「大震災・原発事故から5年目」2016年3月1日30回目2016年03月01日

除染作業に向けて

 今日から3月。良い天気だ。けれども風が強く冷たい。8時少し前に朝食を終えた。今日は、飯舘村除染作業に向けて、一般健康診断・電離放射線検診を午後に控えている。食事後5時間経過後に検診を受ける予定になっている。予約をしたクリニック担当者の指示である。午後1時過ぎ、大宮ソニックシテ30階に行き、検診を受ける予定だ。
 朝食後、直ぐ歯磨きをする。食事後の歯磨きは歯磨き粉を使わない。歯ブラシだけで磨き、うがいをしっかりする。飯舘村除染作業に就くようになってから習慣化した良き事例である。除染作業に入る前に歯科医院へ通っていたこと。月に1度帰省した時に、歯科医院へ通ってきたこと。除染作業仲間によく歯磨きをする若者がいたこと。そのような体験から、食事後の歯ブラシだけの歯磨きを習慣化出来たと思っている。
 歯磨きの歴史をウェブで調べてみると、ベンチャー企業のビバテックの「歯ブラシの歴史」ページにわかり易く紹介されていた。麻の繊維や歯木(ようじの一種)を使った口内清掃がルーツの一つのようである。
 「原始の人々は、硬くて繊維の多いものを食べていたことはよく知られるところである。だから、比較的虫歯も少なかった。彼らは、歯の隙間に挟まった食べかすを取り除くために、生活圏内の草や小枝を使って取り除いていた。
 紀元前5千年のバビロニア人は、食前に必ず麻の繊維を指に巻き、歯の清掃をしていたという。そうして歯磨きは、バビロニア人からギリシア人へ受け継がれていく。さらにギリシア人は、さらに口をすすいで歯ぐきにマッサージを施すことを考案したと言われている。
 *歯磨きとは、歯だけを磨くことではなく、歯と歯の間の汚れを取り、マッサージすることなのである。
 宗教的な慣習の中でも、口内衛生の意識は、紀元前から具体的な形をとって存在していた。例えば、日本における歯ブラシの起源として、6世紀に仏教伝来ともに伝えられた「歯木」で、この習慣は、仏教経典に楊枝による浄歯が一儀式としてあった。それが、歯や舌を清掃することとして始まったといわれている。」http://vivatec.jp/history/index2.htm

 午後はさっそく検診の為、JR宇都宮線の2駅目の大宮駅で下車し、西口に出た。ソニックシティビル30階に上がり、クリニックに入る。クリニックの待合室の窓から見える風景は見晴しがよい。西南方面には富士山がよく見える。東北方面の窓から近くの下方に大宮公園の森が見える。それは広々した風景の小さな緑の塊であった。その一角のサッカー場の屋根のおもちゃの箱のようだ。大宮公園サッカー場は大宮アルディージャの本拠地であるが、ここからの風景は小さな塊である。

 検診を終えて、大宮駅へ向かう。駅前で通行人へカンパ支援の呼び声を上げている男女がいた。福島県の原発事故被災地の動物保護をアピールしていた。その活動資金としてのカンパ呼掛けである。ネコの保護を行っているという。福島県三春町に保護施設が有ると言う。私もワンコインのカンパを行い、カガリビと言う機関紙を頂いた。里親カフェという名称のグループで、行き場を失った猫を預かり、里親の元に渡るまで世話をする組織だという。NPO法人青年協議会の協力団体とのことである。
 この存在を私は初めて知った。しかし、震災・原発事故被災を理由にカンパを募る団体が有り、注意する必要があるので、皆さんよく調べて対応して下さい。要注意です。

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月2日31回目2016年03月02日

グーグルマップ

 朝のテレビニュースでグーグルマップが更新されたと聞いた。後でパソコンを立ち上げて、グーグル検索ページからグーグルマップを開いた。飯舘村役場前の交差点にストリートビユーを開き、マップの村道を飯樋方面に移動して行った。途中にある大きな土取り場は未だ採土されていない状態であった。自然の緑が多くなって来ているが、陰地には雪が残っている所が有る。春先の飯舘村ようである。マップの飯舘村は未だ除染作業前の状況である。
 グーグルマップの更新と聞いて、黒いフレコンバッグの山が見られることを期待したが、マップを開いて見ると、まだ飯舘村の現在の状況を反映していなかった。
 
 除染情報プラザの最新情報をパソコンで開く。2016年2月26日の日付が「除染特別地域」の除染最新情報である。
 「除染特別地域」は、避難者を出している地域のことで、線量が高い地域である。国、環境省管理下の除染作業が行われている。「除染特別地域」全体の除染作業員は、2月26日冬場に1日当り平均人数約11,600人働いている。その内訳は、田村市0人・楢葉町380人・川内町0人・南相馬市2,900人・飯舘村1,200人・川俣町160人・葛尾村110人・浪江町3,400人・お熊町360人・富岡町3,600人・双葉町360人。
 冬場なのでピーク時の1/2である。春から秋にかけて1日2万人以上の除染作業員が「除染特別地域」で働いている。
 それに加えて、「除染特別地域」以外の地域でも、1mSV/年以下を目指して除染作業を行っている。例えば福島市・郡山市など中通りの多くの行政区で今尚除染作業を行っている。その市町村管轄の除染作業員約1.3万人がいる。その人たちを加えれば、ピーク時は3.3万人の除染作業員が働いている。
 
 今年4月からの平成28年度「除染特別地域」の除染作業は最終年度の除染作業と見なされている。平成29年4月は「除染特別地域」の避難住民の帰還予定になっている。予定通り帰還出来るかどうか、除染作業に全てがかかっている。
 「除染特別地域」とは、今までの「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」である。「帰還困難区域」の除染作業が未だ手付かずの状況で残っている。飯舘村は「長泥行政区」が「帰還困難区域」である。今後除染作業はまだまだ続く。帰還困難区域」の除染作業が控えている。

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月3日32回目2016年03月03日

 放射線被ばくについて

 放射線被ばくについては、わからないことが多い。低線量被ばくについても基準になる数値が確立していない。
 今日3月3日の朝日新聞7面記事に、
 「国際放射線防護委員会(ICRP)が復旧時被曝線量として示すのは年1~20㍉だが、政府が11年12月、その最も緩い20㍉を採用、5㍉も検討されたが、避難者増を懸念して見送られた。…」という記載がある。当時の民主党政権下で判断され、現状の自民党政権下で継承されている施策でもある。
 「被曝線量の基準としてICRPが、原発事故から復旧する際の参考値とした被曝線量1~20㍉シーベルトをもとに、日本は20㍉以下になることを避難指示の解除要件にする一方、除染などにより長期的に年1㍉以下にする目標を掲げた。」
 
 記事はさらに、南相馬市原町区の周辺市民206世帯・808人が原告として、「年20㍉シーベルト以下なら安全なのか?」をテーマに健康リスクを考えて、国の帰還政策を問う集団訴訟の審理が本格化している。
 「原告らは、年20㍉SV(政府の計算方法で毎時3.8μSV相当)の基準に振り回されてきた。原告らはこの裁判を「20㍉シーベルト基準撤回訴訟」と呼ぶ。年20㍉の基準そのものがおかしい、と考えるからだ。」とある。
 それに対して、「被告となった政府の原子力災害現地対策本部は15年4月の提訴日に事実上の反論文書を出し、年20㍉は「国際的・科学的知見を踏まえて決定された」と、その妥当性を主張した。」とある。(編集員員 小森敦司さん)       

 さらに記事は、「年1㍉が望ましい」として述べている復興庁 有識者検討会 座長を務める大西隆 日本学術会議会長の意見を紹介している。
 「仮に年20㍉シーベルトの環境で生活し続けた場合、線量の自然減衰を考慮しても、7年もすれば累積の被曝量は、がん死亡率の増加が検出しやすくなる100㍉に達する恐れがある。今まで避難生活によって被曝を避けてきた意味がなくなってしまう。
 一般の人が帰還してずっと住むには、平常時の追加被曝線量の基準である年1㍉が望ましい。この1㍉も自然放射線量(年約1.5㍉)を上回る追加的な線量なので、これから長く被曝する可能性のある若い人たちや、「もとの福島に戻して」という人たちは、不安に思うこともあるだろう。いまから基準を変えるのが難しいとしても、除染などによって年1㍉をいつまでどう実現するか。国と東電は丁寧に説明し、行程を示す責任がある。」(聞き手 編集委員大月規義さん)

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月4日33回目2016年03月04日

福島県民世論調査(福島放送+朝日新聞社)を見て思う!

 世論調査の結果を読んで、一般的には、多くの人々は「大よその傾向を把握する」と考えている。情況の傾向を大筋で押えておく。そのような理解で、2月下旬に福島放送・朝日新聞社が共同実施した『福島県民世論調査』を見た。朝日新聞3月4日朝刊より。
 
 調査方法の説明は、電話によるRDD方式(乱数番号法、Random Digit Dialing)とある。コンピュータで乱数計算を基に電話番号を発生させて電話をかけ、応答した相手に質問を行う方式。

 ➀復興への道筋について?
   あまりついていない   53%   12年調査では  54%
   まったくついていない   9%    12年調査では  38%
   ある程度ついた     35%    12年調査では   7%
   大いについた       1%   12年調査では  0% 
 
 ②もとのような暮らしが出来るのはどのくらい先か?
   20年より先      51%
   10年ぐらい先     20%
   20年ぐらい先     18% 

 ③原発再稼働は?
   賛成         10%   2月の全国定例調査では 31%
   反対         77%   2月の全国定例調査では 54%

 ④原発への政府の対応は?
   評価する       17%
   評価しない      66%

⑤汚染水問題の対応は?
   評価する       13%
   評価しない      66%

 ⑥福島のイメージの回復度は?
   あまり回復していない  58%
   まったく回復していない 10%
   ある程度回復した     29%
   大いに回復した      1% 

 ⑦放射性物質への不安は?
   大いに不安を感じる    21%
   ある程度不安を感じる  47%
   あまり感じていない    26%
   まったく感じていない   5%

 ⑧原発廃炉作業への不安は?
   大いに不安を感じる    42%
   ある程度不安を感じる  43%
   あまり感じていない    11%
   まったく感じていない   2%

 ⑨指定廃棄物の処分について?
   県内で集めて処分しても良い 44%
   県外でも処分すべきだ     46%

 ⑩原発事故避難者の賠償について?
   実情に合わせて賠償を受けている  42%
   実情に合わせて賠償を受けていない 36%

 ⑪商工業者への賠償を来年3月までで終える方針は?
   妥当だ    35%
   妥当でない  49%

 ⑫避難住民への慰謝料支払いを2018年3月までで終える方針は?
   妥当だ     45%
   妥当でない  38%

 ⑬自主避難者への住宅の無償提供を来年3月までで終える方針は?
   妥当だ     53%
   妥当でない  34%

 次のような福島県民世論調査のコメントを意識しておくことは大切である。
 「こうした数字の状況は、県民のおかれた被災状況が一様ではなく、様々な立場があることを反映しているとみられる。」

 私自身、今回の福島県民世論調査を読んで思ったことは、復興復旧の道程(みちのり)は永い時間がかかること。東日本大震災の復興復旧に加えて、福島第一原発事故による放射能汚染からの復興復旧の道程は永く続く。帰還困難区域の除染作業は未だこれからである。
 福島第一原発事故の経験は、チェルノブイリ原発事故と同様に未曾有(みぞう)の経験である。この経験は、大変な事故であるが、重要な体験である。今後全世界で起こり得る原発事故に対する対処方法や経験知として、除染作業や廃炉作業のノウハウは大事な財産である。その記録が大切である。
 日々の時間の流れ、永遠に続く世界があり、地球上には日本列島がある。その本州の東日本沖、太平洋の海底でプレートが僅かに弾んだ。その結果、1000年に一度の大地震と大津波が生まれた。その為、東北3県の太平洋岸に大きな自然災害と人工災害が生まれたのだ。そして今、東日本大震災・福島原発事故から5年を迎えつつある。今を暮らしながら、思いをひろげる。

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月5日34回目2016年03月05日

飯舘村の本来の自然は?

 今日3月5日は暦の上で二十四節気3番目の啓蟄(けいちつ)である。啓蟄は「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意で、春の季語。3月になり陽射しは強くなっており、日の出は早くなり、日の入りは遅くなってきた。日が伸びた。虫たちも籠ってはいられないのがわかる。
 
 気象庁は1953年から、季節の移り変わりを動植物の様子でみる「生物季節観測」を続けている。生物は、気象台職員が初めて姿を見た日を初見日(しょけんび)、初めて鳴き声を聞いた日を初鳴日(しょめいび)として記録に残す。ところが近年、観測が休止に追い込まれる事例が相次いでいるという。温暖化や都市化の影響で今まで暮らしていた生き物が姿を消してしまった。

 千葉県銚子市の銚子地方気象台では、トノサマガエルが2011年以降は見られない。5年間も見られないのは初めてという。かって東京都と神奈川県を除く45道府県で確認された。2015年春に姿が確認できたのは栃木や三重など5県のみ。25都道府県はすでに観測をやめている。
 ホタルは14都道府県で観測対象から外した。ヒグラシは現在37都道府県しか観測を続けていない。
 東京大手町の東京管区気象台では2011年、6種の観測をやめ、ウグイス・ツバメ・シオカラトンボ・アブラゼミ・ヒグラシの5種類に絞った。ただ「春告鳥(はるつげとり)」とも呼ばれるウグイスの鳴き声は2000年を最後に確認できない。
 山梨県甲府地方気象台では、ヒグラシの初鳴は2013年が最後。
 生物観測エリアは気象台の敷地内か、半径5㎞以内にある雑木林や水辺で、気象台職員が定期的に観測にいく。
 敬愛大学国際学部非常勤講師の松本太さん(環境学)は「地球温暖化が進んでいるうえ、気象台がある都市部では開発による環境変化やヒートアイランド現象で、生物が生息しにくい環境になっている」と分析している。(朝日新聞1面 鈴木逸弘記者より)

 この話から思い起こすのは飯舘村の自然のことである。
 除染作業が進められている福島県飯舘村での体験に繋がる話でもある。私が除染作業に関わった飯舘村の飯樋地区、小宮地区を流れる飯樋川やその支流の流れには、魚影が見られない。橋や土手から流れの中を凝視して見てきたが、魚の姿を見かけたのはおおきな鯉を1匹見たこと以外記憶が乏しい。
 イノシシ、サルが近くまで来ていた。カラスやヘビは見かけた。だが、小鳥の姿や鳴き声が少ない。チョウチョウ・セミなど昆虫はいるが、数が少ない。セミの声もボリューム感が無く、どこか寂しげである。けれども春夏秋と緑深く暑い阿武隈高地の飯舘村の自然は豊かである。しかし小動物、川魚、昆虫が少ない。豊かな自然の阿武隈高原の飯舘村は本来もっとボリュウーム感のある自然であるはずだ。それが、今の飯舘村には欠けている。その原因は、放射能汚染にあるのだろうか?
 放射線を感じ取り、小動物、川魚、昆虫は姿を隠してしまったのか?それとも除染作業で動く重機の振動などで驚いて逃げ去ったのか?
 飯舘村の緑豊かな自然の中で除染作業が進められているが、その自然に何か不足感がある。
本来もっとボリューム感のある自然であるはずだ。

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月6日35回目2016年03月06日

震災事故復興に向かって

 NHK 9時から番組で日曜討論『東日本大震災5年 福島の復興を問う』を放送していた。参加者は、福島県内堀知事、丸川環境相、林通産相、田坂多摩大教授、今井福島大教授、司会進行島田キャスター、サポート中川アナウンサー。
 
 話の中からキーワードを拾ってみた。
 ……原発事故健康への調査、除染で出た廃棄物、処分どう進める?、2200万立方メートルの廃棄物、中間貯蔵施設、地権者1.9%承認、県外移設、信頼関係の行き違い、汚染水問題、うちの裏庭には捨てないでくれ!、社会心理学的、故郷への思い、8つのステップ、除去土壌の減容化、風評被害対策、農産物・観光、情報発信、粘り強い取り組み、流通各社への県産物アピール要請、リスクコミュニケーション、安全だが安心できない、原子力産業への不信、安心への確立、モニタリング、除染プラザ、廃炉作業、核燃料の取り出し、汚染水対策、40年の廃炉作業の努力目標、例の無かった事故と廃炉作業、基本的な考えを纏めていく、帰還住民への原発の安心感、オールジャパンの問題、安全安心確保、汚染水の壁、凍土壁、入口の問題、これからの問題、原子力安全への産業、福島の未来の産業、廃炉へ向けて道程、原子力規制委員会、福島県の原発の廃炉、福島第二原発の廃炉は?、福島県民の心情、福島県以外の原発稼働、再生可能エネルギーの推進発展、2030年のエネルギーベストミックス、安定のある電力、他等々。

 原発再稼働については、2つの意見が対照的で印象に残った。内堀福島県知事は、福島第一原発事故の原因究明の明確化と対策を踏まえることが前提であることを述べた。林経産相は、石炭・石油・ガスなどの火力発電に頼る状況の中で、未だ原発稼働は必要であると述べていた。

 その後の復興サポートスペシャル番組で、『始まった地域の支え合い 岩手 釜石市』『放射能汚染からの再生 福島 川内村』を放送していた。壊れた地域づくりの再生+新地域づくりがデーマになっていた。雇用の場を創ることが大きな課題になっていた。期待や願いを実現できる地域づくり、眠っている資源の発見、商店街の再生等々
 法政大教授社会運動家の湯浅誠氏、民俗研究家結城冨美雄氏、復興サポーターの人たち、地域の有志の皆さん等が登場した。廃炉作業のイチエフに通う川内村出身の農業者夫妻が子育てをしながら、餅をつき、仮設住宅の人たちに贈り届けるシーンもあり、感動的である。地域の良い物を商品開発し、地域づくりに生かす。有識者の参加で、学習会や提案を受ける。

 夜9時から『被曝の森』を見た。5年間の里山に囲まれた無人の街は、野生動物の住処になっていた。今、日本及び世界の研究者入り、動物や植物の被曝状況の研究を進めていた。チェルノブイリ原発事故周辺と比較し、研究内容を深めていた。

 今日思ったことの一つは、困難な課題にぶつかった時、その課題を乗り越えて行く意志力について確認することが大切だと考えた。
 そして一人の人生の一こま一コマを生きていることは、そのひとこま一コマを演じていると思うことができた。人生とは、自然を背景にして、いつもぶっつけ本番の生きることを演じることなのだと。

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月7日36回目2016年03月07日

『戦争を知らない子供たち』と『あの素晴しい愛をもう一度』

 今日は朝から雨である。新聞はビニールにパックされて届けられていた。きちんと日々の情報や意見を届けてくれる。雨の中を新聞配達ご苦労さまですと思わずにはいられない。感謝の合掌である。
 日々無事に暮らして行けることは有難いことだ。内戦で国外げ脱出せざる得ないシリア難民の皆さんについて考える時、痛切に思い知らされる。日本では東日本大震災・福島第一原発事故により避難を余儀なくされている皆さんがいる。
 震災・原発事故の被災地は5年を迎へようとしている今も大変な情況である。それと同様にそれ以上に内戦の混乱による危険な状況と生活困難な状況に直面しているシリアの皆さんの生活が大変である。何よりも未来を担う少年少女乳吞み児を抱える家族難民の皆さんの苦闘を思うと辛くなる。戦争はいけない。宗教思想の違いによる争いは特に避けて欲しい。宗教は平和を求めるものである。それが何故宗派対立をして争うのか。戦争は避けるべきだ。傷つけあうことは良くない。
 しかし、私たちは、戦争を経験していない。戦争を知らない。そして戦争を知らないで良かったと思う。第2次世界大戦終戦前後からの団塊前後世代は「戦争を知らない子供たち」である。
 
 思い返すと懐かしい歌がある。1970年に発表された「戦争を知らない子供たち」がある。そして、1971年んは『あの素晴しい愛をもう一度』がある。この2曲のPRを兼ねて、イメージのひろがる歌詞を掲載させていただこう。

『戦争を知らない子供たち』 北山修作詞・杉田二郎作曲 リリース1971年2月5日
戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ

若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ

青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな夕日が 輝く小道を
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
戦争を知らない 子供たちさ

『あの素晴しい愛をもう一度』 北山修作詞、加藤和彦作曲  リリース1971年4月5日
命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月8日37回目2016年03月08日

確かな情報誌

 現代日本は雑誌や新聞、冊子、広告チラシで溢れている。郵便受けには毎日何かの広告紙が入っている。携帯電話・スマートフォンで簡単にインターネットを開くことが出来る。TVはどこの家庭でも置かれている。けれども、新聞の紙情報は根強い。情報媒体が氾濫している。
 それでも情報の受取には格差が媒体と表裏して存在している。情報とは、リテラシーとは、発信側、受取る側、その媒体等々で複雑な様相を態している。情報は氾濫と格差の両面を生んでいる。

 新聞の広告欄を見ても、本屋の雑誌コーナーを見ても、図書館の雑誌棚を見ても、今たくさん情報が氾濫気味である。季刊誌、月刊誌、週刊誌、日刊紙等々情報が華やかで過剰な時代である。
 図書館などは高齢者が新聞雑誌コーナーに大勢いる。インターネット情報が豊かな状況になっているが、高齢者がネットを開いて情報取得することは少ないようだ。情報格差はインターネットを開く事の出来ない階層にあるようだ。それ故に紙媒体は必要なのだ。電子情報、紙情報とも大切である。市町村行政の広報誌は、インターネットのホームページで閲覧出来る。また、紙媒体でも閲覧出来る。

 私が除染作業に参加した福島県飯舘村の広報誌は、飯舘村ホームページで閲覧出来る。2年前の秋に飯舘村飯野出張所に行き、月毎の広報誌をいただいたことがある。飯舘村菅野村長の「こころのポケット」が飯舘村広報誌に毎号掲載されており、面白い。インターネットに繋がる環境さえあれば、スマホやタブレット、パソコンから遠方でも覗くことが出来る。
 人類の進歩はインターネットまでたどりついた。世界の情報が素早く閲覧出来る。情報発信も素早く、しかも世界に向けて発信出来る時代に入った。科学技術の進歩は、一方では生活を豊かに華やかにしている。

 その科学技術の進歩をインターネットの発展から視線を転じて、電力技術へ目を向ける。そこには、巨大科学システムの原発が有った。原子力で電気を生み出す技術は、おおきなリスクを抱えていた。原子力発電所の事故は起こしてはいけない技術であった。その原発事故を、福島第一原発で起こしてしまった。東日本大震災は海底プレートの大きなひずみから生まれた大地震と大津波から生まれた。その地震と大津波が福島第一原発の冷却系統の電源を破壊した。そして、原子炉がメルトダウンを起こし、原子炉建屋が水素爆発で壊れ、放射能が風に乗り、福島県の阿武隈山地やその周辺地域、そして近隣の大地を汚染した。その東日本大震災・福島第一原発事故から5年目を迎えている。
 
 今日伝えたかったことは、多くの雑誌の中で、確かな情報を伝えるコミュニケーション誌の紹介をしたい。その名は『のんびる』。
 3月号で「震災から5年」を特集している。記事の一つに「ふるさと飯舘村を撮る。」写真・文横山項一さん。飯舘村出身で、全村避難の為、現在伊達市に在住。変化していく飯舘村を撮り続けたいと語っている。
 月刊誌『のんびる』は、発行者はパルシステムで、電話03-6233-7235。

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月9日38回目2016年03月09日

一般ゴミと放射性廃棄物

 今日水曜日は私が暮らす地区はゴミなど廃棄物は無い日である。いつもは早朝ゴミ置き場まで捨てにいく。あるいは前日夕方出しにいく。
 ゴミ問題を真正面に据えて考えることは大切なことだと思っているが、きちんと自分の問題として考え抜いたことがない。行政のゴミ分別の基準に沿って出してきた。が、それ以上の考え方をしてこなかった。
 
 飯舘村の除染作業に参加して、除染廃棄物の草木や表土をフレコンに投入して縛り、一時保管する作業をこの2年行ってきた。セシウムと言う放射性物質が浸み込んだ草や木、表土を集めて袋に入れる。放射性物質を除染する作業である。これは日常生活から生まれる紙屑や、食品残渣など、例えば納豆の空き容器などのゴミを集めて廃棄するのとは違う。けれども、廃棄物として共通点がある。だから、朝や夕方に、毎日の生活から出るゴミを廃棄する時、除染作業で集められたフレコンバッグの放射性廃棄物の袋の行方について連想し、思い考える場面に至ることがある。
 除染作業で集められたセシウムに汚染されている放射性廃棄物。低線量被ばくでも特に幼児や子供は先ず避けねばならない。一般ゴミとは違うのだ。一般ゴミの中でもビニール系のゴミは低温度の焼却炉だとダイオキシン発生の原因になるという。そのようなことが一因としてあるが、一般廃棄物と放射性廃棄物が重なって心の中で迫ってくる。ゴミはゴミだ!廃棄物は廃棄物で同じだと。けれども分別が必要ではないか。特に放射性廃棄物は、最も危険度の高い分別ジャンルである。放射性廃棄物の分別は、一般ゴミとは異なる放射線管理のきちんとした隔離保管が必要になる。フレコンバッグに詰められた除染廃棄物は、農地などの仮置場に現在隔離保管されている。放射性廃棄物はいずれは中間貯蔵施設に入り、29年後には最終処分場で管理される予定となっている。 

 今日のテレビニュースで、政府は福島県内の森林除染範囲を拡大する方針を固めたという。
「里山」と「奥山」に分けて、人が立ち入る「里山」の除染が決まったという。
 インターネットでこの情報の確認をすると、ヨミウリ・オンラインに次のような情報が掲載されていた。下記に引用させていただきました。
 「里山内では、急斜面など土砂の流出が起きやすい場所を除き、日常的に人が立ち入る林道やキャンプ場、キノコの栽培場、炭焼き場、散策路、休憩所、駐車場などの除染を行う。竹林や広葉樹林は、放射線量を測定しながら一部を伐採し、安心して立ち入ることができるよう整備する。」
たあった。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/20160309-OYT1T50001.html

「大震災・原発事故から5年目」2016年3月10日39回目2016年03月10日

東京大空襲から思う
 
 戦後生まれの私は東京大空襲を知らない。けれども、その問題は今も生きている。
 東京は1944年、1945年と空襲を受けた。その中でも1945年3月10日の下町空襲は死者数が10万人以上と著しく多く、これを「東京大空襲」と呼ぶ。この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた(ウィキペディアより)。今日、「東京大空襲」から71年になった。
 戦争で亡くなられた人々に鎮魂の祈りと合掌。その皆さまが生きて暮らしてきた日本の大地の上て、今、私たちは生きて暮らしいる。
 このような戦争は二度と起こしてはならない。それは確かなことである。戦前の日本は戦争に走ってしまった。それは悔やんでも悔やみきれない事実である。

 それは、原発事故を起こしてしまった状況の中で、原発推進者や傍観者、原発反対者を含めて、私たち一人ひとりがどっと、手のひらを返すが如く、原発反対に回り、原発を悪者にしていく風潮に危険を感じるのである。日本人のそのような気質が心配である。この間の原発反対運動がそれを示しているようで、心配である。
 第二次世界大戦は、日本人全体の責任である。一部のトップを戦争責任者にしても、第二次世界大戦を引き起こした責任は、日本人一人ひとりに問われているのだ。朝鮮半島の人々、中国の人々、東南アジアの人々、大洋州の島々の人々の戦争被害者の方々から見れば、日本人一人ひとりが加害者でもあったと考えられる。
 福島第一原発事故の責任は、我々電気利用者全てに責任がある。東電に責任を押し付けることは正当では無い。
 原発という科学技術の問題・課題についても、現在世界に存在している原発の問題・課題についても、日本として原発賛成・反対を超えて、原発の現実をきちんと考え抜くべき時代になっている。

 福島第一原発事故前は、原発反対を唱える人々は少数であった。しかし、原発事故後は、一変した。原発推進者が反対に回り、今や原発は悪の象徴のようになっている。「それは、事故を起こした以上当然ではないか。」と言われるが、そこには、棚上げされた思念・思考が残っているように考えられる。
 日本に原発が54基作られてきた。狭い国土の日本に、54基もある。これは多すぎる。国土面積に比較してこの原発の数は多すぎる。この多数の原発は、現在、原発反対に転向した多くの人々にも責任がある。原発は国家政策の電源開発であった。その原発の運用管理を東電及び各地の電力会社に委託した。だから、原発事故の運用責任は東電及び各電力会社にある。それは明確である。しかし真実の責任所在は日本国政府にあり、それは国民一人ひとりにある。
 だから私は原発事故が起こってしまった以上、原発反対・賛成というレベルの問題では無いと考える。今さら、原発反対を唱えたところで、福島第一原発事故の責任は回避出来ない。原発を推進してきた人も傍観してきた人も、反対してきた人も日本国民として原発事故の責任がある。
 だから、原発反対・賛成を超えて、世界のエネルギー政策をどう考えるか。地球規模から、原発を考え、原子力技術の課題を考える。そのような認識の地平に立つことが必要な時代だと思う。
 
 先ず原発被災者及び避難者への補償はきちんと行っていかなければいけいない。それと共に原発被災地の除染作業もしっかり行っていくことが重要である。
 そして、原発反対・賛成という発想では無く、原発という科学技術をどうするのか。そのような発想で議論していく必要がある。多くの人々が理解出来る議論が必要である。原発反対・賛成という発想では、見逃してしまう問題・課題が出てくる。大切な何か物事を見落としてしまう。
 原発という科学技術を封印してしまった場合、どのような問題が生まれるのか。このような発想こそ大切である。