『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月10日(金)83回 ― 2023年02月10日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の4回目の読書です。
今回は「一 人間の体の本性」(p35~37)を読みます。
この文章からは、次の表現を拾ってみました。
(p35より)
「身体の諸感覚によって、人間の体を知ることができる。」
「鉱物同様、人間はその身体を自然の素材から構築する。植物同様、人間は成長し、生殖する。動物同様、人間は周囲の対象を知覚し、その印象をもとにして、自分の中に内的体験を形成する。」
「しかし人体は動物の体とは同じではない。その相違は、たとえどれ程人間と動物との類似が考えられるにしても、すべての人によって認められねばならない。」
(p36より)
カールス(カール・グスタフ・カルス)著『自然認識と霊認識のための教程』から、シュタイナーが引用している文章からの抜粋です。
「神経組織、特に脳の微妙にしてこの上もなく内的な構造は、生理学者や解剖学者にとって、依然として解きがたい謎であるが、しかし諸器官のあの集中、統一が、次第に動物性の中で高まっていき、そして人間において他のいかなる生物の中でも達せられなかった程度にまで到達しているということ、このことは完全に確認された事実である。…
…力強く、美しく発達した人体、特に頭脳の構造は、まだそれだけでは天才の代わりにはならないだろうが、いずれにせよ高次の認識のための第一の、もっとも不可欠な条件を充たしてくれるであろう。」
「人体には存在の三つの形式、鉱物的、植物的、動物的形式が備わっているが、さらに第四の、独自の人間的形式がこれにつけ加えられねばならないのである。」
この章「一 人間の体の本性」は、短い文章であるが、それ故に、人間身体の奥ゆきの深さを暗示させてくれる文章であると思いました。
今回は「一 人間の体の本性」(p35~37)を読みます。
この文章からは、次の表現を拾ってみました。
(p35より)
「身体の諸感覚によって、人間の体を知ることができる。」
「鉱物同様、人間はその身体を自然の素材から構築する。植物同様、人間は成長し、生殖する。動物同様、人間は周囲の対象を知覚し、その印象をもとにして、自分の中に内的体験を形成する。」
「しかし人体は動物の体とは同じではない。その相違は、たとえどれ程人間と動物との類似が考えられるにしても、すべての人によって認められねばならない。」
(p36より)
カールス(カール・グスタフ・カルス)著『自然認識と霊認識のための教程』から、シュタイナーが引用している文章からの抜粋です。
「神経組織、特に脳の微妙にしてこの上もなく内的な構造は、生理学者や解剖学者にとって、依然として解きがたい謎であるが、しかし諸器官のあの集中、統一が、次第に動物性の中で高まっていき、そして人間において他のいかなる生物の中でも達せられなかった程度にまで到達しているということ、このことは完全に確認された事実である。…
…力強く、美しく発達した人体、特に頭脳の構造は、まだそれだけでは天才の代わりにはならないだろうが、いずれにせよ高次の認識のための第一の、もっとも不可欠な条件を充たしてくれるであろう。」
「人体には存在の三つの形式、鉱物的、植物的、動物的形式が備わっているが、さらに第四の、独自の人間的形式がこれにつけ加えられねばならないのである。」
この章「一 人間の体の本性」は、短い文章であるが、それ故に、人間身体の奥ゆきの深さを暗示させてくれる文章であると思いました。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月5日(日)82回 ― 2023年02月05日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の3回目の読書です。
今回は「人間の本質」(p29~34)を読みます。
この「人間の本質」は先ずゲーテの言葉がとり上げられます(p29二行目~p30九行目)。このゲーテの言葉の中のゲーテの思想から、シュタイナーは次のような考えを生み出しています。
「このように人間は、常に三重の仕方で世界の事物と結びついている。今のところは、この事実の中へ何の解釈ももちこまず、この事実が現れるままをただ受け容れるだけにしておこう。今明らかになったことは、人間がその本質の中に三つの側面をもっている、という事実である。ここではさしあたり、体、魂、霊という三つの言葉で、この三つの側面を暗示しておきたい。この三つの言葉に何らかの先入見や仮設をもって対するかぎり、以下の論述はどうしても誤解されざるをえないだろう。体とはここでは、上例の牧場の花のような周囲の事物を、人間に示すところのものを意味する。魂とは、人間を事物と結びつけ、人間に気に入る、気に入らない、快と不快、喜びと苦しみを感じさせるところのもの、と解されるべきである。霊とは、もし人間が――ゲーテの表現を用いれば――事物を「いわば神的な態度」で観るとき、彼に開示されるものを意味する。
この意味で人間は体と魂と霊とから成っている。
体を通して、人間は一時的に自分を事物と結びつける。魂を通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。そして霊を通して、事物自身がみずから保持しているものが彼に啓示される。人間をこの三つの側面から考察するとき、はじめて人間の本性の解明が期待できるようになる。なぜならこの三つの側面は、人間が三重の異なる仕方で、世界と同質の存在であることを示しているからである。(p32七行目~p33六行目)」
この「人間の本質」の章は、人間の体・魂・霊の三つの側面の概要を伝えてくれている。
次の文章も自覚しておきたい。
「私の体的事象のすべては、身体的諸感覚によっても知覚できる。私が好んでいるか、嫌っているかということ、私の喜びと苦しみは、私も他人も、身体的感覚によっては知覚できない。魂の世界は、体的な見方にとって、手のとどかぬ領域である。人間の体的存在は、万人の眼に明らかである。人間は魂の存在を、人間自身の内部に自分の世界として担っている。しかし霊によって、外界が高次の仕方で人間に示される。外界の秘密が明らかにされるのは、人間の内部においてであるが、しかし人間は、霊的存在として、自分の外へ出ていき、そして事物に事物自身のことを語らせるのである。人間にとって意味のあることではなく、事物自身にとって意味のあることを。(p33十行目~p34二行目)」
「かくして人間は、三つの世界の市民である。その体を通して、彼は身体が知覚するところの世界に属し、その魂を通して、彼自身の世界を構築し、その霊を通して、この両者の及ばぬ世界が彼に啓示される。(p34五行目~七行目)」
この「人間の本質」の章から、人間が関わる体の世界、魂の世界、霊の世界の三つの概要の一端の手懸りをイメージすることができました。以後、この『神智学』の書籍から「体」・「魂」・「霊」の世界について深めていきたいと思います。
今回は「人間の本質」(p29~34)を読みます。
この「人間の本質」は先ずゲーテの言葉がとり上げられます(p29二行目~p30九行目)。このゲーテの言葉の中のゲーテの思想から、シュタイナーは次のような考えを生み出しています。
「このように人間は、常に三重の仕方で世界の事物と結びついている。今のところは、この事実の中へ何の解釈ももちこまず、この事実が現れるままをただ受け容れるだけにしておこう。今明らかになったことは、人間がその本質の中に三つの側面をもっている、という事実である。ここではさしあたり、体、魂、霊という三つの言葉で、この三つの側面を暗示しておきたい。この三つの言葉に何らかの先入見や仮設をもって対するかぎり、以下の論述はどうしても誤解されざるをえないだろう。体とはここでは、上例の牧場の花のような周囲の事物を、人間に示すところのものを意味する。魂とは、人間を事物と結びつけ、人間に気に入る、気に入らない、快と不快、喜びと苦しみを感じさせるところのもの、と解されるべきである。霊とは、もし人間が――ゲーテの表現を用いれば――事物を「いわば神的な態度」で観るとき、彼に開示されるものを意味する。
この意味で人間は体と魂と霊とから成っている。
体を通して、人間は一時的に自分を事物と結びつける。魂を通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。そして霊を通して、事物自身がみずから保持しているものが彼に啓示される。人間をこの三つの側面から考察するとき、はじめて人間の本性の解明が期待できるようになる。なぜならこの三つの側面は、人間が三重の異なる仕方で、世界と同質の存在であることを示しているからである。(p32七行目~p33六行目)」
この「人間の本質」の章は、人間の体・魂・霊の三つの側面の概要を伝えてくれている。
次の文章も自覚しておきたい。
「私の体的事象のすべては、身体的諸感覚によっても知覚できる。私が好んでいるか、嫌っているかということ、私の喜びと苦しみは、私も他人も、身体的感覚によっては知覚できない。魂の世界は、体的な見方にとって、手のとどかぬ領域である。人間の体的存在は、万人の眼に明らかである。人間は魂の存在を、人間自身の内部に自分の世界として担っている。しかし霊によって、外界が高次の仕方で人間に示される。外界の秘密が明らかにされるのは、人間の内部においてであるが、しかし人間は、霊的存在として、自分の外へ出ていき、そして事物に事物自身のことを語らせるのである。人間にとって意味のあることではなく、事物自身にとって意味のあることを。(p33十行目~p34二行目)」
「かくして人間は、三つの世界の市民である。その体を通して、彼は身体が知覚するところの世界に属し、その魂を通して、彼自身の世界を構築し、その霊を通して、この両者の及ばぬ世界が彼に啓示される。(p34五行目~七行目)」
この「人間の本質」の章から、人間が関わる体の世界、魂の世界、霊の世界の三つの概要の一端の手懸りをイメージすることができました。以後、この『神智学』の書籍から「体」・「魂」・「霊」の世界について深めていきたいと思います。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年1月23日(月)81回 ― 2023年01月23日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の2回目の読書です。
今回は「序論」(p21~28)を読みます。
この「序論」の中のキーワード・キーセンテンスを私の感性で拾ってみました。
(p21)
「ヨーハン・ゴットリーブ・フィフテ…「知識学」」
(p22)
「…正しい意志をもってのぞむなら、どんな人でも「眼を開く」ことができるのだということを、一瞬たりとも疑うべきではないのです。」
「外的諸感覚」
「人間の真の本質を認識させる「内的感覚器官」」
「「隠された叡智」」
「「高次の感覚」」
(p23~24)
「超感覚的事物の観察者」
「どんな人の中にも、真理に対する感情と理解力とが存在している」
「この理解力の中には、次第により高次の認識へ導いていくひとつの力が内在している」「真理に対する感情は、…この感情自身が「霊眼」を開いてくれる魔術師なのである。」「盲いた人のすべてが見えるようになれなくとも、霊眼はどんな人もこれを開くことができるのだから。ただそれがいつ開けるかという時間の問題だけが残されている。」
「学識と科学的教育とは、この「高次の感覚」を開くための条件にはならない。素朴な人間にも知的水準の高い人にも、等しくこの感覚は開かれる。」
(p25~26)
「本書で述べられているのは、偏見に曇らされぬ開かれた思考と遠慮のない自由な真理感情とを働かせるすべての人に対して、この思考と感情の力だけで人間生活や世界現象の謎に十分接近していけるのだ、という印象を与えうる事柄だけなのである。」
「存在のこの高次の諸領域の「教師」であるためには、もちろんこれらの領域のための感覚が開かれているだけでは十分でない。彼には、日常的現象の領域の教師にとって科学が必要であるように、ひとつの「科学」が必要なのである。感覚的現実の世界に対して健全な感覚をもっているというだけでは「学者」になれないように、「高次の視覚」をもっているというだけでは霊界の通暁者にはなれない。」
「事実、現実界はすべて、低次の物質的現実界も高次の霊的現実界も、同一の根本存在性の二つの側面に過ぎない。」
(p27~28)
「…、超感覚的な事実を知ることで明らかにされた、人間の本質と使命とに何らかの仕方で係わることなしには、言葉のまったき意味において「人間」であることはできないからである。」
「人間が仰ぎ見ることのできる至高のものは、「神的」と呼ばれる。人間の最高の使命は、この神的なものとの関連において考えられねばならない。それ故、感覚的存在を超越した叡智、人間の本質と使命とを明示する叡智は、「神的叡智」もしくは神智学と名づけられるであろう。人生における、そして宇宙における霊的活動の考察には、霊学という言葉を与えることができる。本書で為されているように、霊学の中で特に人間の霊的本質の核心に係わる諸問題を取り扱う場合、 「神智学」という表現が用いられる。なぜならこの表現は数世紀に亘ってこのような観点から使用されてきたからである。」
「…、神智学的世界観の素描が本書の中で試みられている。著者は、外的世界の体験が眼と耳と悟性とに事実であるのと同じ意味で、事実であるものだけを表現しようと欲している。」
「本書では、その最後の章に素描された「認識の小道」を歩もうとするなら、誰でも手に入れることのできる体験内容が扱われているのである。健全な思考と健全な感受性だけでも、高次の世界から来る真の認識内容のすべてを理解できるということ、この理解をもとにして確固たる土台を築くとき、すでに自分の霊眼を開くための重要な歩みが始まっているということ、この二点を前提にするとき、人は超感覚的世界な諸事象に正しい仕方で向き合っている。」
「…後になって見ることのできるものを、その前に健全な思考によって理解しようとする意志こそ、この見る能力を促進するのである。この意志が「見者の直観力」を育てる重要な心的能力を喚び起すのである。これが原則である。」
まさにこの『神智学』の概要主旨がこの「序論」で述べられている。その感じ入る言葉、文章を書き出させていただきました。ぜひ、この書籍を手に取り、読み、確認してください。人それぞれ感じ入るキーワード、キーセンテンスに出会うと思います。
今回は「序論」(p21~28)を読みます。
この「序論」の中のキーワード・キーセンテンスを私の感性で拾ってみました。
(p21)
「ヨーハン・ゴットリーブ・フィフテ…「知識学」」
(p22)
「…正しい意志をもってのぞむなら、どんな人でも「眼を開く」ことができるのだということを、一瞬たりとも疑うべきではないのです。」
「外的諸感覚」
「人間の真の本質を認識させる「内的感覚器官」」
「「隠された叡智」」
「「高次の感覚」」
(p23~24)
「超感覚的事物の観察者」
「どんな人の中にも、真理に対する感情と理解力とが存在している」
「この理解力の中には、次第により高次の認識へ導いていくひとつの力が内在している」「真理に対する感情は、…この感情自身が「霊眼」を開いてくれる魔術師なのである。」「盲いた人のすべてが見えるようになれなくとも、霊眼はどんな人もこれを開くことができるのだから。ただそれがいつ開けるかという時間の問題だけが残されている。」
「学識と科学的教育とは、この「高次の感覚」を開くための条件にはならない。素朴な人間にも知的水準の高い人にも、等しくこの感覚は開かれる。」
(p25~26)
「本書で述べられているのは、偏見に曇らされぬ開かれた思考と遠慮のない自由な真理感情とを働かせるすべての人に対して、この思考と感情の力だけで人間生活や世界現象の謎に十分接近していけるのだ、という印象を与えうる事柄だけなのである。」
「存在のこの高次の諸領域の「教師」であるためには、もちろんこれらの領域のための感覚が開かれているだけでは十分でない。彼には、日常的現象の領域の教師にとって科学が必要であるように、ひとつの「科学」が必要なのである。感覚的現実の世界に対して健全な感覚をもっているというだけでは「学者」になれないように、「高次の視覚」をもっているというだけでは霊界の通暁者にはなれない。」
「事実、現実界はすべて、低次の物質的現実界も高次の霊的現実界も、同一の根本存在性の二つの側面に過ぎない。」
(p27~28)
「…、超感覚的な事実を知ることで明らかにされた、人間の本質と使命とに何らかの仕方で係わることなしには、言葉のまったき意味において「人間」であることはできないからである。」
「人間が仰ぎ見ることのできる至高のものは、「神的」と呼ばれる。人間の最高の使命は、この神的なものとの関連において考えられねばならない。それ故、感覚的存在を超越した叡智、人間の本質と使命とを明示する叡智は、「神的叡智」もしくは神智学と名づけられるであろう。人生における、そして宇宙における霊的活動の考察には、霊学という言葉を与えることができる。本書で為されているように、霊学の中で特に人間の霊的本質の核心に係わる諸問題を取り扱う場合、 「神智学」という表現が用いられる。なぜならこの表現は数世紀に亘ってこのような観点から使用されてきたからである。」
「…、神智学的世界観の素描が本書の中で試みられている。著者は、外的世界の体験が眼と耳と悟性とに事実であるのと同じ意味で、事実であるものだけを表現しようと欲している。」
「本書では、その最後の章に素描された「認識の小道」を歩もうとするなら、誰でも手に入れることのできる体験内容が扱われているのである。健全な思考と健全な感受性だけでも、高次の世界から来る真の認識内容のすべてを理解できるということ、この理解をもとにして確固たる土台を築くとき、すでに自分の霊眼を開くための重要な歩みが始まっているということ、この二点を前提にするとき、人は超感覚的世界な諸事象に正しい仕方で向き合っている。」
「…後になって見ることのできるものを、その前に健全な思考によって理解しようとする意志こそ、この見る能力を促進するのである。この意志が「見者の直観力」を育てる重要な心的能力を喚び起すのである。これが原則である。」
まさにこの『神智学』の概要主旨がこの「序論」で述べられている。その感じ入る言葉、文章を書き出させていただきました。ぜひ、この書籍を手に取り、読み、確認してください。人それぞれ感じ入るキーワード、キーセンテンスに出会うと思います。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年12月21日(水)80回 ― 2022年12月21日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み始めています。
四大主著の一つである前回読書の『自由の哲学』に続き、今回もその一つである『神智学』を読んでいきます。
目次は以下のようになっています。
第三版のまえがき 9
第六版のまえがき 15
第九版のまえがき 17
この書の新版のために 19
序論 21
人間の本質 29
一 人間の体の本性 35
二 人間の魂の本性 38
三 人間の霊の本性 40
四 体、魂、霊 42
霊の再生と運命 71
三つの世界 103
一 魂の世界 103
二 魂の世界における死後の魂 121
三 霊界 136
四 死後の霊界のおける霊 146
五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき 164
六 思考形態と人間のオーラ 177
認識の小道 191
補遺 219
付録 233
訳者の解説とあとがき 251
文庫版のための訳者あとがき 261
神智学――超感覚的世界の認識と人間の本質への導き
上記の目次に沿って読書を進めます。
今回は、第三版のまえがき、第六版のまえがき、第九版のまえがき、この書の新版のために、9~20ページを読みます。
そして今回の読書で私の心に強く触れ、重要だと思った文章を下記に抜粋させて頂きました。「第三版まえがき」中の10ページ7行目~13ページ3行目の文章です。
「著者は、霊的分野で自分が経験し、証言できた事柄だけを述べている。この意味で自分の体験した事だけが表現されるべきなのである。
本書は今日一般に行われているような読書の仕方で読まれるようには、書かれていない。どの頁も、個々の文章が読者自身の精神的作業によって読み解かれるのを待っている。意識的にそう書かれている。なぜなら、この本はそうしてこそはじめて、読者のものとなることができるからである。ただ通読するだけの読者は、本書を全然読まなかったに等しい。その真実の内容は、体験されなければならない。霊学はこの意味においてのみ、価値をもつ。
通常の科学の立場から本書を評価する場合、その評価の観点は、本書そのものから得られているのでなければならない。批評家がこのような観点に立つときは、勿論本書の論述が真の科学性と矛盾するものではないことを理解するだろう。著者は一言なりとも自分の学問的良心に反するようなことを述べようとはしていない。
別の道を通って、ここに述べた諸事実を求めようと思うなら、私の『自由の哲学』の中にそのような道が見出せる。本書と『自由の哲学』とは、異なる仕方で、同一の目標を目ざしている。その一方を理解するのに他方を必要とすることはないにしても、或る人々にとって、両方の道を通ることは極めて有益な筈である。
本書の中に「究極の」真理を求める人は、おそらく満足せずにおわるだろう。霊学の全領域の基本的事実のみがまず述べられているからである。
宇宙のはじめとおわり、存在の目的、神の本質をすぐに問おうとすることは、確かに人間の本性に基づいている。しかし悟性のための言葉や概念よりも、人生のための真の認識の方を大切にする人なら、霊的認識の基本を扱う書物の中では、叡智の高次の段階に属する事柄を語れない理由が分るであろう。事実、基本を理解することによってはじめて、高次の問題提出の仕方が明らかになるのである。本書に続く第二の書である著書の『神秘学』(一九一〇年に出版された『神秘学概論』のこと――訳者)の中に、ここで扱われた領域に関する、より以上の叙述がある。
第二版のまえがきでは補足的に次のことが付言された。――今日、超感覚的諸事実の表
現を行う人は、二つの点をはっきり知っておく必要がある。第一の、われわれの時代が超感覚的認識の育成に必要としていること、しかし第二に、今日の精神生活の中には、このような表現を、まさにとりとめのない幻想、夢想であると思わせる考え方、感じ方が充満していることである。現代が超感覚的認識を必要としているのは、通常の仕方で人が世界と人生を経験する場合、その経験内容がその人の中に、超感覚的真実を通してしか答えることのできぬ無数の問題を喚び起すからである。人が存在の基礎について今日の精神潮流の内部で学べることは、より深く感じとる魂にとっては、世界と人生の大きな謎に対する解答ではなく、問いでしかない。しばらくの間は、「厳密な科学的事実が教えること」や現代の何人かの思想家の所説の中に、存在の謎を解決してくれるものがあると信じることができるかもしれない。しかし魂が、自分自身を本当に理解しはじめるときに入って行かねばならぬ、あの深層にまで入っていくなら、はじめ解決のように見えたものが、真の問題のための問題提起に過ぎなかったように思われてくる。
この問題への解答は、人間の単なる好奇心に応じるべきではない。魂のいとなみの充実と内的平静がまさにこの解答如何にかかっているのだから。そして努力してこの解答を見出すことは、知的衝動を満足させるだけでなく、仕事に有能な、人生の課題に対処しうる人間を作る。この問題が解けぬ場合は、魂だけでなく、結局は肉体をも萎えさせる。超感覚的存在の認識は、単なる理論的要求にとってだけでなく、実生活にとっても有意義なのである。だから現在の精神生活の在り方の故にこそ、霊的認識はわれわれの時代にとって不可欠な認識領域なのである。」
けれども、シュタイナーの重要な言葉は、上記抜粋させていただいた「第三版のまえがき」の個所だけではない。「第三版のまえがき」の他の個所、「第六版のまえがき」、「第九版のまえがき」、「この書の新版のために」、の中に大切な言葉、表現があります。
皆さま是非この書を手に取り読み進めていただきたいと思います。
四大主著の一つである前回読書の『自由の哲学』に続き、今回もその一つである『神智学』を読んでいきます。
目次は以下のようになっています。
第三版のまえがき 9
第六版のまえがき 15
第九版のまえがき 17
この書の新版のために 19
序論 21
人間の本質 29
一 人間の体の本性 35
二 人間の魂の本性 38
三 人間の霊の本性 40
四 体、魂、霊 42
霊の再生と運命 71
三つの世界 103
一 魂の世界 103
二 魂の世界における死後の魂 121
三 霊界 136
四 死後の霊界のおける霊 146
五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき 164
六 思考形態と人間のオーラ 177
認識の小道 191
補遺 219
付録 233
訳者の解説とあとがき 251
文庫版のための訳者あとがき 261
神智学――超感覚的世界の認識と人間の本質への導き
上記の目次に沿って読書を進めます。
今回は、第三版のまえがき、第六版のまえがき、第九版のまえがき、この書の新版のために、9~20ページを読みます。
そして今回の読書で私の心に強く触れ、重要だと思った文章を下記に抜粋させて頂きました。「第三版まえがき」中の10ページ7行目~13ページ3行目の文章です。
「著者は、霊的分野で自分が経験し、証言できた事柄だけを述べている。この意味で自分の体験した事だけが表現されるべきなのである。
本書は今日一般に行われているような読書の仕方で読まれるようには、書かれていない。どの頁も、個々の文章が読者自身の精神的作業によって読み解かれるのを待っている。意識的にそう書かれている。なぜなら、この本はそうしてこそはじめて、読者のものとなることができるからである。ただ通読するだけの読者は、本書を全然読まなかったに等しい。その真実の内容は、体験されなければならない。霊学はこの意味においてのみ、価値をもつ。
通常の科学の立場から本書を評価する場合、その評価の観点は、本書そのものから得られているのでなければならない。批評家がこのような観点に立つときは、勿論本書の論述が真の科学性と矛盾するものではないことを理解するだろう。著者は一言なりとも自分の学問的良心に反するようなことを述べようとはしていない。
別の道を通って、ここに述べた諸事実を求めようと思うなら、私の『自由の哲学』の中にそのような道が見出せる。本書と『自由の哲学』とは、異なる仕方で、同一の目標を目ざしている。その一方を理解するのに他方を必要とすることはないにしても、或る人々にとって、両方の道を通ることは極めて有益な筈である。
本書の中に「究極の」真理を求める人は、おそらく満足せずにおわるだろう。霊学の全領域の基本的事実のみがまず述べられているからである。
宇宙のはじめとおわり、存在の目的、神の本質をすぐに問おうとすることは、確かに人間の本性に基づいている。しかし悟性のための言葉や概念よりも、人生のための真の認識の方を大切にする人なら、霊的認識の基本を扱う書物の中では、叡智の高次の段階に属する事柄を語れない理由が分るであろう。事実、基本を理解することによってはじめて、高次の問題提出の仕方が明らかになるのである。本書に続く第二の書である著書の『神秘学』(一九一〇年に出版された『神秘学概論』のこと――訳者)の中に、ここで扱われた領域に関する、より以上の叙述がある。
第二版のまえがきでは補足的に次のことが付言された。――今日、超感覚的諸事実の表
現を行う人は、二つの点をはっきり知っておく必要がある。第一の、われわれの時代が超感覚的認識の育成に必要としていること、しかし第二に、今日の精神生活の中には、このような表現を、まさにとりとめのない幻想、夢想であると思わせる考え方、感じ方が充満していることである。現代が超感覚的認識を必要としているのは、通常の仕方で人が世界と人生を経験する場合、その経験内容がその人の中に、超感覚的真実を通してしか答えることのできぬ無数の問題を喚び起すからである。人が存在の基礎について今日の精神潮流の内部で学べることは、より深く感じとる魂にとっては、世界と人生の大きな謎に対する解答ではなく、問いでしかない。しばらくの間は、「厳密な科学的事実が教えること」や現代の何人かの思想家の所説の中に、存在の謎を解決してくれるものがあると信じることができるかもしれない。しかし魂が、自分自身を本当に理解しはじめるときに入って行かねばならぬ、あの深層にまで入っていくなら、はじめ解決のように見えたものが、真の問題のための問題提起に過ぎなかったように思われてくる。
この問題への解答は、人間の単なる好奇心に応じるべきではない。魂のいとなみの充実と内的平静がまさにこの解答如何にかかっているのだから。そして努力してこの解答を見出すことは、知的衝動を満足させるだけでなく、仕事に有能な、人生の課題に対処しうる人間を作る。この問題が解けぬ場合は、魂だけでなく、結局は肉体をも萎えさせる。超感覚的存在の認識は、単なる理論的要求にとってだけでなく、実生活にとっても有意義なのである。だから現在の精神生活の在り方の故にこそ、霊的認識はわれわれの時代にとって不可欠な認識領域なのである。」
けれども、シュタイナーの重要な言葉は、上記抜粋させていただいた「第三版のまえがき」の個所だけではない。「第三版のまえがき」の他の個所、「第六版のまえがき」、「第九版のまえがき」、「この書の新版のために」、の中に大切な言葉、表現があります。
皆さま是非この書を手に取り読み進めていただきたいと思います。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年11月6日(日)79回 ― 2022年11月06日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれにあわせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
今回18 回目は、『自由の哲学』「第三部 究極の問いかけ」―「第一五章 一元論の帰結」(p271~280)を読みます。この十五章が最終章となります。その後に、1918年の新版のための補遺一・二、付録一、二、訳者あとがき、文庫版のための訳者あとがき、があります。
私の読書スタイルは、論理的な読書ではなく、私的な感性的読書に終始していたと思います。今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)に助けられながら、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』に挑戦した読書でした。
そしてこの最後の章である「第十五章 一元論の帰結」までたどり着くことができました。
この第十五章冒頭6行の文章は『自由の哲学』の一端を俯瞰できる文章であると思います。下記に引用させていただきました。
「 世界の統一的な解釈、つまり本書で扱われている一元論は、世界解釈の要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。つまり自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求める。一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうとすることを拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている。この統一を通じて物質的、精神的な世界領域へ入っていくのである。」
276ページ中ほどの文章も『自由の哲学』を端的に捉えた文章であると考えます。
「二元論は神的な根源存在がすべての人間を貫いて生きていると考えている。一元論はこの共通の心的生命を現実そのものの中に見だす。」
同じく、276ページ終りから5行目下部~278ページ1行目を引用させていただきます。
「人間はすべての人間の中で生きて働く根源存在を思考を通して把握することができるのである。現実の中での思考生活は、同時に神の中での思考生活である。推論できるだけで体験できない彼岸は、此岸がそれ自身の中に存在の根拠をもっていない、と信じる人たちの誤解や願望に基づいている。その人たちは知覚内容の解明に必要なものを思考によって見出すことができない、と思い込んでいる。だからその人たちはこの世の現実から借りてきたのではないような思考内容を提示したことはなかった。抽象的な推論によって想定された神は、彼岸に移し換えられた人間にすぎない。ショーペンハウアーの意思も、絶対化された人間の意志に他ならない。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの無意識の根源存在は、理念と意思という、経験界から抽出してきた二つの概念の合成物である。体験された思考に基づかない彼岸的な原理のすべてについて同じことが言える。
人間の精神は決してわれわれの生きている現実を超えてはいかない。世界の解明に必要なすべてはこの世界の中に存在している。だから現実を超える必要はない。諸原理を経験の中から取り出した上で、それらを仮説上の彼岸の中へ移し入れ、それによって世界を説明しようとすることが哲学者の態度である以上、体験可能な思考を此岸の領域に放置しておくのは当然であろう。しかしこの世を超えるということは、どんな場合でもすべて幻想にすぎない。この世から彼岸へ移し換えられた諸原理だからといって、それがこの世の諸原理よりもこの世をよりよく解明してくれはしない。そもそも思考はこのような超越をまったく必要としていない。思考はこの世においてもあの世においても同じ思考なのであるが、この世の外にではなく、この世の内にしか知覚内容を見出し得ない。そして知覚内容と結びついたときにのみ、思考内容は現実的なものとなる。想像力の所産もまた、それが知覚内容を指示する表象内容になったときにのみ、現実の内容となる。それは知覚内容を通して現実に組み込まれる。」
279ページ終りから5行目~280ページ4行目まで引用させていただきます。その後に続く「1918年の新版のための補遺一・二」を除くと、『自由の哲学』の最終章です。
「人間がもっぱら自分の感覚的衝動や他人の命令に従くのではなく、さらに先へ進んでいくなら、自分以外の何ものかによって左右されたりはしない。自分以外の誰かではなく、自分自身が選んだ動機によって、行動する。勿論その動機は同一の理念界の中で理念的に決められている。しかし具体的に見れば、ただ人間だけがこの動機を理念界の中から取り出して、それを現実の中へ移すことができる。人間が自分から積極的に理念を現実の中へ移し換えるとき、一元論は人間の中にそのための動機の根拠を見つけ出すことができる。或る理念が行為となるためには、まずそれを人間の意志にしなければならない。そして意志は人間そのものの中にのみその根拠をもっている。だから人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。」
今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。
この第十五章の1918年の新版のための補遺一・二、その後に付録一、二、訳者あとがき、文庫版のための訳者あとがき、が掲載されています。
そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)には、『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めていく上で参考・指針にさせていただきました。今井先生はこの書の第十五章後、『自由の哲学』を基礎にして、『自由への教育』ついて書いています。さらに、現代思想から『自由の哲学』を見つめています。最後にQ&Aを載せています。難解な『自由の哲学』をわかり易く説明し、『自由の哲学』の読書を導いてくれました。
その後の文章は、いずれも読ませていただきますが、当ブログの読書感想は書きません。
私にとって『自由の哲学』は今後も繰り返しを読んでまいります。
みなさま、ありがとうございました。
今回18 回目は、『自由の哲学』「第三部 究極の問いかけ」―「第一五章 一元論の帰結」(p271~280)を読みます。この十五章が最終章となります。その後に、1918年の新版のための補遺一・二、付録一、二、訳者あとがき、文庫版のための訳者あとがき、があります。
私の読書スタイルは、論理的な読書ではなく、私的な感性的読書に終始していたと思います。今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)に助けられながら、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』に挑戦した読書でした。
そしてこの最後の章である「第十五章 一元論の帰結」までたどり着くことができました。
この第十五章冒頭6行の文章は『自由の哲学』の一端を俯瞰できる文章であると思います。下記に引用させていただきました。
「 世界の統一的な解釈、つまり本書で扱われている一元論は、世界解釈の要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。つまり自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求める。一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうとすることを拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている。この統一を通じて物質的、精神的な世界領域へ入っていくのである。」
276ページ中ほどの文章も『自由の哲学』を端的に捉えた文章であると考えます。
「二元論は神的な根源存在がすべての人間を貫いて生きていると考えている。一元論はこの共通の心的生命を現実そのものの中に見だす。」
同じく、276ページ終りから5行目下部~278ページ1行目を引用させていただきます。
「人間はすべての人間の中で生きて働く根源存在を思考を通して把握することができるのである。現実の中での思考生活は、同時に神の中での思考生活である。推論できるだけで体験できない彼岸は、此岸がそれ自身の中に存在の根拠をもっていない、と信じる人たちの誤解や願望に基づいている。その人たちは知覚内容の解明に必要なものを思考によって見出すことができない、と思い込んでいる。だからその人たちはこの世の現実から借りてきたのではないような思考内容を提示したことはなかった。抽象的な推論によって想定された神は、彼岸に移し換えられた人間にすぎない。ショーペンハウアーの意思も、絶対化された人間の意志に他ならない。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの無意識の根源存在は、理念と意思という、経験界から抽出してきた二つの概念の合成物である。体験された思考に基づかない彼岸的な原理のすべてについて同じことが言える。
人間の精神は決してわれわれの生きている現実を超えてはいかない。世界の解明に必要なすべてはこの世界の中に存在している。だから現実を超える必要はない。諸原理を経験の中から取り出した上で、それらを仮説上の彼岸の中へ移し入れ、それによって世界を説明しようとすることが哲学者の態度である以上、体験可能な思考を此岸の領域に放置しておくのは当然であろう。しかしこの世を超えるということは、どんな場合でもすべて幻想にすぎない。この世から彼岸へ移し換えられた諸原理だからといって、それがこの世の諸原理よりもこの世をよりよく解明してくれはしない。そもそも思考はこのような超越をまったく必要としていない。思考はこの世においてもあの世においても同じ思考なのであるが、この世の外にではなく、この世の内にしか知覚内容を見出し得ない。そして知覚内容と結びついたときにのみ、思考内容は現実的なものとなる。想像力の所産もまた、それが知覚内容を指示する表象内容になったときにのみ、現実の内容となる。それは知覚内容を通して現実に組み込まれる。」
279ページ終りから5行目~280ページ4行目まで引用させていただきます。その後に続く「1918年の新版のための補遺一・二」を除くと、『自由の哲学』の最終章です。
「人間がもっぱら自分の感覚的衝動や他人の命令に従くのではなく、さらに先へ進んでいくなら、自分以外の何ものかによって左右されたりはしない。自分以外の誰かではなく、自分自身が選んだ動機によって、行動する。勿論その動機は同一の理念界の中で理念的に決められている。しかし具体的に見れば、ただ人間だけがこの動機を理念界の中から取り出して、それを現実の中へ移すことができる。人間が自分から積極的に理念を現実の中へ移し換えるとき、一元論は人間の中にそのための動機の根拠を見つけ出すことができる。或る理念が行為となるためには、まずそれを人間の意志にしなければならない。そして意志は人間そのものの中にのみその根拠をもっている。だから人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。」
今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。
この第十五章の1918年の新版のための補遺一・二、その後に付録一、二、訳者あとがき、文庫版のための訳者あとがき、が掲載されています。
そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)には、『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めていく上で参考・指針にさせていただきました。今井先生はこの書の第十五章後、『自由の哲学』を基礎にして、『自由への教育』ついて書いています。さらに、現代思想から『自由の哲学』を見つめています。最後にQ&Aを載せています。難解な『自由の哲学』をわかり易く説明し、『自由の哲学』の読書を導いてくれました。
その後の文章は、いずれも読ませていただきますが、当ブログの読書感想は書きません。
私にとって『自由の哲学』は今後も繰り返しを読んでまいります。
みなさま、ありがとうございました。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年9月17日(土)78回 ― 2022年09月17日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれに合わせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
今回17回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一四章 個と類」(p263~268)を読みます。6ページほどの短い章で、段落は8つです。今回の読書は先ず通読し、次に吟味しながら読書して、問題意識に沿って記述します。
シュタイナーは人間一人一人の個性を重要視しています。
この章の最初に、次の問いを発しています。
「人は誰でも完全無欠で自由な個性となりうる、という考え方は、個人が自然集合体(人種、種族、民族、家族、男性、女性など)や国家、教会などの一分枝であるという事実に矛盾しているように思える。人間は自分の属している共同体の一般的な特質を担っており、その行為内容も社会の中で占める位置によって規定されている。
そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」
人間一人一人が個性として生きることの大切さをR・シュタイナーは訴えていますが、人間は両親から生まれて、その生まれながらに所属する共同体の中で暮らしています。そのような状況下の人間について、「そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」という上記のシュタイナーの問いは、読み進める中で、面白い展開を見せてくれます。
私自身この書籍『自由の哲学』を読むことによって、一人一人の人間が個性を発揮し合って生きることの大切さを実感しているところです。この「第一四章 個と類」を読み、考えながら、今あらためて個性の重要性を感じはじめています。
さらにシュタイナーは次の問いを出し、その説明を出してくれます。さらに女性差別とその開放に触れています。
「或る集団に属する一分枝の特質や機能は集団全体によって規定されている。民族集団に属する人はすべて、その集団の特質を自らの内に担っている。個人の在り方やその行動のパターンは集団の性格によって条件づけられている。そのことによって個人の相貌と行動とは類にふさわしいものとなっている。なぜこの点がこの人の場合はこうなっているのかと問うとき、個から類へ眼を向けなければならない。或る人の態度がなぜわれわれの観察した通りの在り方をしているのかを類が説明してくれる。」
「しかし人間は類的なものからも自由な存在である。なぜなら人間における類的なものは、人間がそれを正しく体験するときには、その人の自由を決して制限したりはしないからである。人工的な制度がそれを制限することも許されない。人間が発達させるべき特性や能力を規定する根拠は人間そのものの中に求めなければならない。その際類的なものは、各人が固有な本性を顕すための手段でしかない。人間は自然から授けられた特性という土台の上に立って、自分の本質にふさわしい形式を自分に与える。この本質を顕す根拠を類の法則に求めても無駄である。大切なのは個体であって、個体だけがそれ自身の内に存在の根拠を担っている。人間は類的なものからこのような意味で解放されるところにまできているのである。」
「類概念を下敷きにして人間を評価するとしたら、人間を完全に理解することは不可能である。そのような類による評価が最も頑固に行われているのは、性に関する事柄においてである。男は女の中に、そして女は男の中にあまりにも相手の性の一般的特徴を見、個的な特徴を見ようとはしない。このことは実生活においては、女よりも男にとって害が少ない。女の社会的地位がいまだにひどく悪いのは、女として求められている多くの点が、個個の女の個的特徴によってではなく、女として生まれつき持っている課題や要求の一般通年によって決められているからである。男の生活はその人の個的な能力や欲求に従っている。女の生活はまさに女であるという事情によって決められている。女は女性一般という類的なものの奴隷になっている。女であることがどの職業に適しているかを男に求めてもらっている限り、いわゆる婦人問題は初歩的段階から抜け出ることはできない。女として望むことのできるものが何なのかは、女の判断にゆだねなければならない。女に現在開かれている職業だけにしか女の能力が及ばないということが本当なら、女が自分でそれ以外の職業を選ぶ理由がわからない。女であるとは何を意味するのかを決めるのは女自身でなければならない。女が女性としてではなく、個体存在として生きようとしている現代の変化した社会状況に危惧を抱く人に対しては、全人類の半数が人間にふさわしい生き方をする社会状況こそ、社会進化のために不可欠なのだ、と応えねばならない。」
シュタイナーの下記の文章は、私にとっては先ず着目点を探す読書になりました。私は「自由な自己規定に基づく人生が始まる」の意味を見落としていました。今井先生の『自由の哲学入門』の「第一四章 個と類」に目を入れることにより気づきのヒントを戴きました。
「人間を類の性質に従って評価する人は、自由な自己規定に基づく人生が始まる以前の段階のところに立ち止まっている。この段階以前のことはすでに科学研究の対象になっている。人類、種族、民族、性などの特性は個別科学の内容である。類の典型となって生きようとする人がいるとしたら、そのような人だけが個別科学を扱う一般的な類の像と自分とを完全に一致させることができるであろう。しかしどんな個別科学も個人の生活内容にまで立ち入ることはできない。思考と行動における自由の領域が始まるところでは、類の法則は力を行使できない。完全な現実を手に入れるために、思考が知覚内容と概念内容とを結びつけるとき(一〇六頁以下参照)、どんな人でもその概念内容を完全な形で他人に伝えることはできない。各人は自分の直観を通して、それぞれ自分でその概念内容を手に入れなければならない。個人がどのような考え方をするかを何らかの類概念から導き出すことはできない。そのための唯一の尺度は個人なのである。個人が自分の意志にどんな具体的目標を与えようとするのかも、人間の一般的な性質から決めることはできない。個人を理解しようとするなら、その人固有の本性にまで眼を向けなければならない。類型的な特徴に立ち止まってはならない。この意味でいえば、どんな人もそれぞれが新たに解かれるべきひとつの課題である。それを抽象的な思考や類概念で処理しようとするすべての科学は、そのための準備段階でしかない。つまり個人が世界を観察するときの仕方を知り、そして個人の意思による行為内容を認識するようになるための準備段階にすぎないのである。そこに類型的な思考や類としての意志から自由な何かがあるらしい、と感じることができたなら、相手の個性の本質を理解するのにわれわれは自分の精神から取り出した概念の適用をやめなければならない。認識は概念と知覚内容とを思考によって結びつけることの中にある。どんな場合にも、観察する人は概念を自分の直観を通して獲得しなければならないけれども、相手の自由な個性を理解しようとする場合だけは、その相手自身が自己を規定するときの基準概念を、純粋に(観察者に固有の概念内容を混入することなく)観察者の精神の中へ受け入れなければならない。他人を評価するのにわれわれ自身の固有概念を用いてしまうならば、決してその人の個性の理解にまでは達しないであろう。自由な個性が類の特性から自分を自由にするように、個を認識する行為も類的なものを理解する仕方から自分を自由にしなければならない。」
「以上に述べたような仕方で、類的なものから自分を自由にする程度如何が、共同体の内部にいる人間が自由な精神でいられるかどうかを決定する。どんな人も完全に類でもなければ、完全に個でもない。しかしどんな人も、多かれ少なかれ、動物的生活の類的なものからも、自分の上に君臨する権威の命令からも、自分の本質部分を自由にしていく。
しかしこのような仕方で自由を獲得することができない人は、自然有機体か精神有機体の一分枝になる。そして他の何かを模倣したり、他の誰かから命令されたりして生きる。自分の直観に由来する行為だけが、真の意味で倫理的な価値を有している。遺伝的に社会道徳の本能を所持している人は、その本能を自分の直観の中に取り込むことによってそれを倫理的なものに変える。人間の一切の道徳活動は個的な倫理的直観と、社会におけるその活用とから生じる。このことを次のように言い換えることもできよう。――人類の道徳生活は自由な人間個性の道徳的想像力が生み出したものの総計である、と。これが一元論の帰結である。」
この『自由の哲学』一四章を読み、私は次のような思いと考えを抱きました。
「自由とはそれぞれの個性が自分で生み出すこと創り出すことが原点にある。先ずそれが自由への教育なのである。両親や家族、共同体に見守られながら育つわれわれ一人ひとりは、学習を通じ、仕事を通じて様々な自由を獲得してゆくのである。現在とは自由を生み出していく獲得していく道程なのである。」、と。
今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。
今回17回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一四章 個と類」(p263~268)を読みます。6ページほどの短い章で、段落は8つです。今回の読書は先ず通読し、次に吟味しながら読書して、問題意識に沿って記述します。
シュタイナーは人間一人一人の個性を重要視しています。
この章の最初に、次の問いを発しています。
「人は誰でも完全無欠で自由な個性となりうる、という考え方は、個人が自然集合体(人種、種族、民族、家族、男性、女性など)や国家、教会などの一分枝であるという事実に矛盾しているように思える。人間は自分の属している共同体の一般的な特質を担っており、その行為内容も社会の中で占める位置によって規定されている。
そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」
人間一人一人が個性として生きることの大切さをR・シュタイナーは訴えていますが、人間は両親から生まれて、その生まれながらに所属する共同体の中で暮らしています。そのような状況下の人間について、「そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」という上記のシュタイナーの問いは、読み進める中で、面白い展開を見せてくれます。
私自身この書籍『自由の哲学』を読むことによって、一人一人の人間が個性を発揮し合って生きることの大切さを実感しているところです。この「第一四章 個と類」を読み、考えながら、今あらためて個性の重要性を感じはじめています。
さらにシュタイナーは次の問いを出し、その説明を出してくれます。さらに女性差別とその開放に触れています。
「或る集団に属する一分枝の特質や機能は集団全体によって規定されている。民族集団に属する人はすべて、その集団の特質を自らの内に担っている。個人の在り方やその行動のパターンは集団の性格によって条件づけられている。そのことによって個人の相貌と行動とは類にふさわしいものとなっている。なぜこの点がこの人の場合はこうなっているのかと問うとき、個から類へ眼を向けなければならない。或る人の態度がなぜわれわれの観察した通りの在り方をしているのかを類が説明してくれる。」
「しかし人間は類的なものからも自由な存在である。なぜなら人間における類的なものは、人間がそれを正しく体験するときには、その人の自由を決して制限したりはしないからである。人工的な制度がそれを制限することも許されない。人間が発達させるべき特性や能力を規定する根拠は人間そのものの中に求めなければならない。その際類的なものは、各人が固有な本性を顕すための手段でしかない。人間は自然から授けられた特性という土台の上に立って、自分の本質にふさわしい形式を自分に与える。この本質を顕す根拠を類の法則に求めても無駄である。大切なのは個体であって、個体だけがそれ自身の内に存在の根拠を担っている。人間は類的なものからこのような意味で解放されるところにまできているのである。」
「類概念を下敷きにして人間を評価するとしたら、人間を完全に理解することは不可能である。そのような類による評価が最も頑固に行われているのは、性に関する事柄においてである。男は女の中に、そして女は男の中にあまりにも相手の性の一般的特徴を見、個的な特徴を見ようとはしない。このことは実生活においては、女よりも男にとって害が少ない。女の社会的地位がいまだにひどく悪いのは、女として求められている多くの点が、個個の女の個的特徴によってではなく、女として生まれつき持っている課題や要求の一般通年によって決められているからである。男の生活はその人の個的な能力や欲求に従っている。女の生活はまさに女であるという事情によって決められている。女は女性一般という類的なものの奴隷になっている。女であることがどの職業に適しているかを男に求めてもらっている限り、いわゆる婦人問題は初歩的段階から抜け出ることはできない。女として望むことのできるものが何なのかは、女の判断にゆだねなければならない。女に現在開かれている職業だけにしか女の能力が及ばないということが本当なら、女が自分でそれ以外の職業を選ぶ理由がわからない。女であるとは何を意味するのかを決めるのは女自身でなければならない。女が女性としてではなく、個体存在として生きようとしている現代の変化した社会状況に危惧を抱く人に対しては、全人類の半数が人間にふさわしい生き方をする社会状況こそ、社会進化のために不可欠なのだ、と応えねばならない。」
シュタイナーの下記の文章は、私にとっては先ず着目点を探す読書になりました。私は「自由な自己規定に基づく人生が始まる」の意味を見落としていました。今井先生の『自由の哲学入門』の「第一四章 個と類」に目を入れることにより気づきのヒントを戴きました。
「人間を類の性質に従って評価する人は、自由な自己規定に基づく人生が始まる以前の段階のところに立ち止まっている。この段階以前のことはすでに科学研究の対象になっている。人類、種族、民族、性などの特性は個別科学の内容である。類の典型となって生きようとする人がいるとしたら、そのような人だけが個別科学を扱う一般的な類の像と自分とを完全に一致させることができるであろう。しかしどんな個別科学も個人の生活内容にまで立ち入ることはできない。思考と行動における自由の領域が始まるところでは、類の法則は力を行使できない。完全な現実を手に入れるために、思考が知覚内容と概念内容とを結びつけるとき(一〇六頁以下参照)、どんな人でもその概念内容を完全な形で他人に伝えることはできない。各人は自分の直観を通して、それぞれ自分でその概念内容を手に入れなければならない。個人がどのような考え方をするかを何らかの類概念から導き出すことはできない。そのための唯一の尺度は個人なのである。個人が自分の意志にどんな具体的目標を与えようとするのかも、人間の一般的な性質から決めることはできない。個人を理解しようとするなら、その人固有の本性にまで眼を向けなければならない。類型的な特徴に立ち止まってはならない。この意味でいえば、どんな人もそれぞれが新たに解かれるべきひとつの課題である。それを抽象的な思考や類概念で処理しようとするすべての科学は、そのための準備段階でしかない。つまり個人が世界を観察するときの仕方を知り、そして個人の意思による行為内容を認識するようになるための準備段階にすぎないのである。そこに類型的な思考や類としての意志から自由な何かがあるらしい、と感じることができたなら、相手の個性の本質を理解するのにわれわれは自分の精神から取り出した概念の適用をやめなければならない。認識は概念と知覚内容とを思考によって結びつけることの中にある。どんな場合にも、観察する人は概念を自分の直観を通して獲得しなければならないけれども、相手の自由な個性を理解しようとする場合だけは、その相手自身が自己を規定するときの基準概念を、純粋に(観察者に固有の概念内容を混入することなく)観察者の精神の中へ受け入れなければならない。他人を評価するのにわれわれ自身の固有概念を用いてしまうならば、決してその人の個性の理解にまでは達しないであろう。自由な個性が類の特性から自分を自由にするように、個を認識する行為も類的なものを理解する仕方から自分を自由にしなければならない。」
「以上に述べたような仕方で、類的なものから自分を自由にする程度如何が、共同体の内部にいる人間が自由な精神でいられるかどうかを決定する。どんな人も完全に類でもなければ、完全に個でもない。しかしどんな人も、多かれ少なかれ、動物的生活の類的なものからも、自分の上に君臨する権威の命令からも、自分の本質部分を自由にしていく。
しかしこのような仕方で自由を獲得することができない人は、自然有機体か精神有機体の一分枝になる。そして他の何かを模倣したり、他の誰かから命令されたりして生きる。自分の直観に由来する行為だけが、真の意味で倫理的な価値を有している。遺伝的に社会道徳の本能を所持している人は、その本能を自分の直観の中に取り込むことによってそれを倫理的なものに変える。人間の一切の道徳活動は個的な倫理的直観と、社会におけるその活用とから生じる。このことを次のように言い換えることもできよう。――人類の道徳生活は自由な人間個性の道徳的想像力が生み出したものの総計である、と。これが一元論の帰結である。」
この『自由の哲学』一四章を読み、私は次のような思いと考えを抱きました。
「自由とはそれぞれの個性が自分で生み出すこと創り出すことが原点にある。先ずそれが自由への教育なのである。両親や家族、共同体に見守られながら育つわれわれ一人ひとりは、学習を通じ、仕事を通じて様々な自由を獲得してゆくのである。現在とは自由を生み出していく獲得していく道程なのである。」、と。
今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年8月7日(日)77回 ― 2022年08月07日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれに合わせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
今回16回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一三章 人生の価値――楽観主義と悲観主義」(p229~262)を読んでいきます。33ページにわたる長い章になっていいます。
一口で私の感想を述べるなら、この十三章において、シュタイナーはライプニッツやシャフツベリの楽観主義の立場を尊重している。そして、ショウペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンが主張する悲観主義の問題点、矛盾を明らかにしていく。特に「…ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観主義は崇高な使命に対する帰依の態度へわれわれを導く。…」に留意しながら、悲観主義を乗り越えていく文章を展開している。
先ず私の読書は、私の主感によるキーワード、キーセンテンスを押えます。
この第一三章は、次の文章から始まります。
「人生の目的や使命の問題(二〇五頁以下参照)の対をなすのは、人生の価値の問題である。この点については二つの対立的な立場がある。そしてその二つの間には、考え得る限りのさまざまな仲介の試みがある。」(p229冒頭)
(p229~230)
「一方の立場は語る。――「世界は存在し得る最上のものであり、この世界での生活や行動は計り難い程の価値を持つ。…私たちは幸福のより少ない状態を不幸であると感じる。不幸は善の不在であり、それ自身では意味を持つものなのではない」。」
「他方の立場は次のように主張する。――「人生は苦悩と不幸に満ちており、不快がいたるところで快を圧倒し、苦しみが喜びを圧倒している。生きることは重荷を背負うことである。どんな場合でも、存在しないことの方が存在することより好ましい」。」
「前者、つまり楽観主義の代表者としては、シャフツベリとライプニッツ、後者、つまり悲観主義の代表者としては、ショウペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンがあげられる。」
(p230)
「ライプニッツは世界を存在し得る最善のものであると考えている。…神が世界と人類とから何を期待しているのか知るとき、人は正しい行いができるであろう。そして他人の行った善に自分の善を付け加えることを幸せと感じるであろう。したがって楽観主義の立場からいえば、人生は生きるに価する。人生は共に働く喜びを教えてくれるに違いない。」
(p230~231)
「ショウペンハウアーは問題の本質を別な眼で見ている。彼は宇宙に根拠を与える存在(神)を全能で最高善の存在ではなく、盲目的な意志と衝動である、と考えている。決して充たされることのない満足を求めて永遠に努力することが、すべての意志の基本である。なぜならある努力目標が達成されると、新しい要求がすぐにまた現れてくるからである。満足はいつでも僅かな間しか続かない。私たちの人生のほとんどすべての内容は充たされぬ思いであり、不満足であり、苦悩である。盲目的な衝動が最終的に消えるとき、一切の生活内容も失われ、人生は無限の退屈さに落ち込む。それゆえ比較的な意味で最善なのは、自分の中の願望や要求を押し殺し、意志を殺害することである。ショウペンハウアーの悲観主義の帰結は何もしないことであり、その道徳目標は普遍的怠惰である。」
(p231~233)
「ハルトマンは悲観主義を本質的に別な仕方で基礎づけ、それを彼の倫理学に適用している。ハルトマンは時代の流行に従い、自分の世界観を経験の上に基礎づけ、人生の観察を通して、この世の快と不快のどちらが優勢であるかを決めようとする。人間にとって善であり、幸福であると思えるものを理性の前に整列させる。そして厳密に観察の眼をむければ、満足の対象と思われているものがすべて幻想にすぎないことを、彼は示そうとする。…ハルトマンは、この世における理念(叡智)の存在を否定してはいない。盲目的衝動(意志)と並ぶ同等の権利をそれに与えており、この世の苦悩を賢明な世界目的に合致させることで、天地創造に意味づけを与えようとしている。しかし宇宙を生きる存在の苦悩は、神の苦悩そのものでしかあり得ない。なぜなら世界(宇宙)生命の全体は神の生命と同一だからである。けれども全智全能の存在は、苦悩からの解脱の中にのみ、自分の目標を見出すことができる。そしてすべての存在は苦悩なのだから生存からの解脱の中にのみ、その目標を見出すことができる。存在をそれよりはるかに優れた非存在の中に移すことが、宇宙創造の目的である。宇宙の活動は神の苦悩との終わりなき戦いであり、その終局はすべての生存の絶滅である。人間道徳の意味は、それ故、生存の絶滅への過程に関わることである。神が宇宙を創造したのは、その宇宙を通して自分の無限苦から解放されんがためである。宇宙とは「いわば絶対者におけるかゆみのあるできもののようなもの」である。このできものによって、絶対者の無意識的治癒力がその内的疾患から解放される。「またはそれは痛みの伴う膏薬のようなものであり、全にして一なる存在が自分自身にこの膏薬を貼り、内的苦悩をまず外へ向け、そして排除できるようにする。人間は宇宙の分肢であり、人間の中で神が苦悩している。神が宇宙を創造するのは、自分の限りない苦悩を発散させるためであり、われわれひとりひとりの苦悩は神の永遠の苦悩の海のひとしずくにすぎない(ハルトマン『道徳意識の現象学』八六六頁以下)。
(p233)
「人間は認識の力を用いて、個人的満足の追求(エゴイズム)が愚かな行為であることを明らかにすると共に、宇宙の活動への没我的帰依を通して、神の救済のために働くという使命に従わねばならない。ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観主義は崇高な使命に対する帰依の態度へわれわれを導く。
けれどもこのことは経験の上に基礎をおいた主張だと言えるのか。」
以降、シュタイナーはエドゥアルト・フォン・ハルトマン、ショーペンハウアーの悲観主義を中心に、文章を展開し、その矛盾について論駁していく。
(p233~235)
「満足への努力は、生きるために生活内容を広く手に入れようとすることである。空腹のときには満腹を求めるが、それは生体の機能が養分という新しい生活内容を取り込もうとすることである。名誉への努力は外から認めてもらえた自分の個人的な行動に価値をおこうとし、認識への努力は見たり聞いたりできる世界の中に自分の理解し得ない何かが存在するときに生じる。そのような努力が充たされたときには快感が、充たされぬときには不快感が生じる。その際注意する必要があるのは、快感や不快感は努力の成功、不成功に左右される、ということである。努力そのものは決して不快感としては感じられない。それ故、努力の結果うまくいったときには、すぐにまた新しく努力しようとする。そしてその努力をどんなに繰り返しても、快感が不快感に変わることはない。一度味わった楽しみは何度でもその楽しみを繰り返したり、新たな快感を求めたりするのである。欲求が充たされないとき、はじめて不快感が生じる。一度体験された楽しみよりももっと大きな、またはもっと洗練された快感をさらに求めても、それを手に入れる手段が見出せない時には、快感から不快感が生じる場合もでてくる。楽しみの結果、自然に不快感が生じるときもある。例えば女性が性的な享受の後で、陣痛の苦しみや子育ての大変さを体験させられるときには、享受が苦悩を作り出したということができる。努力が不快感を呼び起こすのだとすれば、努力しなければ快感が生じるだろうと思う人もいるかも知れないが、実際はその反対である。われわれの生活内容のための努力の欠如は退屈を生み出す。そして、退屈は不快感と結びつく。けれども当然のことながら、努力が目標に到るまでには、また目標へ到る希望が生じるまでには長い時間を要することがあるので、不快と努力そのものとはまったく無関係である。目標に到り得ないことが不快感と結びつくだけである。したがって欲求または努力(意志)そのものが苦悩の源泉だと考えるショウペンハウアーは、いずれにせよ間違っている。
本当は、反対の方が正しいとさえ言い得る。努力(欲求)そのものが喜びを作るのである。まだ遠くにあっても、待ち望まれる目標への期待が与える喜びを知らない人がいようか。この喜びは、いつか叶えられるべき成功へ向けての労働の随伴者である。この快感は目標の達成にまったく依存していない。目標に到達したときには、努力することの快感に実現したことの快感がさらに新たに付け加わる。けれども、充たされぬ目標による不快感に加えて、なお幻滅の悲哀が付け加わり、最後には充たされぬ不快感の方が実現したときの満足感よりも大きいものになる、と言う人がいるとしたら、それに対しては次のように答えることができよう。逆の場合もあり得る。まだ欲求が充たされない時期のことを楽しく思い返せば、それが実現しなかったことの不快感を和らげてくれることもある。期待が裏切られた瞬間でも、「私は自分のやりたいことをやった」と言える人は、この主張の正しさを認めるだろう。力の限りにベストを尽くしたときの浄福な感情を無視できるのは、欲求が充たされなかったために、満足感だけでなく、欲求したことの喜びも損なわれてしまった、と主張する人だけである。
欲求が充たされれば確かに快感が呼び起こされるし、充たされないときには不快感が生じる。けれどもそのことから、快感は欲求の充足であり、不快感はその反対である、と結論づけることは許されない。快感や不快感は、欲求の結果が現れていないときにも生じ得る。病気は欲求の結果とは関係のない不快感を生じさせる。病気は健康への充たされぬ欲求であると主張しようとする人は過ちを犯している。その人は病気になりたくないという、意識化される必要のないあたりまえの願いを、積極的な欲望と見做している。自分の知らない金持ちの親戚から突然遺産を受け取った人がいるとすれば、それはあらかじめ欲求することなしに快感を与えてくれる場合であると言えよう。」
(p236)
「快感と不快感のどちらが強いかを比較対照する人は、三つの快感を区別しなければならない。欲求に際しての快感と、欲求が充たされるときの快感と、欲求することなく与えられる快感とである。そして帳簿の反対側に、退屈に際しての不快感と、充たされぬ努力から生じる不快感と、そして最後にわれわれが望まないのにやってくる不快感とを取り上げなければならない。自分が選んだのではなく、向うからやってきた仕事が原因で生じた不快感も、この最後の種類に含まれる。そこで次のような問いが生じる。このような感情の貸借関係の帳尻を合わせるための正しい手段は何か。エドゥアルト・フォン・ハルトマンはそれを理性的考量であると考えている。彼は『無意識の哲学』第七版の第二巻の二九〇頁で次のように述べている。「苦と快とは、それらが感じられる限りにおいてのみ存在する」。この点を推し進めれば、快にとっては感情の主観的な尺度しか存在しないことになる。私の不快感と快感との総計が喜びの方に黒字を残すか、それとも苦しみの方に黒字を残すかを、私は感じ取らねばならないというのである。ところが自分で記したこの一節を無視して、ハルトマンは次のように主張する。「或る人の生きがいがその人自身の主観的な尺度によってしか確かめられないとしても、……そのことは、各人が自分の人生の感情全体によって正しい人生の計算ができるとか、あるいは別の言葉で言えば、自分の人生についての判断全体が自分の主観的な体験に依存しているとかと言うことを意味しない」。けれどもこう述べることで、再び彼は理性的な評価を感情の価値基準にしている。」
(p237~238)
「エドゥアルト・フォン・ハルトマンの考え方に多かれ少なかれ同調しようとする人は、人生を正しく評価するには、快感と不快感の帳尻合わせを誤らせるような要因をすべて排除しなければならない、と信じるであろう。その人は二つの仕方でこのことを行おうとする。第一にわれわれの欲求(衝動や意志)が感情価値の冷静な評価に妨害を加える要因であると考えることによってである。例えば性欲を楽しみたいという欲求がその際の妨害の元であるということになる。性欲がわれわれの中で強力に働いているために、全然存在していないような快感を現出させている、というのである。われわれは楽しみたいと望む。だから楽しむときには悩みを告白したがらないのである。第二に感情を批判し、感情の対象が理性認識の前では幻想にすぎないことを明らかにすることによってである。そして知性の発達がその幻想を見破るところにまで達した瞬間に、その幻想は消えてしまう、ということを証明しようとする。」
その人はこの問題を次のように考えなければならない。自分の人生の中で優位を占めているのが快感なのか不快感なのかを明らかにしようとする人が見えっ張りであるとしたら、その人は、二つの誤謬から離れていなければならない筈である。その人は見えっ張りなのだから、見えっ張りであるという性格上の特徴によって、自分の業績を拡大レンズで眺めたときに喜びを味わい、自分の失敗は縮小レンズで眺めながら、自分の失敗を無視しようとする。思い出の中でも、その失敗は穏やかな光の中で現れる。一方彼にとって歓迎すべき社会的な成功の喜びはますます深く心に染み込む。このような事情は見えっ張りにとってはまことに好ましいと言えよう。幻想は自己観察がなされるときに、彼の不快感を弱めている。とはいえ彼の評価は間違ったものである。彼がヴェールで覆っている苦悩を、彼はありのままに体験しなければならなかった筈である。しかし彼は人生の帳簿の中に、その悩みを間違った仕方で記入している。正しく判断するようになるためには、自分を観察するときに、見えっ張りであることをやめなければならない。精神の眼にレンズをつけずに、これまでの人生を考察しなければならない。そうでなければ、帳簿の帳尻を合わせるために、商売熱心なあまり収入欄に事実以上の金額を書き記す商人と同じことになってしまう。」
(p238~241)
「けれどももっと先に進むことができる。その見えっ張りは、彼が求める社会的成功が無意味なものであることを洞察するようになる。彼は自分でそのような洞察に達するか、あるいは他人によってそう納得させられるかする。そして他人に認められることなど、理性的な人間にとって何の意味もないこと、「進化という人生の課題に関わるような、あるいはまた科学によって未解決のようなすべての事柄においては」、「多数派が間違っており、少数派が正しい」ということを考えるようになるであろう。「見えを導きの星としている人は人生の幸せをこのような判断の手に委ねる」(『無意識の哲学』第二巻三三二頁)。見えっ張りがこのように語るとき、彼が見えを張って現実であるかのように思い込んできた事柄を、したがってまた虚栄が生み出す幻影と結びついた感情を、すべて架空のものと認めなければならない。この理由から、さらに次のように言うことができよう。幻想から生じた快の感情は、人生の価値の帳簿から消し去らねばならない。そうして残されたものが、幻想にとらわれぬ人生の快感の総計となる。そしてこの総計は不快感の総計に較べると、あまりのも小さい。人生は決して楽しいものではない。存在しないことの方が存在することよりも優れている。
確かに虚栄心が入りこむことによって、快感の帳尻はごまかされたり、間違った結果を生み出したりする。しかし快感の対象が幻想であるかどうかは、そう簡単には断定できない。幻想と結びついた快の感情をすべて人生の快感側の帳尻から消し去ろうとすることこそ、人生の帳尻をまさにごまかすことになってしまうであろう。なぜなら見えっ張りにとって、大勢の人から認められることは本当の喜びなのである。その人自身かまたは別の誰かが後になって、この評価は本当のものでなかった、と思い知ったとしても、喜びに変りはない。一度体験できた喜びの感情は、そんなことで弱められたりはしない。そのような「錯覚した」感情を人生の帳尻から消し去ることは、感情について正しく判断することには決してならない。むしろ実際に存在する感情を人生から消し去ることになる。
一体どうしてそれを消し去る必要があるのか。このような感情もその持ち主に快感を提供してくれる。その感情を克服した人の場合にも、克服したという体験によって(「自分は何という優れた人物なのか!」という自己満足的な感情ばかりではなく、克服したことの中にある客観的な快感の源泉によって)当然精神化されてはいるが、同じように大きな快感が生じる。或る感情が幻想でしかないような対象と結びついているからといって、その感情を快感の側の帳尻から消し去る場合には、人生の価値を快感の量にではなく、快感の質に、そしてその快感の質を快感の原因となる事柄の価値に依存させることになる。しかし自分に与えられた人生の価値を快、不快の量から決めようとする場合、感情以外のところに快の価値の尺度を見出そうとすることは許されない。快の量と不快の量を比較して、そのどちらが大きいかを知ろうとする場合、どんな快、不快であっても、その実際の大きさだけが問題になる。それが幻想によるものかどうかはまったくどうでもよい。幻想や錯覚に基づく快感が理性の承認を得た快感に較べて、生きる上で僅かな価値しか持っていない、と考える人は、人生の価値を感情とは別の要因に帰していることになる。
快感が虚栄心と結びついているからといって、それに僅かな価値しか与えようとしない人は、おもちゃ工場がもたらす収益は、それが子どものいたずら用に作られた商品によって得ているからという理由で、その総計を例えば四分の一に減らそうとする商人のようなものである。
快と不快の量の比較だけを問題にするときには、快の感情を生ぜしめる対象が錯覚だったかどうかを考慮に入れる必要はまったくない。」
(p241~243)
「ハルトマンが人生における快、不快の量を理性的に比較考量することを勧めているので、われわれはその方向に沿って、これまで帳簿の片方に何を記入し、もう一方に何を記入したらいいかについて考えてきた。それでは一体、計算はどのようにされるべきなのか。一体理性はその帳尻を合わせるのにふさわしい能力を持っているのだろうか。
商人の場合、計算上の収益が実際に取り引きされる商品の売り上げと完全に対応していないときには、間違った計算をしたことになる。哲学者が頭だけで計算した快もしくは不快の余剰を感情が追認できないとしたら、その哲学者は明らかに間違った計算をしたことになる。
私は理性的な世界考察に基づく悲観論者の計算を監査するつもりではない。しかしこの計算に基づいて、人生という商売をさらに続けるべきか否かを決めようとする人は、計算上余剰が不快の方にある、と主張する哲学者の計算が合っているかどうかをまず確かめてみる必要がある。
ここでわれわれは余剰が快にあるか不快にあるかを理性だけに決めさせることのできない地点にまで達した。理性はこれから先、人生におけるこの余剰を知覚内容として示さねばならない。概念によるだけではなく、思考を仲介した概念と知覚内容との相互作用によってこそ(そして感情も知覚内容である)人間は現実を把握できるのである(一〇六頁以下参照)。商人が商売をやめようとするのは、経理担当者が計算した取り引き上の損失が事実によって確かめられたときである。それが確かめられなければ、商人は計算をやり直させるであろう。これとまったく同じ仕方で、人生のためにも計算することができる。哲学者が誰かに不快は快よりも大きい、と説明しようとするにも拘らず、言われた方がそのことを実感できないときには、その人は言うであろう。「君の考えは間違っている。問題をもう一度よく考え直してみたまえ」。しかし商売が特定の時点で本当に損害を蒙り、債権者を納得させるだけの信用をもはやどこにも見出せなくなるならばたとえ商人が帳簿の上で経営状況をはっきりとさせることを避けたとしても、破産してしまう。同様に或る人の不快の量が特定の時点で非常に大きくなり、将来の快への期待(信用)が彼の苦痛を納得させることがもはやできなくなれば、人生という商売も破産に追い込まれるであろう。
けれども、自殺者の数は元気に生き続ける人の数よりも比較的少ない。ごく限られた人たちだけが眼の前の不快のために人生の商売を閉じる。そこから一体、何が結論づけられるのか。不快の量が快の量よりも大きいという考えが正しくないという結論か、それとも私たちが生きていくことは快、不快の量にはまったく左右されないという事実かのいずれかである。」
(p243)
「エドゥアルト・フォン・ハルトマンの悲観主義はまったく独特の仕方で、人生は無価値であると明言している。そしてその理由は人生では苦しみの方が楽しみよりも勝っているからなのである。…」
ハルトマンの悲観主義の考え方の矛盾を追い詰めてきたシュタイナーの文章は、人生の価値基準について検討していく。
(p245~)
「以上の考え方はすべて快感が人生の価値基準であるという前提に立っている。人生は一定の額の衝動(欲求)に依存しているのだという。人生の価値が快感をもたらすか、不快感をもたらすかによって決められるものであるのなら、快よりも不快の方を過剰にしてしまうような衝動は無価値であると言わなければならない。だからわれわれはここで、衝動と快感とを対比させ、前者が後者によって計られるものかどうかを見極めようと思う。人生を「精神貴族」の立場で考えようとしているのではないか、という嫌疑をかけられずにすむように、われわれは「純動物的な」欲求である飢餓から考察を始めようと思う。
飢餓が生じるのは、われわれの諸器官の働きが、新しい養分の供給を受けなければ、それ以上正常には機能できなくなるときである。飢えた人がまず求めるのは、空腹を満たすことである。飢餓感がなくなるまで養分が十分に補給されると、食欲は満たされる。食欲を満たすときの満足感は、第一には飢餓が呼び起こした苦しみが取り除かれることにある。単なる食欲に加えて、別の欲求が生じる。人は誰でも、養分の摂取によって、妨げられた器官の機能を回復させ、飢餓の苦しみを取り除くだけではなく、好ましい味覚体験がそれに伴うように望む。空腹感を持っていても、あと三十分でおいしいご馳走にありつけると分っていれば、誰でもつまらない食べ物を先に食べて、大きな楽しみを台無しにしてしまおうとは思わない。食事の楽しみを完全に味わうためには、空腹でなければならない。したがって飢餓は快感の誘発者でもある。もしも世界中の空腹感が一度に満たされるとしたら、そこには食欲があるおかげで大量の喜びが生じることであろうが、同時に美食家の味覚神経を通常以上に敏感にしている味覚文化の楽しみもそれに付け加わる。
ところが近代自然科学の考え方によれば、自然は自分が維持できる数よりも、もっと多くの生命を生み出している。つまり飢餓の状態がそれを満たす状態よりももっと多いのである。自然によって産み出される生命の過剰部分は、生存競争の中で苦しみながら死滅していく。確かに生きようとする欲求は世界経過のどの時点でも、それに応えうる充足手段よりも常にもっと大きい。そして生きる喜びはそれによって常に損なわれている。しかしそれにも拘らず、実際には個々の生きる喜びはそれによって少しも減少しない。欲求がその都度満足されるとき、それに応じた量の喜びがそこに見出せる。たとえ当人や他の人の中に別の充たされぬ衝動がなお多く存在しているとしてもである。そこに減少されるものがあるとすれば、それは生きる喜びの価値である。或る生命存在の欲求の一部分だけが充たされるとき、それに応じた喜びが体験される。この充たされた部分の価値は、それが人生の喜び全体との関係の中で、当面の喜びの範囲が小さいものであればある程、小さい。われわれはこの価値を「分数」で表現することができるであろう。その場合、分子は当面の喜びであり、分母は人生における欲求の総量である。分子と分母の数が同じなら、つまりすべての欲求が充たされるなら、その分数の値(価値)は1である。その値が1よりも大きくなるのは、その生物の中に欲求よりももっと大きな快感が存在するときである。その値が1より小さくなるのは、喜びの量が欲求全体以下のときである。しかしこの分数は決してゼロにはならない。分子がどんなに僅かな値でしかなかったとしてもである。人間が死ぬ前に総決算をして、特定の衝動(例えば飢餓)から生じた喜びの量を全生涯に亘るこの衝動の欲求のすべてで割れば、快感の体験はおそらくごく僅かな値にしかならないであろう。しかしまったく価値がなくなることはない。ただ欲求の増加に伴って、その生きる喜びの価値は減少するだけである。同じことは自然界全体の生命についても当てはまる。…」
(p249~254)
「とはいえ、悲観主義者は言うであろう。食欲が満たされなければ、食べる喜びを奪われるだけでなく、もっと烈しい苦痛をも生じさせるであろう、と。悲観主義者はその際、飢餓に襲われた人たちの名状し難い苦しみを引き合いに出すかも知れない。そして飢えに苦しむ悲惨な状態が非常に大きな不快感を生み出している、と言うであろう。一定の季節になると、食物がなくなり、飢えに苦しむ動物たちの例も取り上げられるであろう。悲観主義者はそのようなさまざまの不幸を例にあげて、その苦しみの方が食欲を通して得られる喜びの量よりも、この世でははるかに上廻っている、と主張する。
快感と不快感を相互に比較して、利得と損失を比較するときのように、そのどちらが大きいかを決めることは、勿論可能である。しかし悲観主義者が不快感の方をより大きいと考え、そこから人生の価値のなさを結論づけるとすれば、その判断は間違っている。なぜならその計算は実生活においては意味を持たない計算だからである。…子どもが欲しいと思っている女性は、子どもを得ることで与えられる喜びを、妊娠、出産、子育てなどから生じる苦しみと比較したりはしない。その喜びを子どもが欲しいと願う欲求と結びつける。
…
人間とは本質的に、欲求に伴って生じる不快感がどんなに大きいものでも、それに耐えられる限りは、欲求対象を手に入れようと望むものなのだ。ところがこのような哲学は、人間にとって本来あり得ないような、不快感に対する快感の過剰という特別の事態に人間の意欲を依存させようとする。しかしこの態度はまったく間違っている。意思行為に対する本来の尺度は欲求である。そして欲求は、可能なときにはいつでも自己を貫徹しようとする。欲求を充足させる際に生じる快感と不快感に対する態度を決めるのは、合理的な哲学ではなく、まさに人生そのものである。…
世の中には快感よりも不快感の方が多い、と主張する悲観主義がかりに正しいとしても、このことがわれわれの生きる意志に影響を及ぼすことはないであろう。なぜなら人生は快感をさらに求め続けるであろうから。苦しみが楽しみよりも勝っていることが経験的に証明できたとしてもそして人生の価値を快感が勝っているということの中に見る哲学方面(幸福至上主義)の無意味さを指摘できたとしても、だからといって意志そのものが不合理な存在である、ということにはならない。なぜなら意志は過剰な快感をではなく、不快感を克服したあとにも存在する快感を求め続けるのだから。最後に残された快感がいつでも努力に価する目標となる。」
シュタイナーの文章は、ここにきていったん悲観主義に歩み寄り、悲観主義的倫理観についてその論理矛盾を明らかにしていく。
(p254~257)
「これまでは、悲観主義を否定するために、人生において快感と不快感のどちらが多いかを決めることなどできない、と主張されてきた。比較計算をするためには、計算対象が量的に比較できなければならない。どの不快感もどの快感も特定量の強さと持続力をもっている。いろいろな種類の快感の大きさを、少なくとも比較考量することは可能である。上質の葉巻タバコと上手な冗談のどちらがより大きな楽しみを与えてくれるかを、われわれは知ることさえできる。さまざまな快感、不快感の大きさを比較することに非難を加えることはできない。だから人生において快感が勝っているのか、不快感が勝っているのかを決めようとする人は、まったく正しい前提から出発している。悲観主義の主張の間違いを指摘することはできても、快感と不快感の量を科学的に比較する可能性や快感の帳尻合わせに対して疑問を呈することはできない。けれどもこの計算の結果によって、人間の意志を何らかの仕方で規定することができる、と主張するのは間違いである。われわれの行動の価値を、快感と不快感のどちらが勝っているかで決めることができるのは、行動の目標となる対象がわれわれにとってどうでもよいようなものの場合である。仕事の後で、軽く遊んで楽しもうとするようなとき、そしてそのために何をしてもいいと思っているようなとき、私は一番大きな快感と一番少ない不快感とを提供してくれるものは何か、と考えるであろう。そして快感と不快感とを天秤にかけ、秤が不快感の方に傾くことが分れば、直刻そんなことはしなくなるであろう。子どもにおもちゃを買ってあげようとするときにも、子どもに一番喜んでもらえて、危険の少ないものは何か、と考えて選ぶであろう。しかしそうでない場合にはいつでも、快感と不快感の帳尻合わせに従って決めようなどとはしない。
したがって、悲観主義的な倫理学者が快感より不快感の方が勝っていると指摘することによって、文化的な仕事へ没我的に帰依する地盤が用意できると考えたとしたら、人間の意思が本質的にこの認識の影響を受けたりはしない、ということを考えていないことになる。人間の行動は、あらゆる困難を乗り越えた後で得られる満足感を基準にしている。この満足感への期待が、人間の行為の根拠なのである。個人の労働も社会の文化活動もこの期待から生じる。悲観主義的な倫理観は幸福追求の不可能性を明示しなければならないと信じている。そうすれば人間は本来の道徳的課題に身を捧げるつもりになれる、というのである。しかしこの道徳的な課題といえども、具体的に考えれば、自然的、精神的な衝動以外の何ものでもない。そしてそこにどんな不快感が混ざっていようとも、その衝動は満たされることを求める。それ故悲観主義が根絶しようとしている「幸福の追求」などというものは、まったく存在していない。人間が課題と出合い、その課題の意味を悟るとき、その課題を自分に与えられた能力で遂行しようと欲する。悲観主義的な倫理観は、快感の追求をあきらめるときにはじめて、人生の課題として認識したものに人間は身を捧げる、と説く。しかしどんな倫理観といえども、人間的な欲求充足と道徳理想の実現以外に人生の課題を考え出すことはできないし、欲求の充足に伴う快感を人間から取り上げることもできない。「快感を求めるな。それを手にいれることは不可能なのだ。課題を認識し、それに向かって努力せよ」と悲観主義者が言うとすれば、それに対しては次のように応じることができよう。「それはあまり褒めたやり方ではない。人間が幸福だけを追求している、と主張するのは、迷路をさまよっている哲学者の思いつきにすぎない。人間は自分の本性の欲求を満足させようと努力し、この努力に適った目標を目指している。決して抽象的な『幸福』などを追求しているのではない。そしてその目標の達成が、人間にとっては快感として体験されるのである」。悲観主義的な倫理観の要求、「快感を追求せず、人生の課題を認識し、それの実現に努力せよ」は、人間の本性が欲していることを述べているにすぎない。人間は哲学によって心を逆撫でされる必要はない。道徳的であるために、自分の本性の欲求を捨て去る必要はない。道徳性は正しいと認めた目標への努力の中に存する。その努力は、それに伴う不快感がその欲求を麻痺させない限りは、続けられる。そしてこれがすべての意志の本質である。倫理学は快感への努力をすべて根減することにあるのではない。もしそうであるとすれば、蒼ざめた抽象理念が支配して、人生の楽しみを妨げてしまう。本当の倫理学は、たとえその道がどれ程いばらに満ちていようとも、目標達成へ向けての、理念的直観に担われた力強い意志に基づいている。」
シュタイナーは道徳的想像力の中に人間の自由が在ることを示唆している。第一三章を締めくくる以下の文章からそう考える。
(p257~261)
「道徳理想は人間の道徳的想像力から発している。その理想の実現は、人間が苦しみや悩みを克服してまでもその理想を欲求しようとするかどうかにかかっている。理想は人間の直観内容であり、精神が引きしぼる弓である。人間はそれを欲する。なぜならそれの実現は至上の快感なのだからである。人間は倫理学によって快感の追求を禁じられたり、何に向かって努力すべきなのかを命じられたりすることを必要だとは思っていない。道徳的想像力を活発に働かせて、意志に力強さを与えてくれるような直観内容をもつことができれば、人間はますます道徳理想を追求するようになる。そして人間存在そのものの中に組み込まれているさまざまな障害を、そしてその一部分である不快感をも乗り越えることができるようになる。
偉大な理想を追求する人は、そうすることが自分の本性の一部分になっているからこそ、そうするのである。だからそれを実現することは、その人にとって大きな喜びであるだろう。それに較べれば、日常的な衝動を満足させるときの快感などは些細な事柄にすぎない。理想主義者は、その理想を現実に移し換えるとき、精神的に耽溺しているのである。
人間の欲求充足に伴う快感を根減しようとする人は、したいからするのではなく、せねばならないからする奴隷のような存在に人間をしておかなければならない。なぜなら自分が望んだことを達成するときには、常に快感が伴うのだから。善と呼ばれるものは、真の人間本性にとって、為すべき事柄なのではなく、為そうと欲する事柄なのである。このことを認めない人は、人間が欲する事柄をまずその人間の内から追い払って、別の意志内容を外からその人に押しつけなければならない。
欲求の実現に価値があるのは、それが人間の本性から生じているからである。そして実現された事柄に価値があるのは、それを人間が欲したからである。人間の意志が望んだ目標が無価値だというのであれば、価値のある目標を人間が欲していない何かから取ってこなければならなくなる。
悲観主義を基礎におく倫理観は道徳的想像力を軽視する。個々の人間精神は自分で努力目標を指示することができない、と考える人だけが、意思行為はすべて快感への憧れをもっている、と考える。想像力のない人は道徳理念を自分では創造できないので、それを受け取るしかない。低級な欲求の充足を計ろうとする人は、それを肉体の本性にまかせればよい。けれども人間全体を発展させるためには、精神に由来する欲求がなくてはならない。人間はそもそもこのような高級な欲求を持っていない、と考える人だけが、高級な欲求は外から受け取るべきだ、と説く。その場合には、人間は自分の望まない事柄を行う義務がある、と言うのも正しいであろう。自分の望まない使命を達成しようとするのだから、自分の意思は退けておくように、と人間に要求する倫理観は、それがどんなものであれ、人間全体のことを考えていない。精神的な欲求能力を欠いた人間だけが人間だ、と思い込んでいる。調和的な発達を遂げた人間にとって、善の理念は自分の本質の範囲外にではなく、その範囲内にある。道徳行為は一面的な利己心を根絶することではなく、人間本性の十分な発展の中で生じる。自分の利己心を殺すときにのみ、道徳理想を達成することができる、と考える人は、この理想が、いわゆる動物的な欲望と同じように、人間自身によって欲せられていることを理解していない。
以上に述べた考え方が誤解されやすいものであることを否定することはできない。道徳的想像力のない未熟な人間たちは自分の生半可な本性を完全な人間性の内実だと思い込み、誰にも妨げられずに「好きな生き方」をするために、自分の欲しない道徳理念をすべて拒否する。成熟した人間に当てはまることが生半可な人間には当てはまらない。しかしそれは当然なことである。教育を通してこれから道徳的な本性が低級な情念の卵の殻を打ち破ることができるように、まだ教育を受けている最中の若い人たちに対して、成熟した人間に当てはまることを直ちに要求することはできない。しかしここは未成熟の人間をいかに教育すべきかを論じる場所ではない。成熟した人間本性の中に存在している自由の可能性をわれわれは問題にしているのである。自由は感覚的もしくは心情的な要求からの行動において実現されるのではなく、精神的な直観に担われた行動において実現される。
成熟した人間は自分で自分に価値を付与する。自然もしくは造物主から恩恵を受けようと努めるのでもなければ、快感の追求をやめなければ認識できない、というような抽象的な義務を果たすのでもない。欲するままに行動する。その行為は自分の倫理的直観の基準に従っている。そして自分の欲求の達成を人生の本当の喜びであると感じている。その人は人生の価値を、努力したこととその成果との関係に即して定める。意志の代わりに単なる当為(為すべきこと)を、欲求の代わりに単なる義務を措定する倫理観は、人間の価値を義務の欲求とその成果との関係に即して定める。この倫理観は人間本性の外にある尺度に従って人間を計る。―—以上に論じてきた著者の観点は、人間に対して、自分自身に立ち返るように求めている。この観点は、各人が自分の意思を基準にしているときにのみ、そこに人生の本当の価値を認める。個人によって肯定されない人生価値も、個人に由来しない人生目的も、受け容れない。あらゆる側面から吟味された個人の本質の中に、その人自身の主人を、その人自身の鑑定人を見出す。」
下記補遺のキーセンテンスを抜粋させていただきました。
(p261~262)
●一九一八年の新版のための補遺
「…すなわち、自由を実現するためには、人間本性の中で意思が直観的思考によって担われていなければならない、という点をである。勿論、意思が直観以外の何かによって左右されることもある。しかし人間本性から流れてくる直観を自由に生かすことによってのみ、道徳価値は生み出される。倫理的個体主義はそのような道徳性のまったき尊厳を表現するのにふさわしい立場である。その立場は、意志を規範に外から合わせることが道徳的な態度なのではなく、道徳意思が自分の存在に一部分になるように、それを自分の内部からおのずと生じてくるようにすることが、道徳的な態度なのだ、と考える。…」
ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』((高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の読書は、一語一センテンス、全て大切に思えてくる。だから読書しながら、全ての文章が必要だと思う。それゆえに、長い引用になってしまい、申し訳ございません。この私のブログを見ていただいた方は、是非、この書籍を購入し、繰り返し読んでい戴きたい。
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)で今井先生は、「人生の目的と人生の使命について論じた後、シュタイナーは人生の価値として、楽観主義と悲観主義を取り上げます。…」この第一三章を分かり易く簡潔に捉えています。この書籍も併せて購入し読んで戴きたい。とても参考になることは確かです。
今回16回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一三章 人生の価値――楽観主義と悲観主義」(p229~262)を読んでいきます。33ページにわたる長い章になっていいます。
一口で私の感想を述べるなら、この十三章において、シュタイナーはライプニッツやシャフツベリの楽観主義の立場を尊重している。そして、ショウペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンが主張する悲観主義の問題点、矛盾を明らかにしていく。特に「…ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観主義は崇高な使命に対する帰依の態度へわれわれを導く。…」に留意しながら、悲観主義を乗り越えていく文章を展開している。
先ず私の読書は、私の主感によるキーワード、キーセンテンスを押えます。
この第一三章は、次の文章から始まります。
「人生の目的や使命の問題(二〇五頁以下参照)の対をなすのは、人生の価値の問題である。この点については二つの対立的な立場がある。そしてその二つの間には、考え得る限りのさまざまな仲介の試みがある。」(p229冒頭)
(p229~230)
「一方の立場は語る。――「世界は存在し得る最上のものであり、この世界での生活や行動は計り難い程の価値を持つ。…私たちは幸福のより少ない状態を不幸であると感じる。不幸は善の不在であり、それ自身では意味を持つものなのではない」。」
「他方の立場は次のように主張する。――「人生は苦悩と不幸に満ちており、不快がいたるところで快を圧倒し、苦しみが喜びを圧倒している。生きることは重荷を背負うことである。どんな場合でも、存在しないことの方が存在することより好ましい」。」
「前者、つまり楽観主義の代表者としては、シャフツベリとライプニッツ、後者、つまり悲観主義の代表者としては、ショウペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンがあげられる。」
(p230)
「ライプニッツは世界を存在し得る最善のものであると考えている。…神が世界と人類とから何を期待しているのか知るとき、人は正しい行いができるであろう。そして他人の行った善に自分の善を付け加えることを幸せと感じるであろう。したがって楽観主義の立場からいえば、人生は生きるに価する。人生は共に働く喜びを教えてくれるに違いない。」
(p230~231)
「ショウペンハウアーは問題の本質を別な眼で見ている。彼は宇宙に根拠を与える存在(神)を全能で最高善の存在ではなく、盲目的な意志と衝動である、と考えている。決して充たされることのない満足を求めて永遠に努力することが、すべての意志の基本である。なぜならある努力目標が達成されると、新しい要求がすぐにまた現れてくるからである。満足はいつでも僅かな間しか続かない。私たちの人生のほとんどすべての内容は充たされぬ思いであり、不満足であり、苦悩である。盲目的な衝動が最終的に消えるとき、一切の生活内容も失われ、人生は無限の退屈さに落ち込む。それゆえ比較的な意味で最善なのは、自分の中の願望や要求を押し殺し、意志を殺害することである。ショウペンハウアーの悲観主義の帰結は何もしないことであり、その道徳目標は普遍的怠惰である。」
(p231~233)
「ハルトマンは悲観主義を本質的に別な仕方で基礎づけ、それを彼の倫理学に適用している。ハルトマンは時代の流行に従い、自分の世界観を経験の上に基礎づけ、人生の観察を通して、この世の快と不快のどちらが優勢であるかを決めようとする。人間にとって善であり、幸福であると思えるものを理性の前に整列させる。そして厳密に観察の眼をむければ、満足の対象と思われているものがすべて幻想にすぎないことを、彼は示そうとする。…ハルトマンは、この世における理念(叡智)の存在を否定してはいない。盲目的衝動(意志)と並ぶ同等の権利をそれに与えており、この世の苦悩を賢明な世界目的に合致させることで、天地創造に意味づけを与えようとしている。しかし宇宙を生きる存在の苦悩は、神の苦悩そのものでしかあり得ない。なぜなら世界(宇宙)生命の全体は神の生命と同一だからである。けれども全智全能の存在は、苦悩からの解脱の中にのみ、自分の目標を見出すことができる。そしてすべての存在は苦悩なのだから生存からの解脱の中にのみ、その目標を見出すことができる。存在をそれよりはるかに優れた非存在の中に移すことが、宇宙創造の目的である。宇宙の活動は神の苦悩との終わりなき戦いであり、その終局はすべての生存の絶滅である。人間道徳の意味は、それ故、生存の絶滅への過程に関わることである。神が宇宙を創造したのは、その宇宙を通して自分の無限苦から解放されんがためである。宇宙とは「いわば絶対者におけるかゆみのあるできもののようなもの」である。このできものによって、絶対者の無意識的治癒力がその内的疾患から解放される。「またはそれは痛みの伴う膏薬のようなものであり、全にして一なる存在が自分自身にこの膏薬を貼り、内的苦悩をまず外へ向け、そして排除できるようにする。人間は宇宙の分肢であり、人間の中で神が苦悩している。神が宇宙を創造するのは、自分の限りない苦悩を発散させるためであり、われわれひとりひとりの苦悩は神の永遠の苦悩の海のひとしずくにすぎない(ハルトマン『道徳意識の現象学』八六六頁以下)。
(p233)
「人間は認識の力を用いて、個人的満足の追求(エゴイズム)が愚かな行為であることを明らかにすると共に、宇宙の活動への没我的帰依を通して、神の救済のために働くという使命に従わねばならない。ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観主義は崇高な使命に対する帰依の態度へわれわれを導く。
けれどもこのことは経験の上に基礎をおいた主張だと言えるのか。」
以降、シュタイナーはエドゥアルト・フォン・ハルトマン、ショーペンハウアーの悲観主義を中心に、文章を展開し、その矛盾について論駁していく。
(p233~235)
「満足への努力は、生きるために生活内容を広く手に入れようとすることである。空腹のときには満腹を求めるが、それは生体の機能が養分という新しい生活内容を取り込もうとすることである。名誉への努力は外から認めてもらえた自分の個人的な行動に価値をおこうとし、認識への努力は見たり聞いたりできる世界の中に自分の理解し得ない何かが存在するときに生じる。そのような努力が充たされたときには快感が、充たされぬときには不快感が生じる。その際注意する必要があるのは、快感や不快感は努力の成功、不成功に左右される、ということである。努力そのものは決して不快感としては感じられない。それ故、努力の結果うまくいったときには、すぐにまた新しく努力しようとする。そしてその努力をどんなに繰り返しても、快感が不快感に変わることはない。一度味わった楽しみは何度でもその楽しみを繰り返したり、新たな快感を求めたりするのである。欲求が充たされないとき、はじめて不快感が生じる。一度体験された楽しみよりももっと大きな、またはもっと洗練された快感をさらに求めても、それを手に入れる手段が見出せない時には、快感から不快感が生じる場合もでてくる。楽しみの結果、自然に不快感が生じるときもある。例えば女性が性的な享受の後で、陣痛の苦しみや子育ての大変さを体験させられるときには、享受が苦悩を作り出したということができる。努力が不快感を呼び起こすのだとすれば、努力しなければ快感が生じるだろうと思う人もいるかも知れないが、実際はその反対である。われわれの生活内容のための努力の欠如は退屈を生み出す。そして、退屈は不快感と結びつく。けれども当然のことながら、努力が目標に到るまでには、また目標へ到る希望が生じるまでには長い時間を要することがあるので、不快と努力そのものとはまったく無関係である。目標に到り得ないことが不快感と結びつくだけである。したがって欲求または努力(意志)そのものが苦悩の源泉だと考えるショウペンハウアーは、いずれにせよ間違っている。
本当は、反対の方が正しいとさえ言い得る。努力(欲求)そのものが喜びを作るのである。まだ遠くにあっても、待ち望まれる目標への期待が与える喜びを知らない人がいようか。この喜びは、いつか叶えられるべき成功へ向けての労働の随伴者である。この快感は目標の達成にまったく依存していない。目標に到達したときには、努力することの快感に実現したことの快感がさらに新たに付け加わる。けれども、充たされぬ目標による不快感に加えて、なお幻滅の悲哀が付け加わり、最後には充たされぬ不快感の方が実現したときの満足感よりも大きいものになる、と言う人がいるとしたら、それに対しては次のように答えることができよう。逆の場合もあり得る。まだ欲求が充たされない時期のことを楽しく思い返せば、それが実現しなかったことの不快感を和らげてくれることもある。期待が裏切られた瞬間でも、「私は自分のやりたいことをやった」と言える人は、この主張の正しさを認めるだろう。力の限りにベストを尽くしたときの浄福な感情を無視できるのは、欲求が充たされなかったために、満足感だけでなく、欲求したことの喜びも損なわれてしまった、と主張する人だけである。
欲求が充たされれば確かに快感が呼び起こされるし、充たされないときには不快感が生じる。けれどもそのことから、快感は欲求の充足であり、不快感はその反対である、と結論づけることは許されない。快感や不快感は、欲求の結果が現れていないときにも生じ得る。病気は欲求の結果とは関係のない不快感を生じさせる。病気は健康への充たされぬ欲求であると主張しようとする人は過ちを犯している。その人は病気になりたくないという、意識化される必要のないあたりまえの願いを、積極的な欲望と見做している。自分の知らない金持ちの親戚から突然遺産を受け取った人がいるとすれば、それはあらかじめ欲求することなしに快感を与えてくれる場合であると言えよう。」
(p236)
「快感と不快感のどちらが強いかを比較対照する人は、三つの快感を区別しなければならない。欲求に際しての快感と、欲求が充たされるときの快感と、欲求することなく与えられる快感とである。そして帳簿の反対側に、退屈に際しての不快感と、充たされぬ努力から生じる不快感と、そして最後にわれわれが望まないのにやってくる不快感とを取り上げなければならない。自分が選んだのではなく、向うからやってきた仕事が原因で生じた不快感も、この最後の種類に含まれる。そこで次のような問いが生じる。このような感情の貸借関係の帳尻を合わせるための正しい手段は何か。エドゥアルト・フォン・ハルトマンはそれを理性的考量であると考えている。彼は『無意識の哲学』第七版の第二巻の二九〇頁で次のように述べている。「苦と快とは、それらが感じられる限りにおいてのみ存在する」。この点を推し進めれば、快にとっては感情の主観的な尺度しか存在しないことになる。私の不快感と快感との総計が喜びの方に黒字を残すか、それとも苦しみの方に黒字を残すかを、私は感じ取らねばならないというのである。ところが自分で記したこの一節を無視して、ハルトマンは次のように主張する。「或る人の生きがいがその人自身の主観的な尺度によってしか確かめられないとしても、……そのことは、各人が自分の人生の感情全体によって正しい人生の計算ができるとか、あるいは別の言葉で言えば、自分の人生についての判断全体が自分の主観的な体験に依存しているとかと言うことを意味しない」。けれどもこう述べることで、再び彼は理性的な評価を感情の価値基準にしている。」
(p237~238)
「エドゥアルト・フォン・ハルトマンの考え方に多かれ少なかれ同調しようとする人は、人生を正しく評価するには、快感と不快感の帳尻合わせを誤らせるような要因をすべて排除しなければならない、と信じるであろう。その人は二つの仕方でこのことを行おうとする。第一にわれわれの欲求(衝動や意志)が感情価値の冷静な評価に妨害を加える要因であると考えることによってである。例えば性欲を楽しみたいという欲求がその際の妨害の元であるということになる。性欲がわれわれの中で強力に働いているために、全然存在していないような快感を現出させている、というのである。われわれは楽しみたいと望む。だから楽しむときには悩みを告白したがらないのである。第二に感情を批判し、感情の対象が理性認識の前では幻想にすぎないことを明らかにすることによってである。そして知性の発達がその幻想を見破るところにまで達した瞬間に、その幻想は消えてしまう、ということを証明しようとする。」
その人はこの問題を次のように考えなければならない。自分の人生の中で優位を占めているのが快感なのか不快感なのかを明らかにしようとする人が見えっ張りであるとしたら、その人は、二つの誤謬から離れていなければならない筈である。その人は見えっ張りなのだから、見えっ張りであるという性格上の特徴によって、自分の業績を拡大レンズで眺めたときに喜びを味わい、自分の失敗は縮小レンズで眺めながら、自分の失敗を無視しようとする。思い出の中でも、その失敗は穏やかな光の中で現れる。一方彼にとって歓迎すべき社会的な成功の喜びはますます深く心に染み込む。このような事情は見えっ張りにとってはまことに好ましいと言えよう。幻想は自己観察がなされるときに、彼の不快感を弱めている。とはいえ彼の評価は間違ったものである。彼がヴェールで覆っている苦悩を、彼はありのままに体験しなければならなかった筈である。しかし彼は人生の帳簿の中に、その悩みを間違った仕方で記入している。正しく判断するようになるためには、自分を観察するときに、見えっ張りであることをやめなければならない。精神の眼にレンズをつけずに、これまでの人生を考察しなければならない。そうでなければ、帳簿の帳尻を合わせるために、商売熱心なあまり収入欄に事実以上の金額を書き記す商人と同じことになってしまう。」
(p238~241)
「けれどももっと先に進むことができる。その見えっ張りは、彼が求める社会的成功が無意味なものであることを洞察するようになる。彼は自分でそのような洞察に達するか、あるいは他人によってそう納得させられるかする。そして他人に認められることなど、理性的な人間にとって何の意味もないこと、「進化という人生の課題に関わるような、あるいはまた科学によって未解決のようなすべての事柄においては」、「多数派が間違っており、少数派が正しい」ということを考えるようになるであろう。「見えを導きの星としている人は人生の幸せをこのような判断の手に委ねる」(『無意識の哲学』第二巻三三二頁)。見えっ張りがこのように語るとき、彼が見えを張って現実であるかのように思い込んできた事柄を、したがってまた虚栄が生み出す幻影と結びついた感情を、すべて架空のものと認めなければならない。この理由から、さらに次のように言うことができよう。幻想から生じた快の感情は、人生の価値の帳簿から消し去らねばならない。そうして残されたものが、幻想にとらわれぬ人生の快感の総計となる。そしてこの総計は不快感の総計に較べると、あまりのも小さい。人生は決して楽しいものではない。存在しないことの方が存在することよりも優れている。
確かに虚栄心が入りこむことによって、快感の帳尻はごまかされたり、間違った結果を生み出したりする。しかし快感の対象が幻想であるかどうかは、そう簡単には断定できない。幻想と結びついた快の感情をすべて人生の快感側の帳尻から消し去ろうとすることこそ、人生の帳尻をまさにごまかすことになってしまうであろう。なぜなら見えっ張りにとって、大勢の人から認められることは本当の喜びなのである。その人自身かまたは別の誰かが後になって、この評価は本当のものでなかった、と思い知ったとしても、喜びに変りはない。一度体験できた喜びの感情は、そんなことで弱められたりはしない。そのような「錯覚した」感情を人生の帳尻から消し去ることは、感情について正しく判断することには決してならない。むしろ実際に存在する感情を人生から消し去ることになる。
一体どうしてそれを消し去る必要があるのか。このような感情もその持ち主に快感を提供してくれる。その感情を克服した人の場合にも、克服したという体験によって(「自分は何という優れた人物なのか!」という自己満足的な感情ばかりではなく、克服したことの中にある客観的な快感の源泉によって)当然精神化されてはいるが、同じように大きな快感が生じる。或る感情が幻想でしかないような対象と結びついているからといって、その感情を快感の側の帳尻から消し去る場合には、人生の価値を快感の量にではなく、快感の質に、そしてその快感の質を快感の原因となる事柄の価値に依存させることになる。しかし自分に与えられた人生の価値を快、不快の量から決めようとする場合、感情以外のところに快の価値の尺度を見出そうとすることは許されない。快の量と不快の量を比較して、そのどちらが大きいかを知ろうとする場合、どんな快、不快であっても、その実際の大きさだけが問題になる。それが幻想によるものかどうかはまったくどうでもよい。幻想や錯覚に基づく快感が理性の承認を得た快感に較べて、生きる上で僅かな価値しか持っていない、と考える人は、人生の価値を感情とは別の要因に帰していることになる。
快感が虚栄心と結びついているからといって、それに僅かな価値しか与えようとしない人は、おもちゃ工場がもたらす収益は、それが子どものいたずら用に作られた商品によって得ているからという理由で、その総計を例えば四分の一に減らそうとする商人のようなものである。
快と不快の量の比較だけを問題にするときには、快の感情を生ぜしめる対象が錯覚だったかどうかを考慮に入れる必要はまったくない。」
(p241~243)
「ハルトマンが人生における快、不快の量を理性的に比較考量することを勧めているので、われわれはその方向に沿って、これまで帳簿の片方に何を記入し、もう一方に何を記入したらいいかについて考えてきた。それでは一体、計算はどのようにされるべきなのか。一体理性はその帳尻を合わせるのにふさわしい能力を持っているのだろうか。
商人の場合、計算上の収益が実際に取り引きされる商品の売り上げと完全に対応していないときには、間違った計算をしたことになる。哲学者が頭だけで計算した快もしくは不快の余剰を感情が追認できないとしたら、その哲学者は明らかに間違った計算をしたことになる。
私は理性的な世界考察に基づく悲観論者の計算を監査するつもりではない。しかしこの計算に基づいて、人生という商売をさらに続けるべきか否かを決めようとする人は、計算上余剰が不快の方にある、と主張する哲学者の計算が合っているかどうかをまず確かめてみる必要がある。
ここでわれわれは余剰が快にあるか不快にあるかを理性だけに決めさせることのできない地点にまで達した。理性はこれから先、人生におけるこの余剰を知覚内容として示さねばならない。概念によるだけではなく、思考を仲介した概念と知覚内容との相互作用によってこそ(そして感情も知覚内容である)人間は現実を把握できるのである(一〇六頁以下参照)。商人が商売をやめようとするのは、経理担当者が計算した取り引き上の損失が事実によって確かめられたときである。それが確かめられなければ、商人は計算をやり直させるであろう。これとまったく同じ仕方で、人生のためにも計算することができる。哲学者が誰かに不快は快よりも大きい、と説明しようとするにも拘らず、言われた方がそのことを実感できないときには、その人は言うであろう。「君の考えは間違っている。問題をもう一度よく考え直してみたまえ」。しかし商売が特定の時点で本当に損害を蒙り、債権者を納得させるだけの信用をもはやどこにも見出せなくなるならばたとえ商人が帳簿の上で経営状況をはっきりとさせることを避けたとしても、破産してしまう。同様に或る人の不快の量が特定の時点で非常に大きくなり、将来の快への期待(信用)が彼の苦痛を納得させることがもはやできなくなれば、人生という商売も破産に追い込まれるであろう。
けれども、自殺者の数は元気に生き続ける人の数よりも比較的少ない。ごく限られた人たちだけが眼の前の不快のために人生の商売を閉じる。そこから一体、何が結論づけられるのか。不快の量が快の量よりも大きいという考えが正しくないという結論か、それとも私たちが生きていくことは快、不快の量にはまったく左右されないという事実かのいずれかである。」
(p243)
「エドゥアルト・フォン・ハルトマンの悲観主義はまったく独特の仕方で、人生は無価値であると明言している。そしてその理由は人生では苦しみの方が楽しみよりも勝っているからなのである。…」
ハルトマンの悲観主義の考え方の矛盾を追い詰めてきたシュタイナーの文章は、人生の価値基準について検討していく。
(p245~)
「以上の考え方はすべて快感が人生の価値基準であるという前提に立っている。人生は一定の額の衝動(欲求)に依存しているのだという。人生の価値が快感をもたらすか、不快感をもたらすかによって決められるものであるのなら、快よりも不快の方を過剰にしてしまうような衝動は無価値であると言わなければならない。だからわれわれはここで、衝動と快感とを対比させ、前者が後者によって計られるものかどうかを見極めようと思う。人生を「精神貴族」の立場で考えようとしているのではないか、という嫌疑をかけられずにすむように、われわれは「純動物的な」欲求である飢餓から考察を始めようと思う。
飢餓が生じるのは、われわれの諸器官の働きが、新しい養分の供給を受けなければ、それ以上正常には機能できなくなるときである。飢えた人がまず求めるのは、空腹を満たすことである。飢餓感がなくなるまで養分が十分に補給されると、食欲は満たされる。食欲を満たすときの満足感は、第一には飢餓が呼び起こした苦しみが取り除かれることにある。単なる食欲に加えて、別の欲求が生じる。人は誰でも、養分の摂取によって、妨げられた器官の機能を回復させ、飢餓の苦しみを取り除くだけではなく、好ましい味覚体験がそれに伴うように望む。空腹感を持っていても、あと三十分でおいしいご馳走にありつけると分っていれば、誰でもつまらない食べ物を先に食べて、大きな楽しみを台無しにしてしまおうとは思わない。食事の楽しみを完全に味わうためには、空腹でなければならない。したがって飢餓は快感の誘発者でもある。もしも世界中の空腹感が一度に満たされるとしたら、そこには食欲があるおかげで大量の喜びが生じることであろうが、同時に美食家の味覚神経を通常以上に敏感にしている味覚文化の楽しみもそれに付け加わる。
ところが近代自然科学の考え方によれば、自然は自分が維持できる数よりも、もっと多くの生命を生み出している。つまり飢餓の状態がそれを満たす状態よりももっと多いのである。自然によって産み出される生命の過剰部分は、生存競争の中で苦しみながら死滅していく。確かに生きようとする欲求は世界経過のどの時点でも、それに応えうる充足手段よりも常にもっと大きい。そして生きる喜びはそれによって常に損なわれている。しかしそれにも拘らず、実際には個々の生きる喜びはそれによって少しも減少しない。欲求がその都度満足されるとき、それに応じた量の喜びがそこに見出せる。たとえ当人や他の人の中に別の充たされぬ衝動がなお多く存在しているとしてもである。そこに減少されるものがあるとすれば、それは生きる喜びの価値である。或る生命存在の欲求の一部分だけが充たされるとき、それに応じた喜びが体験される。この充たされた部分の価値は、それが人生の喜び全体との関係の中で、当面の喜びの範囲が小さいものであればある程、小さい。われわれはこの価値を「分数」で表現することができるであろう。その場合、分子は当面の喜びであり、分母は人生における欲求の総量である。分子と分母の数が同じなら、つまりすべての欲求が充たされるなら、その分数の値(価値)は1である。その値が1よりも大きくなるのは、その生物の中に欲求よりももっと大きな快感が存在するときである。その値が1より小さくなるのは、喜びの量が欲求全体以下のときである。しかしこの分数は決してゼロにはならない。分子がどんなに僅かな値でしかなかったとしてもである。人間が死ぬ前に総決算をして、特定の衝動(例えば飢餓)から生じた喜びの量を全生涯に亘るこの衝動の欲求のすべてで割れば、快感の体験はおそらくごく僅かな値にしかならないであろう。しかしまったく価値がなくなることはない。ただ欲求の増加に伴って、その生きる喜びの価値は減少するだけである。同じことは自然界全体の生命についても当てはまる。…」
(p249~254)
「とはいえ、悲観主義者は言うであろう。食欲が満たされなければ、食べる喜びを奪われるだけでなく、もっと烈しい苦痛をも生じさせるであろう、と。悲観主義者はその際、飢餓に襲われた人たちの名状し難い苦しみを引き合いに出すかも知れない。そして飢えに苦しむ悲惨な状態が非常に大きな不快感を生み出している、と言うであろう。一定の季節になると、食物がなくなり、飢えに苦しむ動物たちの例も取り上げられるであろう。悲観主義者はそのようなさまざまの不幸を例にあげて、その苦しみの方が食欲を通して得られる喜びの量よりも、この世でははるかに上廻っている、と主張する。
快感と不快感を相互に比較して、利得と損失を比較するときのように、そのどちらが大きいかを決めることは、勿論可能である。しかし悲観主義者が不快感の方をより大きいと考え、そこから人生の価値のなさを結論づけるとすれば、その判断は間違っている。なぜならその計算は実生活においては意味を持たない計算だからである。…子どもが欲しいと思っている女性は、子どもを得ることで与えられる喜びを、妊娠、出産、子育てなどから生じる苦しみと比較したりはしない。その喜びを子どもが欲しいと願う欲求と結びつける。
…
人間とは本質的に、欲求に伴って生じる不快感がどんなに大きいものでも、それに耐えられる限りは、欲求対象を手に入れようと望むものなのだ。ところがこのような哲学は、人間にとって本来あり得ないような、不快感に対する快感の過剰という特別の事態に人間の意欲を依存させようとする。しかしこの態度はまったく間違っている。意思行為に対する本来の尺度は欲求である。そして欲求は、可能なときにはいつでも自己を貫徹しようとする。欲求を充足させる際に生じる快感と不快感に対する態度を決めるのは、合理的な哲学ではなく、まさに人生そのものである。…
世の中には快感よりも不快感の方が多い、と主張する悲観主義がかりに正しいとしても、このことがわれわれの生きる意志に影響を及ぼすことはないであろう。なぜなら人生は快感をさらに求め続けるであろうから。苦しみが楽しみよりも勝っていることが経験的に証明できたとしてもそして人生の価値を快感が勝っているということの中に見る哲学方面(幸福至上主義)の無意味さを指摘できたとしても、だからといって意志そのものが不合理な存在である、ということにはならない。なぜなら意志は過剰な快感をではなく、不快感を克服したあとにも存在する快感を求め続けるのだから。最後に残された快感がいつでも努力に価する目標となる。」
シュタイナーの文章は、ここにきていったん悲観主義に歩み寄り、悲観主義的倫理観についてその論理矛盾を明らかにしていく。
(p254~257)
「これまでは、悲観主義を否定するために、人生において快感と不快感のどちらが多いかを決めることなどできない、と主張されてきた。比較計算をするためには、計算対象が量的に比較できなければならない。どの不快感もどの快感も特定量の強さと持続力をもっている。いろいろな種類の快感の大きさを、少なくとも比較考量することは可能である。上質の葉巻タバコと上手な冗談のどちらがより大きな楽しみを与えてくれるかを、われわれは知ることさえできる。さまざまな快感、不快感の大きさを比較することに非難を加えることはできない。だから人生において快感が勝っているのか、不快感が勝っているのかを決めようとする人は、まったく正しい前提から出発している。悲観主義の主張の間違いを指摘することはできても、快感と不快感の量を科学的に比較する可能性や快感の帳尻合わせに対して疑問を呈することはできない。けれどもこの計算の結果によって、人間の意志を何らかの仕方で規定することができる、と主張するのは間違いである。われわれの行動の価値を、快感と不快感のどちらが勝っているかで決めることができるのは、行動の目標となる対象がわれわれにとってどうでもよいようなものの場合である。仕事の後で、軽く遊んで楽しもうとするようなとき、そしてそのために何をしてもいいと思っているようなとき、私は一番大きな快感と一番少ない不快感とを提供してくれるものは何か、と考えるであろう。そして快感と不快感とを天秤にかけ、秤が不快感の方に傾くことが分れば、直刻そんなことはしなくなるであろう。子どもにおもちゃを買ってあげようとするときにも、子どもに一番喜んでもらえて、危険の少ないものは何か、と考えて選ぶであろう。しかしそうでない場合にはいつでも、快感と不快感の帳尻合わせに従って決めようなどとはしない。
したがって、悲観主義的な倫理学者が快感より不快感の方が勝っていると指摘することによって、文化的な仕事へ没我的に帰依する地盤が用意できると考えたとしたら、人間の意思が本質的にこの認識の影響を受けたりはしない、ということを考えていないことになる。人間の行動は、あらゆる困難を乗り越えた後で得られる満足感を基準にしている。この満足感への期待が、人間の行為の根拠なのである。個人の労働も社会の文化活動もこの期待から生じる。悲観主義的な倫理観は幸福追求の不可能性を明示しなければならないと信じている。そうすれば人間は本来の道徳的課題に身を捧げるつもりになれる、というのである。しかしこの道徳的な課題といえども、具体的に考えれば、自然的、精神的な衝動以外の何ものでもない。そしてそこにどんな不快感が混ざっていようとも、その衝動は満たされることを求める。それ故悲観主義が根絶しようとしている「幸福の追求」などというものは、まったく存在していない。人間が課題と出合い、その課題の意味を悟るとき、その課題を自分に与えられた能力で遂行しようと欲する。悲観主義的な倫理観は、快感の追求をあきらめるときにはじめて、人生の課題として認識したものに人間は身を捧げる、と説く。しかしどんな倫理観といえども、人間的な欲求充足と道徳理想の実現以外に人生の課題を考え出すことはできないし、欲求の充足に伴う快感を人間から取り上げることもできない。「快感を求めるな。それを手にいれることは不可能なのだ。課題を認識し、それに向かって努力せよ」と悲観主義者が言うとすれば、それに対しては次のように応じることができよう。「それはあまり褒めたやり方ではない。人間が幸福だけを追求している、と主張するのは、迷路をさまよっている哲学者の思いつきにすぎない。人間は自分の本性の欲求を満足させようと努力し、この努力に適った目標を目指している。決して抽象的な『幸福』などを追求しているのではない。そしてその目標の達成が、人間にとっては快感として体験されるのである」。悲観主義的な倫理観の要求、「快感を追求せず、人生の課題を認識し、それの実現に努力せよ」は、人間の本性が欲していることを述べているにすぎない。人間は哲学によって心を逆撫でされる必要はない。道徳的であるために、自分の本性の欲求を捨て去る必要はない。道徳性は正しいと認めた目標への努力の中に存する。その努力は、それに伴う不快感がその欲求を麻痺させない限りは、続けられる。そしてこれがすべての意志の本質である。倫理学は快感への努力をすべて根減することにあるのではない。もしそうであるとすれば、蒼ざめた抽象理念が支配して、人生の楽しみを妨げてしまう。本当の倫理学は、たとえその道がどれ程いばらに満ちていようとも、目標達成へ向けての、理念的直観に担われた力強い意志に基づいている。」
シュタイナーは道徳的想像力の中に人間の自由が在ることを示唆している。第一三章を締めくくる以下の文章からそう考える。
(p257~261)
「道徳理想は人間の道徳的想像力から発している。その理想の実現は、人間が苦しみや悩みを克服してまでもその理想を欲求しようとするかどうかにかかっている。理想は人間の直観内容であり、精神が引きしぼる弓である。人間はそれを欲する。なぜならそれの実現は至上の快感なのだからである。人間は倫理学によって快感の追求を禁じられたり、何に向かって努力すべきなのかを命じられたりすることを必要だとは思っていない。道徳的想像力を活発に働かせて、意志に力強さを与えてくれるような直観内容をもつことができれば、人間はますます道徳理想を追求するようになる。そして人間存在そのものの中に組み込まれているさまざまな障害を、そしてその一部分である不快感をも乗り越えることができるようになる。
偉大な理想を追求する人は、そうすることが自分の本性の一部分になっているからこそ、そうするのである。だからそれを実現することは、その人にとって大きな喜びであるだろう。それに較べれば、日常的な衝動を満足させるときの快感などは些細な事柄にすぎない。理想主義者は、その理想を現実に移し換えるとき、精神的に耽溺しているのである。
人間の欲求充足に伴う快感を根減しようとする人は、したいからするのではなく、せねばならないからする奴隷のような存在に人間をしておかなければならない。なぜなら自分が望んだことを達成するときには、常に快感が伴うのだから。善と呼ばれるものは、真の人間本性にとって、為すべき事柄なのではなく、為そうと欲する事柄なのである。このことを認めない人は、人間が欲する事柄をまずその人間の内から追い払って、別の意志内容を外からその人に押しつけなければならない。
欲求の実現に価値があるのは、それが人間の本性から生じているからである。そして実現された事柄に価値があるのは、それを人間が欲したからである。人間の意志が望んだ目標が無価値だというのであれば、価値のある目標を人間が欲していない何かから取ってこなければならなくなる。
悲観主義を基礎におく倫理観は道徳的想像力を軽視する。個々の人間精神は自分で努力目標を指示することができない、と考える人だけが、意思行為はすべて快感への憧れをもっている、と考える。想像力のない人は道徳理念を自分では創造できないので、それを受け取るしかない。低級な欲求の充足を計ろうとする人は、それを肉体の本性にまかせればよい。けれども人間全体を発展させるためには、精神に由来する欲求がなくてはならない。人間はそもそもこのような高級な欲求を持っていない、と考える人だけが、高級な欲求は外から受け取るべきだ、と説く。その場合には、人間は自分の望まない事柄を行う義務がある、と言うのも正しいであろう。自分の望まない使命を達成しようとするのだから、自分の意思は退けておくように、と人間に要求する倫理観は、それがどんなものであれ、人間全体のことを考えていない。精神的な欲求能力を欠いた人間だけが人間だ、と思い込んでいる。調和的な発達を遂げた人間にとって、善の理念は自分の本質の範囲外にではなく、その範囲内にある。道徳行為は一面的な利己心を根絶することではなく、人間本性の十分な発展の中で生じる。自分の利己心を殺すときにのみ、道徳理想を達成することができる、と考える人は、この理想が、いわゆる動物的な欲望と同じように、人間自身によって欲せられていることを理解していない。
以上に述べた考え方が誤解されやすいものであることを否定することはできない。道徳的想像力のない未熟な人間たちは自分の生半可な本性を完全な人間性の内実だと思い込み、誰にも妨げられずに「好きな生き方」をするために、自分の欲しない道徳理念をすべて拒否する。成熟した人間に当てはまることが生半可な人間には当てはまらない。しかしそれは当然なことである。教育を通してこれから道徳的な本性が低級な情念の卵の殻を打ち破ることができるように、まだ教育を受けている最中の若い人たちに対して、成熟した人間に当てはまることを直ちに要求することはできない。しかしここは未成熟の人間をいかに教育すべきかを論じる場所ではない。成熟した人間本性の中に存在している自由の可能性をわれわれは問題にしているのである。自由は感覚的もしくは心情的な要求からの行動において実現されるのではなく、精神的な直観に担われた行動において実現される。
成熟した人間は自分で自分に価値を付与する。自然もしくは造物主から恩恵を受けようと努めるのでもなければ、快感の追求をやめなければ認識できない、というような抽象的な義務を果たすのでもない。欲するままに行動する。その行為は自分の倫理的直観の基準に従っている。そして自分の欲求の達成を人生の本当の喜びであると感じている。その人は人生の価値を、努力したこととその成果との関係に即して定める。意志の代わりに単なる当為(為すべきこと)を、欲求の代わりに単なる義務を措定する倫理観は、人間の価値を義務の欲求とその成果との関係に即して定める。この倫理観は人間本性の外にある尺度に従って人間を計る。―—以上に論じてきた著者の観点は、人間に対して、自分自身に立ち返るように求めている。この観点は、各人が自分の意思を基準にしているときにのみ、そこに人生の本当の価値を認める。個人によって肯定されない人生価値も、個人に由来しない人生目的も、受け容れない。あらゆる側面から吟味された個人の本質の中に、その人自身の主人を、その人自身の鑑定人を見出す。」
下記補遺のキーセンテンスを抜粋させていただきました。
(p261~262)
●一九一八年の新版のための補遺
「…すなわち、自由を実現するためには、人間本性の中で意思が直観的思考によって担われていなければならない、という点をである。勿論、意思が直観以外の何かによって左右されることもある。しかし人間本性から流れてくる直観を自由に生かすことによってのみ、道徳価値は生み出される。倫理的個体主義はそのような道徳性のまったき尊厳を表現するのにふさわしい立場である。その立場は、意志を規範に外から合わせることが道徳的な態度なのではなく、道徳意思が自分の存在に一部分になるように、それを自分の内部からおのずと生じてくるようにすることが、道徳的な態度なのだ、と考える。…」
ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』((高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の読書は、一語一センテンス、全て大切に思えてくる。だから読書しながら、全ての文章が必要だと思う。それゆえに、長い引用になってしまい、申し訳ございません。この私のブログを見ていただいた方は、是非、この書籍を購入し、繰り返し読んでい戴きたい。
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)で今井先生は、「人生の目的と人生の使命について論じた後、シュタイナーは人生の価値として、楽観主義と悲観主義を取り上げます。…」この第一三章を分かり易く簡潔に捉えています。この書籍も併せて購入し読んで戴きたい。とても参考になることは確かです。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年6月8日(水)76回 ― 2022年06月08日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。
この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。
そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」
シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」
(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」
(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」
(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」
(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」
(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」
(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」
(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」
(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」
(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」
この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。
今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。
この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。
そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」
シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」
(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」
(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」
(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」
(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」
(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」
(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」
(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」
(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」
(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」
この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年6月8日(水)76回 ― 2022年06月08日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。
この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。
そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」
シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」
(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」
(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」
(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」
(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」
(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」
(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」
(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」
(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」
(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」
この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。
今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。
この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。
そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」
シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」
(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」
(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」
(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」
(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」
(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」
(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」
(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」
(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」
(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」
この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。
『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年5月23日(月)75回 ― 2022年05月23日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
今回14回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p205~211)を読んでいます。 そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)を参考にしています。
「人間の精神生活のさまざまな流れの中で、今取り上げる必要があるのは、目的が存在し得ない領域での目的概念についてである。…」。
この文章(p205)から第一一章は始まっている。そして読者である私は「人間の精神生活」とは何か。私の精神生活とは何か。読み始めて直ぐ、文章の細部を意識が問う。
いつものことながら、裏を返すと、私の読書は一つの言葉一つのフレーズに引っ掛かっかりながら進む読書なのである。遅々として進まぬ読書なのである。そしてそのような自分の意識の一面と共に、シュタイナーはこの章において何を語っているのだろうか。と考え、読書を進めようと、次の文章に目を移す。そしてまた次の文章の単語の意味に疑問を起こす。その繰り返しが私の読書スタイルである。
この第一一章はちくま学芸文庫7ページ分量の比較的短い文章である。
キーワード・キーセンテンスを先ず見て行きましょう。そこに理解の糸口を見つけましょう。読者それぞれ主観により、取り上げるキーとなる言葉の選別、省略に違いがあること。そこに理解をお願い致します。
最初のページ(p205)は
「目的が存在し得ない領域での目的概念」、「合目的性」、「因果関係」、「真の合目的性」、「人間があらかじめ表象した事柄を実行に移すとき、行為についてのこの表象は行動を規定している。後にくる行為が、表象の助けを借りて、それに先行するもの、つまり行為する人間自身を規定する。」、
P206の「…、結果の知覚内容は、原因の知覚内容の後に生じる。その際結果が原因に影響を与えるとすれば、それは概念の働きによらざるをえない。」、「知覚内容だけを問題にする素朴な意識は、すでに繰り返し述べてきたように、理念だけしか認識できない場合でさえも、そこに知覚内容を見出そうとする。」
P206~207にかけて
「素朴な人は、自分がどのようにして出来事を生じさせたのか意識しているという事実から、自然も同じような仕方で意識的に出来事を生じさせるのであろう、と推論する。そのような人は純因果的な自然関連の中に、目に見えぬ力だけでなく、知覚できない現実目的をも見ようとする。人間は道徳を目的に適うように作る。素朴実在論者は同じような仕方で、造物主が生物を創り出したのだろう、と考える。このような間違った目的概念は長い時代を通じて、次第に科学の中から消えていった。しかし今日でもなお、哲学の中ではそれがひどく幅をきかせている。そこでは世界の世界外的な目的が問われ、人間の人間外的な使命または目的が問われる。」
「一元論はどんな分野でも目的概念を退けるが、人間の行動だけは例外である。一元論は自然の法則を探求し、自然の目的は問わない。自然の目的は知覚できない力と同じように、恣意的な仮定である(一四〇頁以下参照)。しかしまたその生活目的も人間が自分で定めるのでなければ、是認できない。目的が問題になるのは、人間が何かのために自分で作り上げたものだけである。なぜなら理念の実現のためにのみ、合目的的に何かが作られるのであり、しかも実在論的な意味においては、理念は人間の内部においてしか働くことができないのだから。それ故人間の生活においては、人間自身が与えた目的と使命だけがある。人生にはどのような使命があるのかという問いに対して、一元論は、人間が自分で定めた使命だけがある、と答える。社会における私の使命はあらかじめ定められたものではない。その都度私自身がそれを自分のために選択する。私は人に命ぜられた人生行路を歩いていくのではない。」
P208は、
「理念は人間によってのみ、合目的的に実現される。したがって歴史が理念を実現する、と語ることは許されない。「歴史は人間の自由へ向けての発展過程である」とか道徳的世界秩序の実現であるとかいう言い方はすべて、一元論の観点から言えば根拠がない。」
そしてp208 の4行目からp209において、
目的概念の信奉者ロバート・ハーマーリングの『意志の原子論』を引用して、合目的的についての間違った捉え方、間違った表現を指摘する。
p209の後より5行目中下~210 において、シュタイナーは次のように言う。
「…。目的論者は自然物が外から規定されていると考える。その規定するものが宙に浮いた理念であっても、自然物の外の、造物主の精神内に存在する理念であっても、この点に変わりはないと考える。この考えを否定する人は、自然物が外から合目的的、計画的に規定されているのではなく、因果の法則によって内から規定されていることを認めなければならない。その諸部分を自然によるのではない関連の中にもたらされている機械は、合目的的に作られている。その構造の合目的性は、私が機械の性能を理念として、機械の中に組み入れたことによって生じており、それによって機械は特定の理念を示す知覚対象となったのである。自然物にも祖のことが言い得る。自然物をも、それが合法則的につくられている故に合目的的であると考える人は合目的的であると見做すかも知れない。しかしこの合法則性を主観的な人間行為の合目的性と取り違えてはならない。合目的的であると言えるには、そこに原因として働いているものが概念である必要がある。しかも作用している概念である必要がある。しかし自然の中にはどこにもそのような原因となる概念の存在が証明されていない。自然の中での概念は常に原因と結果との理念的な関連として存在しており、自然の中での原因はもっぱら知覚内容として存在している。
二元論は世界と自然をも目的論的に語ることができる。われわれの知覚内容が原因と結果の合法則的な結びつきにおいて現れるとき、それを二元論者は、宇宙の絶対者がその目的を実現したときの絶対者と事物との関係の焼き直しである、と思っている。一元論者にとっては宇宙の体験できない仮定上の絶対者だけでなく、世界目的や自然目的を仮定する根拠もまた存在しないのである。」
p211は「●一九一九年の新版のための補遺」のキーセンテンスとして、
「…。そして人間的な合目的性のモデルに従って考えられた人類の使命の合目的性についても、それが間違った考え方であると述べる理由は、個々の人間の立てた目的の総計から人類全体の働きが生じるのだ、ということを言おうとしている。そのような働きは、結果として、個々の人間の目的よりも高次なものとなるのである。」
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)の中で、今井先生は「第11章においては、目的を設定できるのは人間だけであり、自然のなかに目的の存在を仮定するのは間違っているということが述べられています。…」と書いています。その言葉を指針にして読みました。
私の『自由の哲学』読書は、哲学入門としての側面が大きく、シュタイナー書籍を通じて、哲学用語の学習でも有ります。しかしそれは希望のある読書になっています。皆さまにとって期待外れの感想かも知れません。けれどもよろしくお願い致します。
今回14回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p205~211)を読んでいます。 そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)を参考にしています。
「人間の精神生活のさまざまな流れの中で、今取り上げる必要があるのは、目的が存在し得ない領域での目的概念についてである。…」。
この文章(p205)から第一一章は始まっている。そして読者である私は「人間の精神生活」とは何か。私の精神生活とは何か。読み始めて直ぐ、文章の細部を意識が問う。
いつものことながら、裏を返すと、私の読書は一つの言葉一つのフレーズに引っ掛かっかりながら進む読書なのである。遅々として進まぬ読書なのである。そしてそのような自分の意識の一面と共に、シュタイナーはこの章において何を語っているのだろうか。と考え、読書を進めようと、次の文章に目を移す。そしてまた次の文章の単語の意味に疑問を起こす。その繰り返しが私の読書スタイルである。
この第一一章はちくま学芸文庫7ページ分量の比較的短い文章である。
キーワード・キーセンテンスを先ず見て行きましょう。そこに理解の糸口を見つけましょう。読者それぞれ主観により、取り上げるキーとなる言葉の選別、省略に違いがあること。そこに理解をお願い致します。
最初のページ(p205)は
「目的が存在し得ない領域での目的概念」、「合目的性」、「因果関係」、「真の合目的性」、「人間があらかじめ表象した事柄を実行に移すとき、行為についてのこの表象は行動を規定している。後にくる行為が、表象の助けを借りて、それに先行するもの、つまり行為する人間自身を規定する。」、
P206の「…、結果の知覚内容は、原因の知覚内容の後に生じる。その際結果が原因に影響を与えるとすれば、それは概念の働きによらざるをえない。」、「知覚内容だけを問題にする素朴な意識は、すでに繰り返し述べてきたように、理念だけしか認識できない場合でさえも、そこに知覚内容を見出そうとする。」
P206~207にかけて
「素朴な人は、自分がどのようにして出来事を生じさせたのか意識しているという事実から、自然も同じような仕方で意識的に出来事を生じさせるのであろう、と推論する。そのような人は純因果的な自然関連の中に、目に見えぬ力だけでなく、知覚できない現実目的をも見ようとする。人間は道徳を目的に適うように作る。素朴実在論者は同じような仕方で、造物主が生物を創り出したのだろう、と考える。このような間違った目的概念は長い時代を通じて、次第に科学の中から消えていった。しかし今日でもなお、哲学の中ではそれがひどく幅をきかせている。そこでは世界の世界外的な目的が問われ、人間の人間外的な使命または目的が問われる。」
「一元論はどんな分野でも目的概念を退けるが、人間の行動だけは例外である。一元論は自然の法則を探求し、自然の目的は問わない。自然の目的は知覚できない力と同じように、恣意的な仮定である(一四〇頁以下参照)。しかしまたその生活目的も人間が自分で定めるのでなければ、是認できない。目的が問題になるのは、人間が何かのために自分で作り上げたものだけである。なぜなら理念の実現のためにのみ、合目的的に何かが作られるのであり、しかも実在論的な意味においては、理念は人間の内部においてしか働くことができないのだから。それ故人間の生活においては、人間自身が与えた目的と使命だけがある。人生にはどのような使命があるのかという問いに対して、一元論は、人間が自分で定めた使命だけがある、と答える。社会における私の使命はあらかじめ定められたものではない。その都度私自身がそれを自分のために選択する。私は人に命ぜられた人生行路を歩いていくのではない。」
P208は、
「理念は人間によってのみ、合目的的に実現される。したがって歴史が理念を実現する、と語ることは許されない。「歴史は人間の自由へ向けての発展過程である」とか道徳的世界秩序の実現であるとかいう言い方はすべて、一元論の観点から言えば根拠がない。」
そしてp208 の4行目からp209において、
目的概念の信奉者ロバート・ハーマーリングの『意志の原子論』を引用して、合目的的についての間違った捉え方、間違った表現を指摘する。
p209の後より5行目中下~210 において、シュタイナーは次のように言う。
「…。目的論者は自然物が外から規定されていると考える。その規定するものが宙に浮いた理念であっても、自然物の外の、造物主の精神内に存在する理念であっても、この点に変わりはないと考える。この考えを否定する人は、自然物が外から合目的的、計画的に規定されているのではなく、因果の法則によって内から規定されていることを認めなければならない。その諸部分を自然によるのではない関連の中にもたらされている機械は、合目的的に作られている。その構造の合目的性は、私が機械の性能を理念として、機械の中に組み入れたことによって生じており、それによって機械は特定の理念を示す知覚対象となったのである。自然物にも祖のことが言い得る。自然物をも、それが合法則的につくられている故に合目的的であると考える人は合目的的であると見做すかも知れない。しかしこの合法則性を主観的な人間行為の合目的性と取り違えてはならない。合目的的であると言えるには、そこに原因として働いているものが概念である必要がある。しかも作用している概念である必要がある。しかし自然の中にはどこにもそのような原因となる概念の存在が証明されていない。自然の中での概念は常に原因と結果との理念的な関連として存在しており、自然の中での原因はもっぱら知覚内容として存在している。
二元論は世界と自然をも目的論的に語ることができる。われわれの知覚内容が原因と結果の合法則的な結びつきにおいて現れるとき、それを二元論者は、宇宙の絶対者がその目的を実現したときの絶対者と事物との関係の焼き直しである、と思っている。一元論者にとっては宇宙の体験できない仮定上の絶対者だけでなく、世界目的や自然目的を仮定する根拠もまた存在しないのである。」
p211は「●一九一九年の新版のための補遺」のキーセンテンスとして、
「…。そして人間的な合目的性のモデルに従って考えられた人類の使命の合目的性についても、それが間違った考え方であると述べる理由は、個々の人間の立てた目的の総計から人類全体の働きが生じるのだ、ということを言おうとしている。そのような働きは、結果として、個々の人間の目的よりも高次なものとなるのである。」
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)の中で、今井先生は「第11章においては、目的を設定できるのは人間だけであり、自然のなかに目的の存在を仮定するのは間違っているということが述べられています。…」と書いています。その言葉を指針にして読みました。
私の『自由の哲学』読書は、哲学入門としての側面が大きく、シュタイナー書籍を通じて、哲学用語の学習でも有ります。しかしそれは希望のある読書になっています。皆さまにとって期待外れの感想かも知れません。けれどもよろしくお願い致します。
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