば自然に没入しようとする態度も、もしそれが感覚的性質のものであったら、たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。それは自然の事物やそのいとなみの中に顕現する霊を体験しようとする場合である。このような自然感情は、その人の霊性を開発し、魂の中に永続的部分を築き上げる。しかし感覚的享受を動機にもつ自然体験は、この自然感情とは異なる。魂は、物質的なものだけに向けられた欲求と同じように、このような自然体験をも、浄化しなければならない。また多くの人びとは、物質的な福祉をもたらす諸制度、たとえば快適な生活を築 くための教育制度の中に、一種の理想を見出している。この人びとが利己的衝動だけに従っているとは、もちろんいえない。しかしその人びとの魂は、感覚世界を志向している限り、魂界の第五領域を支配している共感の力によって、浄化されなければならない。この共感の力には、そのような外的充足手段が欠けているから、魂は別の手段でこの共感を充足させなければならない。そしてそのような手段とは、魂が魂界の環境に共感することによって実現されるところの、魂の空間の中への自己流出以外にはないのである。
宗教活動を通して物質生活の向上を期待していた人びとの魂も、この領域で浄化を受ける。その人びとの憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。いずれの場合も、このような人びとの魂は、「魂の国」の中で、この楽園に出会うであろうが、それは結局、このような楽園の空しさを悟るためなのだからである。以上は、この第五領域で生じる浄化についての個々の例に過ぎない。例はいくらでも増やすことができる。」
「第六の領域は、魂の活動力の領域である。利己的な性格をもたなくても、行為の動機が 感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。活動意欲に燃えている人は、一見まったくの理想主義者であるような印象を与える。犠牲的精神に富んだ人物であるようにも見える。しかし深い意味において、そのような場合の動機となっているのは、感覚的な快感の高まりなのである。芸術的な人や面白いというだけの理由で学問研究に没頭している人の多くも、この部類に属する。芸術や学問の存在理由がそのような面白さにあると信じることが、その人たちを物質界につなぎとめている。」
「本来の魂の生命の領域である第七領域は、感覚的、物質的な世界への執着から最終的に人間を解放する。これまでのどの領域も、魂の中にあるその領域と同質の部分を、魂から取り上げてきた。最後に残された魂の部分は、感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然として覆い包んでいるのである。
非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外のことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。この信念は、打破されねばならない。そしてそれはこの第七領域において為される。この領域での魂は、真の現実 の中には唯物論信仰の対象となるようなものは何も存在しない、ということを悟る。氷が日に当たって溶けるように、魂のこの信念もこの領域で消えていく。魂は今や、魂界に残りなく吸収し尽され、霊はあらゆる束縛から自由になる。霊は今、本来の諸領域へ向かって飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は、自己本来の環境の中にいる、ということができる。
「魂は生前、この世の課題に応えてきた。そして死後、この課題のうち、霊にとっての束縛であったものが解消された。魂は、地上生活のこの残滓を、残りなく捨て去ることにより、魂自身、その本来の領域の中に戻っていく。
以上に述べたことから分かるように、魂界における諸体験と、それを体験する死後の魂の状態とは、肉体に宿っていた魂の中の、肉体と同質化してしまった部分がますます拭い去られるに応じて、魂にとっても好ましい様相を示すようになる。
魂は、この世の生活の中であらかじめ作られてきた条件次第で、以上の諸領域のどれかに長く留まったり、短く留まったりする。魂は、同質の領域に、この同質性がすっかり消滅するまで留まり続ける。同質の部分が全然存在しないところでは、何も感知することなく、魂はその影響圏を通過する。この章では、魂界の基本性質と魂界における魂のいとな みの一般的特徴だけを扱ったが、この点は霊界についての以下の記述でも同じである。魂 界と霊界の特質を、もっと詳細に論じようとするなら、とても一冊の本には収めきれないものになってしまうであろう。物質界における空間の関係や時間の進行に比較されるようなものについてだけでも、それが物質界とはまったく異なるものなので、理解を容易にしようと思えば、非常に詳細にわたって述べる必要があるからである。この点に関する若干の重要な内容は、私の『神秘学概論』の中に見出せる。」
R・シュタイナ-は現世の現象世界の他に魂界と霊界が実際に存在すると言い切っている。人間は、肉体の死後、この物質世界から魂界に行き、この魂界で物質世界・現象世界に執着している人間の意識の浄化を経て、霊界に向かうという考えをシュタイナーは示している。このことをシュタイナーは事実であると言っている。
今回の読書である「魂の世界における死後の魂」(p121~135)を読み、肉体の死後、人間がたどる魂界での七つの領域について、シュタイナーのこの『神智学』から知ることができた。肉体の死後、魂界を巡る意識=霊魂は現象世界で体験した物事を人間は魂界まで持ち込んでしまう。魂界においては、その現象世界で体験した物事に執着している意識の断片は問われていく。現象世界の物事に執着した意識の衣は、拭い去り、捨て去り、廃棄し、物事への意識から無に帰することが必要になる。意識は空無になること。クリーンな意識の状況が魂界では必須のようである。
「魂の世界における死後の魂」(p121~135)を読みながら、あらためて魂界とは何かと問う。そしてあらためて思う。現象世界を生きた結果を問い直すことが、魂界の役割の一つではないのか。現象世界の人間一人ひとりの生き方、夫々の人生の交流、その現象世界での生存の仕方は魂界で問われる。それは魂界の役割である。あらためて述べることであるが、魂界とは現象世界の一人ひとりの生き方を問い、現象世界に執着した意識を無に帰する役割がある。魂界で意識を無にすることにより、次の世界、霊界に進むことが出来る。そのため魂界とは、地獄でもあり、天国でもある世界を体験できる場でもある。魂界とは、成長を続ける自己意識には、大切な世界でもある。魂界についてそのような考えを今は抱いている。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読みながら、実際に存在すると考えられている魂界、霊界について思い巡らし、認識を深めていきたい。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年12月1日(金)88回 ― 2023年12月01日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の9回目の読書です。
今回の読書は「三つの世界」―「一 魂の世界」(p101~120)です。
「 魂の世界」については、心の深層部分としても考えています。けれども、「魂」と「霊」との関係、「魂」と身体の「脳」との関係については、今まで深く考えていませんでした。『神智学』において、身体・魂・霊の関係について考えるチャンスをいただきました。
前章の「霊の再生と運命」で取り上げたp100~101ページの文章があります。今回再度下記に取り上げさせていただきます。この文章を念頭に置きながら、今回の「一 魂の世界」の章を読み、思考を深めていきたいと思います。
「三つのことが、誕生から死に至る人間の一生を規定している。そしてこのことを通して、人間は、誕生と死を超越している要因に、三重の仕方で依存している。すなわち肉体は、遺伝の法則に従っている。魂は、みずから作り出した運命に従っている。人は人間の魂に よって作り出されたこの運命を、古い表現を用いて、カルマと呼ぶ。そして霊は、転生の、生れ変りの法則に従っている。」
一人ひとりの人間が関わっている物質界・魂界・霊界の三つの世界の存在とその関係について、私自身が理解を深めていくことが先ず問われています。今回の読書「三つの世界」―「一 魂の世界」(p101~120)を通して、私の理解力、認識し易い範囲を下記に取り上げさせていただきました。
P110~111
「われわれの胃、心臓、肺、脳を構成し、支配している素材と力が、物質界のものであるように、われわれの衝動、欲望、感情、情熱、願望、感覚といった魂の特性は、魂的世界のものである。人間の魂は、肉体が物質界の一部分であるように、魂的世界の一部分なのである。物質界と魂の世界との第一の相違は、後者の世界のすべての事物や本性が、前者の世界の場合よりも、はるかに精妙で、動的で、自由に形態を変えうる、ということであろう。…」
P111
「物質界の構成体が、空間上の拡がりと空間上の運動とを固有のものとしてもっているように、魂界の存在者や構成体は、敏感な反応と衝動的欲望とを固有のものとしてもっている。それ故、魂の世界は欲望=願望の世界、もしくは「要求」の世界と呼ぶことができる。」
「…衝動、願望、要求は、魂の世界の素材に対する名称である。この素材部分は、「アストラル的」と呼ばれる。…」
P112
「魂の世界には、物質界とまったく異なる法則が支配している。ところが魂の構成体の多くは、当然他の世界の構成体と結合している。たとえば人間の魂は肉体と結合しており、人間の霊とも結合している。それ故、人間の魂の中のいとなみは、同時に体や霊の世界の影響をうけている。魂の世界を観察するときには、このことが顧慮されなければならない。そして他の世界の働きによるものを、魂の法則であると思ってはならない。」
P113
「魂的事象と物質的事象のひとつの重要な相違は、前者における相互作用が本質的に内的であるというところにある。」
「…だから魂の空間に歩み入る人が、物質界から持ち込んだ規則をそこに当てはめようとすると、ありとあらゆる誤謬が生じることになる。」
P113~114
「魂の世界の事情に通じるための第一の仕事は、物質界で個体、液体、気体の区別を立て るのと似た仕方で、その構成体を分類することであろう。そのためには、もっとも重要な、二つの根本的な魂の力を知らねばならない。すなわち共感と反感とである。魂的構成体の中で、この二つがどのように作用し合っているかが、その構成体の種類を決定する。共感とは魂的構成体が他のものを惹きつけ、他のものと融合しようとし、そして他のものとの親和関係を生じさせる力である。反感とはこれに反して、他のものに反発し、他のものを排除し、自分の特性を主張しようとする力である。」
「三つの種類の魂的構成体が、このような共感、反感の作用に従って、まず区別されねば ならない。そしてこれらの種類の相違は、共感と反感との相互関係如何によっている。この二つの基本力は、そのいずれの場合にも、存在している。」
P114~115
「まず第一の種類の構成体を取り上げよう。それは、周囲にいる他の構成体を共感の作用によって惹きつけようとする。しかし同時に、自己の中に働いている反感の力が、周囲にいるものを押しのける。その結果、外に向かっては、もっぱら反感の力だけしかもっていないように現れるが、そうではなく、共感と反感がともにそこには存在しており、ただ後者が優勢であるに過ぎない。反感が共感にまさっているのである。
この構成体は、魂の空間の中で、自己中心的な役割を演じている。自分の周りにいる多くのものを押しのけ、わずかなものだけを好ましいものとして自分の方へ引き寄せる。それ故、この構成体は、変化し難い形態を保って、魂の空間を移動している。それらの共感の力は、貪欲な姿を示している。しかもこの貪欲は、満足することを知らぬかのようであ る。というのは、支配的な反感が、近寄ってくる多くのものを押しのけてしまい、魂は充たされようがないからである。この種類の魂的構成体を、物質界の何かと比較しようとするなら、固体がこれに対応しているといえるだろう。魂的素材性のこの領域を燃える欲望と呼ぶ。
動物や人間の魂に混入しているこの欲望の熱こそ、低い感覚的衝動という、彼らの支配 的な自己中心本能を決定しているものなのである。」
P115~116
「魂的構成体の第二の種類は、この両基本力が均衡を保ち、したがって共感と反感が同じ強さで作用している場合である。この構成体は、周囲のものに一種の中立性をもって相対している。それは特に惹きつけたり、押しのけたりすることなく、他と類似したものとして、他に働きかけている。それは自分と周囲との間にいわばはっきりした境界を引こうと しないで、周囲にいる他のものたちを絶えず自分に作用させているから、物質界の液体に比することができるだろう。
…それは第一のもののように自分本位に魂の空間を移動することなく、いたるところで他からの印象を受け容れ、出会うものの多くと親和している。このような魂の素材を、流動的感応性と表現することができるであろう。」
P116
「魂的構成体の第三段階は、共感が反感を支配している段階である。反感は、自己中心的に自分を主張するが、今や周囲への事物の傾倒がこれにとって代る。このような構成体が 魂的空間の中にいる場合を考えてみよう。それは周囲の諸対象に及ぼす引力圏の中心となっている。このような構成体を、特に願望素材性と呼ぶ必要がある。なぜなら、反感が存在するにしても、その働きが共感より弱いので、共感力が、その引力を及ぼすすべての対 象を、この魂的構成体自身の領域内へ引き入れようとしているからである。だからその限 りにおいて、その共感はまだ自己中心的な基調をもっている。願望素材性は、物質界の気 体と比較されうる。気体があらゆる側面に膨張しようとするように、願望素材性もあらゆる方向に拡がるのである。」
P116~117
「魂の素材のより高次の諸段階は、反感が完全に退き、共感だけが本来の作用者として現 れることによって特徴づけられる。その場合、この共感の働きは、最初は魂的構成体そのものの諸部分の内に現れる。この諸部分は、相互に惹きつけ合う。或る魂的構成体内部の共感の力は快と呼ばれるものの中に現れる。そしてこの共感の、どのような減少も、不快なのである。寒さが減少した熱さに過ぎぬように、不快はただ減少した快に過ぎない。快と不快とは、人間の感情の世界(狭義での)の中で働く共感と反感なのである。この意味で感じるということは、魂が自分自身の内部で活動するということである。快・不快の感 情の在り方次第で、魂の気分がきまってくる。」
P117~118
「共感を自分自身の内部での活動に留めない魂的構成体は、もう一段高次の段階にいる。この段階は、すでに第四段階がそうであったように、共感の力が対抗する反感によって妨げられぬ点で、低次の三段階と区別される。これら高次の種類の魂の素材によってはじめ て、多様な魂的構成体がひとつの共同の魂的世界としてまとまるのである。
反感が問題になる間は、まだその魂的構成体は自分だけのために、他のものによって自分を強め豊かにすることのためにのみ、他のものと係わろうとしている。反感が沈黙するとき、伝達し、啓示してくれる存在としての他のものを迎え入れる。物質空間における光に似た役割を、この高次の形式の魂の素材は魂的空間の中で演じる。この魂の素材は、或 る魂的構成体をして、他の存在、他の本質を、これらの存在、本質そのもののために、いわば吸収するようにさせる。別のいい方をすれば、他の存在の光で自分を照らすようにさ せる。
魂は、これら高次の諸領域を知ることによって、はじめて真の魂の在り方に目覚める。魂は、暗闇での重苦しいいとなみから解放され、外に向って開かれ、輝き、みずから魂的空間の中へ光を投げかける。…」
P118~120
「地下室に置かれると、植物の生長がとまるように、活動をうながす高次領域の素材がなければ、魂的構成体も成長することができない。このような高次領域の素材は、魂の光、魂の活動力、そして狭義での魂本来の生命である。これらは高次領域から出て個々の魂に付与される。
それ故、魂の世界は、三つの低次領域と三つの高次領域とに区別される。そしてこの二つは第四のものによって仲介されているから、魂の世界は以下のように区分できる。
一 燃える欲望の領域
二 流動的感応性の領域
三 願望の領域
四 快と不快の領域
五 魂の光の領域
六 魂の活動力の領域
七 魂の生命の領域
はじめの三領域における魂的構成体の特質は、共感と反感との関係から得られている。第四領域では、共感が魂的構成体自身の中だけに働いている。高次の三領域を通して、共 感の力はますます自由になる。輝き、活気づけながら、この領域の魂的素材は、魂の空間に吹き渡り、自分だけでは自己存在の中に埋没しかねない魂的構成体を覚醒させるのである。
蛇足ながら、疑問を残さぬように、ここで強調しておくなら、魂の世界のこの七区分は、決して互に切り離された領域を示しているのではない。個体、液体、気体が物質界で互に 浸透し合っているように、魂の世界における燃える欲望、流動的感応性、そして願望の領域の力は、互に浸透し合っている。そして、物質界で熱が物体を貫き通り、光がそれを照らし出すように、魂的世界での快、不快や魂の光にも同様のことが生じる。さらに同じことが魂の活動力と本来の魂の生命にも生じている。」
当書籍、R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読書することにより、人間の心領域の魂の世界について、その一部を知ることができました。魂という言葉を聞いたり、見たりしてきましたが、魂とは何か、その深くを考えてきませんでした。
共感、反感、快、不快、魂の世界の七区分等々について、この『神智学』で知ることができました。今後、さらに詳しく知り、思考していきたい思います。
今回の読書は「三つの世界」―「一 魂の世界」(p101~120)です。
「 魂の世界」については、心の深層部分としても考えています。けれども、「魂」と「霊」との関係、「魂」と身体の「脳」との関係については、今まで深く考えていませんでした。『神智学』において、身体・魂・霊の関係について考えるチャンスをいただきました。
前章の「霊の再生と運命」で取り上げたp100~101ページの文章があります。今回再度下記に取り上げさせていただきます。この文章を念頭に置きながら、今回の「一 魂の世界」の章を読み、思考を深めていきたいと思います。
「三つのことが、誕生から死に至る人間の一生を規定している。そしてこのことを通して、人間は、誕生と死を超越している要因に、三重の仕方で依存している。すなわち肉体は、遺伝の法則に従っている。魂は、みずから作り出した運命に従っている。人は人間の魂に よって作り出されたこの運命を、古い表現を用いて、カルマと呼ぶ。そして霊は、転生の、生れ変りの法則に従っている。」
一人ひとりの人間が関わっている物質界・魂界・霊界の三つの世界の存在とその関係について、私自身が理解を深めていくことが先ず問われています。今回の読書「三つの世界」―「一 魂の世界」(p101~120)を通して、私の理解力、認識し易い範囲を下記に取り上げさせていただきました。
P110~111
「われわれの胃、心臓、肺、脳を構成し、支配している素材と力が、物質界のものであるように、われわれの衝動、欲望、感情、情熱、願望、感覚といった魂の特性は、魂的世界のものである。人間の魂は、肉体が物質界の一部分であるように、魂的世界の一部分なのである。物質界と魂の世界との第一の相違は、後者の世界のすべての事物や本性が、前者の世界の場合よりも、はるかに精妙で、動的で、自由に形態を変えうる、ということであろう。…」
P111
「物質界の構成体が、空間上の拡がりと空間上の運動とを固有のものとしてもっているように、魂界の存在者や構成体は、敏感な反応と衝動的欲望とを固有のものとしてもっている。それ故、魂の世界は欲望=願望の世界、もしくは「要求」の世界と呼ぶことができる。」
「…衝動、願望、要求は、魂の世界の素材に対する名称である。この素材部分は、「アストラル的」と呼ばれる。…」
P112
「魂の世界には、物質界とまったく異なる法則が支配している。ところが魂の構成体の多くは、当然他の世界の構成体と結合している。たとえば人間の魂は肉体と結合しており、人間の霊とも結合している。それ故、人間の魂の中のいとなみは、同時に体や霊の世界の影響をうけている。魂の世界を観察するときには、このことが顧慮されなければならない。そして他の世界の働きによるものを、魂の法則であると思ってはならない。」
P113
「魂的事象と物質的事象のひとつの重要な相違は、前者における相互作用が本質的に内的であるというところにある。」
「…だから魂の空間に歩み入る人が、物質界から持ち込んだ規則をそこに当てはめようとすると、ありとあらゆる誤謬が生じることになる。」
P113~114
「魂の世界の事情に通じるための第一の仕事は、物質界で個体、液体、気体の区別を立て るのと似た仕方で、その構成体を分類することであろう。そのためには、もっとも重要な、二つの根本的な魂の力を知らねばならない。すなわち共感と反感とである。魂的構成体の中で、この二つがどのように作用し合っているかが、その構成体の種類を決定する。共感とは魂的構成体が他のものを惹きつけ、他のものと融合しようとし、そして他のものとの親和関係を生じさせる力である。反感とはこれに反して、他のものに反発し、他のものを排除し、自分の特性を主張しようとする力である。」
「三つの種類の魂的構成体が、このような共感、反感の作用に従って、まず区別されねば ならない。そしてこれらの種類の相違は、共感と反感との相互関係如何によっている。この二つの基本力は、そのいずれの場合にも、存在している。」
P114~115
「まず第一の種類の構成体を取り上げよう。それは、周囲にいる他の構成体を共感の作用によって惹きつけようとする。しかし同時に、自己の中に働いている反感の力が、周囲にいるものを押しのける。その結果、外に向かっては、もっぱら反感の力だけしかもっていないように現れるが、そうではなく、共感と反感がともにそこには存在しており、ただ後者が優勢であるに過ぎない。反感が共感にまさっているのである。
この構成体は、魂の空間の中で、自己中心的な役割を演じている。自分の周りにいる多くのものを押しのけ、わずかなものだけを好ましいものとして自分の方へ引き寄せる。それ故、この構成体は、変化し難い形態を保って、魂の空間を移動している。それらの共感の力は、貪欲な姿を示している。しかもこの貪欲は、満足することを知らぬかのようであ る。というのは、支配的な反感が、近寄ってくる多くのものを押しのけてしまい、魂は充たされようがないからである。この種類の魂的構成体を、物質界の何かと比較しようとするなら、固体がこれに対応しているといえるだろう。魂的素材性のこの領域を燃える欲望と呼ぶ。
動物や人間の魂に混入しているこの欲望の熱こそ、低い感覚的衝動という、彼らの支配 的な自己中心本能を決定しているものなのである。」
P115~116
「魂的構成体の第二の種類は、この両基本力が均衡を保ち、したがって共感と反感が同じ強さで作用している場合である。この構成体は、周囲のものに一種の中立性をもって相対している。それは特に惹きつけたり、押しのけたりすることなく、他と類似したものとして、他に働きかけている。それは自分と周囲との間にいわばはっきりした境界を引こうと しないで、周囲にいる他のものたちを絶えず自分に作用させているから、物質界の液体に比することができるだろう。
…それは第一のもののように自分本位に魂の空間を移動することなく、いたるところで他からの印象を受け容れ、出会うものの多くと親和している。このような魂の素材を、流動的感応性と表現することができるであろう。」
P116
「魂的構成体の第三段階は、共感が反感を支配している段階である。反感は、自己中心的に自分を主張するが、今や周囲への事物の傾倒がこれにとって代る。このような構成体が 魂的空間の中にいる場合を考えてみよう。それは周囲の諸対象に及ぼす引力圏の中心となっている。このような構成体を、特に願望素材性と呼ぶ必要がある。なぜなら、反感が存在するにしても、その働きが共感より弱いので、共感力が、その引力を及ぼすすべての対 象を、この魂的構成体自身の領域内へ引き入れようとしているからである。だからその限 りにおいて、その共感はまだ自己中心的な基調をもっている。願望素材性は、物質界の気 体と比較されうる。気体があらゆる側面に膨張しようとするように、願望素材性もあらゆる方向に拡がるのである。」
P116~117
「魂の素材のより高次の諸段階は、反感が完全に退き、共感だけが本来の作用者として現 れることによって特徴づけられる。その場合、この共感の働きは、最初は魂的構成体そのものの諸部分の内に現れる。この諸部分は、相互に惹きつけ合う。或る魂的構成体内部の共感の力は快と呼ばれるものの中に現れる。そしてこの共感の、どのような減少も、不快なのである。寒さが減少した熱さに過ぎぬように、不快はただ減少した快に過ぎない。快と不快とは、人間の感情の世界(狭義での)の中で働く共感と反感なのである。この意味で感じるということは、魂が自分自身の内部で活動するということである。快・不快の感 情の在り方次第で、魂の気分がきまってくる。」
P117~118
「共感を自分自身の内部での活動に留めない魂的構成体は、もう一段高次の段階にいる。この段階は、すでに第四段階がそうであったように、共感の力が対抗する反感によって妨げられぬ点で、低次の三段階と区別される。これら高次の種類の魂の素材によってはじめ て、多様な魂的構成体がひとつの共同の魂的世界としてまとまるのである。
反感が問題になる間は、まだその魂的構成体は自分だけのために、他のものによって自分を強め豊かにすることのためにのみ、他のものと係わろうとしている。反感が沈黙するとき、伝達し、啓示してくれる存在としての他のものを迎え入れる。物質空間における光に似た役割を、この高次の形式の魂の素材は魂的空間の中で演じる。この魂の素材は、或 る魂的構成体をして、他の存在、他の本質を、これらの存在、本質そのもののために、いわば吸収するようにさせる。別のいい方をすれば、他の存在の光で自分を照らすようにさ せる。
魂は、これら高次の諸領域を知ることによって、はじめて真の魂の在り方に目覚める。魂は、暗闇での重苦しいいとなみから解放され、外に向って開かれ、輝き、みずから魂的空間の中へ光を投げかける。…」
P118~120
「地下室に置かれると、植物の生長がとまるように、活動をうながす高次領域の素材がなければ、魂的構成体も成長することができない。このような高次領域の素材は、魂の光、魂の活動力、そして狭義での魂本来の生命である。これらは高次領域から出て個々の魂に付与される。
それ故、魂の世界は、三つの低次領域と三つの高次領域とに区別される。そしてこの二つは第四のものによって仲介されているから、魂の世界は以下のように区分できる。
一 燃える欲望の領域
二 流動的感応性の領域
三 願望の領域
四 快と不快の領域
五 魂の光の領域
六 魂の活動力の領域
七 魂の生命の領域
はじめの三領域における魂的構成体の特質は、共感と反感との関係から得られている。第四領域では、共感が魂的構成体自身の中だけに働いている。高次の三領域を通して、共 感の力はますます自由になる。輝き、活気づけながら、この領域の魂的素材は、魂の空間に吹き渡り、自分だけでは自己存在の中に埋没しかねない魂的構成体を覚醒させるのである。
蛇足ながら、疑問を残さぬように、ここで強調しておくなら、魂の世界のこの七区分は、決して互に切り離された領域を示しているのではない。個体、液体、気体が物質界で互に 浸透し合っているように、魂の世界における燃える欲望、流動的感応性、そして願望の領域の力は、互に浸透し合っている。そして、物質界で熱が物体を貫き通り、光がそれを照らし出すように、魂的世界での快、不快や魂の光にも同様のことが生じる。さらに同じことが魂の活動力と本来の魂の生命にも生じている。」
当書籍、R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読書することにより、人間の心領域の魂の世界について、その一部を知ることができました。魂という言葉を聞いたり、見たりしてきましたが、魂とは何か、その深くを考えてきませんでした。
共感、反感、快、不快、魂の世界の七区分等々について、この『神智学』で知ることができました。今後、さらに詳しく知り、思考していきたい思います。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年9月9日(土)87回 ― 2023年09月09日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の8回目の読書です。
今回の読書は「霊の再生と運命」(p71~101)で、30ページにおよぶ文章です。
この「霊の再生と運命」の章においては、99ページのやや後半から101ページの文章に、特に、注目したいと考えました。下記にこの文章を抜粋させていただきます。
是非皆さま、『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手元に置き、併せてお読み下さい。
「…肉体は、遺伝の法則に従っている。一方、人間の霊は、繰り返して生れ変らねばならない。転生の法則は、人間の霊が前世の成果を次の生の中に持ち込むということの中にある。魂は現世の中に生きている。しかし現世の中に生きているということは、前世の生活から独立しているということではない。生まれ変わった霊が、前世から自分の運命をもってくるのだから。
そしてこの運命は、人生を規定している。魂がどんな印象をもつことができ、どんな顔 望を充足させることができ、どんな喜びや苦しみをもち、どんな人間たちと出合うことに なるか、これらすべては、これまでの霊の転生の中で、どのような行為が為されてきたか にかかっている。魂は、ひとつの人生の中で結びついていた人たちに、次の人生の中でも めぐり合わずにはいないであろう。なぜなら、この人たちとの間で為された行為は、その 結果をもたざるをえないからである。
ひとりの人の魂だけでなく、この魂と結びついていた他の魂たちも、同じ時代に生れ変 ろうと努めるだろう。魂のいとなみは、このように、人間の霊がみずから作り出した運命 のひとつの結果なのである。
三つのことが、誕生から死に至る人間の一生を規定している。そしてこのことを通して、人間は、誕生と死を超越している要因に、三重の仕方で依存している。すなわち肉体は、遺伝の法則に従っている。魂は、みずから作り出した運命に従っている。人は人間の魂によって作り出されたこの運命を、古い表現を用いて、カルマと呼ぶ。そして霊は、転生の、生れ変りの法則に従っている。
だから、霊、魂、身体の関係を、次のように言い表すこともできる。霊は不滅である。誕生と死は、物質界の法則に従って、身体を支配している。運命に従う魂のいとなみは、この世に生きる限りは、この両者に関連を与えている。人間の本質について、これ以上さ らに認識をもとうとするなら、人間が属している「三つの世界」そのものを知ることが前 提となる。次の章では、この三つの世界を扱うことになる。
人生の諸現象に向き合い、人生の真実に応じた考察から得た思想を、最後まで推し進め ていくことを怖れないなら、思考の論理だけを通してでも、われわれは輪廻転生や運命法 則の観念に行きつくことができる。「霊眼」を開いた見者にとって、過去の諸人生が、開かれた巻物のように、体験として現存するということが真実であるように、この真理が思索する理性の中で輝くことができるのも真実なのである。」
シュタイナーが述べている霊、魂、身体の「三つの世界」は、事実であり、真実であること。そのように私の心は感じています。そして、その証明が今後の課題であること。
そのように私は思っています。
今回の読書は「霊の再生と運命」(p71~101)で、30ページにおよぶ文章です。
この「霊の再生と運命」の章においては、99ページのやや後半から101ページの文章に、特に、注目したいと考えました。下記にこの文章を抜粋させていただきます。
是非皆さま、『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手元に置き、併せてお読み下さい。
「…肉体は、遺伝の法則に従っている。一方、人間の霊は、繰り返して生れ変らねばならない。転生の法則は、人間の霊が前世の成果を次の生の中に持ち込むということの中にある。魂は現世の中に生きている。しかし現世の中に生きているということは、前世の生活から独立しているということではない。生まれ変わった霊が、前世から自分の運命をもってくるのだから。
そしてこの運命は、人生を規定している。魂がどんな印象をもつことができ、どんな顔 望を充足させることができ、どんな喜びや苦しみをもち、どんな人間たちと出合うことに なるか、これらすべては、これまでの霊の転生の中で、どのような行為が為されてきたか にかかっている。魂は、ひとつの人生の中で結びついていた人たちに、次の人生の中でも めぐり合わずにはいないであろう。なぜなら、この人たちとの間で為された行為は、その 結果をもたざるをえないからである。
ひとりの人の魂だけでなく、この魂と結びついていた他の魂たちも、同じ時代に生れ変 ろうと努めるだろう。魂のいとなみは、このように、人間の霊がみずから作り出した運命 のひとつの結果なのである。
三つのことが、誕生から死に至る人間の一生を規定している。そしてこのことを通して、人間は、誕生と死を超越している要因に、三重の仕方で依存している。すなわち肉体は、遺伝の法則に従っている。魂は、みずから作り出した運命に従っている。人は人間の魂によって作り出されたこの運命を、古い表現を用いて、カルマと呼ぶ。そして霊は、転生の、生れ変りの法則に従っている。
だから、霊、魂、身体の関係を、次のように言い表すこともできる。霊は不滅である。誕生と死は、物質界の法則に従って、身体を支配している。運命に従う魂のいとなみは、この世に生きる限りは、この両者に関連を与えている。人間の本質について、これ以上さ らに認識をもとうとするなら、人間が属している「三つの世界」そのものを知ることが前 提となる。次の章では、この三つの世界を扱うことになる。
人生の諸現象に向き合い、人生の真実に応じた考察から得た思想を、最後まで推し進め ていくことを怖れないなら、思考の論理だけを通してでも、われわれは輪廻転生や運命法 則の観念に行きつくことができる。「霊眼」を開いた見者にとって、過去の諸人生が、開かれた巻物のように、体験として現存するということが真実であるように、この真理が思索する理性の中で輝くことができるのも真実なのである。」
シュタイナーが述べている霊、魂、身体の「三つの世界」は、事実であり、真実であること。そのように私の心は感じています。そして、その証明が今後の課題であること。
そのように私は思っています。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年7月3日(月)86回 ― 2023年07月03日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の7回目の読書です。
今回は「四 体・魂・霊」(p42~70)を読みます。28ページに及ぶ長い文章となります。
遅読の私には時間がかかりました。どのページも重要に思えました。
そのような中で今回の読書は68~70ページを引用させていただきます。
「魂の中で「私」は輝き、霊からの介入を受け、それによって霊人の担い手となる。人間はこうして「三つの世界」(物質界、魂界、霊界)に関与する。人間は肉体、エーテル体、魂体を通して、物質界に根を下ろし、霊我、生命霊、霊人を通して、霊界で花を開く。しかし一方に根を下ろし、他方で花を開くものの樹幹は魂そのものである。
人間のこの区分とまったく一致した、別のもっと単純化された区分も考えられる。人間の「私」は、意識魂において輝くにしても、その輝きは魂の存在全体を貫いている。魂の存在の諸部分は、体の部分のようには明確に区分されていない。それらは互に浸透し合っている。悟性魂と意識魂とを自我の二つの外皮として自我に組み入れ、自我そのものをそ の中核と見るなら、人間を肉体、生命体、アストラル体、自我に区分することができる。アストラル体とは、魂体と感覚魂とを一緒にした名称である。アストラル体という表現は、以前の文献の中にも出ているが、ここでは人間本性の中で、感覚的には知覚できないものに対して、自由に適用されている。感覚魂は、或る点では自我の力に充たされているにも かかわらず、魂体と密接な係わりをもっているので、この両者をひとつにして、アストラル体という単一の名称を与えたのである。また自我が自分を霊我で充たすとき、この霊我 は、魂の力で変化させられたアストラル体であるかのように現れる。アストラル体の中には、まず人間の衝動、欲望、情欲が感情内容として働いている。そこにはまた、感覚的知 覚も働いている。感覚的知覚は、外界から人間に与えられた部分としての魂体を通して生 じる。衝動、欲望、情欲等は、まだ霊我に従う態度をとっていない内部の力に貫かれた感 覚魂の中で生じる。「私」が自分を霊我で充たし、そして魂がアストラル体をこの霊我の力で充たすとき、衝動、欲望、情欲は、自我の霊から受けとったものによって、くまなく照らし出される。自我は、霊界へのこの関与の故に、衝動、欲望等の支配者となるが、この支配の度合に応じて、霊我がアストラル体の中に現れる。そしてアストラル体そのものは、このことを通して変化し、二つの部分からなる存在となる。つまり変化していない部分と、変化した部分とからなる存在となって現れる。だから人間の中に顕現する霊我は変化したアストラル体であるとも言える。自我の中に生命霊を受けとる人間にも、同様のことが生じる。その場合には生命体が変化する。生命体は生命霊によって浸透される。生命霊は生命体の変化の仕方の中に現れる。だから生命霊は変化した生命体だ、と言うことも できる。自我が自分の中に霊人を受けとるとき、それによって肉体を霊人で充たす強い力を獲得する。もちろんこのようにして変化した肉体部分は、肉眼で見ることができない。
霊人となった肉体部分は、まさに霊化されているのだから。感覚的知覚にとっては、感覚的存在だけがある。この感覚的存在が霊化した場合、それは霊的認識能力によって知覚されねばならない。霊的なものに浸透された肉体もまた、外的感覚が知覚するときには、感覚的存在としてしか現れない。
以上に述べたすべてのことから、次のように人間を区別することができる。
一 肉体
二 生命体
三 アストラル体
四 魂の核としての自我(私)
五 変化したアストラル体としての霊我
六 変化した生命体としての生命霊
七 変化した肉体としての霊人
シュタイナーが考える人間の七つの区別について、これから、実感し、立証していきたいと私は考える。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から上記引用させていただきました。ありがとうございます。
今回は「四 体・魂・霊」(p42~70)を読みます。28ページに及ぶ長い文章となります。
遅読の私には時間がかかりました。どのページも重要に思えました。
そのような中で今回の読書は68~70ページを引用させていただきます。
「魂の中で「私」は輝き、霊からの介入を受け、それによって霊人の担い手となる。人間はこうして「三つの世界」(物質界、魂界、霊界)に関与する。人間は肉体、エーテル体、魂体を通して、物質界に根を下ろし、霊我、生命霊、霊人を通して、霊界で花を開く。しかし一方に根を下ろし、他方で花を開くものの樹幹は魂そのものである。
人間のこの区分とまったく一致した、別のもっと単純化された区分も考えられる。人間の「私」は、意識魂において輝くにしても、その輝きは魂の存在全体を貫いている。魂の存在の諸部分は、体の部分のようには明確に区分されていない。それらは互に浸透し合っている。悟性魂と意識魂とを自我の二つの外皮として自我に組み入れ、自我そのものをそ の中核と見るなら、人間を肉体、生命体、アストラル体、自我に区分することができる。アストラル体とは、魂体と感覚魂とを一緒にした名称である。アストラル体という表現は、以前の文献の中にも出ているが、ここでは人間本性の中で、感覚的には知覚できないものに対して、自由に適用されている。感覚魂は、或る点では自我の力に充たされているにも かかわらず、魂体と密接な係わりをもっているので、この両者をひとつにして、アストラル体という単一の名称を与えたのである。また自我が自分を霊我で充たすとき、この霊我 は、魂の力で変化させられたアストラル体であるかのように現れる。アストラル体の中には、まず人間の衝動、欲望、情欲が感情内容として働いている。そこにはまた、感覚的知 覚も働いている。感覚的知覚は、外界から人間に与えられた部分としての魂体を通して生 じる。衝動、欲望、情欲等は、まだ霊我に従う態度をとっていない内部の力に貫かれた感 覚魂の中で生じる。「私」が自分を霊我で充たし、そして魂がアストラル体をこの霊我の力で充たすとき、衝動、欲望、情欲は、自我の霊から受けとったものによって、くまなく照らし出される。自我は、霊界へのこの関与の故に、衝動、欲望等の支配者となるが、この支配の度合に応じて、霊我がアストラル体の中に現れる。そしてアストラル体そのものは、このことを通して変化し、二つの部分からなる存在となる。つまり変化していない部分と、変化した部分とからなる存在となって現れる。だから人間の中に顕現する霊我は変化したアストラル体であるとも言える。自我の中に生命霊を受けとる人間にも、同様のことが生じる。その場合には生命体が変化する。生命体は生命霊によって浸透される。生命霊は生命体の変化の仕方の中に現れる。だから生命霊は変化した生命体だ、と言うことも できる。自我が自分の中に霊人を受けとるとき、それによって肉体を霊人で充たす強い力を獲得する。もちろんこのようにして変化した肉体部分は、肉眼で見ることができない。
霊人となった肉体部分は、まさに霊化されているのだから。感覚的知覚にとっては、感覚的存在だけがある。この感覚的存在が霊化した場合、それは霊的認識能力によって知覚されねばならない。霊的なものに浸透された肉体もまた、外的感覚が知覚するときには、感覚的存在としてしか現れない。
以上に述べたすべてのことから、次のように人間を区別することができる。
一 肉体
二 生命体
三 アストラル体
四 魂の核としての自我(私)
五 変化したアストラル体としての霊我
六 変化した生命体としての生命霊
七 変化した肉体としての霊人
シュタイナーが考える人間の七つの区別について、これから、実感し、立証していきたいと私は考える。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から上記引用させていただきました。ありがとうございます。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月22日(水)85回 ― 2023年02月22日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の6回目の読書です。
今回は「三 人間の霊の本性」(p40~41)を読みます。
「二 人間の魂の本性」と同様に短い文章です。
シュタイナーはこの章で、正しい思考をすることは人間の霊の本性であると言っている、と私は解釈しました。
そして41ページの最後の文章において、
「自分自身の考察を通して、体、魂、霊の区分を明らかにしようとすることは、思考によって人間の本質を解明しようとする者に課せられた課題である。」と述べています。
「思考」は非常に重要な行動、行為であること。そして、「正しい思考に導く諸法則の必然性」(p40ページ)について、この書籍『神智学』の読書を進める過程で、認識を深めていきたいと考えています。
今回は「三 人間の霊の本性」(p40~41)を読みます。
「二 人間の魂の本性」と同様に短い文章です。
シュタイナーはこの章で、正しい思考をすることは人間の霊の本性であると言っている、と私は解釈しました。
そして41ページの最後の文章において、
「自分自身の考察を通して、体、魂、霊の区分を明らかにしようとすることは、思考によって人間の本質を解明しようとする者に課せられた課題である。」と述べています。
「思考」は非常に重要な行動、行為であること。そして、「正しい思考に導く諸法則の必然性」(p40ページ)について、この書籍『神智学』の読書を進める過程で、認識を深めていきたいと考えています。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月15日(水)84回 ― 2023年02月15日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の5回目の 読書です。
今回は「二 人間の魂の本性」(p38~39)を読みます。
下記のキーセンテンスをとりあげました。
(p38より)
「人間の魂の本性は固有の内面世界であり、この点でその体的本性から区別される。この固有の世界は、もっとも単純な感覚的知覚に注意を向けるだけで、ただちに立ち現れてくる。」
(p38~p39 にかけて)
「…私は、自分の身体の諸感覚をもって、他人もまた知覚するであろうところの朱ぬりのテーブルを知覚することができる。しかし他人のもつ、色の感覚を知覚することはできない。
したがって、感覚的知覚は魂的内容に属する、といわざるをえない。この事実がまったく明瞭に把握されるなら、内的体験を単なる脳のプロセスもしくはそれに類した事柄とは見做さなくなるであろう。」
(p39より)
「感覚的知覚に続いて、感情がこれに加わる。ひとつの知覚体験も快または不快を人間に感じさせる。それも彼の魂の内的ないとなみの現れである。しかし人間は、感情の中で、外から彼に働きかけてくる世界に対して、第二の世界を創り加える。さらに第三のもの、すなわち意志がこれに加わる。意志によって、人間はふたたび下界に作用を及ぼす。」
「このように魂は、人間固有の世界として、外界の対置されている。」
この「二 人間の魂の本性」は2ぺージの短い文章である。ここから私が気がついたのは、魂とは人間の個性そのものであるということである。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)には電子書籍版があります。その両方を使って読んでいます。
けれども、電子版と紙版はページの取り方が違っていますので、紙書籍のページを使っています。
今回は「二 人間の魂の本性」(p38~39)を読みます。
下記のキーセンテンスをとりあげました。
(p38より)
「人間の魂の本性は固有の内面世界であり、この点でその体的本性から区別される。この固有の世界は、もっとも単純な感覚的知覚に注意を向けるだけで、ただちに立ち現れてくる。」
(p38~p39 にかけて)
「…私は、自分の身体の諸感覚をもって、他人もまた知覚するであろうところの朱ぬりのテーブルを知覚することができる。しかし他人のもつ、色の感覚を知覚することはできない。
したがって、感覚的知覚は魂的内容に属する、といわざるをえない。この事実がまったく明瞭に把握されるなら、内的体験を単なる脳のプロセスもしくはそれに類した事柄とは見做さなくなるであろう。」
(p39より)
「感覚的知覚に続いて、感情がこれに加わる。ひとつの知覚体験も快または不快を人間に感じさせる。それも彼の魂の内的ないとなみの現れである。しかし人間は、感情の中で、外から彼に働きかけてくる世界に対して、第二の世界を創り加える。さらに第三のもの、すなわち意志がこれに加わる。意志によって、人間はふたたび下界に作用を及ぼす。」
「このように魂は、人間固有の世界として、外界の対置されている。」
この「二 人間の魂の本性」は2ぺージの短い文章である。ここから私が気がついたのは、魂とは人間の個性そのものであるということである。
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)には電子書籍版があります。その両方を使って読んでいます。
けれども、電子版と紙版はページの取り方が違っていますので、紙書籍のページを使っています。
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