『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年11月6日(日)79回2022年11月06日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれにあわせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
 今回18 回目は、『自由の哲学』「第三部 究極の問いかけ」―「第一五章 一元論の帰結」(p271~280)を読みます。この十五章が最終章となります。その後に、1918年の新版のための補遺一・二、付録一、二、訳者あとがき、文庫版のための訳者あとがき、があります。

 私の読書スタイルは、論理的な読書ではなく、私的な感性的読書に終始していたと思います。今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)に助けられながら、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』に挑戦した読書でした。
 そしてこの最後の章である「第十五章 一元論の帰結」までたどり着くことができました。

 この第十五章冒頭6行の文章は『自由の哲学』の一端を俯瞰できる文章であると思います。下記に引用させていただきました。
「 世界の統一的な解釈、つまり本書で扱われている一元論は、世界解釈の要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。つまり自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求める。一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうとすることを拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている。この統一を通じて物質的、精神的な世界領域へ入っていくのである。」

 276ページ中ほどの文章も『自由の哲学』を端的に捉えた文章であると考えます。
 「二元論は神的な根源存在がすべての人間を貫いて生きていると考えている。一元論はこの共通の心的生命を現実そのものの中に見だす。」

 同じく、276ページ終りから5行目下部~278ページ1行目を引用させていただきます。
 「人間はすべての人間の中で生きて働く根源存在を思考を通して把握することができるのである。現実の中での思考生活は、同時に神の中での思考生活である。推論できるだけで体験できない彼岸は、此岸がそれ自身の中に存在の根拠をもっていない、と信じる人たちの誤解や願望に基づいている。その人たちは知覚内容の解明に必要なものを思考によって見出すことができない、と思い込んでいる。だからその人たちはこの世の現実から借りてきたのではないような思考内容を提示したことはなかった。抽象的な推論によって想定された神は、彼岸に移し換えられた人間にすぎない。ショーペンハウアーの意思も、絶対化された人間の意志に他ならない。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの無意識の根源存在は、理念と意思という、経験界から抽出してきた二つの概念の合成物である。体験された思考に基づかない彼岸的な原理のすべてについて同じことが言える。
 人間の精神は決してわれわれの生きている現実を超えてはいかない。世界の解明に必要なすべてはこの世界の中に存在している。だから現実を超える必要はない。諸原理を経験の中から取り出した上で、それらを仮説上の彼岸の中へ移し入れ、それによって世界を説明しようとすることが哲学者の態度である以上、体験可能な思考を此岸の領域に放置しておくのは当然であろう。しかしこの世を超えるということは、どんな場合でもすべて幻想にすぎない。この世から彼岸へ移し換えられた諸原理だからといって、それがこの世の諸原理よりもこの世をよりよく解明してくれはしない。そもそも思考はこのような超越をまったく必要としていない。思考はこの世においてもあの世においても同じ思考なのであるが、この世の外にではなく、この世の内にしか知覚内容を見出し得ない。そして知覚内容と結びついたときにのみ、思考内容は現実的なものとなる。想像力の所産もまた、それが知覚内容を指示する表象内容になったときにのみ、現実の内容となる。それは知覚内容を通して現実に組み込まれる。」

 279ページ終りから5行目~280ページ4行目まで引用させていただきます。その後に続く「1918年の新版のための補遺一・二」を除くと、『自由の哲学』の最終章です。
 「人間がもっぱら自分の感覚的衝動や他人の命令に従くのではなく、さらに先へ進んでいくなら、自分以外の何ものかによって左右されたりはしない。自分以外の誰かではなく、自分自身が選んだ動機によって、行動する。勿論その動機は同一の理念界の中で理念的に決められている。しかし具体的に見れば、ただ人間だけがこの動機を理念界の中から取り出して、それを現実の中へ移すことができる。人間が自分から積極的に理念を現実の中へ移し換えるとき、一元論は人間の中にそのための動機の根拠を見つけ出すことができる。或る理念が行為となるためには、まずそれを人間の意志にしなければならない。そして意志は人間そのものの中にのみその根拠をもっている。だから人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。」

 今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。
 この第十五章の1918年の新版のための補遺一・二、その後に付録一、二、訳者あとがき、文庫版のための訳者あとがき、が掲載されています。
 そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)には、『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めていく上で参考・指針にさせていただきました。今井先生はこの書の第十五章後、『自由の哲学』を基礎にして、『自由への教育』ついて書いています。さらに、現代思想から『自由の哲学』を見つめています。最後にQ&Aを載せています。難解な『自由の哲学』をわかり易く説明し、『自由の哲学』の読書を導いてくれました。
 その後の文章は、いずれも読ませていただきますが、当ブログの読書感想は書きません。
 私にとって『自由の哲学』は今後も繰り返しを読んでまいります。
 みなさま、ありがとうございました。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年9月17日(土)78回2022年09月17日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれに合わせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
 今回17回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一四章 個と類」(p263~268)を読みます。6ページほどの短い章で、段落は8つです。今回の読書は先ず通読し、次に吟味しながら読書して、問題意識に沿って記述します。

 シュタイナーは人間一人一人の個性を重要視しています。
 この章の最初に、次の問いを発しています。

 「人は誰でも完全無欠で自由な個性となりうる、という考え方は、個人が自然集合体(人種、種族、民族、家族、男性、女性など)や国家、教会などの一分枝であるという事実に矛盾しているように思える。人間は自分の属している共同体の一般的な特質を担っており、その行為内容も社会の中で占める位置によって規定されている。
 そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」

 人間一人一人が個性として生きることの大切さをR・シュタイナーは訴えていますが、人間は両親から生まれて、その生まれながらに所属する共同体の中で暮らしています。そのような状況下の人間について、「そのような状態においても、人はなお個性として存在することが一体可能なのか。」という上記のシュタイナーの問いは、読み進める中で、面白い展開を見せてくれます。
 私自身この書籍『自由の哲学』を読むことによって、一人一人の人間が個性を発揮し合って生きることの大切さを実感しているところです。この「第一四章 個と類」を読み、考えながら、今あらためて個性の重要性を感じはじめています。
 さらにシュタイナーは次の問いを出し、その説明を出してくれます。さらに女性差別とその開放に触れています。

 「或る集団に属する一分枝の特質や機能は集団全体によって規定されている。民族集団に属する人はすべて、その集団の特質を自らの内に担っている。個人の在り方やその行動のパターンは集団の性格によって条件づけられている。そのことによって個人の相貌と行動とは類にふさわしいものとなっている。なぜこの点がこの人の場合はこうなっているのかと問うとき、個から類へ眼を向けなければならない。或る人の態度がなぜわれわれの観察した通りの在り方をしているのかを類が説明してくれる。」
 「しかし人間は類的なものからも自由な存在である。なぜなら人間における類的なものは、人間がそれを正しく体験するときには、その人の自由を決して制限したりはしないからである。人工的な制度がそれを制限することも許されない。人間が発達させるべき特性や能力を規定する根拠は人間そのものの中に求めなければならない。その際類的なものは、各人が固有な本性を顕すための手段でしかない。人間は自然から授けられた特性という土台の上に立って、自分の本質にふさわしい形式を自分に与える。この本質を顕す根拠を類の法則に求めても無駄である。大切なのは個体であって、個体だけがそれ自身の内に存在の根拠を担っている。人間は類的なものからこのような意味で解放されるところにまできているのである。」
 「類概念を下敷きにして人間を評価するとしたら、人間を完全に理解することは不可能である。そのような類による評価が最も頑固に行われているのは、性に関する事柄においてである。男は女の中に、そして女は男の中にあまりにも相手の性の一般的特徴を見、個的な特徴を見ようとはしない。このことは実生活においては、女よりも男にとって害が少ない。女の社会的地位がいまだにひどく悪いのは、女として求められている多くの点が、個個の女の個的特徴によってではなく、女として生まれつき持っている課題や要求の一般通年によって決められているからである。男の生活はその人の個的な能力や欲求に従っている。女の生活はまさに女であるという事情によって決められている。女は女性一般という類的なものの奴隷になっている。女であることがどの職業に適しているかを男に求めてもらっている限り、いわゆる婦人問題は初歩的段階から抜け出ることはできない。女として望むことのできるものが何なのかは、女の判断にゆだねなければならない。女に現在開かれている職業だけにしか女の能力が及ばないということが本当なら、女が自分でそれ以外の職業を選ぶ理由がわからない。女であるとは何を意味するのかを決めるのは女自身でなければならない。女が女性としてではなく、個体存在として生きようとしている現代の変化した社会状況に危惧を抱く人に対しては、全人類の半数が人間にふさわしい生き方をする社会状況こそ、社会進化のために不可欠なのだ、と応えねばならない。」


 シュタイナーの下記の文章は、私にとっては先ず着目点を探す読書になりました。私は「自由な自己規定に基づく人生が始まる」の意味を見落としていました。今井先生の『自由の哲学入門』の「第一四章 個と類」に目を入れることにより気づきのヒントを戴きました。

 「人間を類の性質に従って評価する人は、自由な自己規定に基づく人生が始まる以前の段階のところに立ち止まっている。この段階以前のことはすでに科学研究の対象になっている。人類、種族、民族、性などの特性は個別科学の内容である。類の典型となって生きようとする人がいるとしたら、そのような人だけが個別科学を扱う一般的な類の像と自分とを完全に一致させることができるであろう。しかしどんな個別科学も個人の生活内容にまで立ち入ることはできない。思考と行動における自由の領域が始まるところでは、類の法則は力を行使できない。完全な現実を手に入れるために、思考が知覚内容と概念内容とを結びつけるとき(一〇六頁以下参照)、どんな人でもその概念内容を完全な形で他人に伝えることはできない。各人は自分の直観を通して、それぞれ自分でその概念内容を手に入れなければならない。個人がどのような考え方をするかを何らかの類概念から導き出すことはできない。そのための唯一の尺度は個人なのである。個人が自分の意志にどんな具体的目標を与えようとするのかも、人間の一般的な性質から決めることはできない。個人を理解しようとするなら、その人固有の本性にまで眼を向けなければならない。類型的な特徴に立ち止まってはならない。この意味でいえば、どんな人もそれぞれが新たに解かれるべきひとつの課題である。それを抽象的な思考や類概念で処理しようとするすべての科学は、そのための準備段階でしかない。つまり個人が世界を観察するときの仕方を知り、そして個人の意思による行為内容を認識するようになるための準備段階にすぎないのである。そこに類型的な思考や類としての意志から自由な何かがあるらしい、と感じることができたなら、相手の個性の本質を理解するのにわれわれは自分の精神から取り出した概念の適用をやめなければならない。認識は概念と知覚内容とを思考によって結びつけることの中にある。どんな場合にも、観察する人は概念を自分の直観を通して獲得しなければならないけれども、相手の自由な個性を理解しようとする場合だけは、その相手自身が自己を規定するときの基準概念を、純粋に(観察者に固有の概念内容を混入することなく)観察者の精神の中へ受け入れなければならない。他人を評価するのにわれわれ自身の固有概念を用いてしまうならば、決してその人の個性の理解にまでは達しないであろう。自由な個性が類の特性から自分を自由にするように、個を認識する行為も類的なものを理解する仕方から自分を自由にしなければならない。」
 「以上に述べたような仕方で、類的なものから自分を自由にする程度如何が、共同体の内部にいる人間が自由な精神でいられるかどうかを決定する。どんな人も完全に類でもなければ、完全に個でもない。しかしどんな人も、多かれ少なかれ、動物的生活の類的なものからも、自分の上に君臨する権威の命令からも、自分の本質部分を自由にしていく。
 しかしこのような仕方で自由を獲得することができない人は、自然有機体か精神有機体の一分枝になる。そして他の何かを模倣したり、他の誰かから命令されたりして生きる。自分の直観に由来する行為だけが、真の意味で倫理的な価値を有している。遺伝的に社会道徳の本能を所持している人は、その本能を自分の直観の中に取り込むことによってそれを倫理的なものに変える。人間の一切の道徳活動は個的な倫理的直観と、社会におけるその活用とから生じる。このことを次のように言い換えることもできよう。――人類の道徳生活は自由な人間個性の道徳的想像力が生み出したものの総計である、と。これが一元論の帰結である。」

 この『自由の哲学』一四章を読み、私は次のような思いと考えを抱きました。
 「自由とはそれぞれの個性が自分で生み出すこと創り出すことが原点にある。先ずそれが自由への教育なのである。両親や家族、共同体に見守られながら育つわれわれ一人ひとりは、学習を通じ、仕事を通じて様々な自由を獲得してゆくのである。現在とは自由を生み出していく獲得していく道程なのである。」、と。

 今回も『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から長い引用をさせていただきました。この文庫本に感謝しています。この電子書籍版も併せて利用させていただいています。ありがとうございます。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年8月7日(日)77回2022年08月07日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。そしてそれに合わせて、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして読んでいます。
 今回16回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一三章 人生の価値――楽観主義と悲観主義」(p229~262)を読んでいきます。33ページにわたる長い章になっていいます。

 一口で私の感想を述べるなら、この十三章において、シュタイナーはライプニッツやシャフツベリの楽観主義の立場を尊重している。そして、ショウペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンが主張する悲観主義の問題点、矛盾を明らかにしていく。特に「…ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観主義は崇高な使命に対する帰依の態度へわれわれを導く。…」に留意しながら、悲観主義を乗り越えていく文章を展開している。

 先ず私の読書は、私の主感によるキーワード、キーセンテンスを押えます。

 この第一三章は、次の文章から始まります。
 「人生の目的や使命の問題(二〇五頁以下参照)の対をなすのは、人生の価値の問題である。この点については二つの対立的な立場がある。そしてその二つの間には、考え得る限りのさまざまな仲介の試みがある。」(p229冒頭)

(p229~230)
 「一方の立場は語る。――「世界は存在し得る最上のものであり、この世界での生活や行動は計り難い程の価値を持つ。…私たちは幸福のより少ない状態を不幸であると感じる。不幸は善の不在であり、それ自身では意味を持つものなのではない」。」
 「他方の立場は次のように主張する。――「人生は苦悩と不幸に満ちており、不快がいたるところで快を圧倒し、苦しみが喜びを圧倒している。生きることは重荷を背負うことである。どんな場合でも、存在しないことの方が存在することより好ましい」。」
 「前者、つまり楽観主義の代表者としては、シャフツベリとライプニッツ、後者、つまり悲観主義の代表者としては、ショウペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンがあげられる。」
 
(p230)
 「ライプニッツは世界を存在し得る最善のものであると考えている。…神が世界と人類とから何を期待しているのか知るとき、人は正しい行いができるであろう。そして他人の行った善に自分の善を付け加えることを幸せと感じるであろう。したがって楽観主義の立場からいえば、人生は生きるに価する。人生は共に働く喜びを教えてくれるに違いない。」

(p230~231)
 「ショウペンハウアーは問題の本質を別な眼で見ている。彼は宇宙に根拠を与える存在(神)を全能で最高善の存在ではなく、盲目的な意志と衝動である、と考えている。決して充たされることのない満足を求めて永遠に努力することが、すべての意志の基本である。なぜならある努力目標が達成されると、新しい要求がすぐにまた現れてくるからである。満足はいつでも僅かな間しか続かない。私たちの人生のほとんどすべての内容は充たされぬ思いであり、不満足であり、苦悩である。盲目的な衝動が最終的に消えるとき、一切の生活内容も失われ、人生は無限の退屈さに落ち込む。それゆえ比較的な意味で最善なのは、自分の中の願望や要求を押し殺し、意志を殺害することである。ショウペンハウアーの悲観主義の帰結は何もしないことであり、その道徳目標は普遍的怠惰である。」

(p231~233)
 「ハルトマンは悲観主義を本質的に別な仕方で基礎づけ、それを彼の倫理学に適用している。ハルトマンは時代の流行に従い、自分の世界観を経験の上に基礎づけ、人生の観察を通して、この世の快と不快のどちらが優勢であるかを決めようとする。人間にとって善であり、幸福であると思えるものを理性の前に整列させる。そして厳密に観察の眼をむければ、満足の対象と思われているものがすべて幻想にすぎないことを、彼は示そうとする。…ハルトマンは、この世における理念(叡智)の存在を否定してはいない。盲目的衝動(意志)と並ぶ同等の権利をそれに与えており、この世の苦悩を賢明な世界目的に合致させることで、天地創造に意味づけを与えようとしている。しかし宇宙を生きる存在の苦悩は、神の苦悩そのものでしかあり得ない。なぜなら世界(宇宙)生命の全体は神の生命と同一だからである。けれども全智全能の存在は、苦悩からの解脱の中にのみ、自分の目標を見出すことができる。そしてすべての存在は苦悩なのだから生存からの解脱の中にのみ、その目標を見出すことができる。存在をそれよりはるかに優れた非存在の中に移すことが、宇宙創造の目的である。宇宙の活動は神の苦悩との終わりなき戦いであり、その終局はすべての生存の絶滅である。人間道徳の意味は、それ故、生存の絶滅への過程に関わることである。神が宇宙を創造したのは、その宇宙を通して自分の無限苦から解放されんがためである。宇宙とは「いわば絶対者におけるかゆみのあるできもののようなもの」である。このできものによって、絶対者の無意識的治癒力がその内的疾患から解放される。「またはそれは痛みの伴う膏薬のようなものであり、全にして一なる存在が自分自身にこの膏薬を貼り、内的苦悩をまず外へ向け、そして排除できるようにする。人間は宇宙の分肢であり、人間の中で神が苦悩している。神が宇宙を創造するのは、自分の限りない苦悩を発散させるためであり、われわれひとりひとりの苦悩は神の永遠の苦悩の海のひとしずくにすぎない(ハルトマン『道徳意識の現象学』八六六頁以下)。

(p233)
 「人間は認識の力を用いて、個人的満足の追求(エゴイズム)が愚かな行為であることを明らかにすると共に、宇宙の活動への没我的帰依を通して、神の救済のために働くという使命に従わねばならない。ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観主義は崇高な使命に対する帰依の態度へわれわれを導く。
 けれどもこのことは経験の上に基礎をおいた主張だと言えるのか。」

 以降、シュタイナーはエドゥアルト・フォン・ハルトマン、ショーペンハウアーの悲観主義を中心に、文章を展開し、その矛盾について論駁していく。

(p233~235)
 「満足への努力は、生きるために生活内容を広く手に入れようとすることである。空腹のときには満腹を求めるが、それは生体の機能が養分という新しい生活内容を取り込もうとすることである。名誉への努力は外から認めてもらえた自分の個人的な行動に価値をおこうとし、認識への努力は見たり聞いたりできる世界の中に自分の理解し得ない何かが存在するときに生じる。そのような努力が充たされたときには快感が、充たされぬときには不快感が生じる。その際注意する必要があるのは、快感や不快感は努力の成功、不成功に左右される、ということである。努力そのものは決して不快感としては感じられない。それ故、努力の結果うまくいったときには、すぐにまた新しく努力しようとする。そしてその努力をどんなに繰り返しても、快感が不快感に変わることはない。一度味わった楽しみは何度でもその楽しみを繰り返したり、新たな快感を求めたりするのである。欲求が充たされないとき、はじめて不快感が生じる。一度体験された楽しみよりももっと大きな、またはもっと洗練された快感をさらに求めても、それを手に入れる手段が見出せない時には、快感から不快感が生じる場合もでてくる。楽しみの結果、自然に不快感が生じるときもある。例えば女性が性的な享受の後で、陣痛の苦しみや子育ての大変さを体験させられるときには、享受が苦悩を作り出したということができる。努力が不快感を呼び起こすのだとすれば、努力しなければ快感が生じるだろうと思う人もいるかも知れないが、実際はその反対である。われわれの生活内容のための努力の欠如は退屈を生み出す。そして、退屈は不快感と結びつく。けれども当然のことながら、努力が目標に到るまでには、また目標へ到る希望が生じるまでには長い時間を要することがあるので、不快と努力そのものとはまったく無関係である。目標に到り得ないことが不快感と結びつくだけである。したがって欲求または努力(意志)そのものが苦悩の源泉だと考えるショウペンハウアーは、いずれにせよ間違っている。
 本当は、反対の方が正しいとさえ言い得る。努力(欲求)そのものが喜びを作るのである。まだ遠くにあっても、待ち望まれる目標への期待が与える喜びを知らない人がいようか。この喜びは、いつか叶えられるべき成功へ向けての労働の随伴者である。この快感は目標の達成にまったく依存していない。目標に到達したときには、努力することの快感に実現したことの快感がさらに新たに付け加わる。けれども、充たされぬ目標による不快感に加えて、なお幻滅の悲哀が付け加わり、最後には充たされぬ不快感の方が実現したときの満足感よりも大きいものになる、と言う人がいるとしたら、それに対しては次のように答えることができよう。逆の場合もあり得る。まだ欲求が充たされない時期のことを楽しく思い返せば、それが実現しなかったことの不快感を和らげてくれることもある。期待が裏切られた瞬間でも、「私は自分のやりたいことをやった」と言える人は、この主張の正しさを認めるだろう。力の限りにベストを尽くしたときの浄福な感情を無視できるのは、欲求が充たされなかったために、満足感だけでなく、欲求したことの喜びも損なわれてしまった、と主張する人だけである。
 欲求が充たされれば確かに快感が呼び起こされるし、充たされないときには不快感が生じる。けれどもそのことから、快感は欲求の充足であり、不快感はその反対である、と結論づけることは許されない。快感や不快感は、欲求の結果が現れていないときにも生じ得る。病気は欲求の結果とは関係のない不快感を生じさせる。病気は健康への充たされぬ欲求であると主張しようとする人は過ちを犯している。その人は病気になりたくないという、意識化される必要のないあたりまえの願いを、積極的な欲望と見做している。自分の知らない金持ちの親戚から突然遺産を受け取った人がいるとすれば、それはあらかじめ欲求することなしに快感を与えてくれる場合であると言えよう。」

(p236)
 「快感と不快感のどちらが強いかを比較対照する人は、三つの快感を区別しなければならない。欲求に際しての快感と、欲求が充たされるときの快感と、欲求することなく与えられる快感とである。そして帳簿の反対側に、退屈に際しての不快感と、充たされぬ努力から生じる不快感と、そして最後にわれわれが望まないのにやってくる不快感とを取り上げなければならない。自分が選んだのではなく、向うからやってきた仕事が原因で生じた不快感も、この最後の種類に含まれる。そこで次のような問いが生じる。このような感情の貸借関係の帳尻を合わせるための正しい手段は何か。エドゥアルト・フォン・ハルトマンはそれを理性的考量であると考えている。彼は『無意識の哲学』第七版の第二巻の二九〇頁で次のように述べている。「苦と快とは、それらが感じられる限りにおいてのみ存在する」。この点を推し進めれば、快にとっては感情の主観的な尺度しか存在しないことになる。私の不快感と快感との総計が喜びの方に黒字を残すか、それとも苦しみの方に黒字を残すかを、私は感じ取らねばならないというのである。ところが自分で記したこの一節を無視して、ハルトマンは次のように主張する。「或る人の生きがいがその人自身の主観的な尺度によってしか確かめられないとしても、……そのことは、各人が自分の人生の感情全体によって正しい人生の計算ができるとか、あるいは別の言葉で言えば、自分の人生についての判断全体が自分の主観的な体験に依存しているとかと言うことを意味しない」。けれどもこう述べることで、再び彼は理性的な評価を感情の価値基準にしている。」

(p237~238)
 「エドゥアルト・フォン・ハルトマンの考え方に多かれ少なかれ同調しようとする人は、人生を正しく評価するには、快感と不快感の帳尻合わせを誤らせるような要因をすべて排除しなければならない、と信じるであろう。その人は二つの仕方でこのことを行おうとする。第一にわれわれの欲求(衝動や意志)が感情価値の冷静な評価に妨害を加える要因であると考えることによってである。例えば性欲を楽しみたいという欲求がその際の妨害の元であるということになる。性欲がわれわれの中で強力に働いているために、全然存在していないような快感を現出させている、というのである。われわれは楽しみたいと望む。だから楽しむときには悩みを告白したがらないのである。第二に感情を批判し、感情の対象が理性認識の前では幻想にすぎないことを明らかにすることによってである。そして知性の発達がその幻想を見破るところにまで達した瞬間に、その幻想は消えてしまう、ということを証明しようとする。」
 その人はこの問題を次のように考えなければならない。自分の人生の中で優位を占めているのが快感なのか不快感なのかを明らかにしようとする人が見えっ張りであるとしたら、その人は、二つの誤謬から離れていなければならない筈である。その人は見えっ張りなのだから、見えっ張りであるという性格上の特徴によって、自分の業績を拡大レンズで眺めたときに喜びを味わい、自分の失敗は縮小レンズで眺めながら、自分の失敗を無視しようとする。思い出の中でも、その失敗は穏やかな光の中で現れる。一方彼にとって歓迎すべき社会的な成功の喜びはますます深く心に染み込む。このような事情は見えっ張りにとってはまことに好ましいと言えよう。幻想は自己観察がなされるときに、彼の不快感を弱めている。とはいえ彼の評価は間違ったものである。彼がヴェールで覆っている苦悩を、彼はありのままに体験しなければならなかった筈である。しかし彼は人生の帳簿の中に、その悩みを間違った仕方で記入している。正しく判断するようになるためには、自分を観察するときに、見えっ張りであることをやめなければならない。精神の眼にレンズをつけずに、これまでの人生を考察しなければならない。そうでなければ、帳簿の帳尻を合わせるために、商売熱心なあまり収入欄に事実以上の金額を書き記す商人と同じことになってしまう。」

(p238~241)
 「けれどももっと先に進むことができる。その見えっ張りは、彼が求める社会的成功が無意味なものであることを洞察するようになる。彼は自分でそのような洞察に達するか、あるいは他人によってそう納得させられるかする。そして他人に認められることなど、理性的な人間にとって何の意味もないこと、「進化という人生の課題に関わるような、あるいはまた科学によって未解決のようなすべての事柄においては」、「多数派が間違っており、少数派が正しい」ということを考えるようになるであろう。「見えを導きの星としている人は人生の幸せをこのような判断の手に委ねる」(『無意識の哲学』第二巻三三二頁)。見えっ張りがこのように語るとき、彼が見えを張って現実であるかのように思い込んできた事柄を、したがってまた虚栄が生み出す幻影と結びついた感情を、すべて架空のものと認めなければならない。この理由から、さらに次のように言うことができよう。幻想から生じた快の感情は、人生の価値の帳簿から消し去らねばならない。そうして残されたものが、幻想にとらわれぬ人生の快感の総計となる。そしてこの総計は不快感の総計に較べると、あまりのも小さい。人生は決して楽しいものではない。存在しないことの方が存在することよりも優れている。
 確かに虚栄心が入りこむことによって、快感の帳尻はごまかされたり、間違った結果を生み出したりする。しかし快感の対象が幻想であるかどうかは、そう簡単には断定できない。幻想と結びついた快の感情をすべて人生の快感側の帳尻から消し去ろうとすることこそ、人生の帳尻をまさにごまかすことになってしまうであろう。なぜなら見えっ張りにとって、大勢の人から認められることは本当の喜びなのである。その人自身かまたは別の誰かが後になって、この評価は本当のものでなかった、と思い知ったとしても、喜びに変りはない。一度体験できた喜びの感情は、そんなことで弱められたりはしない。そのような「錯覚した」感情を人生の帳尻から消し去ることは、感情について正しく判断することには決してならない。むしろ実際に存在する感情を人生から消し去ることになる。
 一体どうしてそれを消し去る必要があるのか。このような感情もその持ち主に快感を提供してくれる。その感情を克服した人の場合にも、克服したという体験によって(「自分は何という優れた人物なのか!」という自己満足的な感情ばかりではなく、克服したことの中にある客観的な快感の源泉によって)当然精神化されてはいるが、同じように大きな快感が生じる。或る感情が幻想でしかないような対象と結びついているからといって、その感情を快感の側の帳尻から消し去る場合には、人生の価値を快感の量にではなく、快感の質に、そしてその快感の質を快感の原因となる事柄の価値に依存させることになる。しかし自分に与えられた人生の価値を快、不快の量から決めようとする場合、感情以外のところに快の価値の尺度を見出そうとすることは許されない。快の量と不快の量を比較して、そのどちらが大きいかを知ろうとする場合、どんな快、不快であっても、その実際の大きさだけが問題になる。それが幻想によるものかどうかはまったくどうでもよい。幻想や錯覚に基づく快感が理性の承認を得た快感に較べて、生きる上で僅かな価値しか持っていない、と考える人は、人生の価値を感情とは別の要因に帰していることになる。
 快感が虚栄心と結びついているからといって、それに僅かな価値しか与えようとしない人は、おもちゃ工場がもたらす収益は、それが子どものいたずら用に作られた商品によって得ているからという理由で、その総計を例えば四分の一に減らそうとする商人のようなものである。
 快と不快の量の比較だけを問題にするときには、快の感情を生ぜしめる対象が錯覚だったかどうかを考慮に入れる必要はまったくない。」

(p241~243)
 「ハルトマンが人生における快、不快の量を理性的に比較考量することを勧めているので、われわれはその方向に沿って、これまで帳簿の片方に何を記入し、もう一方に何を記入したらいいかについて考えてきた。それでは一体、計算はどのようにされるべきなのか。一体理性はその帳尻を合わせるのにふさわしい能力を持っているのだろうか。
 商人の場合、計算上の収益が実際に取り引きされる商品の売り上げと完全に対応していないときには、間違った計算をしたことになる。哲学者が頭だけで計算した快もしくは不快の余剰を感情が追認できないとしたら、その哲学者は明らかに間違った計算をしたことになる。
 私は理性的な世界考察に基づく悲観論者の計算を監査するつもりではない。しかしこの計算に基づいて、人生という商売をさらに続けるべきか否かを決めようとする人は、計算上余剰が不快の方にある、と主張する哲学者の計算が合っているかどうかをまず確かめてみる必要がある。
 ここでわれわれは余剰が快にあるか不快にあるかを理性だけに決めさせることのできない地点にまで達した。理性はこれから先、人生におけるこの余剰を知覚内容として示さねばならない。概念によるだけではなく、思考を仲介した概念と知覚内容との相互作用によってこそ(そして感情も知覚内容である)人間は現実を把握できるのである(一〇六頁以下参照)。商人が商売をやめようとするのは、経理担当者が計算した取り引き上の損失が事実によって確かめられたときである。それが確かめられなければ、商人は計算をやり直させるであろう。これとまったく同じ仕方で、人生のためにも計算することができる。哲学者が誰かに不快は快よりも大きい、と説明しようとするにも拘らず、言われた方がそのことを実感できないときには、その人は言うであろう。「君の考えは間違っている。問題をもう一度よく考え直してみたまえ」。しかし商売が特定の時点で本当に損害を蒙り、債権者を納得させるだけの信用をもはやどこにも見出せなくなるならばたとえ商人が帳簿の上で経営状況をはっきりとさせることを避けたとしても、破産してしまう。同様に或る人の不快の量が特定の時点で非常に大きくなり、将来の快への期待(信用)が彼の苦痛を納得させることがもはやできなくなれば、人生という商売も破産に追い込まれるであろう。
 けれども、自殺者の数は元気に生き続ける人の数よりも比較的少ない。ごく限られた人たちだけが眼の前の不快のために人生の商売を閉じる。そこから一体、何が結論づけられるのか。不快の量が快の量よりも大きいという考えが正しくないという結論か、それとも私たちが生きていくことは快、不快の量にはまったく左右されないという事実かのいずれかである。」

(p243)
 「エドゥアルト・フォン・ハルトマンの悲観主義はまったく独特の仕方で、人生は無価値であると明言している。そしてその理由は人生では苦しみの方が楽しみよりも勝っているからなのである。…」

 ハルトマンの悲観主義の考え方の矛盾を追い詰めてきたシュタイナーの文章は、人生の価値基準について検討していく。

(p245~)
 「以上の考え方はすべて快感が人生の価値基準であるという前提に立っている。人生は一定の額の衝動(欲求)に依存しているのだという。人生の価値が快感をもたらすか、不快感をもたらすかによって決められるものであるのなら、快よりも不快の方を過剰にしてしまうような衝動は無価値であると言わなければならない。だからわれわれはここで、衝動と快感とを対比させ、前者が後者によって計られるものかどうかを見極めようと思う。人生を「精神貴族」の立場で考えようとしているのではないか、という嫌疑をかけられずにすむように、われわれは「純動物的な」欲求である飢餓から考察を始めようと思う。
 飢餓が生じるのは、われわれの諸器官の働きが、新しい養分の供給を受けなければ、それ以上正常には機能できなくなるときである。飢えた人がまず求めるのは、空腹を満たすことである。飢餓感がなくなるまで養分が十分に補給されると、食欲は満たされる。食欲を満たすときの満足感は、第一には飢餓が呼び起こした苦しみが取り除かれることにある。単なる食欲に加えて、別の欲求が生じる。人は誰でも、養分の摂取によって、妨げられた器官の機能を回復させ、飢餓の苦しみを取り除くだけではなく、好ましい味覚体験がそれに伴うように望む。空腹感を持っていても、あと三十分でおいしいご馳走にありつけると分っていれば、誰でもつまらない食べ物を先に食べて、大きな楽しみを台無しにしてしまおうとは思わない。食事の楽しみを完全に味わうためには、空腹でなければならない。したがって飢餓は快感の誘発者でもある。もしも世界中の空腹感が一度に満たされるとしたら、そこには食欲があるおかげで大量の喜びが生じることであろうが、同時に美食家の味覚神経を通常以上に敏感にしている味覚文化の楽しみもそれに付け加わる。
 ところが近代自然科学の考え方によれば、自然は自分が維持できる数よりも、もっと多くの生命を生み出している。つまり飢餓の状態がそれを満たす状態よりももっと多いのである。自然によって産み出される生命の過剰部分は、生存競争の中で苦しみながら死滅していく。確かに生きようとする欲求は世界経過のどの時点でも、それに応えうる充足手段よりも常にもっと大きい。そして生きる喜びはそれによって常に損なわれている。しかしそれにも拘らず、実際には個々の生きる喜びはそれによって少しも減少しない。欲求がその都度満足されるとき、それに応じた量の喜びがそこに見出せる。たとえ当人や他の人の中に別の充たされぬ衝動がなお多く存在しているとしてもである。そこに減少されるものがあるとすれば、それは生きる喜びの価値である。或る生命存在の欲求の一部分だけが充たされるとき、それに応じた喜びが体験される。この充たされた部分の価値は、それが人生の喜び全体との関係の中で、当面の喜びの範囲が小さいものであればある程、小さい。われわれはこの価値を「分数」で表現することができるであろう。その場合、分子は当面の喜びであり、分母は人生における欲求の総量である。分子と分母の数が同じなら、つまりすべての欲求が充たされるなら、その分数の値(価値)は1である。その値が1よりも大きくなるのは、その生物の中に欲求よりももっと大きな快感が存在するときである。その値が1より小さくなるのは、喜びの量が欲求全体以下のときである。しかしこの分数は決してゼロにはならない。分子がどんなに僅かな値でしかなかったとしてもである。人間が死ぬ前に総決算をして、特定の衝動(例えば飢餓)から生じた喜びの量を全生涯に亘るこの衝動の欲求のすべてで割れば、快感の体験はおそらくごく僅かな値にしかならないであろう。しかしまったく価値がなくなることはない。ただ欲求の増加に伴って、その生きる喜びの価値は減少するだけである。同じことは自然界全体の生命についても当てはまる。…」

(p249~254)
 「とはいえ、悲観主義者は言うであろう。食欲が満たされなければ、食べる喜びを奪われるだけでなく、もっと烈しい苦痛をも生じさせるであろう、と。悲観主義者はその際、飢餓に襲われた人たちの名状し難い苦しみを引き合いに出すかも知れない。そして飢えに苦しむ悲惨な状態が非常に大きな不快感を生み出している、と言うであろう。一定の季節になると、食物がなくなり、飢えに苦しむ動物たちの例も取り上げられるであろう。悲観主義者はそのようなさまざまの不幸を例にあげて、その苦しみの方が食欲を通して得られる喜びの量よりも、この世でははるかに上廻っている、と主張する。
 快感と不快感を相互に比較して、利得と損失を比較するときのように、そのどちらが大きいかを決めることは、勿論可能である。しかし悲観主義者が不快感の方をより大きいと考え、そこから人生の価値のなさを結論づけるとすれば、その判断は間違っている。なぜならその計算は実生活においては意味を持たない計算だからである。…子どもが欲しいと思っている女性は、子どもを得ることで与えられる喜びを、妊娠、出産、子育てなどから生じる苦しみと比較したりはしない。その喜びを子どもが欲しいと願う欲求と結びつける。

人間とは本質的に、欲求に伴って生じる不快感がどんなに大きいものでも、それに耐えられる限りは、欲求対象を手に入れようと望むものなのだ。ところがこのような哲学は、人間にとって本来あり得ないような、不快感に対する快感の過剰という特別の事態に人間の意欲を依存させようとする。しかしこの態度はまったく間違っている。意思行為に対する本来の尺度は欲求である。そして欲求は、可能なときにはいつでも自己を貫徹しようとする。欲求を充足させる際に生じる快感と不快感に対する態度を決めるのは、合理的な哲学ではなく、まさに人生そのものである。…
 世の中には快感よりも不快感の方が多い、と主張する悲観主義がかりに正しいとしても、このことがわれわれの生きる意志に影響を及ぼすことはないであろう。なぜなら人生は快感をさらに求め続けるであろうから。苦しみが楽しみよりも勝っていることが経験的に証明できたとしてもそして人生の価値を快感が勝っているということの中に見る哲学方面(幸福至上主義)の無意味さを指摘できたとしても、だからといって意志そのものが不合理な存在である、ということにはならない。なぜなら意志は過剰な快感をではなく、不快感を克服したあとにも存在する快感を求め続けるのだから。最後に残された快感がいつでも努力に価する目標となる。」

 シュタイナーの文章は、ここにきていったん悲観主義に歩み寄り、悲観主義的倫理観についてその論理矛盾を明らかにしていく。

(p254~257)
 「これまでは、悲観主義を否定するために、人生において快感と不快感のどちらが多いかを決めることなどできない、と主張されてきた。比較計算をするためには、計算対象が量的に比較できなければならない。どの不快感もどの快感も特定量の強さと持続力をもっている。いろいろな種類の快感の大きさを、少なくとも比較考量することは可能である。上質の葉巻タバコと上手な冗談のどちらがより大きな楽しみを与えてくれるかを、われわれは知ることさえできる。さまざまな快感、不快感の大きさを比較することに非難を加えることはできない。だから人生において快感が勝っているのか、不快感が勝っているのかを決めようとする人は、まったく正しい前提から出発している。悲観主義の主張の間違いを指摘することはできても、快感と不快感の量を科学的に比較する可能性や快感の帳尻合わせに対して疑問を呈することはできない。けれどもこの計算の結果によって、人間の意志を何らかの仕方で規定することができる、と主張するのは間違いである。われわれの行動の価値を、快感と不快感のどちらが勝っているかで決めることができるのは、行動の目標となる対象がわれわれにとってどうでもよいようなものの場合である。仕事の後で、軽く遊んで楽しもうとするようなとき、そしてそのために何をしてもいいと思っているようなとき、私は一番大きな快感と一番少ない不快感とを提供してくれるものは何か、と考えるであろう。そして快感と不快感とを天秤にかけ、秤が不快感の方に傾くことが分れば、直刻そんなことはしなくなるであろう。子どもにおもちゃを買ってあげようとするときにも、子どもに一番喜んでもらえて、危険の少ないものは何か、と考えて選ぶであろう。しかしそうでない場合にはいつでも、快感と不快感の帳尻合わせに従って決めようなどとはしない。
 したがって、悲観主義的な倫理学者が快感より不快感の方が勝っていると指摘することによって、文化的な仕事へ没我的に帰依する地盤が用意できると考えたとしたら、人間の意思が本質的にこの認識の影響を受けたりはしない、ということを考えていないことになる。人間の行動は、あらゆる困難を乗り越えた後で得られる満足感を基準にしている。この満足感への期待が、人間の行為の根拠なのである。個人の労働も社会の文化活動もこの期待から生じる。悲観主義的な倫理観は幸福追求の不可能性を明示しなければならないと信じている。そうすれば人間は本来の道徳的課題に身を捧げるつもりになれる、というのである。しかしこの道徳的な課題といえども、具体的に考えれば、自然的、精神的な衝動以外の何ものでもない。そしてそこにどんな不快感が混ざっていようとも、その衝動は満たされることを求める。それ故悲観主義が根絶しようとしている「幸福の追求」などというものは、まったく存在していない。人間が課題と出合い、その課題の意味を悟るとき、その課題を自分に与えられた能力で遂行しようと欲する。悲観主義的な倫理観は、快感の追求をあきらめるときにはじめて、人生の課題として認識したものに人間は身を捧げる、と説く。しかしどんな倫理観といえども、人間的な欲求充足と道徳理想の実現以外に人生の課題を考え出すことはできないし、欲求の充足に伴う快感を人間から取り上げることもできない。「快感を求めるな。それを手にいれることは不可能なのだ。課題を認識し、それに向かって努力せよ」と悲観主義者が言うとすれば、それに対しては次のように応じることができよう。「それはあまり褒めたやり方ではない。人間が幸福だけを追求している、と主張するのは、迷路をさまよっている哲学者の思いつきにすぎない。人間は自分の本性の欲求を満足させようと努力し、この努力に適った目標を目指している。決して抽象的な『幸福』などを追求しているのではない。そしてその目標の達成が、人間にとっては快感として体験されるのである」。悲観主義的な倫理観の要求、「快感を追求せず、人生の課題を認識し、それの実現に努力せよ」は、人間の本性が欲していることを述べているにすぎない。人間は哲学によって心を逆撫でされる必要はない。道徳的であるために、自分の本性の欲求を捨て去る必要はない。道徳性は正しいと認めた目標への努力の中に存する。その努力は、それに伴う不快感がその欲求を麻痺させない限りは、続けられる。そしてこれがすべての意志の本質である。倫理学は快感への努力をすべて根減することにあるのではない。もしそうであるとすれば、蒼ざめた抽象理念が支配して、人生の楽しみを妨げてしまう。本当の倫理学は、たとえその道がどれ程いばらに満ちていようとも、目標達成へ向けての、理念的直観に担われた力強い意志に基づいている。」

 シュタイナーは道徳的想像力の中に人間の自由が在ることを示唆している。第一三章を締めくくる以下の文章からそう考える。

(p257~261)
 「道徳理想は人間の道徳的想像力から発している。その理想の実現は、人間が苦しみや悩みを克服してまでもその理想を欲求しようとするかどうかにかかっている。理想は人間の直観内容であり、精神が引きしぼる弓である。人間はそれを欲する。なぜならそれの実現は至上の快感なのだからである。人間は倫理学によって快感の追求を禁じられたり、何に向かって努力すべきなのかを命じられたりすることを必要だとは思っていない。道徳的想像力を活発に働かせて、意志に力強さを与えてくれるような直観内容をもつことができれば、人間はますます道徳理想を追求するようになる。そして人間存在そのものの中に組み込まれているさまざまな障害を、そしてその一部分である不快感をも乗り越えることができるようになる。
 偉大な理想を追求する人は、そうすることが自分の本性の一部分になっているからこそ、そうするのである。だからそれを実現することは、その人にとって大きな喜びであるだろう。それに較べれば、日常的な衝動を満足させるときの快感などは些細な事柄にすぎない。理想主義者は、その理想を現実に移し換えるとき、精神的に耽溺しているのである。
 人間の欲求充足に伴う快感を根減しようとする人は、したいからするのではなく、せねばならないからする奴隷のような存在に人間をしておかなければならない。なぜなら自分が望んだことを達成するときには、常に快感が伴うのだから。善と呼ばれるものは、真の人間本性にとって、為すべき事柄なのではなく、為そうと欲する事柄なのである。このことを認めない人は、人間が欲する事柄をまずその人間の内から追い払って、別の意志内容を外からその人に押しつけなければならない。
 欲求の実現に価値があるのは、それが人間の本性から生じているからである。そして実現された事柄に価値があるのは、それを人間が欲したからである。人間の意志が望んだ目標が無価値だというのであれば、価値のある目標を人間が欲していない何かから取ってこなければならなくなる。
 悲観主義を基礎におく倫理観は道徳的想像力を軽視する。個々の人間精神は自分で努力目標を指示することができない、と考える人だけが、意思行為はすべて快感への憧れをもっている、と考える。想像力のない人は道徳理念を自分では創造できないので、それを受け取るしかない。低級な欲求の充足を計ろうとする人は、それを肉体の本性にまかせればよい。けれども人間全体を発展させるためには、精神に由来する欲求がなくてはならない。人間はそもそもこのような高級な欲求を持っていない、と考える人だけが、高級な欲求は外から受け取るべきだ、と説く。その場合には、人間は自分の望まない事柄を行う義務がある、と言うのも正しいであろう。自分の望まない使命を達成しようとするのだから、自分の意思は退けておくように、と人間に要求する倫理観は、それがどんなものであれ、人間全体のことを考えていない。精神的な欲求能力を欠いた人間だけが人間だ、と思い込んでいる。調和的な発達を遂げた人間にとって、善の理念は自分の本質の範囲外にではなく、その範囲内にある。道徳行為は一面的な利己心を根絶することではなく、人間本性の十分な発展の中で生じる。自分の利己心を殺すときにのみ、道徳理想を達成することができる、と考える人は、この理想が、いわゆる動物的な欲望と同じように、人間自身によって欲せられていることを理解していない。
 以上に述べた考え方が誤解されやすいものであることを否定することはできない。道徳的想像力のない未熟な人間たちは自分の生半可な本性を完全な人間性の内実だと思い込み、誰にも妨げられずに「好きな生き方」をするために、自分の欲しない道徳理念をすべて拒否する。成熟した人間に当てはまることが生半可な人間には当てはまらない。しかしそれは当然なことである。教育を通してこれから道徳的な本性が低級な情念の卵の殻を打ち破ることができるように、まだ教育を受けている最中の若い人たちに対して、成熟した人間に当てはまることを直ちに要求することはできない。しかしここは未成熟の人間をいかに教育すべきかを論じる場所ではない。成熟した人間本性の中に存在している自由の可能性をわれわれは問題にしているのである。自由は感覚的もしくは心情的な要求からの行動において実現されるのではなく、精神的な直観に担われた行動において実現される。
 成熟した人間は自分で自分に価値を付与する。自然もしくは造物主から恩恵を受けようと努めるのでもなければ、快感の追求をやめなければ認識できない、というような抽象的な義務を果たすのでもない。欲するままに行動する。その行為は自分の倫理的直観の基準に従っている。そして自分の欲求の達成を人生の本当の喜びであると感じている。その人は人生の価値を、努力したこととその成果との関係に即して定める。意志の代わりに単なる当為(為すべきこと)を、欲求の代わりに単なる義務を措定する倫理観は、人間の価値を義務の欲求とその成果との関係に即して定める。この倫理観は人間本性の外にある尺度に従って人間を計る。―—以上に論じてきた著者の観点は、人間に対して、自分自身に立ち返るように求めている。この観点は、各人が自分の意思を基準にしているときにのみ、そこに人生の本当の価値を認める。個人によって肯定されない人生価値も、個人に由来しない人生目的も、受け容れない。あらゆる側面から吟味された個人の本質の中に、その人自身の主人を、その人自身の鑑定人を見出す。」

 下記補遺のキーセンテンスを抜粋させていただきました。

(p261~262)
●一九一八年の新版のための補遺
 「…すなわち、自由を実現するためには、人間本性の中で意思が直観的思考によって担われていなければならない、という点をである。勿論、意思が直観以外の何かによって左右されることもある。しかし人間本性から流れてくる直観を自由に生かすことによってのみ、道徳価値は生み出される。倫理的個体主義はそのような道徳性のまったき尊厳を表現するのにふさわしい立場である。その立場は、意志を規範に外から合わせることが道徳的な態度なのではなく、道徳意思が自分の存在に一部分になるように、それを自分の内部からおのずと生じてくるようにすることが、道徳的な態度なのだ、と考える。…」

 ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』((高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の読書は、一語一センテンス、全て大切に思えてくる。だから読書しながら、全ての文章が必要だと思う。それゆえに、長い引用になってしまい、申し訳ございません。この私のブログを見ていただいた方は、是非、この書籍を購入し、繰り返し読んでい戴きたい。
 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)で今井先生は、「人生の目的と人生の使命について論じた後、シュタイナーは人生の価値として、楽観主義と悲観主義を取り上げます。…」この第一三章を分かり易く簡潔に捉えています。この書籍も併せて購入し読んで戴きたい。とても参考になることは確かです。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年6月8日(水)76回2022年06月08日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。

 この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
 
 次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。

 そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」

 シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」

(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」

(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」

(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」

(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」

(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」

(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」

(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」

(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」

(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」

(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」

 この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
 この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年6月8日(水)76回2022年06月08日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回15回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一二章 道徳的想像力――ダ―ウィン主義と道徳」(p213~228)を読んでいきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一二章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p69~71)を参考にしています。私の主観によるキーワード、キーセンテンスを押えてみていきます。

 この章(p213~)は、次の文章から始まります。
「自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。」。
 
 次にシュタイナーは「不自由な精神」の決断について述べています。(p213の2行目~p215の5行目後部まで)。これは経験主義を述べているのでしょう。

 そしてシュタイナーは次に「自由な精神」について展開します。(p215の5行目後部~)
「何の手本も必要としない自由な精神は刑罰をも恐れることなく、概念を表象に置き換える作業を続ける。
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力を持った人だけが道徳的に生産的であると言える。」

 シュタイナーは「道徳を説教するだけの人」(p215後から8行目)などにも触れています。
そしてp215後から4行目「道徳的想像力が自分の表象内容を具体化するためには、…」~p221の後から6行目「以上の観点に立てば、倫理的個体主義を進化論からも説明することができよう。進化論のとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」

(p215後から2行目~)
「道徳的な表象内容」「知覚対象の合法則的な内容」「これまでの合法則性を新しい合法則性に変化させる方法」

(p216)
「道徳行為は科学的認識を通してその実現の道を探求」「道徳上の理念能力や道徳的想像力と並んで、自然法則に背かずに知覚世界をつくり変える能力」「この能力が道徳技法である」

(p217)
「道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。」
「道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。」「道徳的表象内容の自然学」「道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。」

(p218~219)
「道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。」
「進化とは自然法則に従って、後のものが前のものから現実に生じてきたことを意味する。」
「有機的世界における進化とは、後の(より完全な)有機形態が以前の(より不完全な)形態の現実上の子孫であり、そしてそれが自然法則に従った仕方で以前のものから生じてきたことを意味する。」
「けれどもどんな進化論者にも許されないのは、現羊膜動物の概念から爬虫類の概念を――たとえ爬虫類を一度も見たことがなくても、その一切の特徴を含めて――取り出すことができると主張することである。同様にカント=ラプラス理論のいう根源的な宇宙の霧の概念から太陽系を導きだすことも許されない。」

(p220)
「倫理学者に対しても、後の道徳概念と以前の道徳概念との関連を洞察することはできるが、しかしどんな新しい道徳理念をも以前の道徳理念から引き出すことはできない」 「道徳存在としての個体が道徳内容を作り出す。」
「後の道徳理念は以前の道徳理念から発展する。しかし倫理学者は以前の文化期の道徳概念から後の文化期の道徳概念を取り出してくることはできない。」
「倫理的な規範は、自然法則のようにまず認識されるのではなく、まず創造されなければならない。それは存在したときはじめて認識の対象となることができる。」

(P221~222)
「倫理的個体主義は正しく理解された進化論に対立するものではない。原子動物から生物としての人間存在に到るまでのヘッケルの系統図は、自然法則を否定することなく統一的な発展のあとを辿り、そして道徳的本性をもった個体としての人間存在にまで到る。われわれはこのような系譜を一貫して辿ることができるけれども、祖先の種の本質から子孫の種の本質を引き出すことはどんな場合にも決してできないであろう。或る個人の道徳理念がその祖先の道徳理念から生じたものであることが明らかであるとしても、個人が自らの固有の道徳理念を持たない限り、その人は道徳的に不毛な存在でしかない。」
「倫理的個体主義を進化論から説明することができよう。進化論にとっても倫理的個体主義にとっても、最終的な認識は同じものになるであろう。ただそこに到る道筋が異なるにすぎない。」
「まったく新しい道徳理念が道徳的想像力によって生み出されるということは、進化論からいえば、新しい動物の種が他の種から生じることと同様、何ら不思議なことではない。進化論という一元論的な世界観に立っていえば、道徳生活においても、自然生活においても、単なる推測だけの、つまり理念体験をもたない、彼岸の(形而上的な)影響について語ることには否定的にならざるを得ない。」
「進化論は、新しい有機体形成の原因を探求する際に、それを世界外的な存在の干渉のせいにはしない。言い換えれば、超自然的な影響による創造行為によって、新しい種が生み出されるという考えを排除する。」
「一元論は生物を研究する際に、超自然的な天地創造の思想を必要としない。同じ意味で一元論は道徳的世界秩序を、体験できないような原因から説明しようとはしない。一元論は道徳意思の本質を説明するに際して、道徳生活に対する超自然からの持続的な影響(外からの神の世界統治)に帰せしめたり、あるいはモーゼの十戒のような歴史上の特定の時点での啓示や地上における神の出現(キリスト)に帰せしめたりすることで満足することはできない。これらすべての事柄が道徳となり得るのは、それが各人の体験を通して、各人に固有のものとなるときに限られる。」
「一元論にとって、道徳の過程は、他の諸事物と同じように、世界の産物である。そしてそれらすべての原因も世界の中に、とはいえ人間こそが道徳性の担い手なのだから、人間の中に求められねばならない。」
「倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学のために構築した大建造物の最上層に位置している。それは精神化されて、道徳生活上に移し換えられた進化論である。」

(P223)
「進化論はその基本見解に従って、現在の道徳行為も世界事象の一つであり、別種の世界事象から進化したのだと主張する。進化論者は人間の行為の特徴である自由がどこにあるかを行為の直接観察を通して見出そうとする。人間はまだ人間になる前の祖先から進化してきたのである。人間がどのような存在であるかは、人間自身を観察することの中で明確にされねばならない。この観察が正しくなされるなら、それが進化の歴史と矛盾することはあり得ない。その観察が自然的世界秩序を排除するようなものであるなら、その主張は自然科学の新しい方向と一致しないであろう。」

(P224)
「倫理的個体主義は、どんなに自然科学の主張が自明のように思えても、それに左右されることはない。人間行為の完全な形式の特徴は自由である、と観察が教えているからである。人間意志は純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。行為をこのように特徴づけることの中に、自由がある。」

(P225)
「自由であるということは、行為の根底にある表象内容(動機)を道徳的想像力によって自分から決定できるということである。機械的な過程や世界外にいます神の啓示のような、私以外の何物かが私の道徳表象を決定するのだとすれば、自由などあり得ない。したがって私自身が表象内容を生み出すときが自由なのであって、他の存在が私の中に植えこんだ動機を私が行動に移せるとしても、それで自由になるのではない。自由な存在とは、自分が正しいと見做すことを欲することのできる存在である。自分が欲することではない何かをする人は、自分の中にないような動機に従って行動に駆り立てられている。そのような行動には自由がない。」

(P226~228)
「●一九一八年の新版のための補遺」
「意志が自由であることの正しさは、意思の中に理念的直観が生きているという体験によって裏づけられる。このことが特に重要である。この体験はもっぱら観察によって得られる。」
「人間の意志を一つの進化の流れの中で観察するとき、その進化の目標は純理念的な直観によって担われた意志の可能性を実現することにある。この可能性は実現できる筈である。なぜなら理念的な直観の中には、自分自身に基づく固有の本性が働いているのだから。」
「この直観が人間の意識の中に存在しているときにも、それは生体の働きの中から作り出されたものではない(一六六頁以下参照)。むしろ生体活動は理念に席をもうけるために、背後に退いている。」
「私が意思を直観の模像として観察するとき、生体に必要な活動はこの意志活動から身を引いている。意志は自由である。」
「この意志の自由を観察することのできる人は、同時に、人間の生体に必要な働きが直観の要素によって弱められ、背後に追いやられ、そしてその代わりに理念を受けた意志の精神的な活動が主役を演じるということの中に、自由な意志の存在が示されているというおことを認めるであろう。」
「自由な意志のこの二重性が観察できない限り、どんな意志も不自由であると思える。しかしこの観察ができれば、人間が不自由なのは生体活動の抑制を最後まで徹底できなかったからだ、という認識をもつことができよう。そして同時に、そのような不自由な状態が自由を望んでいること、この自由が決して抽象的な理想ではなく、人間の本性の中に存する導きの力であることをも認めるであろう。人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。」

 この補遺の文章から感動的な気分が湧いてくる。そうつくづく感じている。心が豊かになる。そんな感じだ。自由とは心の豊かさに繋がっている。私はそう思った。
 この第一二章「道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳」を理解するために、私は逐一キーワード・キーセンテンスを拾いながら読み進めてきました。そしてその後、今井先生の『自由の哲学』入門を読み、手際よくまとめられた文章に接して、理解の感覚が心地よく深まるのを覚えました。道徳的ファンタジー力が私の内面でも振動しているのをかすかにその響きを感じました。

『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2022年5月23日(月)75回2022年05月23日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回14回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p205~211)を読んでいます。    そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)を参考にしています。

 「人間の精神生活のさまざまな流れの中で、今取り上げる必要があるのは、目的が存在し得ない領域での目的概念についてである。…」。
この文章(p205)から第一一章は始まっている。そして読者である私は「人間の精神生活」とは何か。私の精神生活とは何か。読み始めて直ぐ、文章の細部を意識が問う。
 いつものことながら、裏を返すと、私の読書は一つの言葉一つのフレーズに引っ掛かっかりながら進む読書なのである。遅々として進まぬ読書なのである。そしてそのような自分の意識の一面と共に、シュタイナーはこの章において何を語っているのだろうか。と考え、読書を進めようと、次の文章に目を移す。そしてまた次の文章の単語の意味に疑問を起こす。その繰り返しが私の読書スタイルである。
 この第一一章はちくま学芸文庫7ページ分量の比較的短い文章である。
 キーワード・キーセンテンスを先ず見て行きましょう。そこに理解の糸口を見つけましょう。読者それぞれ主観により、取り上げるキーとなる言葉の選別、省略に違いがあること。そこに理解をお願い致します。

最初のページ(p205)は
 「目的が存在し得ない領域での目的概念」、「合目的性」、「因果関係」、「真の合目的性」、「人間があらかじめ表象した事柄を実行に移すとき、行為についてのこの表象は行動を規定している。後にくる行為が、表象の助けを借りて、それに先行するもの、つまり行為する人間自身を規定する。」、

 P206の「…、結果の知覚内容は、原因の知覚内容の後に生じる。その際結果が原因に影響を与えるとすれば、それは概念の働きによらざるをえない。」、「知覚内容だけを問題にする素朴な意識は、すでに繰り返し述べてきたように、理念だけしか認識できない場合でさえも、そこに知覚内容を見出そうとする。」

P206~207にかけて
 「素朴な人は、自分がどのようにして出来事を生じさせたのか意識しているという事実から、自然も同じような仕方で意識的に出来事を生じさせるのであろう、と推論する。そのような人は純因果的な自然関連の中に、目に見えぬ力だけでなく、知覚できない現実目的をも見ようとする。人間は道徳を目的に適うように作る。素朴実在論者は同じような仕方で、造物主が生物を創り出したのだろう、と考える。このような間違った目的概念は長い時代を通じて、次第に科学の中から消えていった。しかし今日でもなお、哲学の中ではそれがひどく幅をきかせている。そこでは世界の世界外的な目的が問われ、人間の人間外的な使命または目的が問われる。」
 「一元論はどんな分野でも目的概念を退けるが、人間の行動だけは例外である。一元論は自然の法則を探求し、自然の目的は問わない。自然の目的は知覚できない力と同じように、恣意的な仮定である(一四〇頁以下参照)。しかしまたその生活目的も人間が自分で定めるのでなければ、是認できない。目的が問題になるのは、人間が何かのために自分で作り上げたものだけである。なぜなら理念の実現のためにのみ、合目的的に何かが作られるのであり、しかも実在論的な意味においては、理念は人間の内部においてしか働くことができないのだから。それ故人間の生活においては、人間自身が与えた目的と使命だけがある。人生にはどのような使命があるのかという問いに対して、一元論は、人間が自分で定めた使命だけがある、と答える。社会における私の使命はあらかじめ定められたものではない。その都度私自身がそれを自分のために選択する。私は人に命ぜられた人生行路を歩いていくのではない。」

P208は、
 「理念は人間によってのみ、合目的的に実現される。したがって歴史が理念を実現する、と語ることは許されない。「歴史は人間の自由へ向けての発展過程である」とか道徳的世界秩序の実現であるとかいう言い方はすべて、一元論の観点から言えば根拠がない。」
  
そしてp208 の4行目からp209において、
 目的概念の信奉者ロバート・ハーマーリングの『意志の原子論』を引用して、合目的的についての間違った捉え方、間違った表現を指摘する。

p209の後より5行目中下~210 において、シュタイナーは次のように言う。
 「…。目的論者は自然物が外から規定されていると考える。その規定するものが宙に浮いた理念であっても、自然物の外の、造物主の精神内に存在する理念であっても、この点に変わりはないと考える。この考えを否定する人は、自然物が外から合目的的、計画的に規定されているのではなく、因果の法則によって内から規定されていることを認めなければならない。その諸部分を自然によるのではない関連の中にもたらされている機械は、合目的的に作られている。その構造の合目的性は、私が機械の性能を理念として、機械の中に組み入れたことによって生じており、それによって機械は特定の理念を示す知覚対象となったのである。自然物にも祖のことが言い得る。自然物をも、それが合法則的につくられている故に合目的的であると考える人は合目的的であると見做すかも知れない。しかしこの合法則性を主観的な人間行為の合目的性と取り違えてはならない。合目的的であると言えるには、そこに原因として働いているものが概念である必要がある。しかも作用している概念である必要がある。しかし自然の中にはどこにもそのような原因となる概念の存在が証明されていない。自然の中での概念は常に原因と結果との理念的な関連として存在しており、自然の中での原因はもっぱら知覚内容として存在している。
 二元論は世界と自然をも目的論的に語ることができる。われわれの知覚内容が原因と結果の合法則的な結びつきにおいて現れるとき、それを二元論者は、宇宙の絶対者がその目的を実現したときの絶対者と事物との関係の焼き直しである、と思っている。一元論者にとっては宇宙の体験できない仮定上の絶対者だけでなく、世界目的や自然目的を仮定する根拠もまた存在しないのである。」

p211は「●一九一九年の新版のための補遺」のキーセンテンスとして、
 「…。そして人間的な合目的性のモデルに従って考えられた人類の使命の合目的性についても、それが間違った考え方であると述べる理由は、個々の人間の立てた目的の総計から人類全体の働きが生じるのだ、ということを言おうとしている。そのような働きは、結果として、個々の人間の目的よりも高次なものとなるのである。」

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命」(p68)の中で、今井先生は「第11章においては、目的を設定できるのは人間だけであり、自然のなかに目的の存在を仮定するのは間違っているということが述べられています。…」と書いています。その言葉を指針にして読みました。
 私の『自由の哲学』読書は、哲学入門としての側面が大きく、シュタイナー書籍を通じて、哲学用語の学習でも有ります。しかしそれは希望のある読書になっています。皆さまにとって期待外れの感想かも知れません。けれどもよろしくお願い致します。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2022年5月11日(水)75回2022年05月11日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めています。その際、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考書にして理解を深めています。
 今回13回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第一〇章 自由の哲学と一元論」(p193~203)を読んでいます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「第一〇章 自由の哲学と一元論」(p66~67)を参考にしています。

 今井先生は、
 「この第一〇章では、素朴実在論と形而上的実在論は自由の哲学と相容れないということが述べられ、シュタイナーの一元論の立場の正しさが主張されています。」と、上記自著66ページで述べています。
今井先生のこの言葉を念頭に置きながら、『自由の哲学』第一〇章 自由の哲学と一元論(p193~203)を読み進めます。
 
 この「第一〇章 自由の哲学と一元論」(p193~203)は、大きく三つの主題を掘り下げ、新版のための二つの補遺を入れています。
 一つは素朴実在論。二つは形而上的実在論。三つは一元論。新版のための補遺二つ。
 
 先ず、素朴実在論が描かれているp193~194を見て行きます。
 「見たものや手で触ったものだけを現実と見做す素朴な人は、…」で始まります。
 シュタイナーのこの表現は素朴実在論者の原点を示していると思います。素朴実在論者には階梯があるようです。

 「道徳領域での素朴実在論の最高段階は、道徳命令(道徳理念)がどんな外的存在からも切り離されて、自分の内なる至上の力であると考える場合である。以前の人間が外からの神の声として聞いたものを、今は内なる独立した権力の声として聞くようになる。そしてそのような内なる声を良心の声として受けとめる。」
 そして素朴実在論の深化は、形而上的実在論に近づきます。
 「しかしそれと共に素朴な意識の段階はすでに踏み越えられ、人倫の法則が独立した規範となっている領域にわれわれは入っている。もはやその法則は何も担い手を必要とはせず、存在の根拠を自分の内にもつ形而上的な本質存在になっている。その存在は形而上的実在論の説く不可視的=可視的な作用力に似ている。」

 次に、形而上的実在論が掘り下げられているp194~197を見て行きます。重要な箇所なので長い引用をさせていただきました。是非、『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手に取り確認してください。
 
 「形而上的実在論は、人間の思考によって現実を把握しようとはせず、それを仮説として体験領域の中に加えようとする。形而上的実在論の随伴現象として、常に人間の認識能力から遊離した道徳規範が姿を現す。形而上的実在論は道徳の起源をも仮定された人間外的な現実存在の中に求めざるを得ない。その場合いくつかの可能性が存在する。この仮定された現実存在が、唯物論の言うように、それ自身思考内容を持たぬ、もっぱら機械的な法則に従って作用するものならば、それはもっぱら機械的な必然性によって、人間の個体やそれに付随するすべてをも自分の中から生み出すであろう。そうなれば自由の意識は単なる幻想でしかなくなる。なぜなら私がどんなに自分で自分の行為を創造していると考えても、私を作り上げている物質とその運動経過が私を支配しているのだから。自分で自由であると信じている私の行為のすべては、私の身心組織の根底にある物質経過の所産でしかないのである。ただわれわれを強制している動機に気がつかないために、われわれは自由の感情を持ち、そしてそのような考え方を肯定しているにすぎない。…
 もう一つの可能性は、現象の背後に存する人間外的な絶対者を精神存在として認めることである。その場合、人間の行動への衝動をもそのような精神存在の力の中に求めるであろう。そして理性の中に見出せる道徳原理をも、人間に特別の意図を持っているこのような力の存在から生じたものと見做すであろう。このような二元論者にとって、道徳法則は絶対者からの命令であるかのように思われる。そして人間とは理性を通して、この絶対存在の命令を知り、そして実行する存在にすぎなくなる。二元論者にとっての道徳的世界秩序は、背後に存する高次の秩序の可視的な反映にすぎない。この世の道徳は人間外的な宇宙秩序の現象形式になる。このような道徳的宇宙秩序の主役は人間ではなく、人間外的な存在なのである。人間はこの存在の意思の当為(なすべきこと)として持つ。エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、このような存在を神と考えている。この神にとって、存在とは苦悩に他ならない。この神的存在が宇宙を創造したのは、それによって自分の無限大の苦悩から救済されるためなのである。したがって、この哲学者は人類の道徳的進化を、神を救済するための過程であると見ている。「宇宙過程の目標は、理性的、自己意識的な個体による道徳的宇宙秩序の実現によってのみ達成される」。「現実存在とは神の受肉のことである。宇宙の経過は肉となった神の受難物語であり、同時に生身を十字架にかけられたものの救済への道である。そして道徳とはこの受難と救済の道の短縮化に協力することである」(ハルトマン『道徳意識の現象学』八七一頁)。この場合、人間は望んで行為するのではなく、神が救済を欲するから行為すべきなのである。湯物論的な二元論者が人間を自動人形にして、その行動をもっぱら機械的な法則の結果にすぎないと思うように、精神的二元論者(つまり絶対存在は精神存在であり、人間の意識体験はこの精神存在とはまったく無関係であると考える人)は、このような絶対者の意思の奴隷なのである。自由は唯物論の中にも、一面的精神主義の中にも存在しない。そもそも人間外的な存在を真の現実と考え、しかもこの真の現実を体験できぬものと考える形而上的実在論の中には、自由の存在する余地はまったくない。
 素朴実在論も形而上的実在論も、同じ理由から自由を否定することになる。いずれの場合にも人間を必然的な外的原則の執行者にすぎないと考えている。素朴実在論は知覚できるもの、または知覚から類推できるものを本質と見做し、この本質の権威に従属しようとする。あるいは自ら「良心」と解釈する抽象的な内なる声に従おうとする。そしてそうすることにより、自由を殺している。人間外的な何かに信をおこうとする形而上学者は、人間を「本質自体」によって機械的または道徳的に規定されていると考えるので、人間に自由を認めることができない。」

 次はp197~200おいてシュタイナーの主張する一元論を見て行きます。ここも細部表現の重要性から、長い引用をさせていただきました。
 
 「一元論は知覚世界の正しさを認める。したがって素朴実在論の正しさを決して認めないわけではない。ただ、直観によって道徳理念を獲得できない限りは、どうしてもそれを他者から受け取らざるを得なくなり、道徳原理を外から受け取る限りは、どうしても自由であることはできなくなる、と考える。一元論は知覚内容と並んで、理念にも同じ正当性を認める。人間の個体の中に現れる理念に突き動かされて行動する人が、自由な自分を実感することができる。しかし一元論は単なる論理だけを追う形而上学の正当性を決して認めない。いわゆる「本質自体」に従って行動しようとしても、その正当性を認めることはできない。一元論から言えば、知覚可能な外からの強制に従う限り、人間は自由に行動することができない。自分自身だけに従うとき、はじめて自由の行動できる。知覚や概念の背後に潜む暗い無意識の強制を、一元論は是認しない。他の人の行為が自由を失っている、と誰かが主張する場合、その人を不自由な行為に駆り立てている事物や人間や制度が知覚可能な世界の中に見出せなければならない。感覚的現実もしくは精神的現実の外に行為の原因を求めようとする人の主張を一元論は受け容れない。
 一元論から見ると、人間は或る部分では自由に、別な部分では不自由に行動している。人間は知覚世界の中では自分が自由でないことに気づき、自分の内部に自由な精神を生かそうとする。
 単なる論理に従う形而上学者が高次の力の現れと考えている道徳命令は、一元論の立場からみると、人間の思考内容なのである。一元論にとっての道徳的世界秩序とは、まったく機械的な自然秩序の模像でもなければ、人間外的な宇宙秩序の模像でもなく、まったく自由な人間の所産なのである。人間は自分の外にいる存在の意志をではなく、自分自身の意思をこの世に実現しなければならない。人間は他人のではなく、自分自身の意図や発想を生かそうとする。一元論は行為する人間の背後に、人間の意思を支配する宇宙統治の目的などを見ようとはしない。人間が直観的に理念の実現を計ろうとするのならば、もっぱら自分の人間的な目的だけに従わなければならない。どんな個体も自分自身の特別な目的に従っている。なぜなら理念界は人間共同体の中ではなく、それぞれの人間の個体の中でしか自分を十分生かすことはないのだから。集団の共通目標とは、ひとりひとりの個人の意思行為の結果であるにすぎない。大抵は少数の優れた人物が発案し、他の人たちはその権威を認めて、それに従うのである。われわれひとりひとりは自由な精神になるという使命を持っている。それはちょうど、どのばらの萌芽もばらの花を開かせる課題を持っているのと同じである。
 したがって一元論は、真に道徳的な行為の領域においては、自由の哲学である。一元論は現実哲学なのだから、自由な精神が非現実的、形而上的に制限されることを拒否はするが、素朴な人が物質的、歴史的(素朴実在的)に制約されているという事実を無視はしない。一元論にとって人間とは、人生のどの瞬間にも存在全体を開示できるような完結した所産なのではない。人間が自由であるかないかを議論しても意味はない。一元論は人間の中に進化する存在を認める。そして現在の方向を進めば、自由の精神の段階に達することができるかどうか問おうとする。
 一元論からみると、自然は人間を完全に自由な精神に育ててから、世に出そうとしたりはしない。自然はある段階までは人類を導くが、たとえまだ不自由な存在であったとしても、そこから先は人間が自分で進化を遂げて、自分自身を見つけ出すことのできる地点にまで到らしめようとする。
 一元論は物質的または道徳的な強制の下で行為する存在が本当の意味では道徳的であり得ないことをよく理解している。この立場は、自然衝動や本能に従う自動人形的な行為も、道徳規範に従う従順な態度も、道徳性の必要な前段階であると考える。けれどもまた、この二つの通過段階を自由な精神によって乗り越える可能性をも考える。一元論は真に道徳的な世界観全体を素朴な道徳律の地上的な桎梏や思弁的形而上学の非地上的な道徳律から解放する。一元論は前者の桎梏をこの世から排除することができない。そもそも知覚内容を世界から排除することはできない。しかし一元論は後者の命令を排除する。なぜなら世界の現象を解明するために、すべての原理を世界内に求め、世界外には求めようとしないからである。一元論は、世界外的な認識原理については考えることさえ拒否し(一四四頁以下参照)、道徳規範についてはそのどんな世界外的な思考内容をも拒否する。人間の道徳性は認識と同様に、人間本性に基づいている。人間外的な存在者が人間とまったく別な仕方で認識のことを考えているとすれば、その存在者はわれわれとは違う道徳性を持っているであろう。一元論者にとって、道徳性とは極めて人間的な特質であり、そして自由とは道徳的であることの人間的な形式なのである。」

 この章に追加された二つの「一九一八年の新版のための補遺」p200~203は、ここでは取り上げません。R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)。この書籍を手に取り、是非、お読みなっていただきたいと思います。よろしくお願いします。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2022年3月10日(木)74回2022年03月10日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を章単位で読み進めています。今回12回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第九章 自由の理念」(p165~192)を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の二、「第九章 自由の理念」(p54~65)を参考文献として併せて読みます。
 今井先生はこの「第九章 自由の理念」を、
 「『自由の哲学』全体のなかで、もっとも重要な箇所といえるでしょう。この箇所で、カントの『実践理性批判』とは異なる新しい道徳の考え方が提議されているのです。」と書いています。
 この今井先生の言葉を念頭に置き、シュタイナーの「自由の理念」の九章を、読み進めて行きます。

 「第九章 自由の理念」は文庫紙面27ページを使っています。先ず、シュタイナーの表現、言葉の理解を深め、シュタイナー文章の展開していく内容を把握していきたいと思います。
 この「第九章 自由の理念」書き出しから、キーワード、キーセンテンスを見ていきます。

(p165~)
 「概念」「知覚内容」「概念組織全体」「思考」「知覚行為の後」「不可分の関係」「人間と世界との関係の認識」「とらわれぬ観察によって解明できること」「観察の意味」「自己完結的な本質存在である思考」「思考の本質の解明」

 (p166~167)
 「思考を観察する人」「独立した精神的な本質存在」「精神の本質を直接表している形態」「自己自身に基づいて働く思考」
 「思考そのものを考察するときには、概念と知覚内容とが、いつものように別々に現れることなく、ひとつに結びついている。」「思考の働きを洞察できる人は、知覚内容の中には現実の一部分しか存在せず、別の現実部分はこの知覚内容を思考することによって体験されるものであり、それによってはじめて現実が完全な姿をとって現れる、ということを知っている。」「意識の中に現れる思考内容」「自己に基づく精神的本質性」「直観とは純粋に精神的な内容を純粋に精神的な仕方で意識的に体験することである。」

(p167)
 「直観を通してのみ思考の本質を把握することができる。」
 「直観的思考の真実」「人間の心身組織の意味」「人間の思考は通常の経験の中では、常にこの身心組織の下で、この組織を通して、現れる。」「思考の本質的な働きは二重の仕方で現れる。第一に、思考は人体組織を、その固有の活動へ押し戻す。第二に、その代わりに、自分自身をそこに据える。人体組織の働きを退けるのは、思考が意識の表面に現れるようにするためなのである。」

(p168)
 「「自我」は思考の内部に見出すことができるが、「自我意識」は思考活動の痕跡が上述した意味で一般意識の中に刻印づけられることによって生じる。(つまり自我意識は人体組織を通じて生じる。とはいえ、一度生じた自我意識は人体組織に依存し続けることなく、思考そのものに取り入れられ、そして人間の精神的本性の一部となる。)」

(p169)
 「「自我意識」は人体組織の上につくられる。意思行為はこの組織から現れてくる。」「思考と自我意識と意思行為との関連」
 「個々の意思行為は常に動機と衝動という二つの要因をもっている。」「動機は概念や表象による要因」「衝動は人体組織に直接制約された意思要因」「概念要因としての動機は意思のその時々の規定根拠」「衝動は個体の持続的な規定根拠」「普遍概念や個別概念(表象)が意思の動機になるのは、それが人間に働きかけて、特定の行動をするように促すときである。」「意思行為は概念や表象の結果だけでなく、個人の在り方の結果でもある。そのような個人の在り方を、われわれはエドゥアルト・フォン・ハルトマンに従って、性格学的素質と呼ぶことにしたい。」「概念や表象が性格学的素質に対して行う働きかけは、ひとりひとりの人生に特定の道徳的」倫理的な刻印を与えている。」
 「性格学的素質は、われわれの主観の多かれ少なかれ持続的な生活内容によって形成される。言い換えれば、われわれの表象内容と感情内容とによって形成される。」

(p170~171)
 「私の性格学的素質はまったく特別な仕方で私の感情生活に規定されている。私が特定の表象や概念に喜びを感じるか、それとも嫌悪を感じるかによって、それが私に行為の動機になったりならなかったりするであろう。」「今ある表象や概念は動機になることによって、今の私の意思の目標、目的を規定する。そしてこの目標に私の活動を向けるのは私の性格学的素質である。」
 「二つの事柄を区別」「一、特定の表象や概念を動機にすることのできる主観的な素質、二、私の性格学的素質に働きかけて意思を生じさせることのできる表象や概念である。前者は道徳の衝動を、後者は道徳の目標を表している。」

(p171~172)
 「道徳の衝動を見出すことができるためには、個人の生活がどのような要素から成り立っているのか知らねばならない。」
 「個人の生活の第一段階は知覚である。しかも感覚による知覚である。」「知覚が感情や概念によって媒介されることなく、直接意思に転化される場合がある。」「衝動そのもの」「衝動生活の特徴は、個別知覚が意思に転化される際の直接性にある。」「…この意思決定は、高次の感覚の知覚内容にも適用されうる。」「…すぐに行動にうつるような場合が日常の人間関係の中でも生じる。」「生き様または人間味」
 「人間生活の第二の領域は感情である。特定の感情は、外界の知覚内容と結びついて行為の原動力になることができる。」「羞恥心、誇り、名誉心、遠慮、後悔、同情、復讐、報恩、敬虔、忠誠、愛情、義務感等がある。」

(p172)
 「人生の第三段階は思考と表象である。表象も概念も考慮することだけで行動の動機となることができる。」。「…そのような表象が行為の決定に際して手本として意識化されるが、それもまた性格学的素質の一部分となる。」。「…われわれはこのような意思の衝動を実際経験と名づけることができる。」
 「個人生活の第四の最高段階は、特定の知覚内容を顧慮することのない概念的思考である。」

(p173)
 「われわれは概念内容を純粋直観を通して理念界から取り出してくる。」「知覚内容を指示する概念(つまり表象)」「概念的思考の廻り道」「純粋直観の影響」「純粋思考が行動の原動力」「哲学上この純粋思考の能力は通常理性と呼ばれているので、この段階に現れる道徳衝動を実践理性と呼ぶのが正しいであろう。」「クライエンビュール(『カントの倫理的自由』)は今のべた原動力を実践的アプリオリと述べている。」「直観から生じてくる行動への衝動」
 「このような衝動は、…性格学的素質の領域に入れられない…。」「なぜなら、ここで原動力となって働くのは、…私の直観の理念内容であり、したがって普遍的な内容となっている…。」「この内容の正しさを行動の基礎もしくは出発点として認めるいなや、私は意思の領域に立ち入る。」

(p174)
 「その時々の行動への衝動が、概念の形式をとるか表象の形式をとるかして、性格学的素質に働きかけるとき、はじめて本当の意思の行為が生じる。そのような衝動がこのとき意思の動機となる。」
 「道徳の動機は、表象と概念である。感情の中にも道徳の動機…ただ表象された快の感情だけがそうなり得る。」「なぜなら感情そのものは行為の瞬間はまだ存在しておらず、むしろ行為を通じて生み出されるものだからである。」
 「自分または他人の満足感の表象を意思の動機と見做すことは正しい。行動を通じて最大限の快の感情を生じさせる原理、個人の幸福を可能にする原理は利己主義である。」

(p175~176)
 「純概念的な行為内容も動機として顧慮されねばならない。この内容は、…行為を体系づけられた道徳原則の基礎の上におこうとする。」「道徳原則は、…抽象的な概念形式のままに道徳生活を導くことができる。その場合…服従を求める道徳命令に従う。それは家長、国家、社会道徳、教権、神の啓示等として認められる道徳上の権威からの命令である。…われわれが服すべき声をわれわれは自分自身の内部に聴く。この声の表現が良心なのである。」
 「…その行為の根拠を洞察しようと努力することは、道徳上の一大進歩を意味する。その進歩は権威による道徳から認識による行動への進歩である。」。「この段階に立つ人は、道徳生活の要求を意識化して、認識することから個々の行動を決定しようとする。」。「そのような道徳生活の要求とは、一、人類全体の最大限の幸福をもっぱらこの幸福そのもののために求める、二、人類の道徳的進化もしくは文化の進歩をますます完全なものにしようとする、三、まったく直観的に把握された個人の道徳目標を実現しようとする――以上の三点である。」

(p176)
 「人類全体の最大限の幸福は…その立場に応じて…人類全体の幸福の促進のために働くように求めている。」
「文化の進歩は…ひとつの道徳的必然を見ることも可能である。…特殊な道徳原則となる。」
 「全体の幸福という原則も文化の進歩という原則も、特定の体験内容(知覚内容)に対する道徳理念の内容の関係もしくはその関係の表象に基づいている。」

(p177~188)
 「全体の幸福という道徳原則に従う人は、どんな行動を行う場合にも、…自分が何を寄与し得るか問うであろう。文化の進歩を信じる人も同じようにするであろう。「…けれどもすべてのそのような個別的道徳目標が副次的なものになってしまう場合がある。その場合には概念的直観そのものが主役を演じ、他の諸々の動機は指導的立場から離れる。そして行動の理念内容だけが動機となって働く。」
 「われわれは性格学的素質の諸段階の場合、純粋思考、実践理性として働くものを最高のものと見做し、そして動機の場合の最高のものを概念的直観と名づけた。道徳のこの段階においては、このような衝動と動機が互いに結びつくようになる。…理念の内実から行動がなされるのである。」
 「このような行動は、その前提として道徳的な直観能力を必要とする。個々の場合にそれに応じた道徳原則を取り出す能力のない人は、決して真に個的な意思を実現しないであろう。」

(p178~179)
 「この道徳原則の正反対がカントの立場である。「おまえの根本命題がすべての人間にも当てはまるような行動をせよ」とカントは言う。この命題はすべての個的な行為を死へ追いやる。しかしすべての人がやるような行動の仕方が私にとっての基準なのではなく、個々の場合に何をしたらいいのかが問題なのである。」
 「表面的に判断すれば、恐らく次のような反対意見が以上の論点に対して提出されるであろう。「一体どのようにして、行動がそれぞれの場合に個的であり、それぞれの状況に応じていながらしかも純理念的に直観から決定されるということが可能なのか」。この反対意見は、道徳上の動機と知覚できる行為内容とを混同することからきている。知覚できる行為内容も動機となることができる。例えば文化の進歩や利己的な行為に際してはそのような内容が動機となっている。しかし純道徳的な直観に基づく行動の場合には、そうではない。私の自我は勿論この知覚内容に眼を向けているが、それによって行動を決定したりはしない。知覚内容が利用されるのは、もっぱら認識概念を作るためであって、必要な道徳概念をそこから取ってくるのではない。当面する或る状況から得た認識概念は、私が特定の道徳原則の立場に立つときにのみ、道徳概念として役立たせることができる。私がもっぱら一般的な文化の進歩という道徳観点に依拠して生きようとするときには、私は決まった人生行路を歩み続けなければならないであろう。その場合、私が知覚し、そして関わりを持とうとするすべての出来事から、道徳的な義務が同時に生じる。例えば文化の進歩に役立つように寄付をするという義務が生じる。事物や出来事は、自然法則的な関連を示すだけではなく、道徳的に私が何をしたらいいかをも教えてくれる。この道徳上の指針は、それだけを取り出せば正しいかもしれない。けれども高次の段階では私が納得する理念と結びつかなければならない。」

(p179~180)
 「人間の直観能力はさまざまである。或る人は溢れるばかりの理念を持ち、他の人は苦労してその一つ一つを手に入れる。人間に行動の舞台を提供する生活状況もまたさまざまである。人間がどの行動をとるかは、直観能力が特定の状況に際してどう働くかにかかっている。われわれの内部に働く理念の総計、われわれの直観の具体的な内容は、たとえ概念界そのものがどれほど普遍的であろうとも、常にひとりひとりの中で個別的に現れる。直観内容が行動と結びつくとき、それは個人の道徳的内実となる。この内実を十分に生かしきることが最高の道徳衝動なのであり、そして同時に、他の道徳原則がすべて最後にはこの内実に結びつくことを洞察する人にとっては最高の動機でもある。われわれはこのような観点を倫理的個体主義と呼ぶことができる。」 
 「個々の場合の行為は、状況に応じた個的に対応する直観を見つけ出すことによって決定されねばならない。この道徳段階に到れば、もはや普遍的な道徳概念(規範、法則)だけでは解決がつかない。規範や法則は個的な衝動を一般化できなければならない。普遍的な規範は常に具体的な事実を前提とし、具体的な事実から引き出されてくる。そしてその具体的な事実は、まずはじめに人間の行為を通して作り出される。」

(p180~182)
 「われわれが合法則的なもの(個人、民族および時代の行動の概念内容)を求めるとき、ひとつの倫理学を見出すことができるが、しかしそれは道徳の規範学としてではなく、道徳の博物誌としてである。ここで獲得された諸法則は、人間の行為に対して、ちょうど自然法則が個々の自然現象に対するような関係を持っている。この諸法則とわれわれの行為の根底にある衝動とは同じものではない。どういう場合に人間の行為が道徳意思から現れてくるかを理解しようとするにはまずはじめにこの意思と行為との関係に眼を向け、この関係が規定的な意味を持つような行為を見つけ出さねばならない。そのような行為を後から反省してみるとき、どのような道徳原則がそこに働いていたかを知ることができる。私が行為している間、道徳原則はもっぱら直観となって私の中で働いている。そうでなければ、その道徳原則は私を突き動かさない。それは私が行為を通して実現しようとする対象への愛と結びついている。「私はこの行為を行うべきなのか」を世間に、あるいは何かの権威に私は問いかけようとはしない。行為についての理念が把握できたとき、私はそれをすぐ実行に移す。だからこそそれは私の行為なのである。特定の道徳規範がそこに認められるという理由だけで行為する人の行為は、その人の道徳法典に記載されている原則の賜物である。その人は単なる執行人にすぎない。高級自動人形でしかない。「行為の動機を意識せよ。そうすればたちどころに、汝の道徳原則の歯車が回転し始め、キリスト教的、人道的、没我的な、あるいは文化の進歩に役立つような行為が合法則的な仕方で遂行されるであろう」というのである。対象への愛に従うときにのみ、私は行為する主体であることができる。この段階の道徳においては、私は主人の命に服するから行動するのではない。外的権威やいわゆる内なる声に従って行動するのでもない。私は自分の行動の外的原則を必要としない。なぜなら私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだから。私の行為が良いか悪いかを悟性的な手段で調べようとも思わない。私が行動するのは、それを愛しているからである。愛に浸った私の直観が直観的に体験されるべき世界関連の中に正しく存在しているとき、その行為は「善」になり、そうでない場合の行為は「悪」になる。私はまた、他の人ならこの場合どのような態度をとるかと尋ねようとは思わない。私という特別な個性がそうしようと私を促すからこそ、私は行為するのである。私を直接導いているのは、一般的な慣習や普遍道徳や一般人間的な原理や道徳規範などではなく、行為に対する私の愛である。私は私に衝動を促す自然の強制も道徳的至上命令の強制も感じない。私はもっぱら私自身の中にあるものを実現しようと欲する。」
 「普遍的な道徳規範の擁護者は、以上の論点に対して次のように言うであろう。「すべての人が自ら好む通りに行ったり、生きたりしたいと望むならば、正しい行為と犯罪との区別がつかなくなってしまう。私の中に潜む偽りの傾向もまた、善に仕えようとする意図と同じように要求を立てるに違いない。或る行為を理念に従って行おうとすることがではなく、その行為が善であるか悪であるかを吟味することが私を道徳的人間にするのである。それが善であると分かった場合のみ、私はその行為を行うつもりだ」。」
 
(p182~183)
 「この避難は至極明瞭なものに思えるが、これまでの論点を誤解しているにすぎない。これに対する私の解答は、以下の通りである。――人間の意思の本質を認識しようとする人は、この意思を特定の段階まで発達させてくれる道と、この道を辿る意思の在り方とを区別しなければならない。目標への途上においては規範が正しい役割を演じる。この道の目標とは直観によって把握された道徳理想を実現することである。直観的に把握された世界理想へ向かって人間は自己を高めようと努力する。その努力する能力の度合いに応じて、人はそれぞれこの目標を達成していく。個人の意思には大抵の場合衝動や動機以外の何かが、このような目標の中に混入している。とはいえ人間の意思には直観内容がそれを規定するように働いている。またはその規定に一役買っている為すべきことを人は行う。人は為すべきことが行為に移される際の舞台となる。そして自分の行為を自分の中から生じさせる。だから衝動はまったく個的なものでしかあり得ない。直観に発した意思行為はすべて個的な行為なのである。犯罪行為が、または悪そのものが純粋直観の実現と同じ意味で個体性の自己表現であると言えるとすれば、それは盲目的衝動が人間個性の一つに数え入れられるときだけである。けれども、犯罪行為に駆り立てる盲目的な衝動は直観から発するものでも、人間個性に属するものでもなく、人間における最も一般的なものに属する。それはすべての人に対して同じ意味で働くが、人はそれぞれ自分の個的特徴をそこから作り上げていく。私の内なる個性とは私の生体の衝動や感情のことではなく、私の生体の中に輝くかけがいのない理念界のことである。私の衝動や本能や情熱は、私が一般的な意味での人類の一員であるということ以外の何事をも証明してくれない。衝動や情熱や感情の中に理念的なものが特別な仕方で現れる事情こそが、私の個性を基礎づけている。私の本能や衝動だけでは、私は一ダースの中の一員にすぎない。その十二人の中で、他ならぬ私がかけがえのない自我として現れることができるのは、特別な形式を持った理念によるのであり、それによってのみ私は個体なのである。私の動物的本性の特性に従って、私以外の誰かが外から私を他の人と区別するであろう。私は思考を通して、言い換えれば私の生体内に働く理念的なものの積極的な把握を通して、私自身を他の人から区別する。その意味で、犯罪行為が理念から生じると言うことはできない。人間の非理念的な要素から導き出されるということこそ犯罪行為の特徴なのである。」
 「或る行為が自由な行為と感じられるのは、その根拠が私の個体存在の理念的部分に見出せるときである。そうでない時の行為は、それが自然の強制によるものであろうと、倫理的規範が要求するものであろうと、すべて自由でないと感じられる。」

(p184~186)
 「どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである。どんな道徳的な行為も、この意味で自由であると言えるときにのみ、私の行為となる。それでは意思された行為がどのような条件の下で自由な行為と感じられるのだろうか。倫理的な意味での自由の理念は人間の本質の中でどのように自己を実現させて自己を実現させていくのだろうか。」
 「自由からの行為は道徳法則を退けるのではなく、それを受け容れる。その行為は道徳法則の命じるままに行う行為よりも高次の在り方をしている。私が愛によって行為しているときにも、人類の幸福のために働くことができる。私が人類の幸福のために働くことを義務と感じるという理由だけから行為するときに比べても、その行為が道徳的に劣っているとは言えない。単なる義務の概念は自由を排除する。なぜならこの概念は、個人の個的な在り方を肯定しようとはせず、それを一般的な規範に従属させようとするのだから、行為の自由は、倫理的個体主義の観点からのみ可能となる。」
 「人間のひとりひとりが自分の個性を主張しようとしているときに、いったいどうして共同生活が可能だと言えるのか。間違った理解をする道徳家はこのような非難を加えるであろう。道徳家は人びとが共通の道徳的秩序を前提にして、ひとつに結ばれるときにのみ、人間の共同体が可能となると信じている。このような道徳主義によっては理念界の調和ということが理解できない。私の中に働く理念界も私の隣人の中に働く理念界も同じものであることが分らないのだ。勿論個的理念の統一という事実は経験からしか得られない。当然のことである。なぜなら経験や観察以外の何かによって認識されるものであるなら、それは個的な体験ではなく、一般的な規範になってしまうであろうから。個人がそれぞれ個的な観察を通して他の存在を知るときにのみ、個性が尊重される。私と私の隣人との相違は、互いに異なる精神界を所有していることにあるのではなく、共通の理念界の中から私の隣人が私とは異なる直観内容を受け取る、という点にある。私の隣人はその人自身の直観内容を生かそうとし、私は私自身のそれを生かそうとする。ふたりとも理念から糧を得ようとして、物質的にせよ、精神的にせよ、外的な衝動には従おうとしないならば、私たちふたりは同じ努力、同じ意図の中で互いに出会うことができるであろう。道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。行為への愛において生きること、他人の意思を理解しつつ生かすこと、これが自由の人間の基本命題である。そのような人が認める「あるべき態度」とは、その「あるべき態度」が直観を通して意志と結びつくような場合に限られる。個々の場合にどのように意志するのかを告げるのは、その人の理念能力なのである。」
 「人間本性の中に根源的な調和を基礎づけるものがなかったとすれば、それを何らかの外的法則によって植えつけることもまたできないであろう。それぞれの人間個性が同じ精神の所産であるからこそ、人間は相互に調和的に生きていけるのである。自由な人は、別な自由人が自分と同じ精神世界に属しており、同じ志向の中でその人と出会えると信じて生きている。自由な人は隣人に同意を求めたはりしない。同意することは人間の本性にとって当然だと思って、同意を期待するのである。このことは、特定の外的制度の問題ではなく、心構えや魂の在り方の問題なのである。自分が評価する隣人と魂の在り方を通して共に生きる人は、人間の尊厳を最もよく理解するのである。」

(p186~187)
 「そう言うと、次のように言う人も出てくるであろう。――「おまえが描いてみせる自由人は、幻想にすぎない。そんなものはどこにもない。われわれは現実の人間を問題にしているのだ。人間は自分の道徳的な役割を義務として受け取り、自分の傾向や愛情に逆らってでも、もっぱら道徳律に従うときのみ道徳的であり得るのだ」。――私は決してそのことを否定しようとは思わない。真実から眼をそらせる人だけがそれを否定しようとするだろう。けれども究極の洞察を問題にしようとするのならば、一切の道徳的へつらいを捨てねばならない。だから単純に次のように言えばよい。人間の性質が自由でないならば、その行為は強制されなければならない、と。その不自由さが物質的な手段によるのか、道徳律によるのか、無制限の性的衝動や因襲の足枷によるのかはまったくどうでもよい。しかし自分が他者の力に支配されているのに、その行為を自分の行為だと呼ぶことだけはしないでもらいたい。自由な精神の持ち主は、外からの強制から自分を引き離す。そして慣習や掟やタブー等のガラクタの中にいつまでも留まろうとはしない。人間は自分に従う限り自由なのであり、自分を従わせる限り不自由なのである。おまえのすべての行為が本当に自由なのか、と問われることはあり得よう。けれどもわれわれひとりひとりの中にはより深い本性が宿っており、その中で自由な人間が語っているのである。」

(p187~189)
 「われわれの人生は自由な行動と不自由な行動とから成り立っている。けれども人間本性の最も純粋な現れである自由な精神に到ることなしには、「人間」という概念は究極まで理解されたことにはならない。自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得るのだから。」
 「そんなことは理想にすぎない、と多くの人が言うであろう。勿論である。けれどもこの理想はわれわれの本性の内部に現実の要素として存在しており、表面にまで現れてこようと働きかけている。その理想は考え出されたものでも、夢見られたものでもなく、生きたものであり、どんな不完全な人生であろうとも、その中で明らかに自らの存在を告げている。人間が単なる自然物であったとすれば、理想を追求することなどまったく無意味であろう。理想の追求とは、たとえ当初は何の働きを示さなくても、実現へと人を駆り立てるような理念の所産なのである。外界の事物における理念は知覚内容なしには存在し得ない。理念と知覚内容との関連を認識する過程で、われわれは自分の外界を明確に把握していくのである。一方、人間の場合にはそのような言い方はできない。人間存在の総体は人間自身に依存している。道徳的人間(自由な精神)という人間の真の概念は、「人間」という知覚内容とあらかじめ客観的に結びつき、後になって認識の過程で明確にされていく、というものではない。人間は自分から進んで自分の概念を自分の知覚内容に結びつけなければならない。ここでの概念と知覚内容は、当人自身によって重ね合わされるときにのみ、互いに合致する。そして自由な精神の概念、つまり人間自身の概念を見出したときにのみ、そうすることができる。客観世界の中では、生体の組織を通して知覚と概念との間に境界線が引かれている。認識がこの限界を超える。主観世界の中でもこの境界線は同様に存在しており、人間は進化の過程でその境界を克服するために、この世を生きる人間として自分の概念を完成させなければならない。したがって知的生活も道徳生活も、われわれを知覚(直接体験)と思考という二重性へ導く。この二重性を知的生活は認識を通して克服し、道徳生活は自由な精神の真の実現を通して克服する。どの人間存在もすでに生まれついた時から概念を有している。それははじめは生きるための法則として働いている。この同じ概念は外的事物の中では知覚内容と分ち難く結びついており、われわれの精神組織の内部では知覚内容から切り離されている。人間の場合、概念と知覚内容がはじめは実際に切り離されているが、それは人間自身の手で再び実際にひとつに結び合わされるためである。人は反対することができよう。――「人生のどの瞬間においても、人間というわれわれの知覚内容には特定の概念が対応している。どんな事物についてもこのことは当てはまる。私は杓子定規の人という概念を作り、それを知覚内容として示すことができる。私がそこにさらに自由な精神という概念を持ち込むならば、同一対象に二つの概念を当てはめることになるのではないのか」。

(p189~190)
 「これは一面的な考え方である。知覚対象としての私は絶えざる変化の中にいる。子どものときの私は若者のときの私とも青年期の私とも異なっていた。どんな瞬間にも、私という知覚像は以前の私の知覚像と異なっている。この変化にも拘らず、この変化の中に常に同じ杓子定規の人が語っていたり、自由な精神が語っていたりする。知覚対象としての私の行為もそのような変化の下にある。」
 「人間という知覚対象が変化する可能性を持っているのは、例えば植物の種の中に植物全体にまで成長する可能性があるのと同様である。植物は自らの中で客観的法則に従って変化を遂げていく。人間は、自分の力で自分の内なる素材に変化を加えることができないとすれば、不完全な状態に留まり続ける。自然は人間から単なる自然存在をつくり出す。社会はその自然存在を規則に従って行動する存在にする。しかしその存在を内部から自由な存在につくり変えるのは、もっぱら自分だけなのである。自然は人間がある段階にまで進化を遂げたとき、人間をその拘束から解放する。社会は人間の進化をさらに特定の段階まで導く。けれども最後の仕上げをするのは人間自身なのである。」
 「自由な道徳性の観点は、自由な精神が人間存在の唯一の在り方であると主張しているのではない。自由な精神の中に人間進化の究極の段階を見ようとするのである。とはいえこのことは或る段階において一定の規範に従ってなされる行為の正当性を否定しようとするのではない。ただその際にはまだ絶対的な道徳性の観点が認められないのである。自由な精神は規範を乗り越え、その命令を動機に変え、行為を自らの衝動(直観)に従って行おうとする。」

(p190~191)
 「カントは義務について次のように言う。「義務よ、おまえは崇高な偉大な名前だ。おまえは自分の中に媚びへつらうものを何一つ寄せつけず、すべてに服従を求める」。おまえはまた「すべての選り好みが沈黙せざるを得ないような……法則を課する。たとえその選り好みがどれ程巧みに姿を隠して忍び寄ろうとしてもである」。これに対して、自由な精神は次のように答えるであろう。「自由よ、おまえは人間的で親しみやすい名前だ。おまえは私の人間性がふさわしいと考えるすべての道徳的欲求を取り上げ、私を決して他人の従者にしようとはしない。おまえは法則を打ち建てるばかりでなく、私の道徳的な愛そのものが法則となり得ることを願っている。なぜなら愛は、いかなる強制的な法則の支配をも、不自由と感じるからである」。
 「これは合法則的であるだけの道徳と自由な道徳の対比を示している。
 外から枠づけされたものの中にのみ道徳の体現を見ようとする俗物は、おそらく自由な精神の中に危険な生き方を見ようとさえするであろう。そうするのは、その人の眼が特定の時代状況にとらわれているからである。その人がそのとらわれから脱することができたならば、自由な精神も俗物の場合と同じように、自分の国の定めた法律からはみ出ようとしていないことにすぐ気づくに違いない。自由な精神は法律に抵触することはないであろう。なぜなら国法というものはすべて自由な精神の直観から生じたものだからである。この点は一切の他の客観的な道徳的法則に対しても同様である。ある家の家訓も祖先がかって直観的に把握し、そして定めたものである。道徳の因襲的な法則もまた、はじめは特定の人びとによって定められた。国法もはじめは政治家の頭の中で生じた。これらの人びとは他の人間に対してそのような法律を定めたが、この期限を忘れている者だけが自由を失うのである。そしてそれを非人間的な命令や人間から独立した客観的な道徳的義務概念にしてしまい、さらに偽神秘的な内なる強制の声にしてしまう。けれどもその起源を見誤ることなく、人間の中に見出すことのできる人は、そのような法律を理念界のひとつの現れと考える。その人は自分の道徳的直観内容をもその同じ理念界から取り出してきたのである。これまで以上にすぐれたものをそこから取り出したと信じられたならば、これまでのものの代わりにそれを用いる。そしてそうすることが正しいと思えたとき、それを自分のものであるかのように、それに従って行動する。」

(p191~192)
 「人間は自分の外にある道徳的世界秩序を実現するために存在しているのではない。そのような主張をする人の人間学はあたかも牡牛に角があるのは突くことができるためであると信じる自然科学と同じ立場に立っているといえよう。幸いなことに自然科学者はこのような目的概念をすでに死んだものの仲間に加えている。しかし倫理学が同じところから脱け出すのはもっと困難らしい。角が突くために存在するのではなく、角によって突くのであるように、人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳行為が存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。」
 「個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。国家と社会とが再び個人生活に作用を及ぼす事情は角によって可能となった突く行為が、牡牛の角の発達をさらに促す結果となる事情に似ている。角は長く使用しなければ衰えてしまう。個人もまた、人間共同体の外で孤独な生活を営み続ければ、その個性を衰えさせてしまう。好ましい仕方で再び個人に作用し返すためにこそ、社会秩序が形成されるのでなければならない。」

 ルドルフ・シュタイナー著・高橋巌訳(ちくま学芸文庫)『自由の哲学』の「第二部 自由の現実」―「第九章 自由の理念」(p165~192)を読み、そのキーワード、キーセンテンスを私自身の直観で、書き出してきました。特にこの章の後半には、キーセンテンスが心に迫る大切な記述として感じました。言わば全ての文章がキーセンテンスとして心に入ってきました。皆さんに、この書籍を手に取り、熟読していただければ幸いです。
 シュタイナーは緻密なカントの文章を評価しつつ、カントの表象・概念の論述の不備を指摘している。この章を読みながらそのように思いました。シュタイナ-の文章の微妙な表現は一文一文全て大切に思えました。
 シュタイナーの最後の文章段落に含まれる下記の文章は、自由の理念を読み解くキーセンテンスとして特に私には印象的でした。
 
 「個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。…」

 今井重孝さんはその著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の二、「第九章 自由の理念」(p54~65)で、シュタイナーの「倫理的個体主義」をあげて、「この倫理的「個体主義こそ、シュタイナーがカント道徳哲学(「実践理性批判」)に対置したものです。」と述べています。
 今後も時間をかけて『自由の哲学』を読み進めていきます。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年10月5日(火)73回2021年10月05日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回11回目となります。

 今回から、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」に入ります。その最初章「第八章 人生の諸要因」(p157~164)を読ませていただきます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のp52~54を参考文献として併せて読ませていただきます。

 「第八章 人生の諸要因」は比較短い文章です。けれども、シュタイナーの基礎的な哲学用語が出てきます。そのことを押えながら、尚且つ、シュタイナーの文脈の微妙な表現を意識して読んでいこうと思っています。
 この第八章の書き出しは、次の文から始まります。
 「これまでの諸章で獲得できたものを、はじめにもう一度繰り返しておこう。世界は人間の前に多様な個別存在の総計となって現れる。人間もそのような個別存在の一つである。…」

 しばらく、キーワード、キーセンテンスを拾っていきます。
 「知覚内容」、「知覚世界」、「自己知覚」、「知覚内容の一般」、「知覚内容の総計」、「現れ方」、「内的意味」、「全体性の理念」、「関連し合う」、「獲得されたもの」、「理念的性格」、「主観」、「自我」、「客体の対比」、「このような何か」、「思考」、「理念的性格とは概念であり理念である」、「思考ははじめは自己知覚の中に現れる」、「主観的な現れ方」、「自己は思考の助けを借りて、自分を主観として表す」(p157~158)
「自分自身と思考との関係は、われわれの人格の人生課題なのである。この関係を通して、われわれは純粋に理念的存在となり、この関係を通して、自分を思考存在と感じる。」(p158)
 「思考によるそのような関係の確立は認識と呼ばれ、認識によって獲得されたわれわれの自己の状態は、知識と呼ばれる。」(p同)
 「われわれは知覚内容を理念的に、概念を通して自分自身に関係づけるだけではなく、すでに述べたように、感情を通してもそうするのである。したがって概念内容だけで人生を生きるのではない。素朴実在論者は感情を知識の純理念的な要素よりも、もっと現実的な人格の働きであると考えているが、人生をそのように考えることはまったく正しいと言える。」(p158~159)
 「一元論の場合、感情はまだ不完全な現実なのである。それはわれわれに外から与えられたままの存在形式しか持っておらず、もう一つの要因である概念や理念はまだその中に含まれていない。生活の中での感情は、いかなる場合にも、知覚と同じように、常に認識以前に現れる。われわれは自分をまず今在る者と感じる。そして成長するにつれて、漠然と感じられていた自己存在の中に自我の概念が現れてくる。この概念はわれわれにとっては後になって現れてくるが、そもそも感情とは分ち難く結びついている。自我の概念がそのような現れ方をするために、素朴な人は感情の中でこそ現存在が直接現れ、知識の中では間接的にしか現れない、と信じてしまう。したがって感情生活を育成することが何よりも重要だと考える。」(p159)
 「感じることは純粋に個的な行為である。それは下界をわれわれの主観に関係づけ、その関係を単なる主観的な体験の中で表現しようとする。」(p160)
 「人格には別の個的表現もある。人間は思考を通して普遍的な世界のいとなみに参与する。思考を通して純理念的(概念的)に知覚内容を自分に関係づけ、自分を知覚内容に関係づける。そして感情の中では、客体を主観に関係づけるが、しかし意思の場合には逆になる。意思もまた知覚内容なのであるが、それは自我を客体に個的に関係づけることの知覚内容である。意思における純理念的な要因でない部分は、何らかの外界の事物と同様に、単なる知覚対象である。」(p同)
 
 シュタイナーはさらに思考、感情、意思を前提に素朴実在論、感情神秘主義、意思哲学、形而上的実在論について展開します。認識論の基礎的で一般の人でも解かり易い文章になっていると思います。

 そしてこの八章には「●一九一八年の新版のための補遺」が加わっています。
 「思考の本質を観察を通して理解することの難しさは、次の点にある。」で始まる2ページほどの文章である。思考の重要性、感情、意思との関係が展開されている。(p163)
 「けれども本当に思考を生かそうとする人はどんな感情の働きも、どんな意思の自覚も、この思考活動の中にある内的な豊かさや、静かで同時に動的な経験に比較できるようなものを持ち得ないことに気づく。」(p同 中ほど)
 「本質に即した思考に向かう人は、思考そのものの中に感情と意思とを共に見出すのである。感情も意思も、現実の深みの中に存在している。思考から離れて、「単なる」感情と「単なる」意思に向かう人は、感情と意思の真の現実的性格を奪ってしまう。思考を直観的に体験しようとする人は、感情と意思の体験にも適応するであろう。」(p164 中ほど)
 「しかし感情神秘主義と意思形而上学とは、直観的な思考による存在の把握を体験することができない。この両者はあまりにも簡単に、自分が現実の中に立っていると思い込んでいる。そして直観的な思考が感情を持たず、現実から離れて、「抽象的な思索」の中で世界像の冷たい影絵を作っていると思い込んでいる。」(p同)

 R・シュタイナーは考え方は違うが敬愛するエドゥアルト・フォン・ハルトマンの哲学を意識してこの文章を展開していると考える。そして哲学の基本的用語や概念について読者に意識させながら、この『自由の哲学』を示していると思います。
 
 今井重孝先生は自著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)第二節「第二部 自由の現実」― 一、「第八章 人生の諸要因」の中で、『自由の哲学』を俯瞰しながら、書き出しに次のような文章を展開しています。

 「『自由の哲学』の第一部と第二部との関係についてもう一度説明しておきましょう。第一部は「自由の科学」(学問)でした。それに対して第二部が「自由の現実」となっています。第一部では学者・哲学者たちに向けて、従来の哲学者や学者の自由についての考え方に問題があり、それゆえに自由の哲学はまだ成立していないことが指摘されました。その原因の中核を占めているとみられるカント哲学の認識論を批判する筋道を、思考を媒介とした一元論という形で示し。新しい自由の哲学の基盤を整備する作業が行われたのでした。
 第二部では、第一部を受けて、現実世界、実践の世界、生活の世界における「自由の問題を取り上げています。現実の生活世界において自由がいかなる意味をもつかを知るためには、まずは、人生とは何かがわからなければならないでしょう。人間はすべて、現実世界のなかで己の唯一性あるかけがえのない人生を歩んでいきます。では、人間の人生の構成要素は何なのでしょうか。それは思考であり感情であり意思であるとシュタイナーはいうのです。」(p52~53)
 「…思考と感情と意思の関係、知覚と表象の関係、自我と思考・感情・意思の関係といった問題群に対して適切な回答を与えることができるためには、物質科学によって切り開かれた認識の地平のみでは不完全だったのです。それを補うためには、ゲーテ的な認識論による補完が不可欠でした。」(p54)

 そうして、今井先生は、次のように述べて、まとめています。
 「…感情哲学と意思哲学の欠陥が、思考の重要な役割に気づいていないところにあることも明瞭に見えてきます。第八章は、その点について論じられているのです。」(p同)

 R・シュタイナー著『自由の哲学』と今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』。この二書により、哲学という学問の基礎が学べます。
 どうかこの二書を手元に置き、共に、何度でも読みかえしていきましょう。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年9月17日(金)72回2021年09月17日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回10回目となります。

 今回は、『自由の哲学』のP123~130「第七章 認識に限界はあるのか」を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP50~52を参考文献としておさえておきます。
 「第七章 認識に限界はあるのか」は第一部「自由の科学」の最終章であり、まとめの章でもあります。
 シュタイナーはこの七章で、先ず、自身の立場でもある一元論について述べています。そして次に、その対極にある二元論について、誤った理解を指摘しています。131ページ後方より、
 「…世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる、と。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。この立場の対局に二つの世界の理論又は二元論が向かい立っている。二元論は人間の在り方が二つの隔てた統一的現実の両側面をそのまま認めるだけではなくそれらを互いに絶対的に異なる二つの世界と考える。そして一方の世界のための説明原理をもう一方の世界の中に求める。
 二元論はわれわれが認識と名づけるものを誤って理解している。全存在を二つの領域に分け、その各々がそれぞれ固有の法則を持つと考え、そしてその二つの領域を外から互いに対立させている。
 カントが学問に導入して以来、今日に到るまでそこから抜け出せずにいる知覚対象と物自体との分裂は、このような二元論に由来している。…」

 シュタイナーは、さらにデュ・ポア・レイモンの文章を引用して、二元論の不可能性、限界について指摘します。そして一元論の可能性を述べながら、認識行為、自我意識、認識の成立等について語ります。
そして、この話の流れの中で、この七章「認識に限界があるのか」の表題に対応する回答、「認識の限界について語ることはできない。」「認識の限界について語る必要はない。」と、二つの視点を記述しています。
 134ページ最後の段落から、下記を取り上げさせていただきます。
 「認識の限界について語ることはできない。そのことはわれわれが規定してきた認識の概念からおのずと明らかである。認識行為は一般的な世界事象ではなく、人間自身の内的要求に関わる作業である。事物は説明を要求しない。事物は存在し、そして思考によって見出されるような法則に従って互いに作用し合っている。事物はそのような法則によってひとつに結びついている。そのようなところにわれわれの自我意識が現れる。そしてわれわれが知覚内容と名づけたものだけをまず受け取る。しかし自我意識の内部の力は現実のもう一方の部分をも見つけ出す。世界の中で分離し難く結びついている二つの現実要素を、自我意識が自分のためにひとつに結びつけるとき、そのときはじめて認識衝動は満足する。自我は再び現実に辿りついたのである。
 認識を成り立たせる前提条件は、自我を通して、自我のために存在する。自我は自分自身に認識の問いを立てる。自我は自分の内部の完全に明晰で透明な思考要素の中から、このような問いを取り出してくる。解答できない問いが出された場合、問いの内容はすべての部分において明晰であり判明であるとはいえない。世界がわれわれに問いを立てるのではなく、われわれ自身が問いを立てるのだからである。
 どこか外に記されている問いに答えようとする場合、その問いの内容がどこから取り出されてきたのかを知ることがなければ、その問いにはまったく答えられないと考えられる。 
 われわれの認識にとって必要な問いは、場所、時間並びにわれわれの主観的な在り方に条件づけられた知覚領域と、宇宙の全体性に関わる概念領域との相互関係についての問いである。私の課題はこの二つのよく知られた領域を互いに融和させることである。そのような場合、認識の限界について語る必要はない。或る時代に或る事柄が説明できなかったとすれば。それは問題になる事物を知覚するのに必要な生活の舞台がまだできていなかったからである。しかし今日認識できなかったことも、明日には認識できるようになるかもしれない。認識者の周囲に設けられた壁は一時的なものにすぎず、知覚と思考が進むにつれていつかは克服されるものなのである。」
 
 そして、シュタイナーは二元論の犯した誤謬を語っています。136ページの5行目から下記に引用させていただきます。
 「二元論が犯した誤謬は、主観と客観の対立を設けて、この対立が本来知覚の領域内においてのみ意味を持つにも拘らず、この領域外の頭で案出した本質存在にそれを当てはめようとしたところにある。事物が知覚領域内で孤立して存在するとすれば、それは知覚者が思考をあきらめたからである。思考だけがそのような事物の孤立化を止揚して、その孤立が単なる主観に条件づけられたものであることを認識させる。二元論者はさまざまな規定を知覚内容の背後にひそむ本質存在にまで当てはめようとするのであるが、そのような規定は知覚内容にとってさえも何ら絶対的な意味を持つものではなく、もっぱら相対的な意味しか持たない。二元論者は知覚内容と概念という認識過程の二大要因を四つに分けてしまう。一、客体そのもの、二、主観が客体から取り出す知覚内容、三、主観、四、知覚内容を客体そのものに関係づける概念。この場合、主観と客体の関係は現実の関係である。主観は実際に力動的に客体の影響を受ける。この現実経過はわれわれによって意識されない。とはいえその経過は主観の中で、客体の作用に対する反作用を呼び起こす。この反作用の結果が知覚内容であると言えよう。この知覚内容が最初に意識される。客体は客観的な(主観から独立した)現実を担い、知覚内容は主観的な現実を担う。この主観的現実が主観を客体に関係づける仕方は理念的である。さて、このようにして二元論は認識の経過を二つの部分に分裂させている。一方の部分である「物自体」から知覚対象を生み出すときの経過を二元論は意識の外におき、もう一方の部分である知覚対象と概念との結びつきや概念と客体との関係を意識の内部に生じさせる。このような前提の下では、どんな概念を用いても、意識以前に存在しているものを主観的にしか表現できない、と二元論者が信じるのは当然である。主観の中の客観的、現実的な営み、つまり知覚内容を生じさせる営みや、さらには「物自体」の客観的な諸関係は、このような二元論者にとって直接認識することが不可能なものであり続ける。二元論者の意見によれば、人間は客観的、現実的なものを概念によってしか表現できない。諸事物を相互に結びつけ、その諸事物を「物自  体」であるわれわれの個別精神と客観的に結びつける統一の帯は、意識の彼方の実体そのものの中にあり、われわれの意識はその実体を同じように概念によってしか表現できないのである。
 二元論は、対象を概念的に関連づけることに留まらず、さらにそれを現実的に関連づけることまでもやろうとする。そうしないならば、全世界を抽象的な概念の図式にしてしまい、その結果世界を蒸発させてしまう、と思っている。換言すれば、二元論者は思考が見出す理念原理を実体のない、空気のようなものだと思っている。そして自分の立場を支えてくれるような現実原理を求め続ける。」

 二元論の矛盾を論述する経過の中で、シュタイナーは「素朴実在論」について、その矛盾のあり様を論述していく。(この文章を展開する私自身が素朴実在論者に落ちいっていたことを今更ながら打ち明ける。シュタイナーのこの文章を読み、あらためて自分自身の思考が不徹底であったことを、実感している。)
 138ページ2行目から引用させていただきます。
 「そこでわれわれはそのような現実原理に立ち入った検討を加えてみようと思う。素朴な人(素朴実在論者)は外的な経験対象を現実であると考える。そのような対象なら手で掴むことも、眼で見ることもできるという事情が、このような人にとっては現実であることの証拠なのである。「知覚できないものは存在しない」。この命題こそが素朴な人の第一原理である。けれどもこの原理はそれをひっくり返して表現することも許される。つまり、 「知覚できるものはすべて存在する」。この主張の最上の証明は、素朴な人の不死と精霊に対する信仰であろう。このような人は魂を感覚的に知覚できる精妙な物質であると考えている。そのような物質として魂は、特定の条件の下では、一般の人にとっても見ることのできるものになる(素朴な幽霊信仰)。
 そのような人にとって現実世界以外のもの、特に理念世界は非現実的であり、「単なる 観念」であるにすぎない。…」
 
 シュタイナーは、さらに、素朴実在論について語ります。そして、形而上的実在論(二元論)に辿りつきます。素朴実在論、形而上的実在論の矛盾を指摘します。そして一元論の論理的整合性を説明していきます。
 この個所を142ページ中ほどより下記に抜粋させていただきます。少し長い引用をさせていただきました。
 「内に矛盾を含んだこの世界観は、形而上的実在論に辿りつく。それは知覚可能な現実と並んでそれとの類比で考えられた知覚不可能な現実をも打ち建てる。それ故、形而上的実在論は必然的に二元論になる。
 形而上的実在論は、運動によって接近したり、諸対象を意識化したりすることによる、知覚し得る事物相互の関連づけを認める場合、そこにひとつの現実を措定している。しかし形而上的実在論が認めるその関連づけは、思考で表現され得るものであって、知覚され得るものではない。その理念的な関連は恣意的な仕方で知覚されているかのように扱われている。そのようにしてこの立場は、永遠の生成過程の中にあって現れては消えていく知覚対象と、知覚対象を生み出す永続的な働きである知覚し得ない諸力とから現実世界を合成する。
 形而上的実在論は素朴実在論と観念論との矛盾だらけな混合物である。この立場が仮定する諸力は知覚し得ぬ存在でありながら、知覚の諸性質を担わされている。この場合は、知覚を通して認識し得る世界領域の外に、知覚では役に立たず、思考によってしか把握できない、もう一つの領域を存在させようと決意した。けれどもこの立場は、思考が仲介する存在形式である概念(または理念)を知覚内容と同じ確かさを持った現実要素であると認めることができない。知覚できない知覚内容という矛盾を避けたいのなら、思考によって仲介される知覚内容相互の関係が概念と同じ存在形式を持っていることを承認せねばならない。形而上的実在論から間違った構成部分を取り去ってしまえば、世界を知覚内容とその概念的(理念的)関連との総体として示すことができる。こうして形而上的実在論が辿りつく世界観は、知覚内容を知覚し、知覚内容相互の関係を思考する、という原則を立てる。この世界観は知覚世界と概念世界以外の第三の世界領域を存在させることができない。いわゆる現実原則と観念原則という両原則を同時に働かせる第三の世界領域を存在させることができないのである。
 形而上的実在論は知覚対象とそれを知覚する主観との間の理念的関係以外に、知覚内容の「物自体」と知覚主観(いわゆる個体精神)の「物自体」との間にも現実的な関係が存在する、と主張するが、この主張は感覚世界の経過と共通したものでありながら、しかも知覚できないような存在経過がある、という誤った仮定の上に立っている。さらにまた私は自分の知覚世界とは意識的、理念的な関係を持っているが、現実世界そのものとは単なる力動的な関係しか持ち得ないという主張も、すでに指摘した誤謬を犯すことになる。力の関係は知覚世界(すなわち触覚領域)の中でのみ語り得るのであって、その外では語ることができない。
 われわれは形而上的実在論が最後に辿りつくこのような世界観を、その矛盾だらけな要素を排除した後でなら、一元論と名づける。なぜならこの世界観は一面的な実在論を観念論と結びつけて、高次の統一体にしているからである。
 素朴実在論にとっての現実世界は、知覚対象の総計である。形而上的実在論の場合、知覚内容以外に、知覚し得ない力にも現実性が与えられている。一元論はこのような知覚され得ぬ力の代わりに、思考によって獲得される理念的関連を措定する。そしてこの関連こそが自然法則に他ならない。自然法則とは知覚内容の相互関連についての概念による表現なのである。
 一元論は知覚内容と概念との他に、別の現実解明の原則を求めたりはしない。現実のどんな領域の中でも、そのような原則を求める必要のないことを一元論は理解している。この立場は主観の眼前に拡がる知覚世界の中に、半分の現実だけを見る。この半分の世界に観念世界が結びつくと、完全な現実が現れる。形而上的実在論者は一元論者に対して、次のような避難を加えることができよう。「あなたの身体組織にとっては、あなたの認識は 完全なものであるかも知れない。どの部分にも欠けたところがないかも知れない。けれどもあなたとは別な身体組織をもった別の知的存在の意識に世界がどのように映し出されるか、あなたにはわからない」。一元論者は次のように答えるであろう。「人間知性以外に別の知性があり、その知覚内容もわれわれの知覚内容とは別の姿をとっているとしても、私にとって意味があるのは、別の知的存在をも含めた知覚内容と概念を通して私のところにまでやってくるものだけだ。主観としての私は自分の知覚、つまり人間特有の知覚を通して客体に相対している」。事物の関連はまだ作られていない。しかし主観は思考を通して、この関連をあらためて作り上げる。それによって主観は自分を全体としての世界の中に組み込む。われわれの主観にとって、全体はわれわれの知覚内容と概念とに二分されている。そしてこの両者を結びつけることの中で、真の認識が生じる。どこかに別の知覚内容を持った(例えば人間よりも二倍の数の知覚器官をもった)生物がいたとしたら、この全体の関連がどこか別なところで切り離されているであろう。そしてそれを再構成する試みもまた、この生物に特有の在り方をしているに違いない。素朴実在論と形而上的実在論は、いずれの場合にも魂の内容が世界の単なる理念的な代表作用にすぎないと見做すので、認識の限界への問いを出してくるのである。つまりこのいずれの場合にも、主観の外に存在するものだけが絶対なのであり、独立しているのである。そして主観の内容はこの絶対存在の単なる映像にすぎないのである。完全な認識とは、多かれ少なかれ、この映像が絶対的な客体に似ているということに他ならない。感覚器官の数が人間よりも少ない生物はよりわずかに、それが人間よりも多い生物はより多く、世界内容を知覚する。したがって前者の生物は後者の生物よりも、よし不完全な認識能力しか持っていないことになる。
 一元論は別の考え方をする。知覚する存在の在り方次第で、世界の関連が主観と客体に分れて現れる。客体はこの特定の主観との関わりにおいては絶対的なものではなく、相対的なものであるにすぎない。したがって主客の対立に橋をかける行為は、まさに人間のまったく特殊な主題にふさわしい仕方でこそ可能になる。知覚行為において世界から切り離されている人間自我は、思考の考察活動においては再び自分を世界関連の中に組み込む。そしてそれによってこの分裂の結果生じた一切の疑問が消え去る。
 別種の存在形態をもつ生物は別種の認識を持つかも知れない。しかしわれわれの認識方式だけでも、われわれ自身が立てた問いに答えるのに十分である。
 形而上的実在論は次のように問わざるを得ない。知覚内容は何を通してわれわれに与えられるのか。主観は何によって刺激を受けるのか。
 一元論の場合、知覚内容は主観によって規定される。けれどもこの主観は同時に自分自身が規定したものを再び止揚する手段を、つまり思考の働きをもっている。
形而上的実在論は、別な困難な前にも立たされている。異なる人間個性の世界像が相互に類似していることの理由を説明しなければならないのである。一体どうして主観的に限定された知覚内容と概念とから成る私の世界像が同様に主観的に限定された知覚内容と概念とから成る別の人の世界像に一致するのか。どのようにして私の主観的な世界像から他人の主観的な世界像を忖度することができるのか。人間が相互に実際に理解し合っていることから、形而上的実在論者は人々の主観的な世界像の共通性が説明できると信じている。
そしてさらにそれらの世界像の共通性から、個人の知覚主観の根底に存する個別精神、又は主観の根底に存する「私それ自体」の普遍性を結論づけている。
 それ故この結論は、結果の総計からその基にある原因の性質を導き出している。われわれは数多くの例によって原因を導き出し、その原因が別の場合にどのような結果を生じさせるかを認識できると信じている。このような結論を帰納法による結論と呼ぶ。このような結論をもとに、さらに観察を続けていって、何か予期し得ぬものが生じたときには、その結論を変更せざるを得なくなる。この結論の性質は個々の例を観察する個人の観点に規定されているが、実生活の上ではそのような限定された認識だけでも十分に間に合う、と形而上的実在論は主張する。」

 形而上的実在論者エドゥアルト・フォン・ハルトマンをシュタイナーは尊敬する哲学者としての思念を抱いています。その一方でシュタイナーは、「帰納的自然科学的な方法」を取り入れて形而上的実在論を言わば完成させたと主張するハルトマンに対して柔らかく、科学的に批判しています。
 その個所(p147~)を下記に引用させていただきます。
 「帰納法は現代の形而上的実在論の方法論上の基礎になっている。かっては概念の中から概念とは言えないような何かが現れてくると信じた時代があった。つまりかっては形而上的実在論者が求めている形而上的な現実存在を概念だけから認識できると信じていたのである。このような哲学態度は今日ではすでに克服されたものとなっている。しかしその代わり今日の人は、十分に数多くの知覚事実があれば、そこからこの事実の根底に存する物自体の性質をも結論できることができると信じている。昔は概念から、今は知覚内容から同じ形而上的なものを取り出してこようというのである。かっての人は概念の透明な姿を眼前にするとき、そこから形而上的なものを確実にひき出すことができると信じていたのだが、知覚内容は同じような透明さでは存在していない。同じ種類の知覚内容でも、知覚内容は現れる度にその都度何か別なものを示している。これまでの知覚内容から結論づけたものも、その後に続く知覚内容によって少しずつ変更させられていく。したがってこのような仕方で獲得された形而上的な形姿は、相対的な正しさしか持ち得ない。それは未来の諸事例によって訂正されていかざるを得ない。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの形而上学はこのような方法論上の原則によって特徴づけられている。ハルトマンは最初の主著の扉に次のようなモットーを掲げた。――「帰納的自然科学的な方法による考察の諸成果」。
 …」

 そしてさらに、「●一九一八年の新版のための補遺」をこの第七章「認識に限界はあるのか」の最後に加えて、敬意を抱くハルトマンと『自由の哲学』の読者に対応しています。
この文章の最初の方で述べた言葉を繰り返しますが、「第七章 認識に限界はあるのか」は第一部「自由の科学」の最終章であり、まとめの章でもあります。
 「世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる、と。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。」(p131)

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』を常に手擦りとして、『自由の哲学』を読んできました。この「第七章 認識に限界はあるのか」について、今井さんは自著のP50~52に次のように書いています。一部を抜粋させていただきます。
 「認識には限界がある、というのがカント以来の認識論の常識でした。人間の感覚器官を通して捉えられるものが色だとして、赤の外には赤外線の波長があり、紫の外には紫外線の波長があるのに人間の目には見えません。すると、人間の目の方に限界があり、色の本質で波長は認識できていないということになります。このように、感覚器官を通した人間の認識には限界があるので、「物自体」と呼ばれる物の本質は認識できないと結論づけられやすいのです。
しかしシュタイナーは、それは誤りで、認識には限界がないと主張します。…
 人間、外部のものを知覚します。知覚するとその知覚対象を思考によって整序します。人間や動物が視界にいる場合は、その状況を思考によって判断します。知覚と思考が正しいかどうかは実際にその知覚と思考に従って行動してみれば結果がでます。つまり知覚と思考は行動によって修正されていき、認識の限界は存在しないのです。…」

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)に助けられながら、ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読んでいます。シュタイナーは近代哲学の祖と言われるカントよりも、同時代の先輩哲学者ハルトマンを重視し念頭に置き、『自由の哲学』を書いているのだと思いました。そのハルトマンの著書が日本語に翻訳されていないのは非常に残念です。
 先ずは、ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を購入して、くりかえし繰り返し、共に読み深めていただきたいと思っています。