『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2024年2月29日(木)89回2024年02月29日

R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の10回目の読書です。
 今回の読書は「三つの世界」―「二 魂の世界における死後の魂」(p121~135)です。
 
 貴方にとって重要と思う個所はどこですかと問われたなら、全ての文章ですよと返答したでしょう。最初の一行から重要に思います。しかし、全てを引用するわけにはいきません。ですので、今回は、「死後の魂界」に関わる文章を見ていきたいと思います。

124~126ページ
 「死後の魂の運命を知るには、その解消過程を考察しなければならない。魂は霊を物質の方に向わせる課題を背負っていた。この課題を果し終えた瞬間に、魂は霊の方向に向かう。
 この課題との関係からいえば、体が魂から離れ、したがって魂がもはや結合部分の役割を果たす必要がなくなるとき、魂は本来なら、ただちにもっぱら霊的に活動できる筈である。
 体におけるいとなみを通して体の影響をうけ、体に惹きつけられることさえなければ、魂 はもっぱらそのように活動することができた筈である。体に宿ることで、その影響に染ま ることがなかったなら、体を脱したあと、ただちに霊的、魂的な世界の法則だけに従い、感覚体験を今までのように求めたりはしなかったであろう。もし人間が死に際して、完全 に地上世界への関心がなくなる程にまで、地上存在と結びついた欲望、願望等のすべてを 満足させていたなら、そうできたかも知れない。しかし現実にそうできない場合には、こ の方向でまだ充たされていないものが、魂に付着している。
 混乱を避けるために、ふたたび生れ変ってきたときに償いをつけることができるようなこの世の因縁と、死後の魂を生前の特定の生活に執着させるようなこの世の因縁とを注意深く区別しておかなければならない。前の場合は、運命の法則、カルマを通して解決されるが、後の場合は、死後の魂が自分でその因縁を取り除くことしかできない。
 死後の魂は、もっぱら自分が霊的、魂的な世界の法則に従うことで、霊を自由に活動させるために、物質存在への執着を一切絶つのに必要な一時期をもつ。魂が物質的なものに拘束されていればいるほど、もちろんこの期間は延長される。物質生活への依存度の少なかった人の場合は、期間が短く、物質生活への関心が強く、死後もなお多くの欲望、願望等が魂の中に残っている人の場合は、長く続く。」

127~128ページ
 「死後、魂の世界に入った魂は、この世界の諸法則の下に生きる。その諸法則が魂に働きかける。物質的なものを志向する魂の傾向が、どのような仕方で消滅するに至るかは、この働きかけにかかっている。この働きかけは、魂が入っていった領域の素材と力の種類によって異なってくる。とはいえ、種類の如何にかかわらず、この働きかけによって純化し、浄化する感化力が、魂に影響を及ぼす。そしてすべての反感作用が魂の中で、次第に共感の力によって克服され、共感そのものも、最高の頂点にまでもたらされる。最高度の共感とは、魂が魂界全体に融合し、魂界とひとつになることをいう。そのとき、魂の利己的傾向は、完全に消える。魂は、もはや物質的、感覚的な存在に関心をもとうとはしなくなる。このようにして、霊が魂を通して解放される。
 このようにして魂は、完全なる共感の領域で、魂界全体とひとつになるまで、上述した魂界の諸領域を通過しながら、浄化を続ける。もしも霊が、魂の解脱の最後の瞬間まで、この魂そのものと結びついていたとすれば、それは霊が、地上生活を送る間に、魂と完全に同化してしまったからに他ならない。この同化は、体との同化よりもずっと徹底してい る。なぜなら、霊は、体とは魂を通して間接的に結びついていたのだが、魂との結びつきは直接的なのだから。魂は、霊の個人生活としていとなまれている。だから霊は、腐敗する肉体にではなく、次第に解脱を遂げつつある魂と結びついている
 霊は魂と直接結びついているから、魂が魂界全体とひとつになったときはじめて、霊は魂から自由になった自分を感じることができる。」 

128~135ページ
 「死後の人間の最初の滞在の地である魂の世界は、「欲望の場所」と呼ばれるが、魂のこの状況を知り、それを教義に取りいれているさまざまな宗教体系は、この「欲望の場所」を「煉獄」、「浄火」等と名づけている。
 魂界のもっとも低い領域は、燃える欲望の領域である。死後、この領域を通過する間に、物質生活にかかわる粗野で利己的な欲望が消滅させられる。なぜなら、この欲望をまだ捨てることができずにいる魂は、まさにこの欲望を通して、この領域の力の或る作用をまともに受けざるをえないからである。この作用の起点となるものは、物質生活への、まだ充 たされぬままに残っている欲望である。この魂の共感は、自分の利己的欲求を充たしてくれるものにしか及ぼうとはしない。その他のいたるところには、反感が働いており、その反感が魂を圧倒している。ところがこの場合、欲望は魂界の中では充足させられない物質的享受を求めている。… 」

 「共感と反感が均衡を保っているのが、魂界の第二領域の状態である。死後、これと同じ状態にある人間の魂は、この第二領域の作用を受ける。人生の外的事情に心を奪われたり、感覚の一時的な印象に喜びを求めたりすることが、この状態を作り出す。このような状態にある魂の要求から自由になれない人は、この領域の中に留まり続ける。このような人は、日常の瑣事にいちいちこだわる。しかしその際、共感が特にひとつの事物に向けられることがないから、どんな印象も、特別の影響を与えることなく、急速に通り過ぎる。しかもこの些細な、無価値なもの以外はすべて、このような人の反感を呼び起こす。…」

 「第三に、魂界の中には、共感と願望の支配する状況が観察される。魂は死後、願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、この第三の領域の作用を受ける。この願望もまた、成就させることが不可能なので、次第に消滅する。」

 「魂界の第四領域である快と不快の領域は、魂に特別の試練を課す。肉体に宿っているとき、魂は体に関するすべての事柄に関与する。快と不快の働きは、体と結びついている。体が快感と満足感、不快感と不満足感を惹き起す。だから人間は、地上生活において、自分の身体を自分の自我と感じるのである。自己感情と呼ばれるものは、この事実に基づいている。そして人間が感覚的傾向を強くもっていればいる程、その自己感情は、このような特徴をもっている。
 …
 この第四領域の作用は、したがって、肉体即自我の幻想を打破することにある。魂は体 的本性を、もはや本質的なものとは感じなくなる。魂は、体的本性への執着から解放され、純化される。これまで魂を物質界に強く拘束してきたものが、このようにして克服されたので、今や魂は、外へ拡がる共感の諸力を存分に発揮することができるようになる。魂は、いわば自己を脱却して、魂界全体の中へ自分を進んで注ぎ込むようになる。
 以上との関連で、是非述べておかなければならないのは、自殺者の問題である。自殺者は、特別な仕方で、この領域の諸体験に耐えていかなければならない。彼は不自然な手段を用いて肉体を棄てたが、肉体に係わるすべての感情は、そのまま彼の魂の中に残されている。自然死の場合は、肉体の衰弱とともに、肉体に結びついた諸感情も、部分的に消滅していく。自殺者の場合は、突然穴が空けられてしまったという感情が生み出す苦悩の他に、自殺の原因となった充たされぬ欲望と願望とが、苦悩を生み出す。」

 「魂界の第五段階は、魂の光の段階である。この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で、低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して、喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。
 たとえば自然に没入しようとする態度も、もしそれが感覚的性質のものであったら、たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。それは自然の事物やそのいとなみの中に顕現する霊を体験しようとする場合である。このような自然感情は、その人の霊性を開発し、魂の中に永続的部分を築き上げる。しかし感覚的享受を動機にもつ自然体験は、この自然感情とは異なる。魂は、物質的なものだけに向けられた欲求と同じように、このような自然体験をも、浄化しなければならない。また多くの人びとは、物質的な福祉をもたらす諸制度、たとえば快適な生活を築 くための教育制度の中に、一種の理想を見出している。この人びとが利己的衝動だけに従っているとは、もちろんいえない。しかしその人びとの魂は、感覚世界を志向している限り、魂界の第五領域を支配している共感の力によって、浄化されなければならない。この共感の力には、そのような外的充足手段が欠けているから、魂は別の手段でこの共感を充足させなければならない。そしてそのような手段とは、魂が魂界の環境に共感することによって実現されるところの、魂の空間の中への自己流出以外にはないのである。
 宗教活動を通して物質生活の向上を期待していた人びとの魂も、この領域で浄化を受ける。その人びとの憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。いずれの場合も、このような人びとの魂は、「魂の国」の中で、この楽園に出会うであろうが、それは結局、このような楽園の空しさを悟るためなのだからである。以上は、この第五領域で生じる浄化についての個々の例に過ぎない。例はいくらでも増やすことができる。」

 「第六の領域は、魂の活動力の領域である。利己的な性格をもたなくても、行為の動機が 感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。活動意欲に燃えている人は、一見まったくの理想主義者であるような印象を与える。犠牲的精神に富んだ人物であるようにも見える。しかし深い意味において、そのような場合の動機となっているのは、感覚的な快感の高まりなのである。芸術的な人や面白いというだけの理由で学問研究に没頭している人の多くも、この部類に属する。芸術や学問の存在理由がそのような面白さにあると信じることが、その人たちを物質界につなぎとめている。」

 「本来の魂の生命の領域である第七領域は、感覚的、物質的な世界への執着から最終的に人間を解放する。これまでのどの領域も、魂の中にあるその領域と同質の部分を、魂から取り上げてきた。最後に残された魂の部分は、感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然として覆い包んでいるのである。
 非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外のことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。この信念は、打破されねばならない。そしてそれはこの第七領域において為される。この領域での魂は、真の現実 の中には唯物論信仰の対象となるようなものは何も存在しない、ということを悟る。氷が日に当たって溶けるように、魂のこの信念もこの領域で消えていく。魂は今や、魂界に残りなく吸収し尽され、霊はあらゆる束縛から自由になる。霊は今、本来の諸領域へ向かって飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は、自己本来の環境の中にいる、ということができる。

 「魂は生前、この世の課題に応えてきた。そして死後、この課題のうち、霊にとっての束縛であったものが解消された。魂は、地上生活のこの残滓を、残りなく捨て去ることにより、魂自身、その本来の領域の中に戻っていく。
 以上に述べたことから分かるように、魂界における諸体験と、それを体験する死後の魂の状態とは、肉体に宿っていた魂の中の、肉体と同質化してしまった部分がますます拭い去られるに応じて、魂にとっても好ましい様相を示すようになる。
 魂は、この世の生活の中であらかじめ作られてきた条件次第で、以上の諸領域のどれかに長く留まったり、短く留まったりする。魂は、同質の領域に、この同質性がすっかり消滅するまで留まり続ける。同質の部分が全然存在しないところでは、何も感知することなく、魂はその影響圏を通過する。この章では、魂界の基本性質と魂界における魂のいとな みの一般的特徴だけを扱ったが、この点は霊界についての以下の記述でも同じである。魂 界と霊界の特質を、もっと詳細に論じようとするなら、とても一冊の本には収めきれないものになってしまうであろう。物質界における空間の関係や時間の進行に比較されるようなものについてだけでも、それが物質界とはまったく異なるものなので、理解を容易にしようと思えば、非常に詳細にわたって述べる必要があるからである。この点に関する若干の重要な内容は、私の『神秘学概論』の中に見出せる。」

 R・シュタイナ-は現世の現象世界の他に魂界と霊界が実際に存在すると言い切っている。人間は、肉体の死後、この物質世界から魂界に行き、この魂界で物質世界・現象世界に執着している人間の意識の浄化を経て、霊界に向かうという考えをシュタイナーは示している。このことをシュタイナーは事実であると言っている。
 今回の読書である「魂の世界における死後の魂」(p121~135)を読み、肉体の死後、人間がたどる魂界での七つの領域について、シュタイナーのこの『神智学』から知ることができた。肉体の死後、魂界を巡る意識=霊魂は現象世界で体験した物事を人間は魂界まで持ち込んでしまう。魂界においては、その現象世界で体験した物事に執着している意識の断片は問われていく。現象世界の物事に執着した意識の衣は、拭い去り、捨て去り、廃棄し、物事への意識から無に帰することが必要になる。意識は空無になること。クリーンな意識の状況が魂界では必須のようである。
 「魂の世界における死後の魂」(p121~135)を読みながら、あらためて魂界とは何かと問う。そしてあらためて思う。現象世界を生きた結果を問い直すことが、魂界の役割の一つではないのか。現象世界の人間一人ひとりの生き方、夫々の人生の交流、その現象世界での生存の仕方は魂界で問われる。それは魂界の役割である。あらためて述べることであるが、魂界とは現象世界の一人ひとりの生き方を問い、現象世界に執着した意識を無に帰する役割がある。魂界で意識を無にすることにより、次の世界、霊界に進むことが出来る。そのため魂界とは、地獄でもあり、天国でもある世界を体験できる場でもある。魂界とは、成長を続ける自己意識には、大切な世界でもある。魂界についてそのような考えを今は抱いている。
 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読みながら、実際に存在すると考えられている魂界、霊界について思い巡らし、認識を深めていきたい。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年12月1日(金)88回2023年12月01日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の9回目の読書です。
 今回の読書は「三つの世界」―「一 魂の世界」(p101~120)です。
 「 魂の世界」については、心の深層部分としても考えています。けれども、「魂」と「霊」との関係、「魂」と身体の「脳」との関係については、今まで深く考えていませんでした。『神智学』において、身体・魂・霊の関係について考えるチャンスをいただきました。
 前章の「霊の再生と運命」で取り上げたp100~101ページの文章があります。今回再度下記に取り上げさせていただきます。この文章を念頭に置きながら、今回の「一 魂の世界」の章を読み、思考を深めていきたいと思います。
 
 「三つのことが、誕生から死に至る人間の一生を規定している。そしてこのことを通して、人間は、誕生と死を超越している要因に、三重の仕方で依存している。すなわち肉体は、遺伝の法則に従っている。魂は、みずから作り出した運命に従っている。人は人間の魂に よって作り出されたこの運命を、古い表現を用いて、カルマと呼ぶ。そして霊は、転生の、生れ変りの法則に従っている。」
 
 一人ひとりの人間が関わっている物質界・魂界・霊界の三つの世界の存在とその関係について、私自身が理解を深めていくことが先ず問われています。今回の読書「三つの世界」―「一 魂の世界」(p101~120)を通して、私の理解力、認識し易い範囲を下記に取り上げさせていただきました。

P110~111
 「われわれの胃、心臓、肺、脳を構成し、支配している素材と力が、物質界のものであるように、われわれの衝動、欲望、感情、情熱、願望、感覚といった魂の特性は、魂的世界のものである。人間の魂は、肉体が物質界の一部分であるように、魂的世界の一部分なのである。物質界と魂の世界との第一の相違は、後者の世界のすべての事物や本性が、前者の世界の場合よりも、はるかに精妙で、動的で、自由に形態を変えうる、ということであろう。…」

P111
 「物質界の構成体が、空間上の拡がりと空間上の運動とを固有のものとしてもっているように、魂界の存在者や構成体は、敏感な反応と衝動的欲望とを固有のものとしてもっている。それ故、魂の世界は欲望=願望の世界、もしくは「要求」の世界と呼ぶことができる。」
 「…衝動、願望、要求は、魂の世界の素材に対する名称である。この素材部分は、「アストラル的」と呼ばれる。…」

P112
 「魂の世界には、物質界とまったく異なる法則が支配している。ところが魂の構成体の多くは、当然他の世界の構成体と結合している。たとえば人間の魂は肉体と結合しており、人間の霊とも結合している。それ故、人間の魂の中のいとなみは、同時に体や霊の世界の影響をうけている。魂の世界を観察するときには、このことが顧慮されなければならない。そして他の世界の働きによるものを、魂の法則であると思ってはならない。」

P113
 「魂的事象と物質的事象のひとつの重要な相違は、前者における相互作用が本質的に内的であるというところにある。」
 「…だから魂の空間に歩み入る人が、物質界から持ち込んだ規則をそこに当てはめようとすると、ありとあらゆる誤謬が生じることになる。」

P113~114
 「魂の世界の事情に通じるための第一の仕事は、物質界で個体、液体、気体の区別を立て るのと似た仕方で、その構成体を分類することであろう。そのためには、もっとも重要な、二つの根本的な魂の力を知らねばならない。すなわち共感と反感とである。魂的構成体の中で、この二つがどのように作用し合っているかが、その構成体の種類を決定する。共感とは魂的構成体が他のものを惹きつけ、他のものと融合しようとし、そして他のものとの親和関係を生じさせる力である。反感とはこれに反して、他のものに反発し、他のものを排除し、自分の特性を主張しようとする力である。」
 「三つの種類の魂的構成体が、このような共感、反感の作用に従って、まず区別されねば ならない。そしてこれらの種類の相違は、共感と反感との相互関係如何によっている。この二つの基本力は、そのいずれの場合にも、存在している。」

P114~115
 「まず第一の種類の構成体を取り上げよう。それは、周囲にいる他の構成体を共感の作用によって惹きつけようとする。しかし同時に、自己の中に働いている反感の力が、周囲にいるものを押しのける。その結果、外に向かっては、もっぱら反感の力だけしかもっていないように現れるが、そうではなく、共感と反感がともにそこには存在しており、ただ後者が優勢であるに過ぎない。反感が共感にまさっているのである。
 この構成体は、魂の空間の中で、自己中心的な役割を演じている。自分の周りにいる多くのものを押しのけ、わずかなものだけを好ましいものとして自分の方へ引き寄せる。それ故、この構成体は、変化し難い形態を保って、魂の空間を移動している。それらの共感の力は、貪欲な姿を示している。しかもこの貪欲は、満足することを知らぬかのようであ る。というのは、支配的な反感が、近寄ってくる多くのものを押しのけてしまい、魂は充たされようがないからである。この種類の魂的構成体を、物質界の何かと比較しようとするなら、固体がこれに対応しているといえるだろう。魂的素材性のこの領域を燃える欲望と呼ぶ。
 動物や人間の魂に混入しているこの欲望の熱こそ、低い感覚的衝動という、彼らの支配 的な自己中心本能を決定しているものなのである。」

P115~116
 「魂的構成体の第二の種類は、この両基本力が均衡を保ち、したがって共感と反感が同じ強さで作用している場合である。この構成体は、周囲のものに一種の中立性をもって相対している。それは特に惹きつけたり、押しのけたりすることなく、他と類似したものとして、他に働きかけている。それは自分と周囲との間にいわばはっきりした境界を引こうと しないで、周囲にいる他のものたちを絶えず自分に作用させているから、物質界の液体に比することができるだろう。
 …それは第一のもののように自分本位に魂の空間を移動することなく、いたるところで他からの印象を受け容れ、出会うものの多くと親和している。このような魂の素材を、流動的感応性と表現することができるであろう。」

P116
 「魂的構成体の第三段階は、共感が反感を支配している段階である。反感は、自己中心的に自分を主張するが、今や周囲への事物の傾倒がこれにとって代る。このような構成体が 魂的空間の中にいる場合を考えてみよう。それは周囲の諸対象に及ぼす引力圏の中心となっている。このような構成体を、特に願望素材性と呼ぶ必要がある。なぜなら、反感が存在するにしても、その働きが共感より弱いので、共感力が、その引力を及ぼすすべての対 象を、この魂的構成体自身の領域内へ引き入れようとしているからである。だからその限 りにおいて、その共感はまだ自己中心的な基調をもっている。願望素材性は、物質界の気 体と比較されうる。気体があらゆる側面に膨張しようとするように、願望素材性もあらゆる方向に拡がるのである。」

P116~117
 「魂の素材のより高次の諸段階は、反感が完全に退き、共感だけが本来の作用者として現 れることによって特徴づけられる。その場合、この共感の働きは、最初は魂的構成体そのものの諸部分の内に現れる。この諸部分は、相互に惹きつけ合う。或る魂的構成体内部の共感の力は快と呼ばれるものの中に現れる。そしてこの共感の、どのような減少も、不快なのである。寒さが減少した熱さに過ぎぬように、不快はただ減少した快に過ぎない。快と不快とは、人間の感情の世界(狭義での)の中で働く共感と反感なのである。この意味で感じるということは、魂が自分自身の内部で活動するということである。快・不快の感 情の在り方次第で、魂の気分がきまってくる。」

P117~118
 「共感を自分自身の内部での活動に留めない魂的構成体は、もう一段高次の段階にいる。この段階は、すでに第四段階がそうであったように、共感の力が対抗する反感によって妨げられぬ点で、低次の三段階と区別される。これら高次の種類の魂の素材によってはじめ て、多様な魂的構成体がひとつの共同の魂的世界としてまとまるのである。
 反感が問題になる間は、まだその魂的構成体は自分だけのために、他のものによって自分を強め豊かにすることのためにのみ、他のものと係わろうとしている。反感が沈黙するとき、伝達し、啓示してくれる存在としての他のものを迎え入れる。物質空間における光に似た役割を、この高次の形式の魂の素材は魂的空間の中で演じる。この魂の素材は、或 る魂的構成体をして、他の存在、他の本質を、これらの存在、本質そのもののために、いわば吸収するようにさせる。別のいい方をすれば、他の存在の光で自分を照らすようにさ せる。
 魂は、これら高次の諸領域を知ることによって、はじめて真の魂の在り方に目覚める。魂は、暗闇での重苦しいいとなみから解放され、外に向って開かれ、輝き、みずから魂的空間の中へ光を投げかける。…」

P118~120
 「地下室に置かれると、植物の生長がとまるように、活動をうながす高次領域の素材がなければ、魂的構成体も成長することができない。このような高次領域の素材は、魂の光、魂の活動力、そして狭義での魂本来の生命である。これらは高次領域から出て個々の魂に付与される。
 それ故、魂の世界は、三つの低次領域と三つの高次領域とに区別される。そしてこの二つは第四のものによって仲介されているから、魂の世界は以下のように区分できる。

一 燃える欲望の領域
二 流動的感応性の領域
三 願望の領域
四 快と不快の領域
五 魂の光の領域
六 魂の活動力の領域
七 魂の生命の領域

 はじめの三領域における魂的構成体の特質は、共感と反感との関係から得られている。第四領域では、共感が魂的構成体自身の中だけに働いている。高次の三領域を通して、共 感の力はますます自由になる。輝き、活気づけながら、この領域の魂的素材は、魂の空間に吹き渡り、自分だけでは自己存在の中に埋没しかねない魂的構成体を覚醒させるのである。
 蛇足ながら、疑問を残さぬように、ここで強調しておくなら、魂の世界のこの七区分は、決して互に切り離された領域を示しているのではない。個体、液体、気体が物質界で互に 浸透し合っているように、魂の世界における燃える欲望、流動的感応性、そして願望の領域の力は、互に浸透し合っている。そして、物質界で熱が物体を貫き通り、光がそれを照らし出すように、魂的世界での快、不快や魂の光にも同様のことが生じる。さらに同じことが魂の活動力と本来の魂の生命にも生じている。」

 当書籍、R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読書することにより、人間の心領域の魂の世界について、その一部を知ることができました。魂という言葉を聞いたり、見たりしてきましたが、魂とは何か、その深くを考えてきませんでした。
 共感、反感、快、不快、魂の世界の七区分等々について、この『神智学』で知ることができました。今後、さらに詳しく知り、思考していきたい思います。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年9月9日(土)87回2023年09月09日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の8回目の読書です。
 今回の読書は「霊の再生と運命」(p71~101)で、30ページにおよぶ文章です。
 この「霊の再生と運命」の章においては、99ページのやや後半から101ページの文章に、特に、注目したいと考えました。下記にこの文章を抜粋させていただきます。
 是非皆さま、『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手元に置き、併せてお読み下さい。

 「…肉体は、遺伝の法則に従っている。一方、人間の霊は、繰り返して生れ変らねばならない。転生の法則は、人間の霊が前世の成果を次の生の中に持ち込むということの中にある。魂は現世の中に生きている。しかし現世の中に生きているということは、前世の生活から独立しているということではない。生まれ変わった霊が、前世から自分の運命をもってくるのだから。
 そしてこの運命は、人生を規定している。魂がどんな印象をもつことができ、どんな顔 望を充足させることができ、どんな喜びや苦しみをもち、どんな人間たちと出合うことに なるか、これらすべては、これまでの霊の転生の中で、どのような行為が為されてきたか にかかっている。魂は、ひとつの人生の中で結びついていた人たちに、次の人生の中でも めぐり合わずにはいないであろう。なぜなら、この人たちとの間で為された行為は、その 結果をもたざるをえないからである。
 ひとりの人の魂だけでなく、この魂と結びついていた他の魂たちも、同じ時代に生れ変 ろうと努めるだろう。魂のいとなみは、このように、人間の霊がみずから作り出した運命 のひとつの結果なのである。
 三つのことが、誕生から死に至る人間の一生を規定している。そしてこのことを通して、人間は、誕生と死を超越している要因に、三重の仕方で依存している。すなわち肉体は、遺伝の法則に従っている。魂は、みずから作り出した運命に従っている。人は人間の魂によって作り出されたこの運命を、古い表現を用いて、カルマと呼ぶ。そして霊は、転生の、生れ変りの法則に従っている。
 だから、霊、魂、身体の関係を、次のように言い表すこともできる。霊は不滅である。誕生と死は、物質界の法則に従って、身体を支配している。運命に従う魂のいとなみは、この世に生きる限りは、この両者に関連を与えている。人間の本質について、これ以上さ らに認識をもとうとするなら、人間が属している「三つの世界」そのものを知ることが前 提となる。次の章では、この三つの世界を扱うことになる。
 人生の諸現象に向き合い、人生の真実に応じた考察から得た思想を、最後まで推し進め ていくことを怖れないなら、思考の論理だけを通してでも、われわれは輪廻転生や運命法 則の観念に行きつくことができる。「霊眼」を開いた見者にとって、過去の諸人生が、開かれた巻物のように、体験として現存するということが真実であるように、この真理が思索する理性の中で輝くことができるのも真実なのである。」

 シュタイナーが述べている霊、魂、身体の「三つの世界」は、事実であり、真実であること。そのように私の心は感じています。そして、その証明が今後の課題であること。
 そのように私は思っています。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年7月3日(月)86回2023年07月03日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の7回目の読書です。
 今回は「四 体・魂・霊」(p42~70)を読みます。28ページに及ぶ長い文章となります。
 遅読の私には時間がかかりました。どのページも重要に思えました。
 そのような中で今回の読書は68~70ページを引用させていただきます。

 「魂の中で「私」は輝き、霊からの介入を受け、それによって霊人の担い手となる。人間はこうして「三つの世界」(物質界、魂界、霊界)に関与する。人間は肉体、エーテル体、魂体を通して、物質界に根を下ろし、霊我、生命霊、霊人を通して、霊界で花を開く。しかし一方に根を下ろし、他方で花を開くものの樹幹は魂そのものである。
 人間のこの区分とまったく一致した、別のもっと単純化された区分も考えられる。人間の「私」は、意識魂において輝くにしても、その輝きは魂の存在全体を貫いている。魂の存在の諸部分は、体の部分のようには明確に区分されていない。それらは互に浸透し合っている。悟性魂と意識魂とを自我の二つの外皮として自我に組み入れ、自我そのものをそ の中核と見るなら、人間を肉体、生命体、アストラル体、自我に区分することができる。アストラル体とは、魂体と感覚魂とを一緒にした名称である。アストラル体という表現は、以前の文献の中にも出ているが、ここでは人間本性の中で、感覚的には知覚できないものに対して、自由に適用されている。感覚魂は、或る点では自我の力に充たされているにも かかわらず、魂体と密接な係わりをもっているので、この両者をひとつにして、アストラル体という単一の名称を与えたのである。また自我が自分を霊我で充たすとき、この霊我 は、魂の力で変化させられたアストラル体であるかのように現れる。アストラル体の中には、まず人間の衝動、欲望、情欲が感情内容として働いている。そこにはまた、感覚的知  覚も働いている。感覚的知覚は、外界から人間に与えられた部分としての魂体を通して生 じる。衝動、欲望、情欲等は、まだ霊我に従う態度をとっていない内部の力に貫かれた感  覚魂の中で生じる。「私」が自分を霊我で充たし、そして魂がアストラル体をこの霊我の力で充たすとき、衝動、欲望、情欲は、自我の霊から受けとったものによって、くまなく照らし出される。自我は、霊界へのこの関与の故に、衝動、欲望等の支配者となるが、この支配の度合に応じて、霊我がアストラル体の中に現れる。そしてアストラル体そのものは、このことを通して変化し、二つの部分からなる存在となる。つまり変化していない部分と、変化した部分とからなる存在となって現れる。だから人間の中に顕現する霊我は変化したアストラル体であるとも言える。自我の中に生命霊を受けとる人間にも、同様のことが生じる。その場合には生命体が変化する。生命体は生命霊によって浸透される。生命霊は生命体の変化の仕方の中に現れる。だから生命霊は変化した生命体だ、と言うことも できる。自我が自分の中に霊人を受けとるとき、それによって肉体を霊人で充たす強い力を獲得する。もちろんこのようにして変化した肉体部分は、肉眼で見ることができない。
霊人となった肉体部分は、まさに霊化されているのだから。感覚的知覚にとっては、感覚的存在だけがある。この感覚的存在が霊化した場合、それは霊的認識能力によって知覚されねばならない。霊的なものに浸透された肉体もまた、外的感覚が知覚するときには、感覚的存在としてしか現れない。
 以上に述べたすべてのことから、次のように人間を区別することができる。

一 肉体
二 生命体
三 アストラル体
四 魂の核としての自我(私)
五 変化したアストラル体としての霊我
六 変化した生命体としての生命霊
七 変化した肉体としての霊人

 シュタイナーが考える人間の七つの区別について、これから、実感し、立証していきたいと私は考える。
 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から上記引用させていただきました。ありがとうございます。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月22日(水)85回2023年02月22日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の6回目の読書です。
 今回は「三 人間の霊の本性」(p40~41)を読みます。
 「二 人間の魂の本性」と同様に短い文章です。

 シュタイナーはこの章で、正しい思考をすることは人間の霊の本性であると言っている、と私は解釈しました。
 そして41ページの最後の文章において、
 「自分自身の考察を通して、体、魂、霊の区分を明らかにしようとすることは、思考によって人間の本質を解明しようとする者に課せられた課題である。」と述べています。
 
 「思考」は非常に重要な行動、行為であること。そして、「正しい思考に導く諸法則の必然性」(p40ページ)について、この書籍『神智学』の読書を進める過程で、認識を深めていきたいと考えています。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月15日(水)84回2023年02月15日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の5回目の 読書です。
 今回は「二 人間の魂の本性」(p38~39)を読みます。

 下記のキーセンテンスをとりあげました。

(p38より)
 「人間の魂の本性は固有の内面世界であり、この点でその体的本性から区別される。この固有の世界は、もっとも単純な感覚的知覚に注意を向けるだけで、ただちに立ち現れてくる。」

(p38~p39 にかけて)
 「…私は、自分の身体の諸感覚をもって、他人もまた知覚するであろうところの朱ぬりのテーブルを知覚することができる。しかし他人のもつ、色の感覚を知覚することはできない。
 したがって、感覚的知覚は魂的内容に属する、といわざるをえない。この事実がまったく明瞭に把握されるなら、内的体験を単なる脳のプロセスもしくはそれに類した事柄とは見做さなくなるであろう。」

(p39より)
 「感覚的知覚に続いて、感情がこれに加わる。ひとつの知覚体験も快または不快を人間に感じさせる。それも彼の魂の内的ないとなみの現れである。しかし人間は、感情の中で、外から彼に働きかけてくる世界に対して、第二の世界を創り加える。さらに第三のもの、すなわち意志がこれに加わる。意志によって、人間はふたたび下界に作用を及ぼす。」
 「このように魂は、人間固有の世界として、外界の対置されている。」

 この「二 人間の魂の本性」は2ぺージの短い文章である。ここから私が気がついたのは、魂とは人間の個性そのものであるということである。

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)には電子書籍版があります。その両方を使って読んでいます。
 けれども、電子版と紙版はページの取り方が違っていますので、紙書籍のページを使っています。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月10日(金)83回2023年02月10日

R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の4回目の読書です。
 今回は「一 人間の体の本性」(p35~37)を読みます。

 この文章からは、次の表現を拾ってみました。

(p35より)
 「身体の諸感覚によって、人間の体を知ることができる。」
「鉱物同様、人間はその身体を自然の素材から構築する。植物同様、人間は成長し、生殖する。動物同様、人間は周囲の対象を知覚し、その印象をもとにして、自分の中に内的体験を形成する。」
 「しかし人体は動物の体とは同じではない。その相違は、たとえどれ程人間と動物との類似が考えられるにしても、すべての人によって認められねばならない。」

(p36より)
 カールス(カール・グスタフ・カルス)著『自然認識と霊認識のための教程』から、シュタイナーが引用している文章からの抜粋です。
 「神経組織、特に脳の微妙にしてこの上もなく内的な構造は、生理学者や解剖学者にとって、依然として解きがたい謎であるが、しかし諸器官のあの集中、統一が、次第に動物性の中で高まっていき、そして人間において他のいかなる生物の中でも達せられなかった程度にまで到達しているということ、このことは完全に確認された事実である。…
…力強く、美しく発達した人体、特に頭脳の構造は、まだそれだけでは天才の代わりにはならないだろうが、いずれにせよ高次の認識のための第一の、もっとも不可欠な条件を充たしてくれるであろう。」

 「人体には存在の三つの形式、鉱物的、植物的、動物的形式が備わっているが、さらに第四の、独自の人間的形式がこれにつけ加えられねばならないのである。」

 この章「一 人間の体の本性」は、短い文章であるが、それ故に、人間身体の奥ゆきの深さを暗示させてくれる文章であると思いました。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年2月5日(日)82回2023年02月05日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の3回目の読書です。
 今回は「人間の本質」(p29~34)を読みます。

 この「人間の本質」は先ずゲーテの言葉がとり上げられます(p29二行目~p30九行目)。このゲーテの言葉の中のゲーテの思想から、シュタイナーは次のような考えを生み出しています。
 
 「このように人間は、常に三重の仕方で世界の事物と結びついている。今のところは、この事実の中へ何の解釈ももちこまず、この事実が現れるままをただ受け容れるだけにしておこう。今明らかになったことは、人間がその本質の中に三つの側面をもっている、という事実である。ここではさしあたり、体、魂、霊という三つの言葉で、この三つの側面を暗示しておきたい。この三つの言葉に何らかの先入見や仮設をもって対するかぎり、以下の論述はどうしても誤解されざるをえないだろう。体とはここでは、上例の牧場の花のような周囲の事物を、人間に示すところのものを意味する。魂とは、人間を事物と結びつけ、人間に気に入る、気に入らない、快と不快、喜びと苦しみを感じさせるところのもの、と解されるべきである。霊とは、もし人間が――ゲーテの表現を用いれば――事物を「いわば神的な態度」で観るとき、彼に開示されるものを意味する。
 この意味で人間は体と魂と霊とから成っている。
 体を通して、人間は一時的に自分を事物と結びつける。魂を通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。そして霊を通して、事物自身がみずから保持しているものが彼に啓示される。人間をこの三つの側面から考察するとき、はじめて人間の本性の解明が期待できるようになる。なぜならこの三つの側面は、人間が三重の異なる仕方で、世界と同質の存在であることを示しているからである。(p32七行目~p33六行目)」

 この「人間の本質」の章は、人間の体・魂・霊の三つの側面の概要を伝えてくれている。
次の文章も自覚しておきたい。

 「私の体的事象のすべては、身体的諸感覚によっても知覚できる。私が好んでいるか、嫌っているかということ、私の喜びと苦しみは、私も他人も、身体的感覚によっては知覚できない。魂の世界は、体的な見方にとって、手のとどかぬ領域である。人間の体的存在は、万人の眼に明らかである。人間は魂の存在を、人間自身の内部に自分の世界として担っている。しかし霊によって、外界が高次の仕方で人間に示される。外界の秘密が明らかにされるのは、人間の内部においてであるが、しかし人間は、霊的存在として、自分の外へ出ていき、そして事物に事物自身のことを語らせるのである。人間にとって意味のあることではなく、事物自身にとって意味のあることを。(p33十行目~p34二行目)」

 「かくして人間は、三つの世界の市民である。その体を通して、彼は身体が知覚するところの世界に属し、その魂を通して、彼自身の世界を構築し、その霊を通して、この両者の及ばぬ世界が彼に啓示される。(p34五行目~七行目)」

 この「人間の本質」の章から、人間が関わる体の世界、魂の世界、霊の世界の三つの概要の一端の手懸りをイメージすることができました。以後、この『神智学』の書籍から「体」・「魂」・「霊」の世界について深めていきたいと思います。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年1月23日(月)81回2023年01月23日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の2回目の読書です。
 今回は「序論」(p21~28)を読みます。
 この「序論」の中のキーワード・キーセンテンスを私の感性で拾ってみました。

(p21) 
 「ヨーハン・ゴットリーブ・フィフテ…「知識学」」

(p22)
 「…正しい意志をもってのぞむなら、どんな人でも「眼を開く」ことができるのだということを、一瞬たりとも疑うべきではないのです。」
 「外的諸感覚」
 「人間の真の本質を認識させる「内的感覚器官」」
 「「隠された叡智」」
 「「高次の感覚」」

(p23~24)
 「超感覚的事物の観察者」
 「どんな人の中にも、真理に対する感情と理解力とが存在している」
 「この理解力の中には、次第により高次の認識へ導いていくひとつの力が内在している」「真理に対する感情は、…この感情自身が「霊眼」を開いてくれる魔術師なのである。」「盲いた人のすべてが見えるようになれなくとも、霊眼はどんな人もこれを開くことができるのだから。ただそれがいつ開けるかという時間の問題だけが残されている。」
 「学識と科学的教育とは、この「高次の感覚」を開くための条件にはならない。素朴な人間にも知的水準の高い人にも、等しくこの感覚は開かれる。」

(p25~26)
 「本書で述べられているのは、偏見に曇らされぬ開かれた思考と遠慮のない自由な真理感情とを働かせるすべての人に対して、この思考と感情の力だけで人間生活や世界現象の謎に十分接近していけるのだ、という印象を与えうる事柄だけなのである。」
 「存在のこの高次の諸領域の「教師」であるためには、もちろんこれらの領域のための感覚が開かれているだけでは十分でない。彼には、日常的現象の領域の教師にとって科学が必要であるように、ひとつの「科学」が必要なのである。感覚的現実の世界に対して健全な感覚をもっているというだけでは「学者」になれないように、「高次の視覚」をもっているというだけでは霊界の通暁者にはなれない。」
「事実、現実界はすべて、低次の物質的現実界も高次の霊的現実界も、同一の根本存在性の二つの側面に過ぎない。」

(p27~28)
 「…、超感覚的な事実を知ることで明らかにされた、人間の本質と使命とに何らかの仕方で係わることなしには、言葉のまったき意味において「人間」であることはできないからである。」
 「人間が仰ぎ見ることのできる至高のものは、「神的」と呼ばれる。人間の最高の使命は、この神的なものとの関連において考えられねばならない。それ故、感覚的存在を超越した叡智、人間の本質と使命とを明示する叡智は、「神的叡智」もしくは神智学と名づけられるであろう。人生における、そして宇宙における霊的活動の考察には、霊学という言葉を与えることができる。本書で為されているように、霊学の中で特に人間の霊的本質の核心に係わる諸問題を取り扱う場合、   「神智学」という表現が用いられる。なぜならこの表現は数世紀に亘ってこのような観点から使用されてきたからである。」
 「…、神智学的世界観の素描が本書の中で試みられている。著者は、外的世界の体験が眼と耳と悟性とに事実であるのと同じ意味で、事実であるものだけを表現しようと欲している。」
 「本書では、その最後の章に素描された「認識の小道」を歩もうとするなら、誰でも手に入れることのできる体験内容が扱われているのである。健全な思考と健全な感受性だけでも、高次の世界から来る真の認識内容のすべてを理解できるということ、この理解をもとにして確固たる土台を築くとき、すでに自分の霊眼を開くための重要な歩みが始まっているということ、この二点を前提にするとき、人は超感覚的世界な諸事象に正しい仕方で向き合っている。」
 「…後になって見ることのできるものを、その前に健全な思考によって理解しようとする意志こそ、この見る能力を促進するのである。この意志が「見者の直観力」を育てる重要な心的能力を喚び起すのである。これが原則である。」

 まさにこの『神智学』の概要主旨がこの「序論」で述べられている。その感じ入る言葉、文章を書き出させていただきました。ぜひ、この書籍を手に取り、読み、確認してください。人それぞれ感じ入るキーワード、キーセンテンスに出会うと思います。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年12月21日(水)80回2022年12月21日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み始めています。
 四大主著の一つである前回読書の『自由の哲学』に続き、今回もその一つである『神智学』を読んでいきます。
 目次は以下のようになっています。

第三版のまえがき 9
第六版のまえがき 15
第九版のまえがき 17
この書の新版のために 19
序論 21
人間の本質 29
一 人間の体の本性 35
二 人間の魂の本性 38
三 人間の霊の本性 40
四 体、魂、霊 42
霊の再生と運命 71
三つの世界 103
 一 魂の世界 103
 二 魂の世界における死後の魂 121
 三 霊界 136
四 死後の霊界のおける霊 146
五 物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結びつき 164
六 思考形態と人間のオーラ 177
認識の小道 191
補遺 219
付録 233
訳者の解説とあとがき 251
文庫版のための訳者あとがき 261

神智学――超感覚的世界の認識と人間の本質への導き

 上記の目次に沿って読書を進めます。
 今回は、第三版のまえがき、第六版のまえがき、第九版のまえがき、この書の新版のために、9~20ページを読みます。
 そして今回の読書で私の心に強く触れ、重要だと思った文章を下記に抜粋させて頂きました。「第三版まえがき」中の10ページ7行目~13ページ3行目の文章です。

 「著者は、霊的分野で自分が経験し、証言できた事柄だけを述べている。この意味で自分の体験した事だけが表現されるべきなのである。
 本書は今日一般に行われているような読書の仕方で読まれるようには、書かれていない。どの頁も、個々の文章が読者自身の精神的作業によって読み解かれるのを待っている。意識的にそう書かれている。なぜなら、この本はそうしてこそはじめて、読者のものとなることができるからである。ただ通読するだけの読者は、本書を全然読まなかったに等しい。その真実の内容は、体験されなければならない。霊学はこの意味においてのみ、価値をもつ。
 通常の科学の立場から本書を評価する場合、その評価の観点は、本書そのものから得られているのでなければならない。批評家がこのような観点に立つときは、勿論本書の論述が真の科学性と矛盾するものではないことを理解するだろう。著者は一言なりとも自分の学問的良心に反するようなことを述べようとはしていない。
 別の道を通って、ここに述べた諸事実を求めようと思うなら、私の『自由の哲学』の中にそのような道が見出せる。本書と『自由の哲学』とは、異なる仕方で、同一の目標を目ざしている。その一方を理解するのに他方を必要とすることはないにしても、或る人々にとって、両方の道を通ることは極めて有益な筈である。
 本書の中に「究極の」真理を求める人は、おそらく満足せずにおわるだろう。霊学の全領域の基本的事実のみがまず述べられているからである。
 宇宙のはじめとおわり、存在の目的、神の本質をすぐに問おうとすることは、確かに人間の本性に基づいている。しかし悟性のための言葉や概念よりも、人生のための真の認識の方を大切にする人なら、霊的認識の基本を扱う書物の中では、叡智の高次の段階に属する事柄を語れない理由が分るであろう。事実、基本を理解することによってはじめて、高次の問題提出の仕方が明らかになるのである。本書に続く第二の書である著書の『神秘学』(一九一〇年に出版された『神秘学概論』のこと――訳者)の中に、ここで扱われた領域に関する、より以上の叙述がある。
 第二版のまえがきでは補足的に次のことが付言された。――今日、超感覚的諸事実の表
現を行う人は、二つの点をはっきり知っておく必要がある。第一の、われわれの時代が超感覚的認識の育成に必要としていること、しかし第二に、今日の精神生活の中には、このような表現を、まさにとりとめのない幻想、夢想であると思わせる考え方、感じ方が充満していることである。現代が超感覚的認識を必要としているのは、通常の仕方で人が世界と人生を経験する場合、その経験内容がその人の中に、超感覚的真実を通してしか答えることのできぬ無数の問題を喚び起すからである。人が存在の基礎について今日の精神潮流の内部で学べることは、より深く感じとる魂にとっては、世界と人生の大きな謎に対する解答ではなく、問いでしかない。しばらくの間は、「厳密な科学的事実が教えること」や現代の何人かの思想家の所説の中に、存在の謎を解決してくれるものがあると信じることができるかもしれない。しかし魂が、自分自身を本当に理解しはじめるときに入って行かねばならぬ、あの深層にまで入っていくなら、はじめ解決のように見えたものが、真の問題のための問題提起に過ぎなかったように思われてくる。
 この問題への解答は、人間の単なる好奇心に応じるべきではない。魂のいとなみの充実と内的平静がまさにこの解答如何にかかっているのだから。そして努力してこの解答を見出すことは、知的衝動を満足させるだけでなく、仕事に有能な、人生の課題に対処しうる人間を作る。この問題が解けぬ場合は、魂だけでなく、結局は肉体をも萎えさせる。超感覚的存在の認識は、単なる理論的要求にとってだけでなく、実生活にとっても有意義なのである。だから現在の精神生活の在り方の故にこそ、霊的認識はわれわれの時代にとって不可欠な認識領域なのである。」

 けれども、シュタイナーの重要な言葉は、上記抜粋させていただいた「第三版のまえがき」の個所だけではない。「第三版のまえがき」の他の個所、「第六版のまえがき」、「第九版のまえがき」、「この書の新版のために」、の中に大切な言葉、表現があります。
皆さま是非この書を手に取り読み進めていただきたいと思います。