『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年9月17日(土)78回2022年09月17日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれに合わせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
 今回17回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一四章 個と類」(p263~268)を読みます。6ページほどの短い章で、段落は8つです。今回の読書は先ず通読し、次に吟味しながら読書して、問題意識に沿って記述します。

 シュタイナーは人間一人一人の個性を重要視しています。
 この章の最初に、次の問いを発しています。

 「人は誰でも完全無欠で自由な個性となりうる、という考え方は、個人が自然集合体(人種、種族、民族、家族、男性、女性など)や国家、教会などの一分枝であるという事実に矛盾しているように思える。人間は自分の属している共同体の一般的な特質を担っており、その行為内容も社会の中で占める位置によって規定されている。
 そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」

 人間一人一人が個性として生きることの大切さをR・シュタイナーは訴えていますが、人間は両親から生まれて、その生まれながらに所属する共同体の中で暮らしています。そのような状況下の人間について、「そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」という上記のシュタイナーの問いは、読み進める中で、面白い展開を見せてくれます。
 私自身この書籍『自由の哲学』を読むことによって、一人一人の人間が個性を発揮し合って生きることの大切さを実感しているところです。この「第一四章 個と類」を読み、考えながら、今あらためて個性の重要性を感じはじめています。
 さらにシュタイナーは次の問いを出し、その説明を出してくれます。さらに女性差別とその開放に触れています。

 「或る集団に属する一分枝の特質や機能は集団全体によって規定されている。民族集団に属する人はすべて、その集団の特質を自らの内に担っている。個人の在り方やその行動のパターンは集団の性格によって条件づけられている。そのことによって個人の相貌と行動とは類にふさわしいものとなっている。なぜこの点がこの人の場合はこうなっているのかと問うとき、個から類へ眼を向けなければならない。或る人の態度がなぜわれわれの観察した通りの在り方をしているのかを類が説明してくれる。」
 「しかし人間は類的なものからも自由な存在である。なぜなら人間における類的なものは、人間がそれを正しく体験するときには、その人の自由を決して制限したりはしないからである。人工的な制度がそれを制限することも許されない。人間が発達させるべき特性や能力を規定する根拠は人間そのものの中に求めなければならない。その際類的なものは、各人が固有な本性を顕すための手段でしかない。人間は自然から授けられた特性という土台の上に立って、自分の本質にふさわしい形式を自分に与える。この本質を顕す根拠を類の法則に求めても無駄である。大切なのは個体であって、個体だけがそれ自身の内に存在の根拠を担っている。人間は類的なものからこのような意味で解放されるところにまできているのである。」
 「類概念を下敷きにして人間を評価するとしたら、人間を完全に理解することは不可能である。そのような類による評価が最も頑固に行われているのは、性に関する事柄においてである。男は女の中に、そして女は男の中にあまりにも相手の性の一般的特徴を見、個的な特徴を見ようとはしない。このことは実生活においては、女よりも男にとって害が少ない。女の社会的地位がいまだにひどく悪いのは、女として求められている多くの点が、個個の女の個的特徴によってではなく、女として生まれつき持っている課題や要求の一般通年によって決められているからである。男の生活はその人の個的な能力や欲求に従っている。女の生活はまさに女であるという事情によって決められている。女は女性一般という類的なものの奴隷になっている。女であることがどの職業に適しているかを男に求めてもらっている限り、いわゆる婦人問題は初歩的段階から抜け出ることはできない。女として望むことのできるものが何なのかは、女の判断にゆだねなければならない。女に現在開かれている職業だけにしか女の能力が及ばないということが本当なら、女が自分でそれ以外の職業を選ぶ理由がわからない。女であるとは何を意味するのかを決めるのは女自身でなければならない。女が女性としてではなく、個体存在として生きようとしている現代の変化した社会状況に危惧を抱く人に対しては、全人類の半数が人間にふさわしい生き方をする社会状況こそ、社会進化のために不可欠なのだ、と応えねばならない。」


 シュタイナーの下記の文章は、私にとっては先ず着目点を探す読書になりました。私は「自由な自己規定に基づく人生が始まる」の意味を見落としていました。今井先生の『自由の哲学入門』の「第一四章 個と類」に目を入れることにより気づきのヒントを戴きました。

 「人間を類の性質に従って評価する人は、自由な自己規定に基づく人生が始まる以前の段階のところに立ち止まっている。この段階以前のことはすでに科学研究の対象になっている。人類、種族、民族、性などの特性は個別科学の内容である。類の典型となって生きようとする人がいるとしたら、そのような人だけが個別科学を扱う一般的な類の像と自分とを完全に一致させることができるであろう。しかしどんな個別科学も個人の生活内容にまで立ち入ることはできない。思考と行動における自由の領域が始まるところでは、類の法則は力を行使できない。完全な現実を手に入れるために、思考が知覚内容と概念内容とを結びつけるとき(一〇六頁以下参照)、どんな人でもその概念内容を完全な形で他人に伝えることはできない。各人は自分の直観を通して、それぞれ自分でその概念内容を手に入れなければならない。個人がどのような考え方をするかを何らかの類概念から導き出すことはできない。そのための唯一の尺度は個人なのである。個人が自分の意志にどんな具体的目標を与えようとするのかも、人間の一般的な性質から決めることはできない。個人を理解しようとするなら、その人固有の本性にまで眼を向けなければならない。類型的な特徴に立ち止まってはならない。この意味でいえば、どんな人もそれぞれが新たに解かれるべきひとつの課題である。それを抽象的な思考や類概念で処理しようとするすべての科学は、そのための準備段階でしかない。つまり個人が世界を観察するときの仕方を知り、そして個人の意思による行為内容を認識するようになるための準備段階にすぎないのである。そこに類型的な思考や類としての意志から自由な何かがあるらしい、と感じることができたなら、相手の個性の本質を理解するのにわれわれは自分の精神から取り出した概念の適用をやめなければならない。認識は概念と知覚内容とを思考によって結びつけることの中にある。どんな場合にも、観察する人は概念を自分の直観を通して獲得しなければならないけれども、相手の自由な個性を理解しようとする場合だけは、その相手自身が自己を規定するときの基準概念を、純粋に(観察者に固有の概念内容を混入することなく)観察者の精神の中へ受け入れなければならない。他人を評価するのにわれわれ自身の固有概念を用いてしまうならば、決してその人の個性の理解にまでは達しないであろう。自由な個性が類の特性から自分を自由にするように、個を認識する行為も類的なものを理解する仕方から自分を自由にしなければならない。」
 「以上に述べたような仕方で、類的なものから自分を自由にする程度如何が、共同体の内部にいる人間が自由な精神でいられるかどうかを決定する。どんな人も完全に類でもなければ、完全に個でもない。しかしどんな人も、多かれ少なかれ、動物的生活の類的なものからも、自分の上に君臨する権威の命令からも、自分の本質部分を自由にしていく。
 しかしこのような仕方で自由を獲得することができない人は、自然有機体か精神有機体の一分枝になる。そして他の何かを模倣したり、他の誰かから命令されたりして生きる。自分の直観に由来する行為だけが、真の意味で倫理的な価値を有している。遺伝的に社会道徳の本能を所持している人は、その本能を自分の直観の中に取り込むことによってそれを倫理的なものに変える。人間の一切の道徳活動は個的な倫理的直観と、社会におけるその活用とから生じる。このことを次のように言い換えることもできよう。――人類の道徳生活は自由な人間個性の道徳的想像力が生み出したものの総計である、と。これが一元論の帰結である。」

 この『自由の哲学』一四章を読み、私は次のような思いと考えを抱きました。
 「自由とはそれぞれの個性が自分で生み出すこと創り出すことが原点にある。先ずそれが自由への教育なのである。両親や家族、共同体に見守られながら育つわれわれ一人ひとりは、学習を通じ、仕事を通じて様々な自由を獲得してゆくのである。現在とは自由を生み出していく獲得していく道程なのである。」、と。

 今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。