『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2021年9月17日(金)72回 ― 2021年09月17日
R・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を読み進めています。今回10回目となります。
今回は、『自由の哲学』のP123~130「第七章 認識に限界はあるのか」を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP50~52を参考文献としておさえておきます。
「第七章 認識に限界はあるのか」は第一部「自由の科学」の最終章であり、まとめの章でもあります。
シュタイナーはこの七章で、先ず、自身の立場でもある一元論について述べています。そして次に、その対極にある二元論について、誤った理解を指摘しています。131ページ後方より、
「…世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる、と。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。この立場の対局に二つの世界の理論又は二元論が向かい立っている。二元論は人間の在り方が二つの隔てた統一的現実の両側面をそのまま認めるだけではなくそれらを互いに絶対的に異なる二つの世界と考える。そして一方の世界のための説明原理をもう一方の世界の中に求める。
二元論はわれわれが認識と名づけるものを誤って理解している。全存在を二つの領域に分け、その各々がそれぞれ固有の法則を持つと考え、そしてその二つの領域を外から互いに対立させている。
カントが学問に導入して以来、今日に到るまでそこから抜け出せずにいる知覚対象と物自体との分裂は、このような二元論に由来している。…」
シュタイナーは、さらにデュ・ポア・レイモンの文章を引用して、二元論の不可能性、限界について指摘します。そして一元論の可能性を述べながら、認識行為、自我意識、認識の成立等について語ります。
そして、この話の流れの中で、この七章「認識に限界があるのか」の表題に対応する回答、「認識の限界について語ることはできない。」「認識の限界について語る必要はない。」と、二つの視点を記述しています。
134ページ最後の段落から、下記を取り上げさせていただきます。
「認識の限界について語ることはできない。そのことはわれわれが規定してきた認識の概念からおのずと明らかである。認識行為は一般的な世界事象ではなく、人間自身の内的要求に関わる作業である。事物は説明を要求しない。事物は存在し、そして思考によって見出されるような法則に従って互いに作用し合っている。事物はそのような法則によってひとつに結びついている。そのようなところにわれわれの自我意識が現れる。そしてわれわれが知覚内容と名づけたものだけをまず受け取る。しかし自我意識の内部の力は現実のもう一方の部分をも見つけ出す。世界の中で分離し難く結びついている二つの現実要素を、自我意識が自分のためにひとつに結びつけるとき、そのときはじめて認識衝動は満足する。自我は再び現実に辿りついたのである。
認識を成り立たせる前提条件は、自我を通して、自我のために存在する。自我は自分自身に認識の問いを立てる。自我は自分の内部の完全に明晰で透明な思考要素の中から、このような問いを取り出してくる。解答できない問いが出された場合、問いの内容はすべての部分において明晰であり判明であるとはいえない。世界がわれわれに問いを立てるのではなく、われわれ自身が問いを立てるのだからである。
どこか外に記されている問いに答えようとする場合、その問いの内容がどこから取り出されてきたのかを知ることがなければ、その問いにはまったく答えられないと考えられる。
われわれの認識にとって必要な問いは、場所、時間並びにわれわれの主観的な在り方に条件づけられた知覚領域と、宇宙の全体性に関わる概念領域との相互関係についての問いである。私の課題はこの二つのよく知られた領域を互いに融和させることである。そのような場合、認識の限界について語る必要はない。或る時代に或る事柄が説明できなかったとすれば。それは問題になる事物を知覚するのに必要な生活の舞台がまだできていなかったからである。しかし今日認識できなかったことも、明日には認識できるようになるかもしれない。認識者の周囲に設けられた壁は一時的なものにすぎず、知覚と思考が進むにつれていつかは克服されるものなのである。」
そして、シュタイナーは二元論の犯した誤謬を語っています。136ページの5行目から下記に引用させていただきます。
「二元論が犯した誤謬は、主観と客観の対立を設けて、この対立が本来知覚の領域内においてのみ意味を持つにも拘らず、この領域外の頭で案出した本質存在にそれを当てはめようとしたところにある。事物が知覚領域内で孤立して存在するとすれば、それは知覚者が思考をあきらめたからである。思考だけがそのような事物の孤立化を止揚して、その孤立が単なる主観に条件づけられたものであることを認識させる。二元論者はさまざまな規定を知覚内容の背後にひそむ本質存在にまで当てはめようとするのであるが、そのような規定は知覚内容にとってさえも何ら絶対的な意味を持つものではなく、もっぱら相対的な意味しか持たない。二元論者は知覚内容と概念という認識過程の二大要因を四つに分けてしまう。一、客体そのもの、二、主観が客体から取り出す知覚内容、三、主観、四、知覚内容を客体そのものに関係づける概念。この場合、主観と客体の関係は現実の関係である。主観は実際に力動的に客体の影響を受ける。この現実経過はわれわれによって意識されない。とはいえその経過は主観の中で、客体の作用に対する反作用を呼び起こす。この反作用の結果が知覚内容であると言えよう。この知覚内容が最初に意識される。客体は客観的な(主観から独立した)現実を担い、知覚内容は主観的な現実を担う。この主観的現実が主観を客体に関係づける仕方は理念的である。さて、このようにして二元論は認識の経過を二つの部分に分裂させている。一方の部分である「物自体」から知覚対象を生み出すときの経過を二元論は意識の外におき、もう一方の部分である知覚対象と概念との結びつきや概念と客体との関係を意識の内部に生じさせる。このような前提の下では、どんな概念を用いても、意識以前に存在しているものを主観的にしか表現できない、と二元論者が信じるのは当然である。主観の中の客観的、現実的な営み、つまり知覚内容を生じさせる営みや、さらには「物自体」の客観的な諸関係は、このような二元論者にとって直接認識することが不可能なものであり続ける。二元論者の意見によれば、人間は客観的、現実的なものを概念によってしか表現できない。諸事物を相互に結びつけ、その諸事物を「物自 体」であるわれわれの個別精神と客観的に結びつける統一の帯は、意識の彼方の実体そのものの中にあり、われわれの意識はその実体を同じように概念によってしか表現できないのである。
二元論は、対象を概念的に関連づけることに留まらず、さらにそれを現実的に関連づけることまでもやろうとする。そうしないならば、全世界を抽象的な概念の図式にしてしまい、その結果世界を蒸発させてしまう、と思っている。換言すれば、二元論者は思考が見出す理念原理を実体のない、空気のようなものだと思っている。そして自分の立場を支えてくれるような現実原理を求め続ける。」
二元論の矛盾を論述する経過の中で、シュタイナーは「素朴実在論」について、その矛盾のあり様を論述していく。(この文章を展開する私自身が素朴実在論者に落ちいっていたことを今更ながら打ち明ける。シュタイナーのこの文章を読み、あらためて自分自身の思考が不徹底であったことを、実感している。)
138ページ2行目から引用させていただきます。
「そこでわれわれはそのような現実原理に立ち入った検討を加えてみようと思う。素朴な人(素朴実在論者)は外的な経験対象を現実であると考える。そのような対象なら手で掴むことも、眼で見ることもできるという事情が、このような人にとっては現実であることの証拠なのである。「知覚できないものは存在しない」。この命題こそが素朴な人の第一原理である。けれどもこの原理はそれをひっくり返して表現することも許される。つまり、 「知覚できるものはすべて存在する」。この主張の最上の証明は、素朴な人の不死と精霊に対する信仰であろう。このような人は魂を感覚的に知覚できる精妙な物質であると考えている。そのような物質として魂は、特定の条件の下では、一般の人にとっても見ることのできるものになる(素朴な幽霊信仰)。
そのような人にとって現実世界以外のもの、特に理念世界は非現実的であり、「単なる 観念」であるにすぎない。…」
シュタイナーは、さらに、素朴実在論について語ります。そして、形而上的実在論(二元論)に辿りつきます。素朴実在論、形而上的実在論の矛盾を指摘します。そして一元論の論理的整合性を説明していきます。
この個所を142ページ中ほどより下記に抜粋させていただきます。少し長い引用をさせていただきました。
「内に矛盾を含んだこの世界観は、形而上的実在論に辿りつく。それは知覚可能な現実と並んでそれとの類比で考えられた知覚不可能な現実をも打ち建てる。それ故、形而上的実在論は必然的に二元論になる。
形而上的実在論は、運動によって接近したり、諸対象を意識化したりすることによる、知覚し得る事物相互の関連づけを認める場合、そこにひとつの現実を措定している。しかし形而上的実在論が認めるその関連づけは、思考で表現され得るものであって、知覚され得るものではない。その理念的な関連は恣意的な仕方で知覚されているかのように扱われている。そのようにしてこの立場は、永遠の生成過程の中にあって現れては消えていく知覚対象と、知覚対象を生み出す永続的な働きである知覚し得ない諸力とから現実世界を合成する。
形而上的実在論は素朴実在論と観念論との矛盾だらけな混合物である。この立場が仮定する諸力は知覚し得ぬ存在でありながら、知覚の諸性質を担わされている。この場合は、知覚を通して認識し得る世界領域の外に、知覚では役に立たず、思考によってしか把握できない、もう一つの領域を存在させようと決意した。けれどもこの立場は、思考が仲介する存在形式である概念(または理念)を知覚内容と同じ確かさを持った現実要素であると認めることができない。知覚できない知覚内容という矛盾を避けたいのなら、思考によって仲介される知覚内容相互の関係が概念と同じ存在形式を持っていることを承認せねばならない。形而上的実在論から間違った構成部分を取り去ってしまえば、世界を知覚内容とその概念的(理念的)関連との総体として示すことができる。こうして形而上的実在論が辿りつく世界観は、知覚内容を知覚し、知覚内容相互の関係を思考する、という原則を立てる。この世界観は知覚世界と概念世界以外の第三の世界領域を存在させることができない。いわゆる現実原則と観念原則という両原則を同時に働かせる第三の世界領域を存在させることができないのである。
形而上的実在論は知覚対象とそれを知覚する主観との間の理念的関係以外に、知覚内容の「物自体」と知覚主観(いわゆる個体精神)の「物自体」との間にも現実的な関係が存在する、と主張するが、この主張は感覚世界の経過と共通したものでありながら、しかも知覚できないような存在経過がある、という誤った仮定の上に立っている。さらにまた私は自分の知覚世界とは意識的、理念的な関係を持っているが、現実世界そのものとは単なる力動的な関係しか持ち得ないという主張も、すでに指摘した誤謬を犯すことになる。力の関係は知覚世界(すなわち触覚領域)の中でのみ語り得るのであって、その外では語ることができない。
われわれは形而上的実在論が最後に辿りつくこのような世界観を、その矛盾だらけな要素を排除した後でなら、一元論と名づける。なぜならこの世界観は一面的な実在論を観念論と結びつけて、高次の統一体にしているからである。
素朴実在論にとっての現実世界は、知覚対象の総計である。形而上的実在論の場合、知覚内容以外に、知覚し得ない力にも現実性が与えられている。一元論はこのような知覚され得ぬ力の代わりに、思考によって獲得される理念的関連を措定する。そしてこの関連こそが自然法則に他ならない。自然法則とは知覚内容の相互関連についての概念による表現なのである。
一元論は知覚内容と概念との他に、別の現実解明の原則を求めたりはしない。現実のどんな領域の中でも、そのような原則を求める必要のないことを一元論は理解している。この立場は主観の眼前に拡がる知覚世界の中に、半分の現実だけを見る。この半分の世界に観念世界が結びつくと、完全な現実が現れる。形而上的実在論者は一元論者に対して、次のような避難を加えることができよう。「あなたの身体組織にとっては、あなたの認識は 完全なものであるかも知れない。どの部分にも欠けたところがないかも知れない。けれどもあなたとは別な身体組織をもった別の知的存在の意識に世界がどのように映し出されるか、あなたにはわからない」。一元論者は次のように答えるであろう。「人間知性以外に別の知性があり、その知覚内容もわれわれの知覚内容とは別の姿をとっているとしても、私にとって意味があるのは、別の知的存在をも含めた知覚内容と概念を通して私のところにまでやってくるものだけだ。主観としての私は自分の知覚、つまり人間特有の知覚を通して客体に相対している」。事物の関連はまだ作られていない。しかし主観は思考を通して、この関連をあらためて作り上げる。それによって主観は自分を全体としての世界の中に組み込む。われわれの主観にとって、全体はわれわれの知覚内容と概念とに二分されている。そしてこの両者を結びつけることの中で、真の認識が生じる。どこかに別の知覚内容を持った(例えば人間よりも二倍の数の知覚器官をもった)生物がいたとしたら、この全体の関連がどこか別なところで切り離されているであろう。そしてそれを再構成する試みもまた、この生物に特有の在り方をしているに違いない。素朴実在論と形而上的実在論は、いずれの場合にも魂の内容が世界の単なる理念的な代表作用にすぎないと見做すので、認識の限界への問いを出してくるのである。つまりこのいずれの場合にも、主観の外に存在するものだけが絶対なのであり、独立しているのである。そして主観の内容はこの絶対存在の単なる映像にすぎないのである。完全な認識とは、多かれ少なかれ、この映像が絶対的な客体に似ているということに他ならない。感覚器官の数が人間よりも少ない生物はよりわずかに、それが人間よりも多い生物はより多く、世界内容を知覚する。したがって前者の生物は後者の生物よりも、よし不完全な認識能力しか持っていないことになる。
一元論は別の考え方をする。知覚する存在の在り方次第で、世界の関連が主観と客体に分れて現れる。客体はこの特定の主観との関わりにおいては絶対的なものではなく、相対的なものであるにすぎない。したがって主客の対立に橋をかける行為は、まさに人間のまったく特殊な主題にふさわしい仕方でこそ可能になる。知覚行為において世界から切り離されている人間自我は、思考の考察活動においては再び自分を世界関連の中に組み込む。そしてそれによってこの分裂の結果生じた一切の疑問が消え去る。
別種の存在形態をもつ生物は別種の認識を持つかも知れない。しかしわれわれの認識方式だけでも、われわれ自身が立てた問いに答えるのに十分である。
形而上的実在論は次のように問わざるを得ない。知覚内容は何を通してわれわれに与えられるのか。主観は何によって刺激を受けるのか。
一元論の場合、知覚内容は主観によって規定される。けれどもこの主観は同時に自分自身が規定したものを再び止揚する手段を、つまり思考の働きをもっている。
形而上的実在論は、別な困難な前にも立たされている。異なる人間個性の世界像が相互に類似していることの理由を説明しなければならないのである。一体どうして主観的に限定された知覚内容と概念とから成る私の世界像が同様に主観的に限定された知覚内容と概念とから成る別の人の世界像に一致するのか。どのようにして私の主観的な世界像から他人の主観的な世界像を忖度することができるのか。人間が相互に実際に理解し合っていることから、形而上的実在論者は人々の主観的な世界像の共通性が説明できると信じている。
そしてさらにそれらの世界像の共通性から、個人の知覚主観の根底に存する個別精神、又は主観の根底に存する「私それ自体」の普遍性を結論づけている。
それ故この結論は、結果の総計からその基にある原因の性質を導き出している。われわれは数多くの例によって原因を導き出し、その原因が別の場合にどのような結果を生じさせるかを認識できると信じている。このような結論を帰納法による結論と呼ぶ。このような結論をもとに、さらに観察を続けていって、何か予期し得ぬものが生じたときには、その結論を変更せざるを得なくなる。この結論の性質は個々の例を観察する個人の観点に規定されているが、実生活の上ではそのような限定された認識だけでも十分に間に合う、と形而上的実在論は主張する。」
形而上的実在論者エドゥアルト・フォン・ハルトマンをシュタイナーは尊敬する哲学者としての思念を抱いています。その一方でシュタイナーは、「帰納的自然科学的な方法」を取り入れて形而上的実在論を言わば完成させたと主張するハルトマンに対して柔らかく、科学的に批判しています。
その個所(p147~)を下記に引用させていただきます。
「帰納法は現代の形而上的実在論の方法論上の基礎になっている。かっては概念の中から概念とは言えないような何かが現れてくると信じた時代があった。つまりかっては形而上的実在論者が求めている形而上的な現実存在を概念だけから認識できると信じていたのである。このような哲学態度は今日ではすでに克服されたものとなっている。しかしその代わり今日の人は、十分に数多くの知覚事実があれば、そこからこの事実の根底に存する物自体の性質をも結論できることができると信じている。昔は概念から、今は知覚内容から同じ形而上的なものを取り出してこようというのである。かっての人は概念の透明な姿を眼前にするとき、そこから形而上的なものを確実にひき出すことができると信じていたのだが、知覚内容は同じような透明さでは存在していない。同じ種類の知覚内容でも、知覚内容は現れる度にその都度何か別なものを示している。これまでの知覚内容から結論づけたものも、その後に続く知覚内容によって少しずつ変更させられていく。したがってこのような仕方で獲得された形而上的な形姿は、相対的な正しさしか持ち得ない。それは未来の諸事例によって訂正されていかざるを得ない。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの形而上学はこのような方法論上の原則によって特徴づけられている。ハルトマンは最初の主著の扉に次のようなモットーを掲げた。――「帰納的自然科学的な方法による考察の諸成果」。
…」
そしてさらに、「●一九一八年の新版のための補遺」をこの第七章「認識に限界はあるのか」の最後に加えて、敬意を抱くハルトマンと『自由の哲学』の読者に対応しています。
この文章の最初の方で述べた言葉を繰り返しますが、「第七章 認識に限界はあるのか」は第一部「自由の科学」の最終章であり、まとめの章でもあります。
「世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる、と。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。」(p131)
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』を常に手擦りとして、『自由の哲学』を読んできました。この「第七章 認識に限界はあるのか」について、今井さんは自著のP50~52に次のように書いています。一部を抜粋させていただきます。
「認識には限界がある、というのがカント以来の認識論の常識でした。人間の感覚器官を通して捉えられるものが色だとして、赤の外には赤外線の波長があり、紫の外には紫外線の波長があるのに人間の目には見えません。すると、人間の目の方に限界があり、色の本質で波長は認識できていないということになります。このように、感覚器官を通した人間の認識には限界があるので、「物自体」と呼ばれる物の本質は認識できないと結論づけられやすいのです。
しかしシュタイナーは、それは誤りで、認識には限界がないと主張します。…
人間、外部のものを知覚します。知覚するとその知覚対象を思考によって整序します。人間や動物が視界にいる場合は、その状況を思考によって判断します。知覚と思考が正しいかどうかは実際にその知覚と思考に従って行動してみれば結果がでます。つまり知覚と思考は行動によって修正されていき、認識の限界は存在しないのです。…」
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)に助けられながら、ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読んでいます。シュタイナーは近代哲学の祖と言われるカントよりも、同時代の先輩哲学者ハルトマンを重視し念頭に置き、『自由の哲学』を書いているのだと思いました。そのハルトマンの著書が日本語に翻訳されていないのは非常に残念です。
先ずは、ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を購入して、くりかえし繰り返し、共に読み深めていただきたいと思っています。
今回は、『自由の哲学』のP123~130「第七章 認識に限界はあるのか」を読みます。そして、今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』のP50~52を参考文献としておさえておきます。
「第七章 認識に限界はあるのか」は第一部「自由の科学」の最終章であり、まとめの章でもあります。
シュタイナーはこの七章で、先ず、自身の立場でもある一元論について述べています。そして次に、その対極にある二元論について、誤った理解を指摘しています。131ページ後方より、
「…世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる、と。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。この立場の対局に二つの世界の理論又は二元論が向かい立っている。二元論は人間の在り方が二つの隔てた統一的現実の両側面をそのまま認めるだけではなくそれらを互いに絶対的に異なる二つの世界と考える。そして一方の世界のための説明原理をもう一方の世界の中に求める。
二元論はわれわれが認識と名づけるものを誤って理解している。全存在を二つの領域に分け、その各々がそれぞれ固有の法則を持つと考え、そしてその二つの領域を外から互いに対立させている。
カントが学問に導入して以来、今日に到るまでそこから抜け出せずにいる知覚対象と物自体との分裂は、このような二元論に由来している。…」
シュタイナーは、さらにデュ・ポア・レイモンの文章を引用して、二元論の不可能性、限界について指摘します。そして一元論の可能性を述べながら、認識行為、自我意識、認識の成立等について語ります。
そして、この話の流れの中で、この七章「認識に限界があるのか」の表題に対応する回答、「認識の限界について語ることはできない。」「認識の限界について語る必要はない。」と、二つの視点を記述しています。
134ページ最後の段落から、下記を取り上げさせていただきます。
「認識の限界について語ることはできない。そのことはわれわれが規定してきた認識の概念からおのずと明らかである。認識行為は一般的な世界事象ではなく、人間自身の内的要求に関わる作業である。事物は説明を要求しない。事物は存在し、そして思考によって見出されるような法則に従って互いに作用し合っている。事物はそのような法則によってひとつに結びついている。そのようなところにわれわれの自我意識が現れる。そしてわれわれが知覚内容と名づけたものだけをまず受け取る。しかし自我意識の内部の力は現実のもう一方の部分をも見つけ出す。世界の中で分離し難く結びついている二つの現実要素を、自我意識が自分のためにひとつに結びつけるとき、そのときはじめて認識衝動は満足する。自我は再び現実に辿りついたのである。
認識を成り立たせる前提条件は、自我を通して、自我のために存在する。自我は自分自身に認識の問いを立てる。自我は自分の内部の完全に明晰で透明な思考要素の中から、このような問いを取り出してくる。解答できない問いが出された場合、問いの内容はすべての部分において明晰であり判明であるとはいえない。世界がわれわれに問いを立てるのではなく、われわれ自身が問いを立てるのだからである。
どこか外に記されている問いに答えようとする場合、その問いの内容がどこから取り出されてきたのかを知ることがなければ、その問いにはまったく答えられないと考えられる。
われわれの認識にとって必要な問いは、場所、時間並びにわれわれの主観的な在り方に条件づけられた知覚領域と、宇宙の全体性に関わる概念領域との相互関係についての問いである。私の課題はこの二つのよく知られた領域を互いに融和させることである。そのような場合、認識の限界について語る必要はない。或る時代に或る事柄が説明できなかったとすれば。それは問題になる事物を知覚するのに必要な生活の舞台がまだできていなかったからである。しかし今日認識できなかったことも、明日には認識できるようになるかもしれない。認識者の周囲に設けられた壁は一時的なものにすぎず、知覚と思考が進むにつれていつかは克服されるものなのである。」
そして、シュタイナーは二元論の犯した誤謬を語っています。136ページの5行目から下記に引用させていただきます。
「二元論が犯した誤謬は、主観と客観の対立を設けて、この対立が本来知覚の領域内においてのみ意味を持つにも拘らず、この領域外の頭で案出した本質存在にそれを当てはめようとしたところにある。事物が知覚領域内で孤立して存在するとすれば、それは知覚者が思考をあきらめたからである。思考だけがそのような事物の孤立化を止揚して、その孤立が単なる主観に条件づけられたものであることを認識させる。二元論者はさまざまな規定を知覚内容の背後にひそむ本質存在にまで当てはめようとするのであるが、そのような規定は知覚内容にとってさえも何ら絶対的な意味を持つものではなく、もっぱら相対的な意味しか持たない。二元論者は知覚内容と概念という認識過程の二大要因を四つに分けてしまう。一、客体そのもの、二、主観が客体から取り出す知覚内容、三、主観、四、知覚内容を客体そのものに関係づける概念。この場合、主観と客体の関係は現実の関係である。主観は実際に力動的に客体の影響を受ける。この現実経過はわれわれによって意識されない。とはいえその経過は主観の中で、客体の作用に対する反作用を呼び起こす。この反作用の結果が知覚内容であると言えよう。この知覚内容が最初に意識される。客体は客観的な(主観から独立した)現実を担い、知覚内容は主観的な現実を担う。この主観的現実が主観を客体に関係づける仕方は理念的である。さて、このようにして二元論は認識の経過を二つの部分に分裂させている。一方の部分である「物自体」から知覚対象を生み出すときの経過を二元論は意識の外におき、もう一方の部分である知覚対象と概念との結びつきや概念と客体との関係を意識の内部に生じさせる。このような前提の下では、どんな概念を用いても、意識以前に存在しているものを主観的にしか表現できない、と二元論者が信じるのは当然である。主観の中の客観的、現実的な営み、つまり知覚内容を生じさせる営みや、さらには「物自体」の客観的な諸関係は、このような二元論者にとって直接認識することが不可能なものであり続ける。二元論者の意見によれば、人間は客観的、現実的なものを概念によってしか表現できない。諸事物を相互に結びつけ、その諸事物を「物自 体」であるわれわれの個別精神と客観的に結びつける統一の帯は、意識の彼方の実体そのものの中にあり、われわれの意識はその実体を同じように概念によってしか表現できないのである。
二元論は、対象を概念的に関連づけることに留まらず、さらにそれを現実的に関連づけることまでもやろうとする。そうしないならば、全世界を抽象的な概念の図式にしてしまい、その結果世界を蒸発させてしまう、と思っている。換言すれば、二元論者は思考が見出す理念原理を実体のない、空気のようなものだと思っている。そして自分の立場を支えてくれるような現実原理を求め続ける。」
二元論の矛盾を論述する経過の中で、シュタイナーは「素朴実在論」について、その矛盾のあり様を論述していく。(この文章を展開する私自身が素朴実在論者に落ちいっていたことを今更ながら打ち明ける。シュタイナーのこの文章を読み、あらためて自分自身の思考が不徹底であったことを、実感している。)
138ページ2行目から引用させていただきます。
「そこでわれわれはそのような現実原理に立ち入った検討を加えてみようと思う。素朴な人(素朴実在論者)は外的な経験対象を現実であると考える。そのような対象なら手で掴むことも、眼で見ることもできるという事情が、このような人にとっては現実であることの証拠なのである。「知覚できないものは存在しない」。この命題こそが素朴な人の第一原理である。けれどもこの原理はそれをひっくり返して表現することも許される。つまり、 「知覚できるものはすべて存在する」。この主張の最上の証明は、素朴な人の不死と精霊に対する信仰であろう。このような人は魂を感覚的に知覚できる精妙な物質であると考えている。そのような物質として魂は、特定の条件の下では、一般の人にとっても見ることのできるものになる(素朴な幽霊信仰)。
そのような人にとって現実世界以外のもの、特に理念世界は非現実的であり、「単なる 観念」であるにすぎない。…」
シュタイナーは、さらに、素朴実在論について語ります。そして、形而上的実在論(二元論)に辿りつきます。素朴実在論、形而上的実在論の矛盾を指摘します。そして一元論の論理的整合性を説明していきます。
この個所を142ページ中ほどより下記に抜粋させていただきます。少し長い引用をさせていただきました。
「内に矛盾を含んだこの世界観は、形而上的実在論に辿りつく。それは知覚可能な現実と並んでそれとの類比で考えられた知覚不可能な現実をも打ち建てる。それ故、形而上的実在論は必然的に二元論になる。
形而上的実在論は、運動によって接近したり、諸対象を意識化したりすることによる、知覚し得る事物相互の関連づけを認める場合、そこにひとつの現実を措定している。しかし形而上的実在論が認めるその関連づけは、思考で表現され得るものであって、知覚され得るものではない。その理念的な関連は恣意的な仕方で知覚されているかのように扱われている。そのようにしてこの立場は、永遠の生成過程の中にあって現れては消えていく知覚対象と、知覚対象を生み出す永続的な働きである知覚し得ない諸力とから現実世界を合成する。
形而上的実在論は素朴実在論と観念論との矛盾だらけな混合物である。この立場が仮定する諸力は知覚し得ぬ存在でありながら、知覚の諸性質を担わされている。この場合は、知覚を通して認識し得る世界領域の外に、知覚では役に立たず、思考によってしか把握できない、もう一つの領域を存在させようと決意した。けれどもこの立場は、思考が仲介する存在形式である概念(または理念)を知覚内容と同じ確かさを持った現実要素であると認めることができない。知覚できない知覚内容という矛盾を避けたいのなら、思考によって仲介される知覚内容相互の関係が概念と同じ存在形式を持っていることを承認せねばならない。形而上的実在論から間違った構成部分を取り去ってしまえば、世界を知覚内容とその概念的(理念的)関連との総体として示すことができる。こうして形而上的実在論が辿りつく世界観は、知覚内容を知覚し、知覚内容相互の関係を思考する、という原則を立てる。この世界観は知覚世界と概念世界以外の第三の世界領域を存在させることができない。いわゆる現実原則と観念原則という両原則を同時に働かせる第三の世界領域を存在させることができないのである。
形而上的実在論は知覚対象とそれを知覚する主観との間の理念的関係以外に、知覚内容の「物自体」と知覚主観(いわゆる個体精神)の「物自体」との間にも現実的な関係が存在する、と主張するが、この主張は感覚世界の経過と共通したものでありながら、しかも知覚できないような存在経過がある、という誤った仮定の上に立っている。さらにまた私は自分の知覚世界とは意識的、理念的な関係を持っているが、現実世界そのものとは単なる力動的な関係しか持ち得ないという主張も、すでに指摘した誤謬を犯すことになる。力の関係は知覚世界(すなわち触覚領域)の中でのみ語り得るのであって、その外では語ることができない。
われわれは形而上的実在論が最後に辿りつくこのような世界観を、その矛盾だらけな要素を排除した後でなら、一元論と名づける。なぜならこの世界観は一面的な実在論を観念論と結びつけて、高次の統一体にしているからである。
素朴実在論にとっての現実世界は、知覚対象の総計である。形而上的実在論の場合、知覚内容以外に、知覚し得ない力にも現実性が与えられている。一元論はこのような知覚され得ぬ力の代わりに、思考によって獲得される理念的関連を措定する。そしてこの関連こそが自然法則に他ならない。自然法則とは知覚内容の相互関連についての概念による表現なのである。
一元論は知覚内容と概念との他に、別の現実解明の原則を求めたりはしない。現実のどんな領域の中でも、そのような原則を求める必要のないことを一元論は理解している。この立場は主観の眼前に拡がる知覚世界の中に、半分の現実だけを見る。この半分の世界に観念世界が結びつくと、完全な現実が現れる。形而上的実在論者は一元論者に対して、次のような避難を加えることができよう。「あなたの身体組織にとっては、あなたの認識は 完全なものであるかも知れない。どの部分にも欠けたところがないかも知れない。けれどもあなたとは別な身体組織をもった別の知的存在の意識に世界がどのように映し出されるか、あなたにはわからない」。一元論者は次のように答えるであろう。「人間知性以外に別の知性があり、その知覚内容もわれわれの知覚内容とは別の姿をとっているとしても、私にとって意味があるのは、別の知的存在をも含めた知覚内容と概念を通して私のところにまでやってくるものだけだ。主観としての私は自分の知覚、つまり人間特有の知覚を通して客体に相対している」。事物の関連はまだ作られていない。しかし主観は思考を通して、この関連をあらためて作り上げる。それによって主観は自分を全体としての世界の中に組み込む。われわれの主観にとって、全体はわれわれの知覚内容と概念とに二分されている。そしてこの両者を結びつけることの中で、真の認識が生じる。どこかに別の知覚内容を持った(例えば人間よりも二倍の数の知覚器官をもった)生物がいたとしたら、この全体の関連がどこか別なところで切り離されているであろう。そしてそれを再構成する試みもまた、この生物に特有の在り方をしているに違いない。素朴実在論と形而上的実在論は、いずれの場合にも魂の内容が世界の単なる理念的な代表作用にすぎないと見做すので、認識の限界への問いを出してくるのである。つまりこのいずれの場合にも、主観の外に存在するものだけが絶対なのであり、独立しているのである。そして主観の内容はこの絶対存在の単なる映像にすぎないのである。完全な認識とは、多かれ少なかれ、この映像が絶対的な客体に似ているということに他ならない。感覚器官の数が人間よりも少ない生物はよりわずかに、それが人間よりも多い生物はより多く、世界内容を知覚する。したがって前者の生物は後者の生物よりも、よし不完全な認識能力しか持っていないことになる。
一元論は別の考え方をする。知覚する存在の在り方次第で、世界の関連が主観と客体に分れて現れる。客体はこの特定の主観との関わりにおいては絶対的なものではなく、相対的なものであるにすぎない。したがって主客の対立に橋をかける行為は、まさに人間のまったく特殊な主題にふさわしい仕方でこそ可能になる。知覚行為において世界から切り離されている人間自我は、思考の考察活動においては再び自分を世界関連の中に組み込む。そしてそれによってこの分裂の結果生じた一切の疑問が消え去る。
別種の存在形態をもつ生物は別種の認識を持つかも知れない。しかしわれわれの認識方式だけでも、われわれ自身が立てた問いに答えるのに十分である。
形而上的実在論は次のように問わざるを得ない。知覚内容は何を通してわれわれに与えられるのか。主観は何によって刺激を受けるのか。
一元論の場合、知覚内容は主観によって規定される。けれどもこの主観は同時に自分自身が規定したものを再び止揚する手段を、つまり思考の働きをもっている。
形而上的実在論は、別な困難な前にも立たされている。異なる人間個性の世界像が相互に類似していることの理由を説明しなければならないのである。一体どうして主観的に限定された知覚内容と概念とから成る私の世界像が同様に主観的に限定された知覚内容と概念とから成る別の人の世界像に一致するのか。どのようにして私の主観的な世界像から他人の主観的な世界像を忖度することができるのか。人間が相互に実際に理解し合っていることから、形而上的実在論者は人々の主観的な世界像の共通性が説明できると信じている。
そしてさらにそれらの世界像の共通性から、個人の知覚主観の根底に存する個別精神、又は主観の根底に存する「私それ自体」の普遍性を結論づけている。
それ故この結論は、結果の総計からその基にある原因の性質を導き出している。われわれは数多くの例によって原因を導き出し、その原因が別の場合にどのような結果を生じさせるかを認識できると信じている。このような結論を帰納法による結論と呼ぶ。このような結論をもとに、さらに観察を続けていって、何か予期し得ぬものが生じたときには、その結論を変更せざるを得なくなる。この結論の性質は個々の例を観察する個人の観点に規定されているが、実生活の上ではそのような限定された認識だけでも十分に間に合う、と形而上的実在論は主張する。」
形而上的実在論者エドゥアルト・フォン・ハルトマンをシュタイナーは尊敬する哲学者としての思念を抱いています。その一方でシュタイナーは、「帰納的自然科学的な方法」を取り入れて形而上的実在論を言わば完成させたと主張するハルトマンに対して柔らかく、科学的に批判しています。
その個所(p147~)を下記に引用させていただきます。
「帰納法は現代の形而上的実在論の方法論上の基礎になっている。かっては概念の中から概念とは言えないような何かが現れてくると信じた時代があった。つまりかっては形而上的実在論者が求めている形而上的な現実存在を概念だけから認識できると信じていたのである。このような哲学態度は今日ではすでに克服されたものとなっている。しかしその代わり今日の人は、十分に数多くの知覚事実があれば、そこからこの事実の根底に存する物自体の性質をも結論できることができると信じている。昔は概念から、今は知覚内容から同じ形而上的なものを取り出してこようというのである。かっての人は概念の透明な姿を眼前にするとき、そこから形而上的なものを確実にひき出すことができると信じていたのだが、知覚内容は同じような透明さでは存在していない。同じ種類の知覚内容でも、知覚内容は現れる度にその都度何か別なものを示している。これまでの知覚内容から結論づけたものも、その後に続く知覚内容によって少しずつ変更させられていく。したがってこのような仕方で獲得された形而上的な形姿は、相対的な正しさしか持ち得ない。それは未来の諸事例によって訂正されていかざるを得ない。エドゥアルト・フォン・ハルトマンの形而上学はこのような方法論上の原則によって特徴づけられている。ハルトマンは最初の主著の扉に次のようなモットーを掲げた。――「帰納的自然科学的な方法による考察の諸成果」。
…」
そしてさらに、「●一九一八年の新版のための補遺」をこの第七章「認識に限界はあるのか」の最後に加えて、敬意を抱くハルトマンと『自由の哲学』の読者に対応しています。
この文章の最初の方で述べた言葉を繰り返しますが、「第七章 認識に限界はあるのか」は第一部「自由の科学」の最終章であり、まとめの章でもあります。
「世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる、と。この基本原理から出発する哲学は一元論哲学又は一元論と呼ばれる。」(p131)
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』を常に手擦りとして、『自由の哲学』を読んできました。この「第七章 認識に限界はあるのか」について、今井さんは自著のP50~52に次のように書いています。一部を抜粋させていただきます。
「認識には限界がある、というのがカント以来の認識論の常識でした。人間の感覚器官を通して捉えられるものが色だとして、赤の外には赤外線の波長があり、紫の外には紫外線の波長があるのに人間の目には見えません。すると、人間の目の方に限界があり、色の本質で波長は認識できていないということになります。このように、感覚器官を通した人間の認識には限界があるので、「物自体」と呼ばれる物の本質は認識できないと結論づけられやすいのです。
しかしシュタイナーは、それは誤りで、認識には限界がないと主張します。…
人間、外部のものを知覚します。知覚するとその知覚対象を思考によって整序します。人間や動物が視界にいる場合は、その状況を思考によって判断します。知覚と思考が正しいかどうかは実際にその知覚と思考に従って行動してみれば結果がでます。つまり知覚と思考は行動によって修正されていき、認識の限界は存在しないのです。…」
今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)に助けられながら、ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)を読んでいます。シュタイナーは近代哲学の祖と言われるカントよりも、同時代の先輩哲学者ハルトマンを重視し念頭に置き、『自由の哲学』を書いているのだと思いました。そのハルトマンの著書が日本語に翻訳されていないのは非常に残念です。
先ずは、ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)今井重孝著『シュタイナー「自由の哲学」入門』(イザラ書房)を購入して、くりかえし繰り返し、共に読み深めていただきたいと思っています。
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