『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年4月19日(月)69回2021年04月19日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回7回目となります。

 『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第四章 知覚内容としての世界」(p073~096)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)の「四、「第四章 知覚内容としての世界」」(p44~47)を、前回同様、同時並行して読んでいます。

 「第四章 知覚内容としての世界」この章をどのように理解するか。この表題についてもどのようにイメージするか。よく読み込むことが必要だと思う。
 今井さんの次の文章とキーワードを念頭におき、この章を読んでいきたい。
 「…
 この限界は、「知覚対象」と「知覚像」を区別することにより乗り越えられます。「知覚対象物」と「知覚対象物の対応物としてのイメージ・概念」をはっきり区別し、多くの具体的な知覚対象物と比較することで、「知覚対象物の対応物としてのイメージ・概念」は正確さを増し、実際のものに近づき、真理に近づくことができるのです。つまり対象物とそのイメージの往還が個々の具体例との間で行われうることが、真実の認識へ至れる根拠なのです。」

 『自由の哲学』―「第一部 自由の科学」―「第四章 知覚内容としての世界」は、

 「思考から概念と理念が生じる。」という文章から出発している。そして読んでいくと、
 「…個々のライオンから作り出され個別概念は、包括概念としての「ライオン」によって互いに結び合っている。このような仕方で個別概念は統一的な概念組織を成し、その組織の中でそれぞれが特殊な位置を占めている。理念は質的には概念と区別されない。理念とはより内容豊かな、より飽和した、より包括的な概念であるにすぎない。」と、解かりやすい説明が述べられている。
 「ヘーゲルは概念を最初のもの、根源的なものとしている。」が、それに対してシ ュタイナーは「思考の本質を、そのまま概念に当てはめることはできない」とし、その相異は明らかにする。
 哲学者ハーバード・スペンサーの「ある秋の日」のことに触れながら、「しかしもっとよく観察すれば、この事柄はこの言葉はここに述べられている説明とはまったく違ったようにも表現できる。」とシュタイナーは述べる。そして、「観察は思考を求める。そして思考によってはじめて、或る体験を別の体験と結びつける途が見出せるのである。」と展開している。さらに「観察する地点を変えると、その知覚像も変化する。」
 次の、ジョージ・バークレーの考え方には、シュタイナーは同調的である。
 「彼は述べている。「いくつかの真理はあまりにも明らかなので、それを見るには眼を開けさえすればよい位である。そのような真理の一つは以下に示す重要な命題である。すなわち天井の全合唱、地上に生起するすべて、一言で言えば全宇宙という壮大な構造物のすべては、精神の外では決して存在し得ない。それらの事物の存在は知覚され、認識されることによって成り立っている。したがってそのすべては、私によって知覚されるのでもなく、また私や他の被造物の意識の中で存在しているのでもない限り、そもそもどこにも存在し得ないか、あるいは永遠なる神霊の意識の中にしか存在していない」。
 そして、バークレーのこの見方に対立するものとして、カント、オットー・リープマン、フォルケルト、J・ミュラー、ショーペンハウアーを挙げて、それぞれの思考の限界を示して、批判的観念論が素朴実在論克服の一面的な論理段階を指摘し、「知覚対象」と「知覚像」を区別するまでの思考過程に到っていないことを述べています。そして、次章「第五章 世界の認識」へその課題を繋げています。この次章は次回に掲載致しますのでお待ちください。

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