『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年6月8日(水)76回2022年06月08日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。

 この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
 
 次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。

 そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」

 シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」

(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」

(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」

(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」

(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」

(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」

(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」

(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」

(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」

(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」

(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」

 この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
 この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年6月8日(水)76回2022年06月08日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。

 この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
 
 次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。

 そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」

 シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」

(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」

(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」

(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」

(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」

(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」

(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」

(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」

(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」

(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」

(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」

 この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
 この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。