『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2018年2月10日(土)46 回2018年02月10日

 R・シュタイナー著『いかにして前世を認識するか(「カルマ論」集成Ⅰ)』(西川隆範訳、イザラ書房)を読み始めている。
 輪廻転生について書かれている68~71ページにかけて、下記に抜粋させていただいた。この文章について思い廻らしてみたいと思います。特に「わたしたちのなかのより賢明な人間」について留意していきたい。

「わたしたちは輪廻転生をとおして、いつも完全になっていくのではなく、不完全になっていくこともあるのです。わたしたちがだれかを中傷したり、だれかに災難をふりかけたりするとき、わたしたちは不完全になっていきます。その人に対して危害を加えたというだけではなく、わたしたち自身もその行為からなにかを受け取るのです。そのようなことをおこなわなければ、わたしたちは総合的な人格としてはもっと価値ある人間であったことでしょう。そのような、わたしたちの借りがたくさん書き込まれています。そのような借りを作っているので、わたしたちは不完全になっていくのです。わたしたちが、だれかを困らせたあと、以前に自分が有していた価値をふたたび取り戻そうとするなら、なにが起こらねばならないでしょうか。
 わたしたちは、自分の行為の均衡を取らねばなりません。なにかを克服することをわたしたちに強いるものを見出さねばなりません。そして、この方向で、わたしたちの苦悩と苦痛について熟考してみると、「自分の不完全さを克服するための力を自分のものと擦るために、それらの苦悩、苦痛はわたしに適したものである。苦悩をとおして、わたしは完全になっていく」と、いうことができるのです。
 通常の生活においては、わたしたちはそのように考えません。通常の生活においては、わたしたちは苦悩を退けようとします。しかし、「苦悩、苦痛、障害は、自分のなかに自分よりも賢い人間がいることを示している」と、いうことができるのです。自分自身が自分の意識を包括しているのですが、その自分自身をあまり賢くないものと考察してみましょう。わたしたちの魂の地下に、より賢い人間がまどろんでいます。わたしたちの通常の意識は苦悩、苦痛を拒絶します。わたしたちのなかのより賢明な人間が、わたしたちの意に反して、わたしたちを苦悩へと導くのです。わたしたちはそれらの苦悩を克服することをとおして、なにかを脱ぎ捨てることができるからです。わたしたちの内部に存在するより賢明な人間が、わたしたちを苦悩、苦痛に導き、その苦悩、苦痛を体験するように指示するのです。
 これは過酷な考えかもしれません。しかし、わたしたちの内部のより賢明な人間は、なにも押し付けはしません。わたしたちは、実験的に一度、そのように思い浮かべてみればいいのです。「わたしたちのなかには、賢明な人間が存在しており、その人間が、わたしたちがもっとも避けたいと思っている苦悩、苦痛へとわたしたちを導く。より賢明な人間が、自分自身のなかに生きているのだ」と、いうことができます。このような方法で、より賢明な人間がわたしたちを嫌なことに導くという、多くの人々にとっては不愉快な内的な帰結にいたります。
 より賢明な人間が自分のなかにおり、その人間がわたしたちを不快なことに導くことによって、わたしたちは前進する、と仮定してみましょう、
 さらに、もうすこしちがったことをしてみましょう。喜び、要求、楽しみを取り上げてみましょう、そして、ためしに、事実かどうかはべつにして、つぎのように表象してみましょう。「わたしは自分の愉しみ、自分の喜び、自分の要求に値しない。それらは、高次の霊的な力の恩寵によって、わたしにもたらされたのだ」と、考えてみましょう、
 いつもそうする必要はありません。ためしに、わたしたちの内部の賢明な人間が苦悩、苦痛をもたらしたのであり、それらの苦悩、苦痛はわたしたちの不完全さの結果として必然的にもたらされたものであり、わたしたちは苦悩、苦痛をとおしてのみ自分の不完全さを克服することができるのだということを受け入れてみるのです。そして、ためしに、「わたしたちの喜びは当然のものとしてあるのではなく、霊的な力がわたしたちに与えたものなのだ」と考えてみましょう。
 そのように考えるのは、虚栄心のある人には苦い思いのすることかもしれません。しかし、ためしにこのように考え、心情のなかでこのような表象に集中することができると、つぎのような基本感情に導かれていきます。「おまえのなかには、通常に意識には関わらないなにかが生きている。それは、おまえが人生で意識的に経験するものよりも深いものだ。おまえのなかには賢明な人間が生きており、その人間は、世界を貫く永遠の神的―霊的な力に向かう」
 こうして、外的な個体の背後に内的で高次の個体が存在するという確信が、内面生活のなかに生まれます。わたしたちはこのような思考の訓練をとおして、永遠の霊的な存在の核を知ります。それは、非常に意味のあることです。
 人智学は、別世界の存在についてなにかを知るためだけではなく、自分をその別世界に属する者と感じ、一連の輪廻転生を通過してきた個体と感じるための示唆でありうるのです。」

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2018年2月15日(木)47 回2018年02月15日

 R・シュタイナー著『いかにして前世を認識するか(「カルマ論」集成Ⅰ)』(西川隆範訳、イザラ書房)を読み始めている。
 人々の出会いの神秘について書かれている74~80ページにかけて、下記に抜粋させていただきました。人々の出会いの深層・真相に触れることができる。この文章からそう思います。
 この書籍は現在新たな編集装訂で「カルマ論集成1+2」として同訳者、同書房より出版されています。  

「精神科学のさまざまな探究の結果、わたしたちが三十歳ごろに出合う人々は、非常にしばしば、前世において親子もしくは兄弟姉妹の関係であったことがわかります。これは、注目すべき事実です。必ずそうだというわけではありませんが、多くの場合、前世においてわたしたちの両親であった人々には、現世においてもわたしたちの幼年時代にふたたび出会うのではなく、わたしたちが物質界で活動するようになった三十代ごろになって出会うのです。わたしたちが三十代ごろに出会った人々は、来世において、たいてい親子、兄弟姉妹、親戚として出会うことになる、と精神科学の探究は示しています。現世において三十代ごろに知り合いになった人々は、前世において親族であり、来世において親族であるということになるのです。「三十代にともに過ごす人々は、前世においてわたしの両親、兄弟姉妹であった。そして、彼らは来世においてわたしの両親、兄弟姉妹になる」と、いうことができるのです。
 逆のこともいえます。外的な力によって、わたしたちが選択したのではなく、人生のはじまりに両親、兄弟姉妹として出会う人々は、たいていの場合、わたしたちが前世において、自分の意志で選んで付き合った人々であったのです。前世において人生の半ばで選んだ人々が、いまわたしの両親、兄弟姉妹になっているのです。
 とくに興味深いのは、一連の輪廻転生をとおして人々と同様の関係を持つのではないという事実です。前世においてそれらの人々と出会う年齢と、現世においてそれらの人々に出合う年齢がちがうのです。
 正反対でもないのです。わたしたちが人生の終わりに出会った人々に、つぎの人生の最初に出会うのではありません。人生の半ばで出会った人々と、つぎの人生の始めに出会うのです。いまの人生の始めや終わりに出会う人々ではなく、この人生の半ばで出会う人々に、前世の幼年期において、わたしたちの親族として出会ったのです。前世において、わたしたちが幼年期に出会った人々に、いまの人生においては人生の半ばで出会うのです。現世において幼年期に出会った人々とは、来世において人生の半ばに出会い、わたしたちが自由意志で選ぶ仲間となります。このように、カルマの関連は独特のものなのです。
 いまお話ししたことは、精神科学の探究から明らかになったことです。しかし、精神科学がわたしたちの人生の幼年期と、前世または来世の人生の半ばとのあいだの内的関連をどのような方法で示すかを考察すると、この探究結果が無意味なものであったり、無用なものであったりはしないことがわかります。この探究結果を自分に引き寄せて、理性的に考察してみると、人生を解明していくことができます。謎に包まれていた人生が、明瞭なものになってきます。抽象的にカルマ全般について語っているあいだは、人生のさまざまな具体的な関連が完全に理解できるにはいたりません。
「なぜ人生の半ばにおいて、さまざまな知己を独自に悟性の力を込めて作るように、カルマによって駆られるのか」と考えるのは有益なことです。それらの人々は前世においてわたしたちの親族であり、そのような関わりがあるので、現世で再び出会うのです。
 自分の人生の経過のさまざまな出来事に対してそのように熟考すると、わたしたちの人生が解明されていくことに気づきます。間違うことはあります。何度も間違うこともあります。しかし、人生で出会うだれかに関して正しい洞察をすることができるのです。このような熟考から、「この人には、どこかで会ったことがある」というなら、その考えは道しるべのように、わたしたちが注意を払わないでいたかもしれない事物にわたしたちを導きます。そして、それが符合することをとおして、個々の事実の正当性についての確信を獲得させます。
 カルマ的関連は、一挙に明らかになるものではありません。わたしたちは、人生の最高の認識、わたしたちの人生を解明するもっとも重要な認識をしだいに獲得していかねばなりません。もちろん、人々はそのように思いたくはないものです。人々は瞬時に、「わたしは前世であの人と共にいた。あの人物が前世のわたしだった」とわかるといい、と思っているものです。
 すべての認識はゆっくりと獲得していかねばならないというのは、安楽な考えではありませんが、実際そうなのです。なにかがこうありうると思っても、さらに探究をつづけねばなりません。そうすると、その思いは確信に変わります。この領域において確信を目覚めさせるものに、わたしたちは探究をとおしていたるのです。この領域に関してすみやかな判断を下すと、霊的世界への入口を閉ざしてしまいます。
 人生の半ばにおける人々との出会い、前世においてわたしたちの身近にいた人々との関係について今日お話ししたことを、一度よく考えてみてください。そうすると、実り豊かな思考にいたります。とくに、『霊学の観点からの子供の教育』(『精神科学の立場から見た子供の教育』)に述べられていることを考慮に入れると、そこに書かれていることと、みなさまの熟考の成果が一致することが明らかになります。
 きょう、お話ししたことに、つぎのようなまじめな警告を付け加えねばなりません。ほんとうの霊探究者は、結論を性急に引き出すことを避けます。事物がやってくるのに任せるのです。なんらかの事物があると、まず通常の論理で吟味します。そうすると、わたしが最近体験したような特徴的な人智学への抗弁がなされはしません。非常に賢い人がわたしに、つぎのように語ったことがあります。「『神秘学概論』に書かれていることは、世界が示すものと論理的な関連を持っている。だから、そこに書かれていることは、たんなる思考によって到達できるといわざるをえない。超感覚的探究の成果である必要はないのだ。そこに書かれていることには疑いを挟む余地はない。事実と一致している。」
 わたしはたんなる思考によって『神秘学概論』に書かれている内容に到達したのではありません。その紳士の知力をわたしはたいへん尊敬しているのですが、彼がたんなる思考によって『神秘学概論』に書かれているような霊的事実にいたるとは思いません。精神科学の領域で論理的に洞察されうることがらは、どれもたんなる思考をとおして見出されたものではないのです。なにかを論理的に吟味し、論理的に理解できるということが、精神科学的な探究によって見出されたことを疑う根拠にはなりません。精神科学の伝達が論理的な熟考によって、疑いなく正しいものと認識されうることは一種の安心になるにちがいないと思います。非論理的なことを声高に語って、信者を獲得するのは、霊探究者にとって名誉になることではありません。霊探究者は、思考によって超感覚的なことがらを見出すという立場に立つことはできません。しかし、精神科学の道によって見出された事物について熟考すると、それは精神科学的な源泉を見出せるとは思えないほど、論理的なものに見えるのです。しかし、あらゆることがらについて、純粋に精神科学的探究の土台の上に見出されたということができるのです。
 きょうお話ししたことが、最初は奇妙なものに思えても、もう一度、その内容について熟考してみてください。霊的な事実によって明らかにならなかったものを、通常の論理的な思考から演繹してお話ししたりはしません。しかし、霊的に探究したことを、論理的に検証することができるのです。精密に、誠実に吟味すればするほど、すべてが正しいことが判明します。きょうお話しした、現世における両親や兄弟姉妹と、前世もしくは来世において人生の半ばで知り合いになる人々との関係についてのように、それが正しいかどうかを確かめることができないことがらについても、どのようにさまざまな部分が関連しているかを見ていくと、それがたんに蓋然的なものではなく、確実なものだという印象が得られるにちがいありません。そして、人生そのものをとおして吟味すると、その確かさが根拠のあるものになります。人生の半ばに出会う人々に、前世において自分の兄弟姉妹であったかのように向かい合うと、自分の態度、その人々の挙動が、まったく新しい光のなかに現われてきます。そうすると、ただぼんやりと人生を送っているよりも、人間関係が実りあるものになります。
 人智学は人生についての知識と認識を与えるだけのものではありません。人智学は、わたしたちがどのように人生の状況を把握すべきかの指標を与え、わたしたちの人生に対する姿勢、わたしたちの人生の課題を明確なものにしうるのです。がむしゃらに生きて破滅への道をたどるのではないかとは思わないことが大切です。人生を誠実に生きない、気の小さい人間だけが、そのようなことを思うのです。人生を正確に知れば知るほど、人生は実り豊かで、内容豊かなものになるということが、わたしたちにとっては明らかでなくてはなりません。人生において生じることがらが、人智学をとおした視野のなかに入ると、すべての力がより豊かで、確かで、希望をもたらすものになります。」

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2018年2月23日(金)48 回2018年02月23日

 R・シュタイナー著『いかにして前世を認識するか(「カルマ論」集成Ⅰ)』(西川隆範訳、イザラ書房)を読んでいる。
 輪廻転生とカルマの認識ついて書いているページの中から125~132ページを下記に紹介させていただきます。
 輪廻転生とカルマの理念が私たち一人ひとりの壮大な物語を形成している事実を思うと心身がひきしまり、全ての行為や発言、一つひとつのことがらを大切に考える思いが切に起こってきます。一人ひとり人間の思いや日常の行動も輪廻転生とカルマの科学に沿って動いている。一人ひとりの人生は幾つもの人生に連なり関係を作っている。
 この書籍を通じてシュタイナーは輪廻転生とカルマの科学を私たちに教えています。それを理解し伝えていくことが私たちの課題だと思っています。
  
「輪廻転生とカルマを真理と認識すると、その知と認識をとおして、人間の自己は拡張していきます。この真理を認識していないあいだは、知と認識はある限界内に束縛されています。生まれてから死ぬまでのあいだのことしか認識できない、とこれまで主張されてきました。その限界を超えた世界へは、ただ信仰をとおしてのみ到達できる、と主張されてきました。霊的世界に、認識しつつ上昇するという確信がしだいに強くなってきています。しかし、認識の立場に立ち止まっているなら、あまり大きな意味はありません。認識の立場から道徳の立場、心情的―道徳的な立場に移ることに意味があるのです。そうすると、輪廻転生とカルマの理念の意味と偉大さが、はじめて示されます。
 いま述べたことを確証するために、まだ何百ものことがらを挙げることができますが、そのなかのひとつだけをお話ししておくことにしましょう。以前の西洋文化のなかに生きていた人間を取り上げてみましょう。今日でも、数多くの人間が西洋文化のなかに生きています。人間の魂は永遠の存在であるということを受け入れている人々も、輪廻転生とカルマを考えることなしに、人間は死ぬと地上から離れ、霊的世界に歩み入ると思っています。多かれ少なかれ心霊主義的な「例外の人々」を除いて、人間は死の扉を通って地上から離れていくときに、罰せられるか、よしとされるかであり、地上の人生のつづきが、まったく新しい、天井の世界でおこなわれると思われています。
 輪廻転生とカルマを認識すると、事態はまったく異なってきます。死の扉を通過するとき、人間の心のなかに生きていたものは天井の世界にとってのみ意味があるのではなく、人間が生まれてから死ぬまでに体験することが未来の地球形成を左右するということを明白にしておかなくてはなりません。地球の様相は、人間がかってなにをなしたかによって決定されるのです。人間が前世でなにをしたかによって、地球の未来の様相は決定されるのです。これが、輪廻転生とカルマの理念に結びつく心情―道徳です。このことを受け入れた人間は、「わたしは、どのように生きるかによって、未来の文化に働きかけるのだ」ということを知ります。
 人間がいままで狭い限界のなかでのみ知っていた責任感情が、輪廻転生とカルマの知によって、誕生と死の限界を越えて広がっていきます。このなかに、輪廻転生とカルマの理念の意味深い道徳的帰結がはっきりと現われます。輪廻転生とカルマを信じない人間は、「わたしが死ねば、せいぜい、地上でなしたことについて罰せられるか、ねぎらわれるかだ。わたしは天井の世界で生きていく。その世界は、なんらかの霊的な力によって支配されている。わたしが自分のなかに担っているものが、世界を害することはない」と、いいます。
 輪廻転生とカルマの理念を認識した者は、そのように語ることはできません。前世でどのように生きたかによって、つぎの受肉がどうなるかが決まるということを知っているからです。
 人智学的世界観の根本理念が人間の心情のいとなみのなかに入っていって、それまでは予感もしなかった道徳衝動として現われることが意味深く、重要なことなのです。すでにお話ししたように、責任感情が以前には不可能であった方法で現われてきます。そして、ほかの道徳的理念も、この責任感情と同様の方法で、必然的に生じます。輪廻転生とカルマの理念の影響下にある人間として、わたしたちは人生を、たんに生まれてから死ぬまでのものとして判断するのではなく、数多く経てきた人生という前提の下に判断することを学びます。
 いままで知っていた前提によって他者に接すると、その人に共感を感じたり、反感を感じたりします。大きな愛を感じたり、わずかしか愛を感じなかったりします。現代人が他者に接する方法は、人生を生まれてから死ぬまでの一度だけのものと限定している見解の結果である、といわなければなりません。わたしたちは、あたかも人間は一度だけ地上に生きるという考えが正しいかのように生きています。「わたしたちは友人や、親や、兄弟姉妹に出会う。わたしたちは彼らとともに、一度だけ地上に生きる」と、考えているのです。
 輪廻転生とカルマが存在するということが、たんなる理論として少数の人間にのみ知られているという現状が変化すると、人生は大きく変化されることでしょう。今日でも、輪廻転生とカルマはまだ理論として受け取られています。今日では、輪廻転生とカルマを信じている数多くの人智学者がいる、ということができます。しかし、彼らは輪廻転生とカルマがないかのような生きかたをしています。人生が、生まれてから死ぬまでの一度かぎりのものであるかのような生き方をしています。それは仕方のないことです。理念がすみやかに変化するようには、人生の習慣は変化しないからです。輪廻転生とカルマについての正しく、具体的な理念が生活のなかにもたらされると、その理念によっていかに人生が実り豊かになるかがわかります。
 わたしたちは人生に歩み入り、人生のはじめに両親、兄弟姉妹らと出会います。人生のはじめに、自然がわたしたちのまわりにあるように、血縁の人々、近所の人々のなかにわたしたちはいます。わたしたちは成長すると、血縁という枠から抜け出て、血縁によらずに、人々と結びつきます。これらのことを、カルマ的に洞察することが大切です。そうすると、人生がまったく新たに解明されます。カルマを具体的に把握し、精神科学の探究から得られたものを人生に適応すると。カルマは人生にとって意味深いものになります。もちろん、カルマは精神科学的な探究によってのみ検証できるのですが、その成果を人生に適応することができるのです。
 意味深いカルマに関する問いは、つぎのようなものです。「どのようにして、現在の人生において、ある人々と血縁関係になるのか。なぜ、人生のはじめに、それらの人々と出会うのか」。
 そのような問いに対して、精神科学はつぎのようなことを見出しています。実際には無数の例外があるのですが、原則的にはつぎのようにいうことができます。わたしたちが人生の始めに出会う人々は、わたしたちが前世において人生の半ば、三十代に出会った人々なのです。前世において、それらの人々を、わたしたちは心的傾向などに駆られて、自分の意志で友に選んだのです。人生の始めに出会う人々のことを、前世においても人生の始めに出会っていたと思うなら、まったく間違っていることになります。血縁関係になる人
々を、わたしたちは前世において、人生の始めでも終わりでもなく、半ばにおいて自由意志で友として選んだのです。非常にしばしば、自由意志によって結婚した相手と、つぎの人生において親子、兄弟姉妹関係になります。思弁によって仮定したこと、考え出したことは、だいたい間違っているということを、精神科学的探究は明らかにしています。通常、思弁による計算を、事実は否定します。
 ……
 そのように考えるのは、多くの現代人にとって不愉快なことかもしれません。しかし、これは事実なのです。血縁関係に不満を感じている人々は、その不満を土台として、来世を異なったものに形成するように心がけねばなりません。そのように、輪廻転生とカルマの理念は人生を実り豊かなものにするのです。この理念は好奇心を満足させるものではなく、わたしたちを完全なもの、人生全体を完全なものにしていくものなのです。いまお話しした関係は、現世と来世についても当てはまるものです。」