『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年6月3日(木)70回2021年06月03日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回8回目となります。

 今回は、『自由の哲学』のP97~122「第五章 世界の認識」を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP47~48「五、「第五章 世界の認識」」を参考文献として読んでいきます。
 ルドルフ・シュタイナーの文章文体は翻訳書ですが複雑な展開をしていて、難解だと思います。それはシュタイナーの意識、思考の展開が微妙精妙で、それが複雑な言葉の様相を生み出しているのではないかと考えています。その中に光る言葉、輝く文章があり、心を揺す振ってきます。
 シュタイナーの著書は広範囲な分野にわたり、奥行が深い。シュタイナーの書籍を読む側の一人として、シュタイナーが氏名をあきらかにして、その思想を論評している場合、その著書の引用個所を挙げて批判・評価している場合がある。そのシュタイナーがあきらかにした人物の書籍を探しあてて、きちんと読み込んでおきたいと思っている。しかしそこまで手が回らず、読書課題にしている場合が多い。そのような状況を意識しながらシュタイナー理解を深めていることを書いておく。

 「第五章 世界の認識」」では、先ず素朴実在論をあげて論述をはじめている。「…つまり素朴実在論を首尾一貫させると、その結果、素朴実在論とは正反対のところに陥ってしまう。したがってこの立場は、世界観を構築する上では、不適当なものとして捨てられねばならない。…」と述べている。
 そして批判的観念論の立場のエドゥアルド・フォン・ハルトマンについて「…家を建てるとき、二階を建築している最中に、一階が崩れたら、二階も崩れ落ちる。素朴実在論と批判的観念論との関係は、ちょうど一階と二階との関係なのである。」と評する。さらに、批判的観念論者フィヒテは絶対的幻想主義、ハルトマンは超越論的実在論と名づけられようと述べ、「この二つの観点は、知覚内容を研究することによって、外界の中に足場を固めようとする点で素朴実在論と同じ立場にたっている。」
 そしてシュタイナーは次のように述べる。103p11行目から「世界は私の表象であると語るとき、私は思考のいとなみの成果を語っているのである。私の思考が世界を対象にできなければ、思考のこの成果は誤謬だったことになる。知覚内容とそれについての言表との間には、思考が介在している。」
 思考についてのシュタイナーの次の表現にも着目しておこうと思う。
 「思考はわれわれの特殊な個性を宇宙全体と関連づける。感覚と感情と(さらに知覚と)は、われわれを個別的な存在にする。思考するとき、われわれはすべてに通用する全一の存在となる。われわれの本性が二重であることの深い根拠は、まさにこの点にある。われわれは自分の中にそれ自身絶対的な力が生まれ出ようとしているのを見る。その力は普遍的である。しかしわれわれがその力と出会うのは、宇宙の中心からそれが流出するときではなく、周辺の一点においてである。宇宙の中心から流出するときのその力を知ることができたとすれば、われわれは、意識を持った瞬間に、全宇宙の謎を解くことができたであろう。けれどもわれわれは周辺の一点に立っている。そして自分の存在が一定の限界内にとらわれていることを知っている。だからこそわれわれは自分の外に在る領域を、宇宙の普遍存在からわれわれの中に突出してくる思考の助けをかりて、認識していかなければならない。われわれの内なる思考は、われわれの特殊存在を覆い、われわれを宇宙の普遍存在に結びつける。」(p109~110)
 110ページ後半からカントを信奉する批判的観念論者ショーペンハウアーについて論じている。ショーペンハウアーの意思論を盲目的な意思と評し、「これらはすべて、われわれの限定された観察領域内に存在しているものにすぎない。人間的に制約された人格をわれわれは自分に即して知覚し、力や素材をわれわれは外なる事物に即して知覚する。意思に関して言えば、意思とはわれわれの制約された人格の活動表現でしかない。ショーペンハウアーは、「抽象的な」思考を宇宙統一の担い手にすることを避けようとし、思考の代わりに、現実的なものとして直接与えられているような何かを求める。この哲学者は、世界を外界と見做す限り、決して世界に近づくことはできないと信じている。」と述べている。
 118ページには批判的観念論の盲点を指摘する次のような記述がある。「したがって表象とは、外的知覚の地平上に存在する客観的な知覚内容とは反対の、主観的な知覚内容に他ならない。この主観的な知覚内容と客観的な知覚内容との混同が観念論の「世界は私の表象である」というあの誤解へ導いたのである。」
さらに、表象という概念について論究しているので注視しておこう。
 118ページ後半の文章である。「そこでまず、表象という概念をもう少し詳しく規定することにしよう。これまで表象について述べてきたことは、表象の概念なのではなく、表象が知覚領域のどこに見出せるかというと、表象への道を示すだけだった。表象の厳密な概念規定は、表象と対象との関係を十分に解明できたとき、可能となるだろう。そしてそれはわれわれをひとつの境界を越えて彼方へ導く。そして人間の主観と世界に属する客観との関係が、もっぱら概念的な認識の分野から、具体的、個別的な生活の中に持ち込まれる。われわれは世界から何が受け取れるのか知るときにはじめて、それを大切に扱うこともできるようになる。自分を捧げるに足る対象を知るときにこそ、われわれは全力を尽くして働くことができるのである。」
 119ページ『●一九一八年の新版のための補遺』から。シュタイナーの次の文章に着目しておきます。
 「…思考は形成される一方で、自らを解消していく。そのような思考の在り方に対しては、単なる理論的な反論によって決着をつけることはできない。人は先ずその中で生きてみなければならない。そうすれば自分が陥った誤謬を洞察したり、そこから抜け出す道を見出したりできるであろう。」
 この「一九一八年の新版のための補遺」の最も主要な記述は、以下の文章にあると思います。この補遺の最後のシーンです。
 「—―筆者が非常に尊敬している人物(エドゥアルト・フォン・ハルトマンのこと—―訳者)から、本書に対する批判がなされた。そして著書の思考についての論述が思考の素朴実在論に留まっており、現実世界と表象世界とを同じものと見做している、と言われた。しかし著者は、本書の論述を通して「素朴実在論」がまさに思考に対しては妥当性を持っていること、その妥当性は思考のとらわれぬ現実の中から必然的に明らかにされること、そして他の場合には妥当し得ない素朴実在論が思考の真の本性を認識するときには必要とされることを証明できたと信じている。」とエドゥアルト・フォン・ハルトマンに反論しています。

 今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP47~48「五、「第五章 世界の認識」」を読み、「知覚対象は、客観的対象であり、表象は主観的対象です。」のシュタイナー理解への今井さんの文章を念頭におきながら、「第五章 世界の認識」を読み込んできました。このことを書いて今回のブログを閉じさせていただきます。

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