『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2022年3月10日(木)74回2022年03月10日

 R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を章単位で読み進めています。今回12回目は、『自由の哲学』「第二部 自由の現実」―「第九章 自由の理念」(p165~192)を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の二、「第九章 自由の理念」(p54~65)を参考文献として併せて読みます。
 今井先生はこの「第九章 自由の理念」を、
 「『自由の哲学』全体のなかで、もっとも重要な箇所といえるでしょう。この箇所で、カントの『実践理性批判』とは異なる新しい道徳の考え方が提議されているのです。」と書いています。
 この今井先生の言葉を念頭に置き、シュタイナーの「自由の理念」の九章を、読み進めて行きます。

 「第九章 自由の理念」は文庫紙面27ページを使っています。先ず、シュタイナーの表現、言葉の理解を深め、シュタイナー文章の展開していく内容を把握していきたいと思います。
 この「第九章 自由の理念」書き出しから、キーワード、キーセンテンスを見ていきます。

(p165~)
 「概念」「知覚内容」「概念組織全体」「思考」「知覚行為の後」「不可分の関係」「人間と世界との関係の認識」「とらわれぬ観察によって解明できること」「観察の意味」「自己完結的な本質存在である思考」「思考の本質の解明」

 (p166~167)
 「思考を観察する人」「独立した精神的な本質存在」「精神の本質を直接表している形態」「自己自身に基づいて働く思考」
 「思考そのものを考察するときには、概念と知覚内容とが、いつものように別々に現れることなく、ひとつに結びついている。」「思考の働きを洞察できる人は、知覚内容の中には現実の一部分しか存在せず、別の現実部分はこの知覚内容を思考することによって体験されるものであり、それによってはじめて現実が完全な姿をとって現れる、ということを知っている。」「意識の中に現れる思考内容」「自己に基づく精神的本質性」「直観とは純粋に精神的な内容を純粋に精神的な仕方で意識的に体験することである。」

(p167)
 「直観を通してのみ思考の本質を把握することができる。」
 「直観的思考の真実」「人間の心身組織の意味」「人間の思考は通常の経験の中では、常にこの身心組織の下で、この組織を通して、現れる。」「思考の本質的な働きは二重の仕方で現れる。第一に、思考は人体組織を、その固有の活動へ押し戻す。第二に、その代わりに、自分自身をそこに据える。人体組織の働きを退けるのは、思考が意識の表面に現れるようにするためなのである。」

(p168)
 「「自我」は思考の内部に見出すことができるが、「自我意識」は思考活動の痕跡が上述した意味で一般意識の中に刻印づけられることによって生じる。(つまり自我意識は人体組織を通じて生じる。とはいえ、一度生じた自我意識は人体組織に依存し続けることなく、思考そのものに取り入れられ、そして人間の精神的本性の一部となる。)」

(p169)
 「「自我意識」は人体組織の上につくられる。意思行為はこの組織から現れてくる。」「思考と自我意識と意思行為との関連」
 「個々の意思行為は常に動機と衝動という二つの要因をもっている。」「動機は概念や表象による要因」「衝動は人体組織に直接制約された意思要因」「概念要因としての動機は意思のその時々の規定根拠」「衝動は個体の持続的な規定根拠」「普遍概念や個別概念(表象)が意思の動機になるのは、それが人間に働きかけて、特定の行動をするように促すときである。」「意思行為は概念や表象の結果だけでなく、個人の在り方の結果でもある。そのような個人の在り方を、われわれはエドゥアルト・フォン・ハルトマンに従って、性格学的素質と呼ぶことにしたい。」「概念や表象が性格学的素質に対して行う働きかけは、ひとりひとりの人生に特定の道徳的」倫理的な刻印を与えている。」
 「性格学的素質は、われわれの主観の多かれ少なかれ持続的な生活内容によって形成される。言い換えれば、われわれの表象内容と感情内容とによって形成される。」

(p170~171)
 「私の性格学的素質はまったく特別な仕方で私の感情生活に規定されている。私が特定の表象や概念に喜びを感じるか、それとも嫌悪を感じるかによって、それが私に行為の動機になったりならなかったりするであろう。」「今ある表象や概念は動機になることによって、今の私の意思の目標、目的を規定する。そしてこの目標に私の活動を向けるのは私の性格学的素質である。」
 「二つの事柄を区別」「一、特定の表象や概念を動機にすることのできる主観的な素質、二、私の性格学的素質に働きかけて意思を生じさせることのできる表象や概念である。前者は道徳の衝動を、後者は道徳の目標を表している。」

(p171~172)
 「道徳の衝動を見出すことができるためには、個人の生活がどのような要素から成り立っているのか知らねばならない。」
 「個人の生活の第一段階は知覚である。しかも感覚による知覚である。」「知覚が感情や概念によって媒介されることなく、直接意思に転化される場合がある。」「衝動そのもの」「衝動生活の特徴は、個別知覚が意思に転化される際の直接性にある。」「…この意思決定は、高次の感覚の知覚内容にも適用されうる。」「…すぐに行動にうつるような場合が日常の人間関係の中でも生じる。」「生き様または人間味」
 「人間生活の第二の領域は感情である。特定の感情は、外界の知覚内容と結びついて行為の原動力になることができる。」「羞恥心、誇り、名誉心、遠慮、後悔、同情、復讐、報恩、敬虔、忠誠、愛情、義務感等がある。」

(p172)
 「人生の第三段階は思考と表象である。表象も概念も考慮することだけで行動の動機となることができる。」。「…そのような表象が行為の決定に際して手本として意識化されるが、それもまた性格学的素質の一部分となる。」。「…われわれはこのような意思の衝動を実際経験と名づけることができる。」
 「個人生活の第四の最高段階は、特定の知覚内容を顧慮することのない概念的思考である。」

(p173)
 「われわれは概念内容を純粋直観を通して理念界から取り出してくる。」「知覚内容を指示する概念(つまり表象)」「概念的思考の廻り道」「純粋直観の影響」「純粋思考が行動の原動力」「哲学上この純粋思考の能力は通常理性と呼ばれているので、この段階に現れる道徳衝動を実践理性と呼ぶのが正しいであろう。」「クライエンビュール(『カントの倫理的自由』)は今のべた原動力を実践的アプリオリと述べている。」「直観から生じてくる行動への衝動」
 「このような衝動は、…性格学的素質の領域に入れられない…。」「なぜなら、ここで原動力となって働くのは、…私の直観の理念内容であり、したがって普遍的な内容となっている…。」「この内容の正しさを行動の基礎もしくは出発点として認めるいなや、私は意思の領域に立ち入る。」

(p174)
 「その時々の行動への衝動が、概念の形式をとるか表象の形式をとるかして、性格学的素質に働きかけるとき、はじめて本当の意思の行為が生じる。そのような衝動がこのとき意思の動機となる。」
 「道徳の動機は、表象と概念である。感情の中にも道徳の動機…ただ表象された快の感情だけがそうなり得る。」「なぜなら感情そのものは行為の瞬間はまだ存在しておらず、むしろ行為を通じて生み出されるものだからである。」
 「自分または他人の満足感の表象を意思の動機と見做すことは正しい。行動を通じて最大限の快の感情を生じさせる原理、個人の幸福を可能にする原理は利己主義である。」

(p175~176)
 「純概念的な行為内容も動機として顧慮されねばならない。この内容は、…行為を体系づけられた道徳原則の基礎の上におこうとする。」「道徳原則は、…抽象的な概念形式のままに道徳生活を導くことができる。その場合…服従を求める道徳命令に従う。それは家長、国家、社会道徳、教権、神の啓示等として認められる道徳上の権威からの命令である。…われわれが服すべき声をわれわれは自分自身の内部に聴く。この声の表現が良心なのである。」
 「…その行為の根拠を洞察しようと努力することは、道徳上の一大進歩を意味する。その進歩は権威による道徳から認識による行動への進歩である。」。「この段階に立つ人は、道徳生活の要求を意識化して、認識することから個々の行動を決定しようとする。」。「そのような道徳生活の要求とは、一、人類全体の最大限の幸福をもっぱらこの幸福そのもののために求める、二、人類の道徳的進化もしくは文化の進歩をますます完全なものにしようとする、三、まったく直観的に把握された個人の道徳目標を実現しようとする――以上の三点である。」

(p176)
 「人類全体の最大限の幸福は…その立場に応じて…人類全体の幸福の促進のために働くように求めている。」
「文化の進歩は…ひとつの道徳的必然を見ることも可能である。…特殊な道徳原則となる。」
 「全体の幸福という原則も文化の進歩という原則も、特定の体験内容(知覚内容)に対する道徳理念の内容の関係もしくはその関係の表象に基づいている。」

(p177~188)
 「全体の幸福という道徳原則に従う人は、どんな行動を行う場合にも、…自分が何を寄与し得るか問うであろう。文化の進歩を信じる人も同じようにするであろう。「…けれどもすべてのそのような個別的道徳目標が副次的なものになってしまう場合がある。その場合には概念的直観そのものが主役を演じ、他の諸々の動機は指導的立場から離れる。そして行動の理念内容だけが動機となって働く。」
 「われわれは性格学的素質の諸段階の場合、純粋思考、実践理性として働くものを最高のものと見做し、そして動機の場合の最高のものを概念的直観と名づけた。道徳のこの段階においては、このような衝動と動機が互いに結びつくようになる。…理念の内実から行動がなされるのである。」
 「このような行動は、その前提として道徳的な直観能力を必要とする。個々の場合にそれに応じた道徳原則を取り出す能力のない人は、決して真に個的な意思を実現しないであろう。」

(p178~179)
 「この道徳原則の正反対がカントの立場である。「おまえの根本命題がすべての人間にも当てはまるような行動をせよ」とカントは言う。この命題はすべての個的な行為を死へ追いやる。しかしすべての人がやるような行動の仕方が私にとっての基準なのではなく、個々の場合に何をしたらいいのかが問題なのである。」
 「表面的に判断すれば、恐らく次のような反対意見が以上の論点に対して提出されるであろう。「一体どのようにして、行動がそれぞれの場合に個的であり、それぞれの状況に応じていながらしかも純理念的に直観から決定されるということが可能なのか」。この反対意見は、道徳上の動機と知覚できる行為内容とを混同することからきている。知覚できる行為内容も動機となることができる。例えば文化の進歩や利己的な行為に際してはそのような内容が動機となっている。しかし純道徳的な直観に基づく行動の場合には、そうではない。私の自我は勿論この知覚内容に眼を向けているが、それによって行動を決定したりはしない。知覚内容が利用されるのは、もっぱら認識概念を作るためであって、必要な道徳概念をそこから取ってくるのではない。当面する或る状況から得た認識概念は、私が特定の道徳原則の立場に立つときにのみ、道徳概念として役立たせることができる。私がもっぱら一般的な文化の進歩という道徳観点に依拠して生きようとするときには、私は決まった人生行路を歩み続けなければならないであろう。その場合、私が知覚し、そして関わりを持とうとするすべての出来事から、道徳的な義務が同時に生じる。例えば文化の進歩に役立つように寄付をするという義務が生じる。事物や出来事は、自然法則的な関連を示すだけではなく、道徳的に私が何をしたらいいかをも教えてくれる。この道徳上の指針は、それだけを取り出せば正しいかもしれない。けれども高次の段階では私が納得する理念と結びつかなければならない。」

(p179~180)
 「人間の直観能力はさまざまである。或る人は溢れるばかりの理念を持ち、他の人は苦労してその一つ一つを手に入れる。人間に行動の舞台を提供する生活状況もまたさまざまである。人間がどの行動をとるかは、直観能力が特定の状況に際してどう働くかにかかっている。われわれの内部に働く理念の総計、われわれの直観の具体的な内容は、たとえ概念界そのものがどれほど普遍的であろうとも、常にひとりひとりの中で個別的に現れる。直観内容が行動と結びつくとき、それは個人の道徳的内実となる。この内実を十分に生かしきることが最高の道徳衝動なのであり、そして同時に、他の道徳原則がすべて最後にはこの内実に結びつくことを洞察する人にとっては最高の動機でもある。われわれはこのような観点を倫理的個体主義と呼ぶことができる。」 
 「個々の場合の行為は、状況に応じた個的に対応する直観を見つけ出すことによって決定されねばならない。この道徳段階に到れば、もはや普遍的な道徳概念(規範、法則)だけでは解決がつかない。規範や法則は個的な衝動を一般化できなければならない。普遍的な規範は常に具体的な事実を前提とし、具体的な事実から引き出されてくる。そしてその具体的な事実は、まずはじめに人間の行為を通して作り出される。」

(p180~182)
 「われわれが合法則的なもの(個人、民族および時代の行動の概念内容)を求めるとき、ひとつの倫理学を見出すことができるが、しかしそれは道徳の規範学としてではなく、道徳の博物誌としてである。ここで獲得された諸法則は、人間の行為に対して、ちょうど自然法則が個々の自然現象に対するような関係を持っている。この諸法則とわれわれの行為の根底にある衝動とは同じものではない。どういう場合に人間の行為が道徳意思から現れてくるかを理解しようとするにはまずはじめにこの意思と行為との関係に眼を向け、この関係が規定的な意味を持つような行為を見つけ出さねばならない。そのような行為を後から反省してみるとき、どのような道徳原則がそこに働いていたかを知ることができる。私が行為している間、道徳原則はもっぱら直観となって私の中で働いている。そうでなければ、その道徳原則は私を突き動かさない。それは私が行為を通して実現しようとする対象への愛と結びついている。「私はこの行為を行うべきなのか」を世間に、あるいは何かの権威に私は問いかけようとはしない。行為についての理念が把握できたとき、私はそれをすぐ実行に移す。だからこそそれは私の行為なのである。特定の道徳規範がそこに認められるという理由だけで行為する人の行為は、その人の道徳法典に記載されている原則の賜物である。その人は単なる執行人にすぎない。高級自動人形でしかない。「行為の動機を意識せよ。そうすればたちどころに、汝の道徳原則の歯車が回転し始め、キリスト教的、人道的、没我的な、あるいは文化の進歩に役立つような行為が合法則的な仕方で遂行されるであろう」というのである。対象への愛に従うときにのみ、私は行為する主体であることができる。この段階の道徳においては、私は主人の命に服するから行動するのではない。外的権威やいわゆる内なる声に従って行動するのでもない。私は自分の行動の外的原則を必要としない。なぜなら私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだから。私の行為が良いか悪いかを悟性的な手段で調べようとも思わない。私が行動するのは、それを愛しているからである。愛に浸った私の直観が直観的に体験されるべき世界関連の中に正しく存在しているとき、その行為は「善」になり、そうでない場合の行為は「悪」になる。私はまた、他の人ならこの場合どのような態度をとるかと尋ねようとは思わない。私という特別な個性がそうしようと私を促すからこそ、私は行為するのである。私を直接導いているのは、一般的な慣習や普遍道徳や一般人間的な原理や道徳規範などではなく、行為に対する私の愛である。私は私に衝動を促す自然の強制も道徳的至上命令の強制も感じない。私はもっぱら私自身の中にあるものを実現しようと欲する。」
 「普遍的な道徳規範の擁護者は、以上の論点に対して次のように言うであろう。「すべての人が自ら好む通りに行ったり、生きたりしたいと望むならば、正しい行為と犯罪との区別がつかなくなってしまう。私の中に潜む偽りの傾向もまた、善に仕えようとする意図と同じように要求を立てるに違いない。或る行為を理念に従って行おうとすることがではなく、その行為が善であるか悪であるかを吟味することが私を道徳的人間にするのである。それが善であると分かった場合のみ、私はその行為を行うつもりだ」。」
 
(p182~183)
 「この避難は至極明瞭なものに思えるが、これまでの論点を誤解しているにすぎない。これに対する私の解答は、以下の通りである。――人間の意思の本質を認識しようとする人は、この意思を特定の段階まで発達させてくれる道と、この道を辿る意思の在り方とを区別しなければならない。目標への途上においては規範が正しい役割を演じる。この道の目標とは直観によって把握された道徳理想を実現することである。直観的に把握された世界理想へ向かって人間は自己を高めようと努力する。その努力する能力の度合いに応じて、人はそれぞれこの目標を達成していく。個人の意思には大抵の場合衝動や動機以外の何かが、このような目標の中に混入している。とはいえ人間の意思には直観内容がそれを規定するように働いている。またはその規定に一役買っている為すべきことを人は行う。人は為すべきことが行為に移される際の舞台となる。そして自分の行為を自分の中から生じさせる。だから衝動はまったく個的なものでしかあり得ない。直観に発した意思行為はすべて個的な行為なのである。犯罪行為が、または悪そのものが純粋直観の実現と同じ意味で個体性の自己表現であると言えるとすれば、それは盲目的衝動が人間個性の一つに数え入れられるときだけである。けれども、犯罪行為に駆り立てる盲目的な衝動は直観から発するものでも、人間個性に属するものでもなく、人間における最も一般的なものに属する。それはすべての人に対して同じ意味で働くが、人はそれぞれ自分の個的特徴をそこから作り上げていく。私の内なる個性とは私の生体の衝動や感情のことではなく、私の生体の中に輝くかけがいのない理念界のことである。私の衝動や本能や情熱は、私が一般的な意味での人類の一員であるということ以外の何事をも証明してくれない。衝動や情熱や感情の中に理念的なものが特別な仕方で現れる事情こそが、私の個性を基礎づけている。私の本能や衝動だけでは、私は一ダースの中の一員にすぎない。その十二人の中で、他ならぬ私がかけがえのない自我として現れることができるのは、特別な形式を持った理念によるのであり、それによってのみ私は個体なのである。私の動物的本性の特性に従って、私以外の誰かが外から私を他の人と区別するであろう。私は思考を通して、言い換えれば私の生体内に働く理念的なものの積極的な把握を通して、私自身を他の人から区別する。その意味で、犯罪行為が理念から生じると言うことはできない。人間の非理念的な要素から導き出されるということこそ犯罪行為の特徴なのである。」
 「或る行為が自由な行為と感じられるのは、その根拠が私の個体存在の理念的部分に見出せるときである。そうでない時の行為は、それが自然の強制によるものであろうと、倫理的規範が要求するものであろうと、すべて自由でないと感じられる。」

(p184~186)
 「どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである。どんな道徳的な行為も、この意味で自由であると言えるときにのみ、私の行為となる。それでは意思された行為がどのような条件の下で自由な行為と感じられるのだろうか。倫理的な意味での自由の理念は人間の本質の中でどのように自己を実現させて自己を実現させていくのだろうか。」
 「自由からの行為は道徳法則を退けるのではなく、それを受け容れる。その行為は道徳法則の命じるままに行う行為よりも高次の在り方をしている。私が愛によって行為しているときにも、人類の幸福のために働くことができる。私が人類の幸福のために働くことを義務と感じるという理由だけから行為するときに比べても、その行為が道徳的に劣っているとは言えない。単なる義務の概念は自由を排除する。なぜならこの概念は、個人の個的な在り方を肯定しようとはせず、それを一般的な規範に従属させようとするのだから、行為の自由は、倫理的個体主義の観点からのみ可能となる。」
 「人間のひとりひとりが自分の個性を主張しようとしているときに、いったいどうして共同生活が可能だと言えるのか。間違った理解をする道徳家はこのような非難を加えるであろう。道徳家は人びとが共通の道徳的秩序を前提にして、ひとつに結ばれるときにのみ、人間の共同体が可能となると信じている。このような道徳主義によっては理念界の調和ということが理解できない。私の中に働く理念界も私の隣人の中に働く理念界も同じものであることが分らないのだ。勿論個的理念の統一という事実は経験からしか得られない。当然のことである。なぜなら経験や観察以外の何かによって認識されるものであるなら、それは個的な体験ではなく、一般的な規範になってしまうであろうから。個人がそれぞれ個的な観察を通して他の存在を知るときにのみ、個性が尊重される。私と私の隣人との相違は、互いに異なる精神界を所有していることにあるのではなく、共通の理念界の中から私の隣人が私とは異なる直観内容を受け取る、という点にある。私の隣人はその人自身の直観内容を生かそうとし、私は私自身のそれを生かそうとする。ふたりとも理念から糧を得ようとして、物質的にせよ、精神的にせよ、外的な衝動には従おうとしないならば、私たちふたりは同じ努力、同じ意図の中で互いに出会うことができるであろう。道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。行為への愛において生きること、他人の意思を理解しつつ生かすこと、これが自由の人間の基本命題である。そのような人が認める「あるべき態度」とは、その「あるべき態度」が直観を通して意志と結びつくような場合に限られる。個々の場合にどのように意志するのかを告げるのは、その人の理念能力なのである。」
 「人間本性の中に根源的な調和を基礎づけるものがなかったとすれば、それを何らかの外的法則によって植えつけることもまたできないであろう。それぞれの人間個性が同じ精神の所産であるからこそ、人間は相互に調和的に生きていけるのである。自由な人は、別な自由人が自分と同じ精神世界に属しており、同じ志向の中でその人と出会えると信じて生きている。自由な人は隣人に同意を求めたはりしない。同意することは人間の本性にとって当然だと思って、同意を期待するのである。このことは、特定の外的制度の問題ではなく、心構えや魂の在り方の問題なのである。自分が評価する隣人と魂の在り方を通して共に生きる人は、人間の尊厳を最もよく理解するのである。」

(p186~187)
 「そう言うと、次のように言う人も出てくるであろう。――「おまえが描いてみせる自由人は、幻想にすぎない。そんなものはどこにもない。われわれは現実の人間を問題にしているのだ。人間は自分の道徳的な役割を義務として受け取り、自分の傾向や愛情に逆らってでも、もっぱら道徳律に従うときのみ道徳的であり得るのだ」。――私は決してそのことを否定しようとは思わない。真実から眼をそらせる人だけがそれを否定しようとするだろう。けれども究極の洞察を問題にしようとするのならば、一切の道徳的へつらいを捨てねばならない。だから単純に次のように言えばよい。人間の性質が自由でないならば、その行為は強制されなければならない、と。その不自由さが物質的な手段によるのか、道徳律によるのか、無制限の性的衝動や因襲の足枷によるのかはまったくどうでもよい。しかし自分が他者の力に支配されているのに、その行為を自分の行為だと呼ぶことだけはしないでもらいたい。自由な精神の持ち主は、外からの強制から自分を引き離す。そして慣習や掟やタブー等のガラクタの中にいつまでも留まろうとはしない。人間は自分に従う限り自由なのであり、自分を従わせる限り不自由なのである。おまえのすべての行為が本当に自由なのか、と問われることはあり得よう。けれどもわれわれひとりひとりの中にはより深い本性が宿っており、その中で自由な人間が語っているのである。」

(p187~189)
 「われわれの人生は自由な行動と不自由な行動とから成り立っている。けれども人間本性の最も純粋な現れである自由な精神に到ることなしには、「人間」という概念は究極まで理解されたことにはならない。自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得るのだから。」
 「そんなことは理想にすぎない、と多くの人が言うであろう。勿論である。けれどもこの理想はわれわれの本性の内部に現実の要素として存在しており、表面にまで現れてこようと働きかけている。その理想は考え出されたものでも、夢見られたものでもなく、生きたものであり、どんな不完全な人生であろうとも、その中で明らかに自らの存在を告げている。人間が単なる自然物であったとすれば、理想を追求することなどまったく無意味であろう。理想の追求とは、たとえ当初は何の働きを示さなくても、実現へと人を駆り立てるような理念の所産なのである。外界の事物における理念は知覚内容なしには存在し得ない。理念と知覚内容との関連を認識する過程で、われわれは自分の外界を明確に把握していくのである。一方、人間の場合にはそのような言い方はできない。人間存在の総体は人間自身に依存している。道徳的人間(自由な精神)という人間の真の概念は、「人間」という知覚内容とあらかじめ客観的に結びつき、後になって認識の過程で明確にされていく、というものではない。人間は自分から進んで自分の概念を自分の知覚内容に結びつけなければならない。ここでの概念と知覚内容は、当人自身によって重ね合わされるときにのみ、互いに合致する。そして自由な精神の概念、つまり人間自身の概念を見出したときにのみ、そうすることができる。客観世界の中では、生体の組織を通して知覚と概念との間に境界線が引かれている。認識がこの限界を超える。主観世界の中でもこの境界線は同様に存在しており、人間は進化の過程でその境界を克服するために、この世を生きる人間として自分の概念を完成させなければならない。したがって知的生活も道徳生活も、われわれを知覚(直接体験)と思考という二重性へ導く。この二重性を知的生活は認識を通して克服し、道徳生活は自由な精神の真の実現を通して克服する。どの人間存在もすでに生まれついた時から概念を有している。それははじめは生きるための法則として働いている。この同じ概念は外的事物の中では知覚内容と分ち難く結びついており、われわれの精神組織の内部では知覚内容から切り離されている。人間の場合、概念と知覚内容がはじめは実際に切り離されているが、それは人間自身の手で再び実際にひとつに結び合わされるためである。人は反対することができよう。――「人生のどの瞬間においても、人間というわれわれの知覚内容には特定の概念が対応している。どんな事物についてもこのことは当てはまる。私は杓子定規の人という概念を作り、それを知覚内容として示すことができる。私がそこにさらに自由な精神という概念を持ち込むならば、同一対象に二つの概念を当てはめることになるのではないのか」。

(p189~190)
 「これは一面的な考え方である。知覚対象としての私は絶えざる変化の中にいる。子どものときの私は若者のときの私とも青年期の私とも異なっていた。どんな瞬間にも、私という知覚像は以前の私の知覚像と異なっている。この変化にも拘らず、この変化の中に常に同じ杓子定規の人が語っていたり、自由な精神が語っていたりする。知覚対象としての私の行為もそのような変化の下にある。」
 「人間という知覚対象が変化する可能性を持っているのは、例えば植物の種の中に植物全体にまで成長する可能性があるのと同様である。植物は自らの中で客観的法則に従って変化を遂げていく。人間は、自分の力で自分の内なる素材に変化を加えることができないとすれば、不完全な状態に留まり続ける。自然は人間から単なる自然存在をつくり出す。社会はその自然存在を規則に従って行動する存在にする。しかしその存在を内部から自由な存在につくり変えるのは、もっぱら自分だけなのである。自然は人間がある段階にまで進化を遂げたとき、人間をその拘束から解放する。社会は人間の進化をさらに特定の段階まで導く。けれども最後の仕上げをするのは人間自身なのである。」
 「自由な道徳性の観点は、自由な精神が人間存在の唯一の在り方であると主張しているのではない。自由な精神の中に人間進化の究極の段階を見ようとするのである。とはいえこのことは或る段階において一定の規範に従ってなされる行為の正当性を否定しようとするのではない。ただその際にはまだ絶対的な道徳性の観点が認められないのである。自由な精神は規範を乗り越え、その命令を動機に変え、行為を自らの衝動(直観)に従って行おうとする。」

(p190~191)
 「カントは義務について次のように言う。「義務よ、おまえは崇高な偉大な名前だ。おまえは自分の中に媚びへつらうものを何一つ寄せつけず、すべてに服従を求める」。おまえはまた「すべての選り好みが沈黙せざるを得ないような……法則を課する。たとえその選り好みがどれ程巧みに姿を隠して忍び寄ろうとしてもである」。これに対して、自由な精神は次のように答えるであろう。「自由よ、おまえは人間的で親しみやすい名前だ。おまえは私の人間性がふさわしいと考えるすべての道徳的欲求を取り上げ、私を決して他人の従者にしようとはしない。おまえは法則を打ち建てるばかりでなく、私の道徳的な愛そのものが法則となり得ることを願っている。なぜなら愛は、いかなる強制的な法則の支配をも、不自由と感じるからである」。
 「これは合法則的であるだけの道徳と自由な道徳の対比を示している。
 外から枠づけされたものの中にのみ道徳の体現を見ようとする俗物は、おそらく自由な精神の中に危険な生き方を見ようとさえするであろう。そうするのは、その人の眼が特定の時代状況にとらわれているからである。その人がそのとらわれから脱することができたならば、自由な精神も俗物の場合と同じように、自分の国の定めた法律からはみ出ようとしていないことにすぐ気づくに違いない。自由な精神は法律に抵触することはないであろう。なぜなら国法というものはすべて自由な精神の直観から生じたものだからである。この点は一切の他の客観的な道徳的法則に対しても同様である。ある家の家訓も祖先がかって直観的に把握し、そして定めたものである。道徳の因襲的な法則もまた、はじめは特定の人びとによって定められた。国法もはじめは政治家の頭の中で生じた。これらの人びとは他の人間に対してそのような法律を定めたが、この期限を忘れている者だけが自由を失うのである。そしてそれを非人間的な命令や人間から独立した客観的な道徳的義務概念にしてしまい、さらに偽神秘的な内なる強制の声にしてしまう。けれどもその起源を見誤ることなく、人間の中に見出すことのできる人は、そのような法律を理念界のひとつの現れと考える。その人は自分の道徳的直観内容をもその同じ理念界から取り出してきたのである。これまで以上にすぐれたものをそこから取り出したと信じられたならば、これまでのものの代わりにそれを用いる。そしてそうすることが正しいと思えたとき、それを自分のものであるかのように、それに従って行動する。」

(p191~192)
 「人間は自分の外にある道徳的世界秩序を実現するために存在しているのではない。そのような主張をする人の人間学はあたかも牡牛に角があるのは突くことができるためであると信じる自然科学と同じ立場に立っているといえよう。幸いなことに自然科学者はこのような目的概念をすでに死んだものの仲間に加えている。しかし倫理学が同じところから脱け出すのはもっと困難らしい。角が突くために存在するのではなく、角によって突くのであるように、人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳行為が存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。」
 「個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。国家と社会とが再び個人生活に作用を及ぼす事情は角によって可能となった突く行為が、牡牛の角の発達をさらに促す結果となる事情に似ている。角は長く使用しなければ衰えてしまう。個人もまた、人間共同体の外で孤独な生活を営み続ければ、その個性を衰えさせてしまう。好ましい仕方で再び個人に作用し返すためにこそ、社会秩序が形成されるのでなければならない。」

 ルドルフ・シュタイナー著・高橋巌訳(ちくま学芸文庫)『自由の哲学』の「第二部 自由の現実」―「第九章 自由の理念」(p165~192)を読み、そのキーワード、キーセンテンスを私自身の直観で、書き出してきました。特にこの章の後半には、キーセンテンスが心に迫る大切な記述として感じました。言わば全ての文章がキーセンテンスとして心に入ってきました。皆さんに、この書籍を手に取り、熟読していただければ幸いです。
 シュタイナーは緻密なカントの文章を評価しつつ、カントの表象・概念の論述の不備を指摘している。この章を読みながらそのように思いました。シュタイナ-の文章の微妙な表現は一文一文全て大切に思えました。
 シュタイナーの最後の文章段落に含まれる下記の文章は、自由の理念を読み解くキーセンテンスとして特に私には印象的でした。
 
 「個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。…」

 今井重孝さんはその著『シュタイナー「自由の哲学」入門』の二、「第九章 自由の理念」(p54~65)で、シュタイナーの「倫理的個体主義」をあげて、「この倫理的「個体主義こそ、シュタイナーがカント道徳哲学(「実践理性批判」)に対置したものです。」と述べています。
 今後も時間をかけて『自由の哲学』を読み進めていきます。