『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』 2016年10月10日、5回2016年10月10日

 表題のルドルフ・シュタイナー、希望のある読書から、暫く離れていた。7月中旬から10月上旬まで、介護初任者研修に入っていた。そのため、そこに集中しなければならなかったのだ。
 介護初任者研修を社会福祉法人ぱるの施設である「特養老人ホーム いきいきタウンとだ」で受講してきた。社会福祉法人ぱるの職員である介護福祉士、社会福祉士、ケア・マネジャー、施設長、福本京子理事長自ら講師を勤めて、9名の研修生が受講した。そして、研修実技テスト、学科試験を全員どうにかパスして介護保険法で定める介護職員初任者研修課程を修了出来た。
 介護職員にならなくとも、この研修は人間観を広げ深めることが出来る。だから非常に大切な学習でもある。そう思った。
 2000年に介護保険法が施工された。それから15年以上経過し、今は2016年。団塊世代が定年を終え、年金生活に入りつつある。仕事から離れた人々の老化は早急に進む。認知症が思いのほか深く、広がりつつある。定年制システムが無かったら、人間はもっと元気に過ごせるであろう。働いている人間は元気である。仕事が心身を活性化させる。福祉予算は40兆円も使わなくて済むであろう。けれども、今日本はいよいよ高齢化社会に拍車がかかってきた。                        このような高齢化時代を高齢者自身どう考え、どう対処して行こうとしているのか。その問いが今、高齢者自身に突きつけられている。何もせず老衰していくのか。そして、介護を受ける身分に甘んじるのか。いや、それどころでは無い。今の若者に余裕が無くなりつつある。余裕を失いつつある時代状況の中で、高齢者同士お互いに元気で助け合わなければいけない。老老介護が必要な時代になっている。だから、高齢者自ら生きる道筋を切り開いていくことが必要な時代に入った。それ故に、多くの高齢者の皆様に介護初任者研修を勧めたい。
 もちろん高齢者だけでは無い。若者も中高年も介護初任者研修は受講して損は無い。それ以上に積極的に受講すべき分野である。人間の根源を見つめる視点を発見できる。そう思う。どうぞ、どなたも情報を取得して、出来るなら、居住圏の身近な場所で受講するとよい。特に高齢者の皆様にお勧めである。是非どうぞ‼
 私はその先鞭を切らしていただいたと思っている。     
 そのような理由でこの間、ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書から遠ざかっていた。今日より再開して行きたい。

「政治領域と経済領域に並んで、健全な社会有機体においては、自主管理的な精神領域がなければならない。社会有機体のこの三分節化の方向に近代の進歩は向っている。社会生活が大部分の人びとの本能の力で営まれていた限り、この分節化への衝動ははっきりとは現れなかった。しかし基本的には、常にこの三つの源泉から社会的な力が生じていた。そしてそれぞれの力が社会生活の中で一緒に働いていた。
 近代は意識的な態度で社会有機体の中に身を置くことを人びとに求めている。 この社会意識は、三つの側面から理解されるときにのみ、人間の態度や人間の生活全体の健全な在り方を明らかにすることができる。近代人は魂の無意識の深みにおいて、この三分節化を求めてきた。近代の社会運動はその努力を不明瞭ながら映し出している。
 今日のわれわれの生活基盤とは別の地盤から、人間本性の深い地下から、十八世紀の末に人間的な社会有機体を新しく形成しようとする呼び声が、聞こえてくるようになった。この新しい社会形成のモットーとして、友愛、平等、自由という三つの言葉を聞くようになった。
(『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』第二章、83p。ルドルフ・シュタイナー選集第十一巻 高橋巌訳 イザラ書房発行より)

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』 2016年10月11日、6回2016年10月11日

「今日の社会批判が提示している根本問題のひとつは、プロレタリアートが私的資本主義によって受けてきた抑圧をなくすのにはどうしたらよいか、ということである。資本の所有者もしくは管理者は、肉体労働者を自分の企業活動のために奉仕させている。この資本と人間労働力とが生み出した社会関係を理解するには、三つの部分を区別しなければならない。或る人間もしくは人間集団の個的能力を基礎にした企業活動と、法的関係としての起業家と労働者との関係と、商品価値をもつ物品の生産の三つをである。
 企業が社会有機体に対して健全な仕方で働きかけるためには、人間の個別能力を最上の仕方で生かさなければならない。このことが可能となるのは、能力ある者が自由な創意を発揮して働くことのできる、そしてまたその創意を自由に評価できる人のいる分野が社会有機体の中に用意されているときだけである。
 資本による社会活動にも精神生活が必要であり、立法と管理を引き受けるにも精神生活が必要である。政治国家がこの活動に干渉するならば、個的能力が抑圧されてしまう。なぜなら政治国家はすべての人間が平等にその権利を有するような生活要求に応じなければならないからである。政治国家の分野においては、すべての人間のそれぞれの判断を平等に生かさねばならない。政治国家の活動にとっては、個別能力の理解、無理解は問題にならない。したがってまた、政治国家が個人の能力に影響を及ぼすことも許されないし、経済利潤を資本によって可能にする個的能力の働きに影響を及ぼすことも許されない。
 資本主義を論じるものの中には、この利潤追求を重視する者が多い。その人たちは、そのような利潤追求の精神がなければ、個的能力が発揮されない、と考えている。そう考える人たちは自分を実際家だと思っており、「実際家」として、人間の「不完全な」性質をも考慮に入れる必要があると思っている。もちろん現在の状況を生ぜしめた社会秩序は、経済利潤を追求している。しかしこの事実こそが現在体験させられている不幸な状況の多くをもたらしたのである。今、この状況は利潤追求以外の誘因を大いに必要としている。そのような誘因は健全な精神生活から流れ出る社会理解の中に存する。教育、学校は自由な精神生活の力でこの社会理解を促し、それぞれの個的能力を思う存分に発揮しようとする衝動を人びとに持たせる社会的役割を持っている。」 
(『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』第三章、90~91p。ルドルフ・シュタイナー選集第十一巻 高橋巌訳 イザラ書房発行より)

 昨日10月10日月曜日だが祭日開催のさいたま市北図書館に行き、『きらきら』(谷川俊太郎・文、吉田六郎・絵、アリス館発行CD付)、『一時停止』(自選散文1955-2010、谷川俊太郎著、草思社文庫)にそれぞれ目を入れ、CDを聞いた。それと言うのも図書館に出かけた理由は同日のアサヒ新聞読者投稿欄に神奈川県の尾形さんが「こころに染み込んだ谷川さんの詩」を書いていた。「死んでからも魂はいそがしい」の言葉が心に響いてきたからである。昼前、直ぐインターネットでさいたま市図書館にログインし谷川俊太郎著書を予約したら、午後間もなく2冊が指定の北図書館へ届いたメールのお知らせが来た。谷川俊太郎著書検索では、膨大な書籍数に驚いた。幼児から大人・高齢者まで谷川俊太郎さんに心を向ける大勢の人びとがいることを感じた。
 『きらきら』はやさしいことばで「ひらがな」の詩。雪の結晶の写真が美しい。雪の結晶をお星さまに例えたり、食べたら甘い!と問うたり、この形を決めたのは誰?と聞いたり、その美しさをたたえる。その雪の結晶は神さまからの送りもの。それは最後にあっと解けてしまう。このポエムでこころが和やかになる。
 『一時停止』は詩人の書いたエッセイのような散文である。ページ読みをした。私のページ読みは、1枚1枚ページを開くが、文字を追わず、開いたページを写真を撮るような見方である。内容よりも本を知る読み方なのである。いづれ機会が訪れた時、精読に繋げる読み方でもある。言わば、初歩の速読である。それが私のページ読みなのである。
 CDは雪をテーマにした音楽が6つ、詩「きらきら」のポエムリーディング、ピアノ演奏。合計8つがおさめられていた。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』の合間に 2016年10月15日、7回2016年10月15日

 シュタイナーの著書と共に、色々読む。新聞を読む。インターネット情報に触れる。目や耳に入る情報を通じて、諸々著作に触れる。今日そのような中の一つに、さいたま市北図書館で借りた谷川俊太郎の詩『クレーの天使』CD(ポリスター制作)のDisc1に遭遇する。その付属冊子に「音楽と言葉」を題する谷川俊太郎の言葉がある。気に入った文章なので、以下全文掲載させていただいた。

『音楽と言葉』
 「音楽は言葉に翻訳出来ない。言葉は音楽に翻訳出来ない。
だが、音楽と言葉は対話することが出来るのではないか。
音楽には言葉がひそんでいるし、言葉には音楽がひそんでいるから。
音楽と言葉は私たちの意識化で、ときにひとつに溶け合っているように思える。
 印刷された詩が楽譜だとすれば、音読された詩は演奏に比べられるだろう。
声は抑揚やアクセントや間によって音楽的になり得るが、
それ以前に詩句を構成する単語同士の意味やイメージのむすびつきによって、
すでに私たちの心の中に内的な旋律やリズムを形成しているのではないか。
そのとき単語は比喩的に音符であると言っていい。
 日常的な喜怒哀楽とは次元の異なる感情、それが詩の声とピアノの音とをつらぬいて流れる。
明示的ではない、暗示的で重層的な意味を聞きとることの出来る耳を失いたくないと思う。
目と違って耳は脳だけでなく、人間の体全体に訴えかける力をもっている。」  谷川俊太郎

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』 2016年10月20日、8回2016年10月20日

「社会有機体は人間有機体と同じような構造をもっています。人間が肺ではなく頭を働かせて思考するように、社会有機体もまた、同様に分節化された組織を必要としています。有機体においては、どの組織も他の組織の課題を引き受けることができませんが、しかしどの組織も独立を保ちつつ、他の組織と協同して働かなければなりません。
 経済生活は社会有機体の独立した組織となって、独自の能力、独自の法則に従って形成されるときにのみ、健全な発展を遂げることができます。それが社会有機体の別の組織である政治生活に吸い込まれてしまえば、その組織に混乱が生じます。政治組織は人体における呼吸循環系が頭部系と並んで存在しているように、まったく独立して、経済生活と並んで存在すべきものなのです。この両組織が単一の立法、行政機関によって管理されるのではなく、それぞれが固有の管理体制をもつことによって、有機体そのものは調和した在り方を示すことができるのです。政治組織が経済を支配するなら、経済活動は阻害されてしまいます。そして経済組織が政治的な在り方をするようになると、みずからの生命力を失ってしまいます。
 社会有機体のこの両部門に加えて、さらに第三の部門がこの有機体自身の中から、独自に作られねばなりません。それは精神活動の部門です。この部門は他の両部門への精神的な協力をも含んでいます。この協力は独自の合法則的な支配と管理を行う第三部門によってこの両部門に提供されるのですが、この両部門によって管理されたり影響を与えられたりすることはできません。人間有機体全体の並存する諸部門が相互に影響し合うときの在り方が、ここでも保たれなければならないのです。
 ここで社会有機体の必然性について述べたことは、すべて科学的に実証されることができます。この文章はこの必然性をさらに追及しようとする人のために、原則的なことだけを述べているにすぎません。」 

 『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』付録、204~205p。ルドルフ・シュタイナー選集第十一巻 高橋巌訳 イザラ書房発行より)

 社会を有機体としてとらえ、それぞれ経済生活、政治生活、精神活動の三部門が独立し、協同して働くことが目指すべき社会システムである。私は、シュタイナーの社会有機体論をそのように受けとめた。さらに理解を深めていきたいと思っている。