『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年7月5日(月)71回2021年07月05日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回9回目となります。

 今回は、『自由の哲学』のP123~130「第六章 人間の個体性」を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP48~50を参考文献としておさえておきます。
今回の「第六章 人間の個体性」を理解しやすくする為に、キーワード、キーセンテンスに着目しながら見ていきたいと思います。

 「表象を解釈する」、「外なる事物」、「同じひとつの世界」、「主観としての私」、「知覚するのは世界の一断面」、「宇宙全体の出来事」、「知覚対象としての私」、「皮膚の中に潜んでいるものは全体としての宇宙の一部分」、「私の生体と外なる対象とを関連づける」、「封蝋に印象を刻印づける」、「私の精神に印象を刻印づける」、「十歩先の樹木についての知識」、「見当外れの問い」、「私の肉体の境界が絶対的な間じきり」、「事物から私の中へ情報が伝わってくる」、「私の皮膚の内部に働く力」、「外界に働く力」、「私もひとつの事物」、「知覚主体としての私」、「宇宙事象の一部分としての私」、「樹木の知覚内容と私の自我とは同じ全体の中に存在している。」、「宇宙のこの普遍的事象」、「樹木という知覚内容」、「私の自我という知覚内容」、「宇宙を認識する」、「宇宙を創造する」、「客観と主観(知覚内容と自我)」、「ひとつの行為の中で生じる」、「互いに相手を条件づけている」、「関連し合ったこの二つの本質存在の共通点」、「思考によるのでなければ見出すことができない。」、「思考だけが概念を通して、この両者を互いに関係づけている。」
 p123~124半ばまで上記キーセンテンスをひろってみた。「思考」という重要なキーワードに行き着いた。 
 次にシュタイナーは生理学的な視点から知覚と表象の関係について検討する。しかし、
 「…生理学上の事実は、知覚と表象との関係について何も明らかにしてくれないのである。われわれは別の仕方で正しい道を見出さなければならない。」(p125)とある。
 そして、p125 ~
 「ひとつの知覚内容が私の観察地平の上に立ち現れる瞬間に、思考もまた私の中で働き始める。私の思考組織に組み込まれている直観や概念がこの知覚内容と結びつく。この知覚内容が私の視界から消えてしまうと、後に何が残るのか。それは知覚行為が形成した知覚内容に関する私の直感である。後になってこの知覚内容との関係をどれほど生きいきと眼前に思い浮かべることができるかは、私の精神的、身体的な組織の機能如何にかかっている。表象とは特定の知覚内容に関わる直観に他ならない。それはかっての知覚内容と結びつき、そして常にこの知覚内容との関わりを保ち続けている一種の概念でもある。…
 つまり、表象とは固体化された概念なのである。」(~p127)
 127ページ~「…
 このように表象は知覚内容と概念の間に立っている。それは知覚内容を指示する特殊な概念なのである。
 そこから表象が作り出されるものの総体を経験と呼ぶことができる。多数の個体化された概念をもっている人は、豊かな経験の所有者であろう。…
 現実はわれわれの前に知覚内容と概念となって現れる。そしてこの現実の主観的な再現が表象なのである。
 われわれの人格がもっぱら認識的な態度に終始するとすれば、対象の総計は知覚内容と概念と表象とに尽きるであろう。
 けれどもわれわれは思考の助けを借りて知覚内容を概念と関係づけることだけでは満足せず、知覚内容をわれわれの特別な主観性である個的な自我にも結びつけるが、そこの個的特徴の表現が感情なのである。感情は快もしくは不快となって現れる。
 思考と感情は、われわれの本性の二重性に対応している。この二重性についてはすでに考察した。思考とはそれによってわれわれが宇宙の普遍的事象を共にするところの要素であり、感情とはそれによってわれわれが狭い自己存在の中に立ち返ることのできる要素である。
 思考はわれわれを世界に結びつける。感情はわれわれを自分自身の中に連れ戻し、はじめてわれわれを個体にする。…
自己認識と共に自己感情を、事物の知覚と共に快、不快を感じることによってこそ、われわれは個的存在として生きている。個的存在の意味は自分と周囲の世界との概念関係によって汲みつくすことはできない。存在自身が独自の価値を担っているからである。
 人は思考による世界考察よりも、感情生活の方が現実的な性格をより豊かに担っている、と思うかも知れない。それに対しては、感情生活はまさに私の個体にとってのみ、そのような豊かな意味を持っている、と答えることができる。私の感情生活が、世界全体にとっても価値を持ち得るのは、感情、つまり自分の自我を知覚するときの知覚内容が概念と結びつき、その廻り道を辿って宇宙に組み込まれるときだけである。
 われわれの人生は、普遍的な宇宙事象と自分の個的存在との間を絶えず行ったり来たりしている。思考の普遍的性質の方へ昇っていけばいくほど、そしてその結果個的な在り方がもっぱら概念の例証となり範例となってしまえばしまうほど、われわれは個人としての独自の在り方を失ってしまう。個的生活の深みへ降りていけばいくほど、そして感情を外界の経験に共鳴させればさせるほど、われわれは普遍的存在から切り離される。自分の感情を遠く理念の世界にまで高めていくことができる人こそ、真の個性をもった存在であると言えるであろう。頭の中に収められた最も普遍的な諸理念でさえもはっきりとその人との特別な関係を示しているような人もいるし、個人的性質の痕跡をまったく持たない概念だけを示している人もいる。後者は概念はまるで血や肉をもった人間のものとは思えないくらいである。
 表象活動は、概念の営みに個的な特徴を与える。どんな人も世界を観察する独自の立場を持っている。どんな人の知覚内容にもその人の概念が結びついている。それぞれ特別な仕方で普遍的な概念を思考するのであろう。この特別な在り方は世界における各人の立場から生じたものであり、それぞれの生活環境と結びついた知覚領域の所産なのである。
 この特定の在り方に身体組織に依存した別の在り方が相対している。われわれの身体組織は完全に個的な在り方をしている。われわれはひとつひとつの感情を、さまざまな強さの度合いをもって知覚内容に結びつける。そしてこのことがわれわれの独自な人格の特徴となっている。生活環境上のすべての特殊性を考慮に入れたとしても、このことがなお残余の部分として残される。
 思考内容をまったく欠いている感情のいとなみがあるとすれば、そのいとなみは、次第に世界との関連を失っていかざるをえないであろう。全体との関係を失わないでいる人の事物認識は、感情の育成、発達と手を取り合って進んでいくであろう。
 感情は、概念が具体的な生命を獲得するための最初の手段である。」(~130ページ)。

 シュタイナーはこの「第六章 人間の個体性」において、哲学者らの文章を引き合いに出すことなく、「思考」を人間の重要な存在価値として中心に置き、「私の思考組織」として、思考組織に組み込まれている直感、概念を位置付けていく。「知覚内容」、「知覚行為」を押え、「表象」を考える。そして「表象とは特定の知覚内容に関わる直観に他ならない。」さらに「表象は知覚内容と概念の間に立っている。それは知覚内容を指示する特殊な概念なのである。」。とわかり易く述べる。さらに、「表象が作り出されるものの総体を経験と呼ぶことができる。」と述べる。

 そして、いよいよ「感情」が登場する。
 「思考はわれわれを世界に結びつける。感情はわれわれを自分自身の中に連れ戻し、はじめてわれわれを個体にする。」
 「われわれの人生は、普遍的な宇宙事象と自分の個的存在との間を絶えず行ったり来たりしている。」
 人間内面の「思考」と「感情」は、普遍性と個別性として、引き合い、お互いを染め合いながら、人間個性主体のたゆまぬ進化・深化、試行錯誤を繰り返し、発展成長をつくり出していく。
 そしてそれは、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP48~50、その最後の文章に記載されている「人間の内部にある普遍的なもの、つまり精神=思考が、個別的なる知覚や感情を、普遍的なものへと高めることができるのです。ここに世界認識の秘密があるのです。」に繋がっていくと考えます。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年6月3日(木)70回2021年06月03日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回8回目となります。

 今回は、『自由の哲学』のP97~122「第五章 世界の認識」を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP47~48「五、「第五章 世界の認識」」を参考文献として読んでいきます。
 ルドルフ・シュタイナーの文章文体は翻訳書ですが複雑な展開をしていて、難解だと思います。それはシュタイナーの意識、思考の展開が微妙精妙で、それが複雑な言葉の様相を生み出しているのではないかと考えています。その中に光る言葉、輝く文章があり、心を揺す振ってきます。
 シュタイナーの著書は広範囲な分野にわたり、奥行が深い。シュタイナーの書籍を読む側の一人として、シュタイナーが氏名をあきらかにして、その思想を論評している場合、その著書の引用個所を挙げて批判・評価している場合がある。そのシュタイナーがあきらかにした人物の書籍を探しあてて、きちんと読み込んでおきたいと思っている。しかしそこまで手が回らず、読書課題にしている場合が多い。そのような状況を意識しながらシュタイナー理解を深めていることを書いておく。

 「第五章 世界の認識」」では、先ず素朴実在論をあげて論述をはじめている。「…つまり素朴実在論を首尾一貫させると、その結果、素朴実在論とは正反対のところに陥ってしまう。したがってこの立場は、世界観を構築する上では、不適当なものとして捨てられねばならない。…」と述べている。
 そして批判的観念論の立場のエドゥアルド・フォン・ハルトマンについて「…家を建てるとき、二階を建築している最中に、一階が崩れたら、二階も崩れ落ちる。素朴実在論と批判的観念論との関係は、ちょうど一階と二階との関係なのである。」と評する。さらに、批判的観念論者フィヒテは絶対的幻想主義、ハルトマンは超越論的実在論と名づけられようと述べ、「この二つの観点は、知覚内容を研究することによって、外界の中に足場を固めようとする点で素朴実在論と同じ立場にたっている。」
 そしてシュタイナーは次のように述べる。103p11行目から「世界は私の表象であると語るとき、私は思考のいとなみの成果を語っているのである。私の思考が世界を対象にできなければ、思考のこの成果は誤謬だったことになる。知覚内容とそれについての言表との間には、思考が介在している。」
 思考についてのシュタイナーの次の表現にも着目しておこうと思う。
 「思考はわれわれの特殊な個性を宇宙全体と関連づける。感覚と感情と(さらに知覚と)は、われわれを個別的な存在にする。思考するとき、われわれはすべてに通用する全一の存在となる。われわれの本性が二重であることの深い根拠は、まさにこの点にある。われわれは自分の中にそれ自身絶対的な力が生まれ出ようとしているのを見る。その力は普遍的である。しかしわれわれがその力と出会うのは、宇宙の中心からそれが流出するときではなく、周辺の一点においてである。宇宙の中心から流出するときのその力を知ることができたとすれば、われわれは、意識を持った瞬間に、全宇宙の謎を解くことができたであろう。けれどもわれわれは周辺の一点に立っている。そして自分の存在が一定の限界内にとらわれていることを知っている。だからこそわれわれは自分の外に在る領域を、宇宙の普遍存在からわれわれの中に突出してくる思考の助けをかりて、認識していかなければならない。われわれの内なる思考は、われわれの特殊存在を覆い、われわれを宇宙の普遍存在に結びつける。」(p109~110)
 110ページ後半からカントを信奉する批判的観念論者ショーペンハウアーについて論じている。ショーペンハウアーの意思論を盲目的な意思と評し、「これらはすべて、われわれの限定された観察領域内に存在しているものにすぎない。人間的に制約された人格をわれわれは自分に即して知覚し、力や素材をわれわれは外なる事物に即して知覚する。意思に関して言えば、意思とはわれわれの制約された人格の活動表現でしかない。ショーペンハウアーは、「抽象的な」思考を宇宙統一の担い手にすることを避けようとし、思考の代わりに、現実的なものとして直接与えられているような何かを求める。この哲学者は、世界を外界と見做す限り、決して世界に近づくことはできないと信じている。」と述べている。
 118ページには批判的観念論の盲点を指摘する次のような記述がある。「したがって表象とは、外的知覚の地平上に存在する客観的な知覚内容とは反対の、主観的な知覚内容に他ならない。この主観的な知覚内容と客観的な知覚内容との混同が観念論の「世界は私の表象である」というあの誤解へ導いたのである。」
さらに、表象という概念について論究しているので注視しておこう。
 118ページ後半の文章である。「そこでまず、表象という概念をもう少し詳しく規定することにしよう。これまで表象について述べてきたことは、表象の概念なのではなく、表象が知覚領域のどこに見出せるかというと、表象への道を示すだけだった。表象の厳密な概念規定は、表象と対象との関係を十分に解明できたとき、可能となるだろう。そしてそれはわれわれをひとつの境界を越えて彼方へ導く。そして人間の主観と世界に属する客観との関係が、もっぱら概念的な認識の分野から、具体的、個別的な生活の中に持ち込まれる。われわれは世界から何が受け取れるのか知るときにはじめて、それを大切に扱うこともできるようになる。自分を捧げるに足る対象を知るときにこそ、われわれは全力を尽くして働くことができるのである。」
 119ページ『●一九一八年の新版のための補遺』から。シュタイナーの次の文章に着目しておきます。
 「…思考は形成される一方で、自らを解消していく。そのような思考の在り方に対しては、単なる理論的な反論によって決着をつけることはできない。人は先ずその中で生きてみなければならない。そうすれば自分が陥った誤謬を洞察したり、そこから抜け出す道を見出したりできるであろう。」
 この「一九一八年の新版のための補遺」の最も主要な記述は、以下の文章にあると思います。この補遺の最後のシーンです。
 「—―筆者が非常に尊敬している人物(エドゥアルト・フォン・ハルトマンのこと—―訳者)から、本書に対する批判がなされた。そして著書の思考についての論述が思考の素朴実在論に留まっており、現実世界と表象世界とを同じものと見做している、と言われた。しかし著者は、本書の論述を通して「素朴実在論」がまさに思考に対しては妥当性を持っていること、その妥当性は思考のとらわれぬ現実の中から必然的に明らかにされること、そして他の場合には妥当し得ない素朴実在論が思考の真の本性を認識するときには必要とされることを証明できたと信じている。」とエドゥアルト・フォン・ハルトマンに反論しています。

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP47~48「五、「第五章 世界の認識」」を読み、「知覚対象は、客観的対象であり、表象は主観的対象です。」のシュタイナー理解への今井さんの文章を念頭におきながら、「第五章 世界の認識」を読み込んできました。このことを書いて今回のブログを閉じさせていただきます。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年4月19日(月)69回2021年04月19日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回7回目となります。

 『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第四章 知覚内容としての世界」(p073~096)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「四、「第四章 知覚内容としての世界」」(p44~47)を、前回同様、同時並行して読んでいます。

 「第四章 知覚内容としての世界」この章をどのように理解するか。この表題についてもどのようにイメージするか。よく読み込むことが必要だと思う。
 今井さんの次の文章とキーワードを念頭におき、この章を読んでいきたい。
 「…
 この限界は、「知覚対象」と「知覚像」を区別することにより乗り越えられます。「知覚対象物」と「知覚対象物の対応物としてのイメージ・概念」をはっきり区別し、多くの具体的な知覚対象物と比較することで、「知覚対象物の対応物としてのイメージ・概念」は正確さを増し、実際のものに近づき、真理に近づくことができるのです。つまり対象物とそのイメージの往還が個々の具体例との間で行われうることが、真実の認識へ至れる根拠なのです。」

 『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第四章 知覚内容としての世界」は、

 「思考から概念と理念が生じる。」という文章から出発している。そして読んでいくと、
 「…個々のライオンから作り出され個別概念は、包括概念としての「ライオン」によって互いに結び合っている。このような仕方で個別概念は統一的な概念組織を成し、その組織の中でそれぞれが特殊な位置を占めている。理念は質的には概念と区別されない。理念とはより内容豊かな、より飽和した、より包括的な概念であるにすぎない。」と、解かりやすい説明が述べられている。
 「ヘーゲルは概念を最初のもの、根源的なものとしている。」が、それに対してシ ュタイナーは「思考の本質を、そのまま概念に当てはめることはできない」とし、その相異は明らかにする。
 哲学者ハーバード・スペンサーの「ある秋の日」のことに触れながら、「しかしもっとよく観察すれば、この事柄はこの言葉はここに述べられている説明とはまったく違ったようにも表現できる。」とシュタイナーは述べる。そして、「観察は思考を求める。そして思考によってはじめて、或る体験を別の体験と結びつける途が見出せるのである。」と展開している。さらに「観察する地点を変えると、その知覚像も変化する。」
 次の、ジョージ・バークレーの考え方には、シュタイナーは同調的である。
 「彼は述べている。「いくつかの真理はあまりにも明らかなので、それを見るには眼を開けさえすればよい位である。そのような真理の一つは以下に示す重要な命題である。すなわち天井の全合唱、地上に生起するすべて、一言で言えば全宇宙という壮大な構造物のすべては、精神の外では決して存在し得ない。それらの事物の存在は知覚され、認識されることによって成り立っている。したがってそのすべては、私によって知覚されるのでもなく、また私や他の被造物の意識の中で存在しているのでもない限り、そもそもどこにも存在し得ないか、あるいは永遠なる神霊の意識の中にしか存在していない」。
 そして、バークレーのこの見方に対立するものとして、カント、オットー・リープマン、フォルケルト、J・ミュラー、ショーペンハウアーを挙げて、それぞれの思考の限界を示して、批判的観念論が素朴実在論克服の一面的な論理段階を指摘し、「知覚対象」と「知覚像」を区別するまでの思考過程に到っていないことを述べています。そして、次章「第五章 世界の認識」へその課題を繋げています。この次章は次回に掲載致しますのでお待ちください。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年3月13日(土)68回2021年03月13日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回6回目となります。

 今回は『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第三章 世界認識に仕える思考」(p049~072)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「三、「第三章 世界認識に仕える思考」」(p41~44)を同時並行して読んでいます。
 そして今回の読書を進めるなかで、私の中にある思考とは内なる自然であることを知りました。

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「三、「第三章 世界認識に仕える思考」」(p41~44)を読みます。
 その最初の分節で、「認識論における二元論の打破」、「自由を根拠づける」にも「思考」が鍵となることを「指摘したうえで」、「シュタイナーは…思考…性格づけを行う作業に入ります。」と今井さんは書き出しています。
 「出来事の相互の関係を把握するには、どうしても観察と思考を結びつけなければなりません。」と文章は展開され、ビリヤードの球を観察する事例をあげています。そして、「しかし、人間は、観察を思考と結びつけることによって、現象を理解しようとします。」とこの分節を閉じています。
 次に、「ここで大切なのは、観察は、一人ひとり意思や思考の働きとは別に、対象物によって拘束されるという次に、「ここで大切なのは、観察は、一人ひとり意思や思考の働きとは別に、対象物によって拘束されるという「観察の対象物となりうるのは、自分の外にある、目に見えるものばかりではありません。思考も自分が何をどのように考えたかを対象化して観察することができます。考えている瞬間に考えていることを対象化することはできませんが、過去に考えた内容については対象化して観察することができます。昨日はあんなふうに考えてみたのだけれど、間違っていたのだろうか、というように、過去の考えは観察の対象になります。
 自分の感情もどこからくるのか定かではありませんが、自分は今喜んでいるという事実を知ることはできますし、観察することもできます。こう考えると人間は、自分の外にある目に見える対象物も観察できるし、自分の内側にある思考や感情も観察できるということがわかります。この観察の二重性こそが、今までの認識論の限界を打ち破る鍵なのです。
 …
 人間は、外のものを、感覚によって知覚、観察し、その知覚と観察に自分の思考を付け加えることによって状況を理解します。その理解に即して行動し、対象物の反応を知覚、観察して、理解することにより、理解の誤りを修正することができるのです。…
 つまり、認識というものは、「思考」だけによって可能になるわけではなく、また「知覚」だけによっても可能になることはなく、対象物に規定された「知覚」と「観察」に、内側で展開される「思考」が付け加えられることにより可能になるのです。理由を知りたいという認識衝動が学問を生み出すわけですが、その認識は、「観察」と「思考」の協力関係によって、世界の把握を可能にしているのです。」

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)と今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)。この2つの書籍を通じて、ルドルフ・シュタイナーをより深く理解していく。理解し易さが出てきてくる。自分独時の考えが浮かんでくる。例えば、観察とは、対象をただ見ていて感じているのではなく、私の思考が主体的に動いているのだ。観察行為とは対象を思考しているのである。観察とは対象をよく見て考えて感じて、新たな認識を生み出しているのだ。そこには新たな形や線や色、音、言葉が生まれてくる。私はそう思った。

 そうして、R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)―「第一部 自由の科学」―「第三章 世界認識に仕える思考」(p049~072)に眼を入れていく。この章は今井重孝さんが言っていますが、観察と思考が深く掘り下げられて認識されています。
 この第三章においてシュタイナーは、ツイーエン著『生理的心理学教程』、カバーニ、レナートウス・カルテシウス(デカルト)、シエリング、パスカル、アルキメデス、エドゥアルト・フォン・ハルトマンのその考え方、書籍などを取り上げて、その可能性、限界点等を論証し、読者に示しています。そして自らの思想を示しています。

 「…
 観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点なのです。どんな常識的な判断も、どんな高度の科学研究も、われわれの精神のこの二つの柱に支えられている。…
 …
 時間的な経過からいえば、観察は思考に先立っている。なぜなら思考をもわれわれは観察を通して知るのだから。この章の冒頭で述べたこと、つまりどのようにして思考の働きが或る経過に際して呼び起こされ、思考が関与する以前の単なる対象の領域を超えていくかということも、本質的には観察を記述していたのである。われわれの体験領域の中に入ってくるものは。すべてがまず観察を通して認められる。感覚、知覚、直観、感情、意思行為、夢や空想、表象、概念や理念、幻想や幻覚はすべて、観察を通してわれわれに与える。
 ただ思考だけは、観察対象として、それ以外のすべてから本質的に区別される。私は机や樹木などの対象を、それらが私の体験領域に現れてくるや否や観察し始める。しかしこういう対象についての思考を私はそれと同時に観察していない。私は机を観察し、机んいついて思考する。しかし私はその同じ瞬間にその思考を観察していない。…
 …私が或る対象を観察して、「これはばらの花だ」と言うとき、私は自分自身についてまだ何も語っていない。けれども同じ対象について、「それは私に快の感情を与える」と言うならば、私はばらの花だけではなく、ばらの花との関係において、自分自身の性格をも特徴づけているのである。
 観察の対象としての思考と感情とを同じ次元で扱うことはできない。同じことはその他の精神活動についても言うことができる。思考以外の精神活動はすべて、外界の事物同様、観察の対象になる。しかし思考活動だけは、もっぱら観察する方の側に留まり、自分を観察の対象にはしない。…
 …私は現在の思考活動を決して観察することはできず、ただ自分の思考過程についての経験を後から思考対象にすることができることなのである。…
 …しかし私の思考だけは私自身がそれを生み出している。このことだけは確信できる。カルテシウスは出発点としてこの命題にこのこと以外の意味を与えることを是認しなかった。「私は考える」という言葉で、彼は宇宙内容の一つである私を、私の最も固有な活動としての思考活動において理解するということだけを主張した。この命題の後半部分である「それ故に私は存在する」が何を意味するのかについては、多くの議論が闘わされてきた。しかしこの部分はただ一つの条件の下においてのみ意味をもつことができる。或る事柄についての最も単純な言い方は、「それはある」、「それは存在する」である。…
 …思考を観察対象にする場合には、われわれ自身がまずその対象を作り上げる。その他の場合はすべての対象がわれわれの手から離れたところですでに存在している。
 …」

 このブログの著者の私は、私自身が理解し易いように『自由の哲学』のこの章から上記を抜粋させていただきました。皆さまぜひ各々、現著書を手に持ち、再度、目に入れていただきたい。この個所はとても重要であることは確かなことす。よろしくお願いいたします。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年2月24日(水)67回2021年02月24日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、その理解サポートとして今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回5回目となります。
 今回は『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第二章 学問への根本衝動」(p039~048)を読み進めます。
物事について思い考えることが思考だと思いますが、これは人間一人ひとり誰でも可能なことです。つまり思考は人間一人ひとり誰でも自由に可能なのです。他者に妨害されることがありません。妨害が有っても一時的なのです。政治権力でも外部のいかなる力でも個人の思考の中に立ち入ることはできません。個人の生命を抹殺しない限り、人間それぞれ思い考えています。すなわち思考しています。まさに思考とは、あらためて自由であのです。
 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)をここまで読んできて正に「思考とは自由である」ことを知り得ることができました。学んだのです。

 そして今回は、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「二、「第二章 学問への根本衝動」」(p38~41)を先に読みたいと思います。
シュタイナーの『自由の哲学』を理解するための問題点、課題、ヒントの糸口を今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)からいただければと思います。このページの一部を下記に抜粋させていただきました。ぜひ、併せて原書を手に取りお読みになって下さい。

 「…小さい子どもがアニミズムの世界に生きているように、かっての人類は自然に抱かれて生活していました。しかし、今では、自然と人間、客観と主観は分裂しています。この分裂に橋を架け再び統一を回復したいという願いが、認識要求の根源にあるとシュタイナーはいうのです。学問だけでなく、芸術も宗教も、いずれも再び、マクロコスモスとミクロコスモスの統一に橋を架けることを目指しているのだというのです。中世においては、神学が世界の頂点にあり、哲学も芸術も宗教によって統合されていました。しかし、21世紀の現在では、学問と宗教と芸術は別々の領域へと分裂し、再統合の手がかりすら得られないままに、地球が環境破壊により危機に瀕しています。
学問が統合に失敗していることは、デカルトが身心二元論を定式化して以来、一元論と二元論が対立していることにも現れています。…

 しかし、今から一〇〇年以上前にシュタイナーは、この隘路を打ち破る方向性を示していました。それは、人間のなかにある自然、内なる自然に着目すること、言い換えると「思考」に着目することによって可能となるのです。なぜ思考が内なる自然であるかといえば、自然のなかに読みとれる法則や論理は、自然を動かしている法則であるとともに、他方でまた、人間の内側で意識化された形で展開されるものでもあるからです。思考内容は、自然自身の内部にあるとともに、人間の内部にもあり、客観のなかにも主観のなかにもあるのです。つまり客観と主観に共通している部分が「思考」なのです。思考という共通部分から出発することにより、一元論的な説明が可能となり、同時に自由の根拠づけが可能となるのです。ここでも再び「思考」が分裂を再統合する鍵となるのです。」

 次にシュタイナーの『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第二章 学問への根本衝動」(p039~048)を読み進めます。一部を下記に抜粋させていただきました。こちらも、併せて、原書もお読み下さい。

 「…
 …われわれを自然という母体から引き離して、「自我」と成し、そしてそれを「世界」に向かい合わせるようにしたのは、われわれ自身なのである。ゲーテは、「自然」というエッセイの中で、勿論非学問的な外観を装ってはいるが、このことに古典的な表現を与えている。──「われわれは彼女(自然)の中に包まれて生きているが、彼女にとっては異邦人にすぎない。彼女は 絶え間なくわれわれと話し合っているのに、自分の秘密を漏らそうとはしない」。 けれどもその 裏側についてもゲーテは語っている。
 「すべての人間は彼女の中におり、彼女はすべての人間の 中にいる」。
 われわれが自然から疎外されているのは本当だが、同じようにわれわれが自然の中で、自然の一部を成している、と感じるのも本当である。われわれの中で生きているのは、自然そのものの 働きなのである。
 われわれは自然へ帰る道を再び見つけ出さなければならない。この道がどこにあるのかを、ひとつの単純な考え方が教えてくれる。確かにわれわれは自然から切り離されてしまった。しかし われわれはそこから何かを内なる自然として自分の本質の中に持ち込んでいるに違いない。この 内なる自然を見出さねばならない。そうできれば、関連が再び見出されるであろう。このことを 二元論はやろうとしていない。人間の内面を自然とは異なる精神存在と見做し、この存在と自然 とをつなぎ合わせようとするが、そのような連結部分が見出せないのは当然である。われわれが 自然をまず自分の内部に認めるのでなければ、それを外に見出すこともできないであろう。われわれ自身の内部にあって、自然と同質の働きをするものが導き手となってくれる筈である。こう 述べることで、道の行く手をあらかじめ指し示したことになる。精神と自然との相互作用についてあれこれ考えようとは思わない。しかし自分自身の存在の深みへ降りていこうと思う。そして かつて人間精神が自然から逃れ出た時に、そこから持ち出してきた要素を、 今この深みの中に見つけ出そうと思う。
 われわれの本質を探求することこそが謎を解く鍵を提供してくれるに違いない。ここにいる われわれは、もはや単なる「自我」ではない、「自我」以上の何かなのだ、と言えるような地点にまで到達できなければならない。
 ここまで読み進んできた読者が、こういう言い方は「現代の学問の立場」にふさわしくない、 と考えたとしても、私は決してひるんだりはしない。私はただ次のように答えるだけである。これまで私は決して学問的な成果を示すつもりではなかった、ただどんな人も意識の中で体験していることを、記述しようとしたにすぎない、と。 これまでの叙述の中に何度か意識と世界とを融和させようとする試みがすでに紛れ込んでいたとしても、それはただ本来の問題点を明らか にしようとするためでしかなかった。だから私は個々の表現、「自我」、「精神」、「世界」、「自然」 等々を、心理学や哲学の概念として厳密な仕方で使用することにあまり価値をおかなかった。日常的な意識は概念相互を学問が行うような厳密な仕方で区別しようとはしない。そしてこれまでは日常的な問題を取り上げようとしたのである。 学問がこれまでどのような仕方で意識を解釈 してきたかではなく、意識がその都度どのような現れ方をするかが私にとって問題だったので ある」。

 今の感想は、R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を同時並行して読み進めることにより、『自由の哲学』とR・シュタイナーをより深く理解し易くなっていると実感しています。
 そして今回、私の中にある思考とは内なる自然であることを知りました。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年2月12日(金)66回2021年02月12日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、その理解サポートとして今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。4回目です。
 今回は『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第一章 人間の意識的行為」(p025~038)を読み進めます。
 この章は、
 「人間の思考と行為は自由であるのか、それとも必然という鉄の掟に縛られているのか。」、
 この有名な書き出しでスタートしています。
 そして、この問いをベースに、ダ-ヴィト・フリードリヒ・シュトラウス、ハーバード・スペンサー、スピノザ、エドゥアルト・フォン・ハルトマン、ロバート・ハーマーリング、パウル・レー等の著作文章を例示し、その限界を指摘し、それを乗り越えていく思考方向を提示しています。彼等への見解について、ここでは取り上げませんが、この部分の原書に眼をいれていただくとよいと思います。
 そうして、次のように展開しています。(p036~038中から引用させていただきます。)

 「…
 どんな行為も、その行為者がなぜそうするのかを自覚していなければ、自由な行為にはなり得ない。それはまったく自明なことである。それでは一体、理由がよく分かっている行為と分っていない行為との間にはどんな違いがあるのか。このことを知ろうと思うなら、思考の根源と意味について、あらためて問わなければならない。なぜならわれわれの魂の働きである思考活動を認識することなしには、何かについて知るということ、それ故行為を自覚するということの意味を理解するのは不可能だからである。思考が一般に何を意味するのかを認識するとき、人間の行動にとって思考がどんな役割を演じるのかも明らかになるであろう。「動物にも備わっている魂を精神に作り変えるのは思考の働きである」とヘーゲルも述べているが、この言葉は正しい。その意味で、思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えているのである。…
 …
 …愛、同情、愛国心などは、冷たい理解力の範囲内には収まりきれないような行動の動機である。心情こそがそのような行動を惹き起こすのだ、と言われている。確かにそう言える。しかし心情が行動の動機を直接作り出すのではない。それは行動の動機をふまえ、行動の動機を自分の領域内に取り込んでいる。私の意識の中に同情に値する人物の表象が現れたときに、私の心の中には同情が現れる。心情へ到る道は頭を通っているのである。愛もまた例外ではない。愛が単なる性欲の表れでないとすれば、われわれの愛は愛する存在についての表象に基づいている。そして、その表象が理想主義的であればある程、愛はわれわれの心情を充たしてくれる。ここでもまた、思考内容こそが感情の父なのである。愛は愛の対象の弱点を見えなくする、と人は言うかも知れない。しかしこの命題は逆転させることもできる。すなわち愛は愛の対象の長所に対して目を開かせる。無数の人たちが何も感じることなく、そのような長所の傍らを素通りしていく。その中のひとりがその長所に眼をとめる。そしてまさにそれ故にこそ、愛が魂の中で目覚める。一体そのような場合、その人は何を行ったのだろうか。多くの人たちが持たなかった表象を、その人だけが持ったのである。他の人たちには表象が欠けていたので、彼らは愛を持たないのである。
 だから問題を、われわれの望む仕方で扱おう思う。人間の行動の本質を思考の根源から問い直すことの必要性がますます明らかにされねばならない。だからまず、この問いに向かおうと思う。」

 そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「第二章『自由の哲学』について」眼を入れました。
 「はじめに」(p31~36)は、シュタイナー哲学全般について語っています。そして、「第一節「第一部 自由の科学」の内容」(p36~37)は自由の科学の主旨を示してくれました。ここではその主旨を書き込みませんので、この書籍を是非読んでいただきたいと思います。
 次に「一、「第一章 人間の意識的行為」」(p37~38)からは、R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の展開に沿い、その各論の主旨説明をして、難解な『自由の哲学』を一般人にも分かり易く示してくれます。
 そして、
 「…
 デカルトは「我思考す、ゆえに我あり」と述べましたが、まさに思考こそが、現在の人類の特徴なのです。「自由」の問題は、人間の特徴である「思考」の本性を理解した時に明らかになるのです。」
と結び、「第二章 学問への根本衝動」へと繋げています。

 R・シュタイナー著『自由の哲学』は少しずつ読み進めながら、調べたりし、理解を推し進める方法がよい。そう思っています。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年2月2日(火)65回2021年02月02日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、あわせて今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回で3回目になります。

 そして今回は今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「第一章シュタイナー哲学の到達点」(p13~28)を読み進めます。
 この第一章は3つに分けて展開されています。
 ・「はじめに」
 ・「第一節『ゲーテの世界観』の到達点」
 ・「第二節『真理と学問』の到達点」

 先ず、「はじめに」について見ていきたいと思います。この節は「哲学とは、なんでしょうか」で始まります。
「…シュタイナーの『自由の哲学』も、まさに、今の時代をどう生きたらよいのかという問題を扱ったものです。
 シュタイナーの『自伝』によりますと、ウイーン工科大学入学前の七年間の実科学校(実業系中等学校)時代の十四、五歳のころ、カントの『純粋理性批判』(篠田英雄訳、一九六一年<岩波書店>など)を二〇回以上読んだり、上級三学年でヘルバルトの「哲学入門」を読んだりしており(『シュタイナー自伝 上』西川隆範訳、二〇〇八年<アルテ>三二頁、三七頁)、すでに哲学書を個人的に読む機会をもっていました。実科学校卒業からウイーン工科大学入学までの数か月間には、フィヒテやカントを読み、シェリング、ヘーゲルと格闘していました(同書、五一~五三頁)。…若きシュタイナーは、このドイツ観念論哲学を批判的に超克する必要を感じていたのでした。」
 今井重孝さんのこの文章から、若きシュタイナーの真理を求める哲学への熱い心が伝わってきます。

 次の、「第一節『ゲーテの世界観』の到達点」、「第二節『真理と学問』の到達点」を見ていきました。そして思いました。
この「第一章シュタイナー哲学の到達点」を理解していくことは、『自由の哲学』を読み込まないと到達出来ないことを知りました。そしてそれは、ゲーテの自然科学論集、R・シュタイナー著『ゲーテ的世界観の認識論要綱』(浅田豊訳、一九九一年<筑摩書房>)、R・シュタイナー著『ゲーテの世界観』(溝井高志訳、一九九五年<晃洋書房>)、それらの著作の内容理解。そして、カントやヘーゲルの理解、ドイツ観念論哲学の理解等々がある程度必要であることを痛感しました。
 そして、この今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「第一章シュタイナー哲学の到達点」(p13~28)をよりよく理解するための基礎的認識力は私に課せられた今後の課題だと思っています。

 次回以降、R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の読書。その理解のサポートとして今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』第二章『自由の哲学』についてあわせて読んでいきたいと思います。その都度、課題となるテーマを確認出来ればよいと考えています。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2020年1月12日(火)64回2021年01月12日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み始めていることを前回お伝えしています。併せて今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考にしなが読み進めていることもお伝えしています。 
 前回は『自由の哲学』「一九十八年の新版のためのまえがき」を読みました。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「はじめに」を読み、この「希望の哲学」への理解の道筋が見えてきました。
 今回は『自由の哲学』「初版の第一章 あらゆる知識の目標」(p015~021)について考えていきたいと思います。そのR・シュタイナーの言葉、キーセンテンスを見つめてみます。
 
「・・・
 このような時代には真理もまた人間存在の深みの中だけから取り出されることを望んでいる。よく知られているように、シラーは二つの道について語っている。

 わたしたちふたりは真理を求める。
 あなたは外なる人生の中で、わたしは内なる心の中で。
 そして銘々がそれを見出す。
 眼が健全であれば、その眼は外で造物主に出会う。
 心が健全ならば、その心は内部に宇宙を映し出す。

 この二つの道のうち、現代は特に第二の道を役立たせようとしている。外からやってくる真理は常に不確かさの刻印をあらわしている。われわれひとりひとりの内部に真理として現れるものだけを、われわれは信じようとしている。
 われわれ自身の個的な能力の発展の中で、真理だけがわれわれに確かさをもたらしてくれる。懐疑に陥っている人の能力は麻痺している。謎としか思われぬ外なる世界の中では、創造行為の目標を見出すことができない。
 われわれはもはや信じようとは思わない。知りたいと思う。信仰は、われわれ自身によっては完全に洞察できないような真理を、承認するように求める。けれども見通すことのできぬものは個体の要求に逆らう。個的なものはすべて自分の最も深い内なるものに従って生きようと望む。ただ知ることだけがわれわれを満足させてくれる。それはどんな外的な規範にも服従せず、人格のうちなる生活から生み出されてくる。
 ・・・
 人生には数多くの領域がある。その一つ一つの領域のために特殊科学が発達を遂げている。しかし人生そのものはひとつの統一体であり、個別領域の中で深化していこうと努めれば努める程学問は生きた世界全体の認識から離れていく。再び人間に充実した人生を返してくれる諸要素を個別科学の中に求めようとする知の有り方が必要である。専門的な研究者は認識内容を通して、世界の諸活動を意識化しようと望んでいる。本書は、学問それ自身が有機的に生きいきとならなければならない、という哲学的な目標を掲げる。個別科学は本書が求める学問の前段階に立っている。芸術にも同じような状態が見られる。作曲家は作曲法の基礎の上に立って仕事をする。作曲法というのは、知識のひとつの総体であり、それを所有することが作曲上の必要な条件となっている。作曲するとき、作曲法の諸規則は人生という現実に仕えている。それと同じ意味で哲学もひとつの芸術である。真の哲学者はすべて概念芸術家であった。彼等にとって人間の諸理念は芸術素材になり、学問の方法は芸術技法になった。このことを通して、抽象的な思考は具体的で個的な生命を獲得する。理念は生命力となる。その時、われわれは事物についての知識を持つだけでなく、その知識を自立した、生きた有機体にまで作り上げたのである。われわれの活動的な現実意識はもっぱら受動的に真理を受け容れる以上の課題を背負っている。
 芸術としての哲学が人間の自由とどのような関係を持つのか、人間の自由とは何か、われわれは自由を持っているのか、あるいは自由になることができるのか、これらが本書の主要問題である。それ以外のすべての学問上の問題は、人間にとって最も身近なこれらの問題の解明に役立つ限りにおいてのみ取り上げられる。ひとつの「自由の哲学」が以下の紙面の中で描かれ筈である。
 すべての学問は、もしそれが人間の存在価値を高めるために努力するのでなければ、無用な好奇心の満足に役立つものでしかないであろう。学問が本当の価値を持つのは、その成果が人間存在にとって意味あるものとなったときである。魂の個々の能力を高めることではなく、われわれの中にまどろんでいるすべての能力を発展させることが個体の究極目的なのである。知ることは人間本性全体のあらゆる面での発展に寄与するときにのみ、価値を持つ。
 ・・・。」

 この「初版の第一章 あらゆる知識の目標」(p015~021)から、上記の文章を抜粋させていただいた。
「真の哲学者はすべて概念芸術家であった。」
「魂の個々の能力を高めることではなく、われわれの中にまどろんでいるすべての能力を発展させることが個体の究極目的なのである。」
引用中の上記のR・シュタイナーの翻訳文章に私の心が歓喜するのを覚える。しかし、ここに引用していない文章にも心がときめいている。是非皆様このR・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を手元においてお読みになっていただきたい。
 そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「おわりに」(p124~126)において、『自由の哲学』「初版の第一章 あらゆる知識の目標」(p015~021)について触れています。特に、『自由の哲学』から引用した今井さんの下記の文章に希望ある哲学が伝わってきます。

 「・・・
 「・・・ひとりひとりが手近な経験から、直接的な体験から出発して、そこから宇宙全体を認識するところまで上っていくこと」(『自由の哲学』十七頁)が大切であり、自分なりの方法で確かな知識を獲得する必要があるのです。「すべての学問は、もしそれが人格の存在価値を高めるために努力するのでなければ、無用な好奇心の満足に役立つものでしかない」(同書、二十頁)のです。
 哲学は、ギリシャのソクラテスにみられるように、もともと、人はいかに生きるべきかという問いに応えようとするものでした。本書がそうした思索の契機となり、直接『自由の哲学』を紐解く機縁としていただけることを心から願っています。
 ・・・」

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)及び、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み、そこから引用させていただきました。この書籍二冊を手元に置き、ぜひ、事あるごとに再三開き、目を入れて、皆さまと共に、理解をさらに深めて行きたいと思っています。今後もよろしくお願いいたします。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2020年12月15日(火)63回2020年12月15日

 R・シュタイナーをさらに深く理解していく上で、読み進めていくことが必要な著書『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み始めています。
 今まで完読への試行を何度か行いましたが、難解で、未だ達成をしておりません。今回の読書は今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考にしながら読解の成功を確認していきたいと思っています。 
 この『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の目次は以下のように構成されています。

一九十八年の新版のためのまえがき

初版の第一章 あらゆる知識の目標

第一部 自由の科学
 第一章 人間の意識的行為
 第二章 学問への根本衝動
 第三章 世界認識に伝える思考
 第四章 知覚内容としての世界
 第五章 世界の認識
 第六章 人間の個体性
 第七章 認識に限界はあるのか

第二部 自由の現実
 第八章 人生の諸要因
 第九章 自由の理念
 第一〇章 自由の哲学と一元論
 第一一章 世界目的と生活目的 ― 人間の使命
 第一二章 道徳的想像力 ― ダーウィン主義と道徳
 第一三章 人生の価値 ― 楽観主義と悲観主義
 第一四章 個と類

第三部 究極の問いかけ
 第十五章 一元論の帰結

付録
訳者あとがき
文庫版のための訳者あとがき

目次は以上です。ページをめくると、下記タイトルがあります。

「自由の哲学―或る近代世界観の根本思想 自然科学の方法による魂の観察成果」

 そして、「一九十八年の自由新版のためのまえがき」から、この書籍が始まります。
 「人間の魂は二つの根本問題を抱えている。これから本書が扱うすべては、この二つの問いとの関連で論じられることになる。」
 この書『自由の哲学』は上記の文章から書きだされていますが、続いて、以下のように展開されていきます。(ページ009~013)
 「問題の一つは、・・・人間の本性を考察する場合、・・・有効な考察方式が一体存在するのか、・・・。」
 「・・・もう一つは・・・意思する存在である人間は自分を自由だと見做すことができるのか。・・・意思には自由があるのか。それとも意思には必然しかないのか。・・・」
 「・・・本書は、人間の本性を考える上で、第二の問いにも答えてくれるような、ひとつの観点が存在することを証明しようとする試みでもある。更にまた、この観点に立って意思の自由を完全に是認しうるためには、まずはじめに、意思が自由に生きられる魂の領域を見つけ出さねばならないことをも示唆しようと試みられている。・・・」
 「・・・すべての認識の根底にあるあの二つの根本問題に偏見を持たずに取り組みさえすれば、人間が本当に霊界の中に生きていると悟ることができるようになるからである。本書が試みているのは、霊的経験を持つ以前にも霊界の認識が可能である、と証明することなのである。そしてそのことの正当性を示すのに、その後私が提示した霊的経験を顧慮する必要はまったくない。本書の論述の仕方そのものに関わっていくことができさえすれば、ここに述べられている事柄は受け容れられる筈である。・・・」
 「・・・「自由の哲学」の基本的な観点から見て、最近の哲学の諸方向について何か述べる必要があるとすれば、それは私の『哲学の謎』第二巻の中に見出せるであろう。
 一九一八年四月 ルドルフ・シュタイナー」

 難解ではあるが、希望のあるシュタイナーの思想の書籍『自由の哲学』の読書。その理解を確かなものにしていく為に指針となる良き案内書を発見しました。
それが、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)です。
 この今井さんの『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「はじめに」はこの「希望の哲学」への理解の道筋が示されています。
以下に抜粋させていただきました。(ページ7~11)

 「本書は、現代社会のあり方に疑問を感じる人に読んでもらえたら、との願いをこめて執筆しました。八方ふさがりのように感じられる現在の社会において、希望の見える方向を指し示すことのできるのがルドルフ・シュタイナーの思想であり、『自由の哲学』(高橋巌訳、二〇〇二年〈筑摩書房〉)であると筆者は考えているからです。・・・
 ・・・
 シュタイナー学校は現在世界で一〇〇〇校を超え、だいぶ知られてきていますが、その背後にあるシュタイナーの思想や哲学については、まだまだ理解されていないのが現状です。その理由の一つにシュタイナー思想・哲学の根幹に位置づく『自由の哲学』の難解さがあげられます。しかし、『自由の哲学』を理解せずしてシュタイナー教育は理解できないだけでなく、『自由の哲学』こそ、生きるための哲学、人間が生きる指針としての重要な思想であると筆者は考えるのです。
・・・
  『自由の哲学』の難解さの原因はどこに潜んでいるのでしょうか。単なる翻訳の問題ではないことは確かです。『自由の哲学』は、哲学の専門用語はなるべく使用しないで、通常の理性の持ち主が論述を追っていけば誰でも理解できるように書かれています。にもかかわらず、いや、であるからこそ難しいともいえるように感じられます。
 ・・・
 『自由の哲学』全体を貫く主旋律を理解するためには、シュタイナーがなぜ、また何のために『自由の哲学』を書こうとしたのか理解する必要があります。
 シュタイナーが『自由の哲学』を著した当時は、カントへ帰れという主張が強い時期でもあり、カント哲学が哲学界の主流でした。カントは何をしたかというと、自然科学の発展を目にし、自然科学の認識論を新しく打ち立てようと試みたのでした。自然科学は基本的にモノについての理論なので、因果関係によって支配されています。しかし、人間の行為は因果関係のみでは決まらず、人間には自由が与えられています。しかし人間も肉体というモノからできているとすれば、自然科学で通用する因果関係が人間にも当てはまるはずで、そうだとすると、人間には自由がないということになります。道徳的な行為も非道徳的な行為も因果関係の結果であって、本人の自由の行使の結果ではないということになってしまいます。
 この矛盾をカントは『実践理性批判』(波多野精一ほか訳、一九七九年<岩波書店>)によって解こうとしたのですが、シュタイナーはその回答を不完全であると判断したのでした。カント哲学の不完全さは、自由と因果関係との関係について正しい関連を見出せなかったところにあるというわけなのです。「自由」を論じるためにはモノの法則とは区別された人間の法則を明らかにすることが必要になりますが、それを行おうとしたのが、『自由の哲学』なのです。
 ・・・
 現代社会は、新自由主義と新保守主義の流れのなかで、希望が見える未来が描きにくくなっています。ところが、シュタイナーの思想をよくよく自分のものとして消化していくと、現代社会のどこに問題があり、どちらの方向へ向かっていったらよいのか、今何をしたらよいのかといった問題について考える有力な手掛かりが得られるのです。それに気づいて以来、筆者はシュタイナーの哲学を「希望の哲学」と呼ぶことにしています。
教育問題は、生きる希望と結びついたときはじめて健全性を取り戻せるのではないでしょうか。そのためのキーワードが自由であり、自由の哲学であり、自由への教育なのです。ですから、現在の教育に問題を感じている方々、現在の社会をなんとかしないといけないのではと感じている方々は、ぜひ、『自由の哲学』を紐解いていただきたいと思います。そのための導入の役割を果たせれば、筆者の思いは達せられたことになります。
 シュタイナーの言う自由は、みなさんが今考えている自由とは異なっています。シュタイナーの言う「自由」とは、与えられるものではなく一人ひとりの人間が自らを成長させることによって獲得してゆくものなのです。
 ・・・。」

 上記、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「はじめに」の要所を抜粋させていただきました。
 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めるうえで、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)をあわせて読むことおすすめします。
 ぜひ皆さま、この二つの書籍を手元に置きながら、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』を深く理解し、その言葉の奥の思想を見極めてまいりましょう。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2020年12月15日(火)63回2020年12月15日

 R・シュタイナーをさらに深く理解していく上で、読み進めていくことが必要な著書『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み始めています。
 今まで完読への試行を何度か行いましたが、難解で、未だ達成をしておりません。今回の読書は今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を参考にしながら読解の成功を確認していきたいと思っています。 
 この『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の目次は以下のように構成されています。

一九十八年の新版のためのまえがき

初版の第一章 あらゆる知識の目標

第一部 自由の科学
 第一章 人間の意識的行為
 第二章 学問への根本衝動
 第三章 世界認識に伝える思考
 第四章 知覚内容としての世界
 第五章 世界の認識
 第六章 人間の個体性
 第七章 認識に限界はあるのか

第二部 自由の現実
 第八章 人生の諸要因
 第九章 自由の理念
 第一〇章 自由の哲学と一元論
 第一一章 世界目的と生活目的 ― 人間の使命
 第一二章 道徳的想像力 ― ダーウィン主義と道徳
 第一三章 人生の価値 ― 楽観主義と悲観主義
 第一四章 個と類

第三部 究極の問いかけ
 第十五章 一元論の帰結

付録
訳者あとがき
文庫版のための訳者あとがき

目次は以上です。ページをめくると、下記タイトルがあります。

「自由の哲学―或る近代世界観の根本思想 自然科学の方法による魂の観察成果」

 そして、「一九十八年の自由新版のためのまえがき」から、この書籍が始まります。
 「人間の魂は二つの根本問題を抱えている。これから本書が扱うすべては、この二つの問いとの関連で論じられることになる。」
 この書『自由の哲学』は上記の文章から書きだされていますが、続いて、以下のように展開されていきます。(ページ009~013)
 「問題の一つは、・・・人間の本性を考察する場合、・・・有効な考察方式が一体存在するのか、・・・。」
 「・・・もう一つは・・・意思する存在である人間は自分を自由だと見做すことができるのか。・・・意思には自由があるのか。それとも意思には必然しかないのか。・・・」
 「・・・本書は、人間の本性を考える上で、第二の問いにも答えてくれるような、ひとつの観点が存在することを証明しようとする試みでもある。更にまた、この観点に立って意思の自由を完全に是認しうるためには、まずはじめに、意思が自由に生きられる魂の領域を見つけ出さねばならないことをも示唆しようと試みられている。・・・」
 「・・・すべての認識の根底にあるあの二つの根本問題に偏見を持たずに取り組みさえすれば、人間が本当に霊界の中に生きていると悟ることができるようになるからである。本書が試みているのは、霊的経験を持つ以前にも霊界の認識が可能である、と証明することなのである。そしてそのことの正当性を示すのに、その後私が提示した霊的経験を顧慮する必要はまったくない。本書の論述の仕方そのものに関わっていくことができさえすれば、ここに述べられている事柄は受け容れられる筈である。・・・」
 「・・・「自由の哲学」の基本的な観点から見て、最近の哲学の諸方向について何か述べる必要があるとすれば、それは私の『哲学の謎』第二巻の中に見出せるであろう。
 一九一八年四月 ルドルフ・シュタイナー」

 難解ではあるが、希望のあるシュタイナーの思想の書籍『自由の哲学』の読書。その理解を確かなものにしていく為に指針となる良き案内書を発見しました。
それが、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)です。
 この今井さんの『シュタイナー「自由の哲学」入門』の「はじめに」はこの「希望の哲学」への理解の道筋が示されています。
以下に抜粋させていただきました。(ページ7~11)

 「本書は、現代社会のあり方に疑問を感じる人に読んでもらえたら、との願いをこめて執筆しました。八方ふさがりのように感じられる現在の社会において、希望の見える方向を指し示すことのできるのがルドルフ・シュタイナーの思想であり、『自由の哲学』(高橋巌訳、二〇〇二年〈筑摩書房〉)であると筆者は考えているからです。・・・
 ・・・
 シュタイナー学校は現在世界で一〇〇〇校を超え、だいぶ知られてきていますが、その背後にあるシュタイナーの思想や哲学については、まだまだ理解されていないのが現状です。その理由の一つにシュタイナー思想・哲学の根幹に位置づく『自由の哲学』の難解さがあげられます。しかし、『自由の哲学』を理解せずしてシュタイナー教育は理解できないだけでなく、『自由の哲学』こそ、生きるための哲学、人間が生きる指針としての重要な思想であると筆者は考えるのです。
・・・
  『自由の哲学』の難解さの原因はどこに潜んでいるのでしょうか。単なる翻訳の問題ではないことは確かです。『自由の哲学』は、哲学の専門用語はなるべく使用しないで、通常の理性の持ち主が論述を追っていけば誰でも理解できるように書かれています。にもかかわらず、いや、であるからこそ難しいともいえるように感じられます。
 ・・・
 『自由の哲学』全体を貫く主旋律を理解するためには、シュタイナーがなぜ、また何のために『自由の哲学』を書こうとしたのか理解する必要があります。
 シュタイナーが『自由の哲学』を著した当時は、カントへ帰れという主張が強い時期でもあり、カント哲学が哲学界の主流でした。カントは何をしたかというと、自然科学の発展を目にし、自然科学の認識論を新しく打ち立てようと試みたのでした。自然科学は基本的にモノについての理論なので、因果関係によって支配されています。しかし、人間の行為は因果関係のみでは決まらず、人間には自由が与えられています。しかし人間も肉体というモノからできているとすれば、自然科学で通用する因果関係が人間にも当てはまるはずで、そうだとすると、人間には自由がないということになります。道徳的な行為も非道徳的な行為も因果関係の結果であって、本人の自由の行使の結果ではないということになってしまいます。
 この矛盾をカントは『実践理性批判』(波多野精一ほか訳、一九七九年<岩波書店>)によって解こうとしたのですが、シュタイナーはその回答を不完全であると判断したのでした。カント哲学の不完全さは、自由と因果関係との関係について正しい関連を見出せなかったところにあるというわけなのです。「自由」を論じるためにはモノの法則とは区別された人間の法則を明らかにすることが必要になりますが、それを行おうとしたのが、『自由の哲学』なのです。
 ・・・
 現代社会は、新自由主義と新保守主義の流れのなかで、希望が見える未来が描きにくくなっています。ところが、シュタイナーの思想をよくよく自分のものとして消化していくと、現代社会のどこに問題があり、どちらの方向へ向かっていったらよいのか、今何をしたらよいのかといった問題について考える有力な手掛かりが得られるのです。それに気づいて以来、筆者はシュタイナーの哲学を「希望の哲学」と呼ぶことにしています。
教育問題は、生きる希望と結びついたときはじめて健全性を取り戻せるのではないでしょうか。そのためのキーワードが自由であり、自由の哲学であり、自由への教育なのです。ですから、現在の教育に問題を感じている方々、現在の社会をなんとかしないといけないのではと感じている方々は、ぜひ、『自由の哲学』を紐解いていただきたいと思います。そのための導入の役割を果たせれば、筆者の思いは達せられたことになります。
 シュタイナーの言う自由は、みなさんが今考えている自由とは異なっています。シュタイナーの言う「自由」とは、与えられるものではなく一人ひとりの人間が自らを成長させることによって獲得してゆくものなのです。
 ・・・。」

 上記、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「はじめに」の要所を抜粋させていただきました。
 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読み進めるうえで、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)をあわせて読むことおすすめします。
 ぜひ皆さま、この二つの書籍を手元に置きながら、ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』を深く理解し、その言葉の奥の思想を見極めてまいりましょう。