『ルドルフ・シュタイナー希望のある読書』2023年7月3日(月)86回2023年07月03日

 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の7回目の読書です。
 今回は「四 体・魂・霊」(p42~70)を読みます。28ページに及ぶ長い文章となります。
 遅読の私には時間がかかりました。どのページも重要に思えました。
 そのような中で今回の読書は68~70ページを引用させていただきます。

 「魂の中で「私」は輝き、霊からの介入を受け、それによって霊人の担い手となる。人間はこうして「三つの世界」(物質界、魂界、霊界)に関与する。人間は肉体、エーテル体、魂体を通して、物質界に根を下ろし、霊我、生命霊、霊人を通して、霊界で花を開く。しかし一方に根を下ろし、他方で花を開くものの樹幹は魂そのものである。
 人間のこの区分とまったく一致した、別のもっと単純化された区分も考えられる。人間の「私」は、意識魂において輝くにしても、その輝きは魂の存在全体を貫いている。魂の存在の諸部分は、体の部分のようには明確に区分されていない。それらは互に浸透し合っている。悟性魂と意識魂とを自我の二つの外皮として自我に組み入れ、自我そのものをそ の中核と見るなら、人間を肉体、生命体、アストラル体、自我に区分することができる。アストラル体とは、魂体と感覚魂とを一緒にした名称である。アストラル体という表現は、以前の文献の中にも出ているが、ここでは人間本性の中で、感覚的には知覚できないものに対して、自由に適用されている。感覚魂は、或る点では自我の力に充たされているにも かかわらず、魂体と密接な係わりをもっているので、この両者をひとつにして、アストラル体という単一の名称を与えたのである。また自我が自分を霊我で充たすとき、この霊我 は、魂の力で変化させられたアストラル体であるかのように現れる。アストラル体の中には、まず人間の衝動、欲望、情欲が感情内容として働いている。そこにはまた、感覚的知  覚も働いている。感覚的知覚は、外界から人間に与えられた部分としての魂体を通して生 じる。衝動、欲望、情欲等は、まだ霊我に従う態度をとっていない内部の力に貫かれた感  覚魂の中で生じる。「私」が自分を霊我で充たし、そして魂がアストラル体をこの霊我の力で充たすとき、衝動、欲望、情欲は、自我の霊から受けとったものによって、くまなく照らし出される。自我は、霊界へのこの関与の故に、衝動、欲望等の支配者となるが、この支配の度合に応じて、霊我がアストラル体の中に現れる。そしてアストラル体そのものは、このことを通して変化し、二つの部分からなる存在となる。つまり変化していない部分と、変化した部分とからなる存在となって現れる。だから人間の中に顕現する霊我は変化したアストラル体であるとも言える。自我の中に生命霊を受けとる人間にも、同様のことが生じる。その場合には生命体が変化する。生命体は生命霊によって浸透される。生命霊は生命体の変化の仕方の中に現れる。だから生命霊は変化した生命体だ、と言うことも できる。自我が自分の中に霊人を受けとるとき、それによって肉体を霊人で充たす強い力を獲得する。もちろんこのようにして変化した肉体部分は、肉眼で見ることができない。
霊人となった肉体部分は、まさに霊化されているのだから。感覚的知覚にとっては、感覚的存在だけがある。この感覚的存在が霊化した場合、それは霊的認識能力によって知覚されねばならない。霊的なものに浸透された肉体もまた、外的感覚が知覚するときには、感覚的存在としてしか現れない。
 以上に述べたすべてのことから、次のように人間を区別することができる。

一 肉体
二 生命体
三 アストラル体
四 魂の核としての自我(私)
五 変化したアストラル体としての霊我
六 変化した生命体としての生命霊
七 変化した肉体としての霊人

 シュタイナーが考える人間の七つの区別について、これから、実感し、立証していきたいと私は考える。
 R・シュタイナー著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)から上記引用させていただきました。ありがとうございます。