『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年1月23日(月)81回 ― 2023年01月23日
R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の2回目の読書です。
今回は「序論」(p21~28)を読みます。
この「序論」の中のキーワード・キーセンテンスを私の感性で拾ってみました。
(p21)
「ヨーハン・ゴットリーブ・フィフテ…「知識学」」
(p22)
「…正しい意志をもってのぞむなら、どんな人でも「眼を開く」ことができるのだということを、一瞬たりとも疑うべきではないのです。」
「外的諸感覚」
「人間の真の本質を認識させる「内的感覚器官」」
「「隠された叡智」」
「「高次の感覚」」
(p23~24)
「超感覚的事物の観察者」
「どんな人の中にも、真理に対する感情と理解力とが存在している」
「この理解力の中には、次第により高次の認識へ導いていくひとつの力が内在している」「真理に対する感情は、…この感情自身が「霊眼」を開いてくれる魔術師なのである。」「盲いた人のすべてが見えるようになれなくとも、霊眼はどんな人もこれを開くことができるのだから。ただそれがいつ開けるかという時間の問題だけが残されている。」
「学識と科学的教育とは、この「高次の感覚」を開くための条件にはならない。素朴な人間にも知的水準の高い人にも、等しくこの感覚は開かれる。」
(p25~26)
「本書で述べられているのは、偏見に曇らされぬ開かれた思考と遠慮のない自由な真理感情とを働かせるすべての人に対して、この思考と感情の力だけで人間生活や世界現象の謎に十分接近していけるのだ、という印象を与えうる事柄だけなのである。」
「存在のこの高次の諸領域の「教師」であるためには、もちろんこれらの領域のための感覚が開かれているだけでは十分でない。彼には、日常的現象の領域の教師にとって科学が必要であるように、ひとつの「科学」が必要なのである。感覚的現実の世界に対して健全な感覚をもっているというだけでは「学者」になれないように、「高次の視覚」をもっているというだけでは霊界の通暁者にはなれない。」
「事実、現実界はすべて、低次の物質的現実界も高次の霊的現実界も、同一の根本存在性の二つの側面に過ぎない。」
(p27~28)
「…、超感覚的な事実を知ることで明らかにされた、人間の本質と使命とに何らかの仕方で係わることなしには、言葉のまったき意味において「人間」であることはできないからである。」
「人間が仰ぎ見ることのできる至高のものは、「神的」と呼ばれる。人間の最高の使命は、この神的なものとの関連において考えられねばならない。それ故、感覚的存在を超越した叡智、人間の本質と使命とを明示する叡智は、「神的叡智」もしくは神智学と名づけられるであろう。人生における、そして宇宙における霊的活動の考察には、霊学という言葉を与えることができる。本書で為されているように、霊学の中で特に人間の霊的本質の核心に係わる諸問題を取り扱う場合、 「神智学」という表現が用いられる。なぜならこの表現は数世紀に亘ってこのような観点から使用されてきたからである。」
「…、神智学的世界観の素描が本書の中で試みられている。著者は、外的世界の体験が眼と耳と悟性とに事実であるのと同じ意味で、事実であるものだけを表現しようと欲している。」
「本書では、その最後の章に素描された「認識の小道」を歩もうとするなら、誰でも手に入れることのできる体験内容が扱われているのである。健全な思考と健全な感受性だけでも、高次の世界から来る真の認識内容のすべてを理解できるということ、この理解をもとにして確固たる土台を築くとき、すでに自分の霊眼を開くための重要な歩みが始まっているということ、この二点を前提にするとき、人は超感覚的世界な諸事象に正しい仕方で向き合っている。」
「…後になって見ることのできるものを、その前に健全な思考によって理解しようとする意志こそ、この見る能力を促進するのである。この意志が「見者の直観力」を育てる重要な心的能力を喚び起すのである。これが原則である。」
まさにこの『神智学』の概要主旨がこの「序論」で述べられている。その感じ入る言葉、文章を書き出させていただきました。ぜひ、この書籍を手に取り、読み、確認してください。人それぞれ感じ入るキーワード、キーセンテンスに出会うと思います。
今回は「序論」(p21~28)を読みます。
この「序論」の中のキーワード・キーセンテンスを私の感性で拾ってみました。
(p21)
「ヨーハン・ゴットリーブ・フィフテ…「知識学」」
(p22)
「…正しい意志をもってのぞむなら、どんな人でも「眼を開く」ことができるのだということを、一瞬たりとも疑うべきではないのです。」
「外的諸感覚」
「人間の真の本質を認識させる「内的感覚器官」」
「「隠された叡智」」
「「高次の感覚」」
(p23~24)
「超感覚的事物の観察者」
「どんな人の中にも、真理に対する感情と理解力とが存在している」
「この理解力の中には、次第により高次の認識へ導いていくひとつの力が内在している」「真理に対する感情は、…この感情自身が「霊眼」を開いてくれる魔術師なのである。」「盲いた人のすべてが見えるようになれなくとも、霊眼はどんな人もこれを開くことができるのだから。ただそれがいつ開けるかという時間の問題だけが残されている。」
「学識と科学的教育とは、この「高次の感覚」を開くための条件にはならない。素朴な人間にも知的水準の高い人にも、等しくこの感覚は開かれる。」
(p25~26)
「本書で述べられているのは、偏見に曇らされぬ開かれた思考と遠慮のない自由な真理感情とを働かせるすべての人に対して、この思考と感情の力だけで人間生活や世界現象の謎に十分接近していけるのだ、という印象を与えうる事柄だけなのである。」
「存在のこの高次の諸領域の「教師」であるためには、もちろんこれらの領域のための感覚が開かれているだけでは十分でない。彼には、日常的現象の領域の教師にとって科学が必要であるように、ひとつの「科学」が必要なのである。感覚的現実の世界に対して健全な感覚をもっているというだけでは「学者」になれないように、「高次の視覚」をもっているというだけでは霊界の通暁者にはなれない。」
「事実、現実界はすべて、低次の物質的現実界も高次の霊的現実界も、同一の根本存在性の二つの側面に過ぎない。」
(p27~28)
「…、超感覚的な事実を知ることで明らかにされた、人間の本質と使命とに何らかの仕方で係わることなしには、言葉のまったき意味において「人間」であることはできないからである。」
「人間が仰ぎ見ることのできる至高のものは、「神的」と呼ばれる。人間の最高の使命は、この神的なものとの関連において考えられねばならない。それ故、感覚的存在を超越した叡智、人間の本質と使命とを明示する叡智は、「神的叡智」もしくは神智学と名づけられるであろう。人生における、そして宇宙における霊的活動の考察には、霊学という言葉を与えることができる。本書で為されているように、霊学の中で特に人間の霊的本質の核心に係わる諸問題を取り扱う場合、 「神智学」という表現が用いられる。なぜならこの表現は数世紀に亘ってこのような観点から使用されてきたからである。」
「…、神智学的世界観の素描が本書の中で試みられている。著者は、外的世界の体験が眼と耳と悟性とに事実であるのと同じ意味で、事実であるものだけを表現しようと欲している。」
「本書では、その最後の章に素描された「認識の小道」を歩もうとするなら、誰でも手に入れることのできる体験内容が扱われているのである。健全な思考と健全な感受性だけでも、高次の世界から来る真の認識内容のすべてを理解できるということ、この理解をもとにして確固たる土台を築くとき、すでに自分の霊眼を開くための重要な歩みが始まっているということ、この二点を前提にするとき、人は超感覚的世界な諸事象に正しい仕方で向き合っている。」
「…後になって見ることのできるものを、その前に健全な思考によって理解しようとする意志こそ、この見る能力を促進するのである。この意志が「見者の直観力」を育てる重要な心的能力を喚び起すのである。これが原則である。」
まさにこの『神智学』の概要主旨がこの「序論」で述べられている。その感じ入る言葉、文章を書き出させていただきました。ぜひ、この書籍を手に取り、読み、確認してください。人それぞれ感じ入るキーワード、キーセンテンスに出会うと思います。
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