『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年5月23日(月)75回2022年05月23日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回14回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p205~211)を読んでいます。    そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)を参考にしています。

 「人間の精神生活のさまざまな流れの中で、今取り上げる必要があるのは、目的が存在し得ない領域での目的概念についてである。…」。
この文章(p205)から第一一章は始まっている。そして読者である私は「人間の精神生活」とは何か。私の精神生活とは何か。読み始めて直ぐ、文章の細部を意識が問う。
 いつものことながら、裏を返すと、私の読書は一つの言葉一つのフレーズに引っ掛かっかりながら進む読書なのである。遅々として進まぬ読書なのである。そしてそのような自分の意識の一面と共に、シュタイナーはこの章において何を語っているのだろうか。と考え、読書を進めようと、次の文章に目を移す。そしてまた次の文章の単語の意味に疑問を起こす。その繰り返しが私の読書スタイルである。
 この第一一章はちくま学芸文庫7ページ分量の比較的短い文章である。
 キーワード・キーセンテンスを先ず見て行きましょう。そこに理解の糸口を見つけましょう。読者それぞれ主観により、取り上げるキーとなる言葉の選別、省略に違いがあること。そこに理解をお願い致します。

最初のページ(p205)は
 「目的が存在し得ない領域での目的概念」、「合目的性」、「因果関係」、「真の合目的性」、「人間があらかじめ表象した事柄を実行に移すとき、行為についてのこの表象は行動を規定している。後にくる行為が、表象の助けを借りて、それに先行するもの、つまり行為する人間自身を規定する。」、

 P206の「…、結果の知覚内容は、原因の知覚内容の後に生じる。その際結果が原因に影響を与えるとすれば、それは概念の働きによらざるをえない。」、「知覚内容だけを問題にする素朴な意識は、すでに繰り返し述べてきたように、理念だけしか認識できない場合でさえも、そこに知覚内容を見出そうとする。」

P206~207にかけて
 「素朴な人は、自分がどのようにして出来事を生じさせたのか意識しているという事実から、自然も同じような仕方で意識的に出来事を生じさせるのであろう、と推論する。そのような人は純因果的な自然関連の中に、目に見えぬ力だけでなく、知覚できない現実目的をも見ようとする。人間は道徳を目的に適うように作る。素朴実在論者は同じような仕方で、造物主が生物を創り出したのだろう、と考える。このような間違った目的概念は長い時代を通じて、次第に科学の中から消えていった。しかし今日でもなお、哲学の中ではそれがひどく幅をきかせている。そこでは世界の世界外的な目的が問われ、人間の人間外的な使命または目的が問われる。」
 「一元論はどんな分野でも目的概念を退けるが、人間の行動だけは例外である。一元論は自然の法則を探求し、自然の目的は問わない。自然の目的は知覚できない力と同じように、恣意的な仮定である(一四〇頁以下参照)。しかしまたその生活目的も人間が自分で定めるのでなければ、是認できない。目的が問題になるのは、人間が何かのために自分で作り上げたものだけである。なぜなら理念の実現のためにのみ、合目的的に何かが作られるのであり、しかも実在論的な意味においては、理念は人間の内部においてしか働くことができないのだから。それ故人間の生活においては、人間自身が与えた目的と使命だけがある。人生にはどのような使命があるのかという問いに対して、一元論は、人間が自分で定めた使命だけがある、と答える。社会における私の使命はあらかじめ定められたものではない。その都度私自身がそれを自分のために選択する。私は人に命ぜられた人生行路を歩いていくのではない。」

P208は、
 「理念は人間によってのみ、合目的的に実現される。したがって歴史が理念を実現する、と語ることは許されない。「歴史は人間の自由へ向けての発展過程である」とか道徳的世界秩序の実現であるとかいう言い方はすべて、一元論の観点から言えば根拠がない。」
  
そしてp208 の4行目からp209において、
 目的概念の信奉者ロバート・ハーマーリングの『意志の原子論』を引用して、合目的的についての間違った捉え方、間違った表現を指摘する。

p209の後より5行目中下~210 において、シュタイナーは次のように言う。
 「…。目的論者は自然物が外から規定されていると考える。その規定するものが宙に浮いた理念であっても、自然物の外の、造物主の精神内に存在する理念であっても、この点に変わりはないと考える。この考えを否定する人は、自然物が外から合目的的、計画的に規定されているのではなく、因果の法則によって内から規定されていることを認めなければならない。その諸部分を自然によるのではない関連の中にもたらされている機械は、合目的的に作られている。その構造の合目的性は、私が機械の性能を理念として、機械の中に組み入れたことによって生じており、それによって機械は特定の理念を示す知覚対象となったのである。自然物にも祖のことが言い得る。自然物をも、それが合法則的につくられている故に合目的的であると考える人は合目的的であると見做すかも知れない。しかしこの合法則性を主観的な人間行為の合目的性と取り違えてはならない。合目的的であると言えるには、そこに原因として働いているものが概念である必要がある。しかも作用している概念である必要がある。しかし自然の中にはどこにもそのような原因となる概念の存在が証明されていない。自然の中での概念は常に原因と結果との理念的な関連として存在しており、自然の中での原因はもっぱら知覚内容として存在している。
 二元論は世界と自然をも目的論的に語ることができる。われわれの知覚内容が原因と結果の合法則的な結びつきにおいて現れるとき、それを二元論者は、宇宙の絶対者がその目的を実現したときの絶対者と事物との関係の焼き直しである、と思っている。一元論者にとっては宇宙の体験できない仮定上の絶対者だけでなく、世界目的や自然目的を仮定する根拠もまた存在しないのである。」

p211は「●一九一九年の新版のための補遺」のキーセンテンスとして、
 「…。そして人間的な合目的性のモデルに従って考えられた人類の使命の合目的性についても、それが間違った考え方であると述べる理由は、個々の人間の立てた目的の総計から人類全体の働きが生じるのだ、ということを言おうとしている。そのような働きは、結果として、個々の人間の目的よりも高次なものとなるのである。」

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)の中で、今井先生は「第11章においては、目的を設定できるのは人間だけであり、自然のなかに目的の存在を仮定するのは間違っているということが述べられています。…」と書いています。その言葉を指針にして読みました。
 私の『自由の哲学』読書は、哲学入門としての側面が大きく、シュタイナー書籍を通じて、哲学用語の学習でも有ります。しかしそれは希望のある読書になっています。皆さまにとって期待外れの感想かも知れません。けれどもよろしくお願い致します。

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