『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2018年4月11日(水)50 回2018年04月11日

 R・シュタイナー著『シュタイナーのカルマ論―カルマの開示』(高橋巌訳、春秋社)を読んでいます。

 『シュタイナーのカルマ論―カルマの開示』と並行して、2人のアメリカ絵本作家バージニア・リー・バートン、ルドヴィヒ・ベーメルマンス、そして協同組合運動に多大な影響を残している日本の市民運動家賀川豊彦の著作全集(キリスト新聞社)に目をいれはじめています。
 バートン作「ちいさな家」はかっては美しい自然に囲まれたのどかな風景の中にあった。しかしそれはいつの間にか都市化し巨大化し、高層ビルと群衆、絶えない車の流れに囲まれていた。私たちの首都圏の環境にも似ている。「ちいさな家」は静かな環境を求めて旅立つのである。読む人はその「ちいさな家」の生き方に感動を覚える。その他「生命の歴史」なども面白い。
 ベーメルマンス作「山のクリスマス」やマドレーヌシリーズは子どもたちのキラキラした感性や体験、成長を見守る大人の豊かな心が描かれている。心地よい余韻が湧いてくる。
 賀川豊彦全集24巻のうち1~6巻をさいたま市図書館で借りた。それをページ読みした。新約・旧約聖書を中心に賀川の思想が述べられている。賀川はこの著で多数の国内・海外の人たちの意見を示しながら考えを展開している。その中に、協同組合運動の源流を生み出した英国のロッジデール、ロバート・オウエンにも触れている。それらの詳細については別の機会にゆずりたいと思う。

 私の読書生活は今そのような情況のなかにあるが、『シュタイナーのカルマ論―カルマの開示』(高橋巌訳、春秋社)56~70ページの文章に注目したいと思う。下記に抜粋させていただきました。

「病気の霊的背景
 カルマの働きを観察できる人は、視界を現在の事情から離れた遠い過去にまで拡げます。深い洞察は、遠い過去にまで眼を向けるときにのみ可能となるからです。このことはとりわけ病気の原因を考える場合にあてはまります。
 ここであらためて、病人と健康人をどう区別するのか、という根本問題にふれておきましょう。そもそも病気であるとは、どういうことなのでしょうか。
 見霊能力を用いて考察すれば、病人の場合、肉体に限らず、エーテル体、アストラル体の中にも、不規則性が現れていることがわかります。ですから、病気を生じさせているのが肉体なのか、それともエーテル体、あるいはアストラル体なのかが見分けられなければなりません。
 それでは一体、どうして私たちは病気になるのでしょうか。
 この問いに答えるには、「病気」の概念をどこまで拡げることができるかを考える必要があります。病気を比喩的に解釈する人は、鉄が錆びるのは、鉄が病気にかかっていることだ、鉱物や金属も病気になる、と言います。しかしこのような比喩的な考え方では、人生の意味を深く把握することができず、興味本位に人生を論じることに終始してしまうでしょう。病気の概念、健康の概念を正確に知ろうとするなら、鉱物も金属も病気になる、などと考えてはなりません。
 しかし、植物の病気についてなら、考えることができます。植物の病気は、「病気」という概念を理解する上で、特別興味深く、そして、重要なのです。とはいえ、植物の病気の内因を見出すことは、容易でないどころか、不可能です。植物の病気は、外的なきっかけがなければ生じません。土地の有害な作用、日光、雨、風その他の自然の異常現象、または植物にまとわりついて害を加える寄生動植物の影響などがそのきっかけを成していますが、それ以外に植物の病気の内的原因を考えることは不可能なのです。
 このテーマを半年かけて論じさせていただければ、今述べた事柄を多くの実例をあげて納得していただくことができるのですが、そういうわけにもまいりません。けれども、植物病理学の問題に関われば関わるほど、「内因性の病気」ではなく、外的誘因、外的作用を論じることしかできないことに気づかされるのです。

 エーテル体の内なる治癒力
 植物は、物質体とエーテル体とからなる存在です。そしてその物質体とエーテル体は原則的に健康な存在なので、病気になるとすれば、その原因は外からしか来ないのです。このことは神智学の見地から、はっきりと断言できます。霊的な眼でみると、病んだ動物と人間の場合は、その存在の内部に異常な変化が生じているのですが、病んだ植物の場合は、エーテル体そのものには変化がなく、外がらさまざまな障害が働き、植物の物質体とそれに結びついたエーテル体とに影響を与えているのがわかるのです。
 植物の物質体とエーテル体は、本来健康なので、成長、発育に何らかの外的妨害が加えられると、ふたたび健康な状態に戻るためにあらゆる可能な試みを行なおうとします。植物のある部分を切断すると、植物は傷を受けた箇所のまわりからさらに成長しはじめ、成長をはばみ有害な作用をするものを回避しようとします。そのようなとき、外傷を受けた植物の中にどれくらい内なる防衛力、内なる治癒力が存在しているのか、手にとるようによくわかります。
 植物の物質体とエーテル体が外傷に対して内なる治癒力で応えるという事実を知るのは、非常に重要なことです。本来健康である植物の物質体とエーテル体は、必要な成長発展を遂げることができるだけでなく、外から妨害を受けた部分を正常に戻す治癒力を過剰にもっており、そしてその過剰な治癒力は、エーテル体に由来するものなのです。
 鉱物の場合、その物質体を切断すれば、切断された状態がそのまま続き、自分からその傷を癒すことはありません。ですから、鉱物や金属の病気について語ることはできませんし、病気と治療とが相互関係にあるとも言えません。ところが植物の場合には、この関係がはっきりと現れています。エーテル体が内なる治癒力を生じさせているからです。霊眼はこのことをはっきりと認めることができます。植物が傷を受けると、そのまわりで植物のエーテル体がそれまでよりもはるかに活発な活動を始め、自分の中からこれまでとはまったく異なる形態と、まったく異なる流れを作り出すのです。
 以上で病気の「在り方」を知る重要な一歩を踏み出しました。私たちは、治療の内的な「在り方」についての予感を得ることもできたと思います。

 動物の治癒力
 そこで、この見霊的な観察をもとにして、植物の障害から動物の障害へ眼を転じてみますと、高等動物になればなるほど、植物には存在した、障害に対するエーテル体の反応が見られなくなることがわかります。たとえば犬が足を骨折した場合、犬のエーテル体は植物のエーテル体ほどには治癒力を行使できません。
 とはいえ、一般に動物界においても、エーテル体の治癒力はかなり大きいと言えます。たとえばイモリのような下等動物にまで下りていきますと、そういう動物は器官を切断されても、その器官は再生し、また以前と同じ姿に戻ります。
 私たちは特定の治癒力をエーテル体の中に求めましたが、人間や高等動物の場合、エーテル体の治癒力を過度に求めると、健康がひどく損なわれてしまいます。一方、下等動物のエーテル体は、肢体の一部分を内から生じさせることができるのです。
 蟹の場合、肢体の一部分が切断されても、その部分はすぐには生えてきませんが、次の脱皮期になると、切り摂られた箇所から新たにその肢体部分が生えはじめ、さらに次の脱皮期になりますと、その部分はさらに成長します。こうして脱皮を繰り返すことで、完全に新しい肢体が作られるのです。
 内なる治癒力をもった動物のエーテル体は、植物の場合とかなり似た在り方を示しますが、高等動物の場合にはこのことがまったくあてはまらず、その肢体を切断しても、こうした治癒力がエーテル体から生じることはありません。しかし、その障害は子どもに伝わらず、次の世代になると、ふたたび完全な肢体を具有することができます。エーテル体が特性を子孫に伝えるときには、完全な生体が伝わるように配慮されているのです。イモリのエーテル体の治癒力は同じ生体内で働き、蟹の場合は脱皮を通して働きますが、高等動物では、同じことが子供の代になってはじめて可能になり、そのエーテル体は、親の切断された肢体を、子において完全なものにするのです。
 ですから、自然界におけるエーテル体の治癒力は、段階的に考察されなければなりません。親から子へ遺伝する働きの中にもエーテル体の治癒力は働いており、損なわれていない完全な個体を生じさせるのです。このことの中にもエーテル体の治癒力の「在り方」を見ることができます。
 それでは、高等動物になればなるほど治癒力を手に入れるのに苦労しなければならなくなるのは、一体なぜなのでしょうか。
 肉体とエーテル体との間には、強い結びつきと弱い結びつきとがあるようです。たとえば切断された肢体をすぐに再生するイモリのような下等動物の場合、そのエーテル体と物質体の間には、弱い結びつきを見なければなりません。植物の場合はもっとはっきりしていて、エーテル体は物質体の中で生じる経過によって妨げられず、物質体から独立しています。
 エーテル体は本来、活動し、生産し、成長する働きをします。植物や下等動物の場合、その肢体が切断されると、エーテル体はすぐにその部分を補充しはじめます。一方、肢体の活動に強く結びついている高等動物のエーテル体は、物質体が形成されると、その物質形態がエーテル体を規定しはじめるのです。
 下等動物や植物の場合の物質体は、エーテル体を規定することなく、エーテル体に独立した活動を行なわせ、高等動物の場合は、逆に物質体がエーテル体に作用を及ぼします。そのエーテル体は物質体にぴったり適合しており、物質体が傷つくとエーテル体も同時に傷つきます。そのエーテル体は、まず自分自身を再生し、その後で物質体の部分を再生させようとしますから、高等動物のエーテル体には、より多くの治癒力が求められているのです。しかし、なぜそうなっているのでしょうか。高等動物のエーテル体は、なぜ物質体の形態に依存しなければならないのでしょうか。
 動物の場合、進化すればするほど、物質体とエーテル体だけでなく、アストラル体も活発になります。下等動物は、そのアストラル体の活動が非常にわずかであるため、未だ植物に似た状態にあるのですが、進化が進めば進むほどアストラル体の活動が目立つようになり、アストラル体はエーテル体をみずからに依存させようとします。
 物質体とエーテル体だけから成る植物には、内と外との区別があまりなく、刺激を受けても、それを内的経過として体験することはありません。それに対して、アストラル体が活発な動物の場合には、外的印象が内なる経過の中に映し出されます。活発なアストラル体をもっていない動物は、外界を内的に体験できません。アストラル体が活発に働いていればいるほど、内部が外部を映し出すのですが、そのためにはエーテル体の力をより多く用いなければならないのです。
 
 人間の治癒力
 動物から人間に眼を転じるなら、さらに別のことが見えてきます。人間のアストラル体の場合、動物のように、あらかじめ定められた機能だけ組み込まれているわけではないからです。動物は生活計画をあらかじめ組み込まれて生きていますから、本能から大きく逸脱したり、普通以上に本能にふけったりはできません。決められた生活計画にしたがわされているのです。
 しかし人間は、善と悪、正と不正、真実と虚偽の間にあって、ありとあらゆる生き方をします。ありとあらゆる仕方で、もっぱら個的な動機にしたがって、外界と関わります。その関わり方がアストラル体に影響を及ぼし、その結果、アストラル体とエーテル体との相互作用もまた、この体験にしたがった在り方をしなければならなくなるのです。
 ですから、人間が放縦な生活を送ると、その生活がアストラル体に印象を与え、そしてそのアストラル体がエーテル体に影響を及ぼします。エーテル体は、善と悪、正と不正、真実と虚偽の間で、人間がどのような人生を送るかによって変化するのです。
 人間が死の門を通るとき、まず肉体が働きを停止し、エーテル体はアストラル体と自我とに結びついて後に残ります。死後数日が経過すると、そのエーテル体の大部分も第二の死体として脱げ落ちます。しかしエーテル体のエッセンスは後に残り、その後ずっと存続していきます。エーテル体のこのエッセンスの中には、たとえば放縦な生活によって人生の中に取り込まれた、思考、行為、感情のすべてが含まれています。エーテル体はそれらを、人間が新しい誕生を迎えるまで内に保持しつづけるのです。このような体験がない動物には、死の門の中にまで担っていくものはありません。
 さて、、人間がふたたびこの世に生まれると、エーテル体のこのエッセンスは新しい形成過程にあるエーテル体の中に注ぎ込まれます。したがって、新しく生まれた人間のエーテル体には、以前の人生の成果が込められているわけです。しかもそのエーテル体は、本来、誕生後の新しい身体の形成者であるため、新しい身体の中にも、この成果のすべてが刻印されることになります。ですから神智学者は、この世に生を享けた人間の身体型式の中に、その人間が前世でどのような行為をしてきたかを、おおよそながら見ることができるのです。
 けれども動物の場合、そのエーテル体は以前の地上生活から何も引き継いでおらず、同じ類の動物全体に共通のアストラル体だけが働いています。そのアストラル体がエーテル体の治癒力を制限しているのです。人間の場合は、そのようなアストラル体による制限だけでなく、前世の諸行為の結果が刻印されたエーテル体のエッセンスによる制限も受けることになります。エーテル体によってこれまでの転生からもち込まれたものが、新たな環境の中で、新しい人生に作用を及ぼすのです。
 このようにして前世の行為は、現世における健康状態にまで働きかけます。私たちの健康状態は、前世における私たちの行為のカルマ的な結果をさまざまな仕方で表わしているのです。
 それでは、生まれてから死ぬまでの間に行なうすべての行為が、同じ仕方でエーテル体に作用を及ぼすのでしょうか。

 意識的な表象生活と無意識的な感情生活
 日常生活の中でも、意識的な体験内容がエーテル体に作用を及ぼすときと、そうでない体験内容が作用を及ぼすときとの大きな相違を知ることができます。その場合、極めて興味ある事実が見られます。
 私たちがこの世でのさまざまな体験を自我と結びつけて、意識的に受けとめるとき、体験はそれによって表象内容となり、内的に消化されます。しかし、表象内容とならずに私たちの内部に留まり、作用しつづける無数の体験、経験、印象もあります。日常よく経験することですが、誰かが私に、「今日あなたを見かけましたよ。あなたは私のほうを見ていたでしょう!」と言うのに、私のほうは全然相手のことに気づかなかった、ということがあります。私は印象を無意識にやり過ごしたのです。私たちの眼は相手を見たのですが、その印象が表象となるまでには至らなかったのです。
 このような場合は無数にあり、したがって私たちの人生体験は、根本的に二つの種類に分けられるでしょう。すなわち、意識下された表象内容と、無意識的な生活体験とにです。あるいは、印象を記憶し、思い出として残している場合と、思い出せなくなっている場合とに区別することもできます。繰り返して意識に上らせることのできる表象内容と、もはや思い出すことのできない表象内容との間の大きな相違は、次のように考えるとよく見えてきます。
 喜びや悲しみの感情を伴った印象があるとします。たいていの印象は、いえ、本来すべての印象は感情を伴っているのですが、そのような感情は生活意識の表面だけでなく、深く肉体の中にまで作用を及ぼします。思わず顔を蒼白にさせるような印象もあれば、顔を赤面させるような印象もあるように、印象は血液の循環にまで作用を及ぼします。一方、まったく意識に上らないか、または瞬時に意識に上っただけで、後は思い出しさえしないような印象もあります。けれども神智学的に見るなら、意識下されなかった印象が、意識化された印象よりも感情を刺激しない、とはけっして言えないのです。
 ある印象を無意識的に受け取ったとします。それは、もし意識的に受け取ったとすれば、私たちにショックを与え、心臓をどきどきさせたであろうような印象です。そのような印象は、意識されることがなかったとしても、肉体の中にまで深く入っていきます。一般に、意識的な表象内容になった印象は、人体組織の中に深く作用しようとしても抵抗を受けてしまいます。しかし印象が無意識的に、私たちの内部に直接作用を及ぼすときには、何物もその作用を妨げませんから、強い力を発揮します。そのようにして私たちの内面は、私たちが意識しているよりも、はるかに豊富な印象で満たされているのです。
 さて、人生には、生きいきとした作用を及ぼしながら、思い出すことのない印象が特別豊富な時期があります。それは、出生時から記憶が始まるまでの時期です。この時期に受けとった印象は、その後も心の中に留まり、その人を変化させます。その印象が忘れられているため、意識化された表象内容の抵抗を何も受けずにいるからです。 
 後半生にある種の出来事がなぜ生じたのか、わからないことがよくあります。「こんなことをまさにこんな仕方で、今なぜ体験させられるのか」「どうでもいいような体験なのに、なぜこんなに心が揺さぶられるのか」自分ではまったく理解できないような、そういう激しい印象を後半生になってから受けることがあります。そういうときには、生まれてから記憶が始まるまでの決定的な時期に、同じような体験があったのです。その時の幼児体験の内容をまったく憶えていなくても、そのときに激しく心を揺さぶられる印象を受け、その印象がその後も生きつづけて、現在の印象と結びつき、現在の印象を強めているのです。
 このことが理解できたなら、生後数年間の教育がどんなに責任の重いものであり、後の一生にどんなに重大な影もしくは光を投げかけるか、と思わずにはいられません。
 幼児期のそのような印象はーーとりわけその印象を繰り返して受けたときにはーー生きる気分を根本的に左右します。私たちは人生のある時点から、急に説明のつかない不機嫌な気持ちに襲われることがあります。そのことは、過去に遡って、幼児期の印象が今の生活にまで光や影を落としていることを知らなければ、説明がつきません。幼児期に受けたある印象が、現在続いている不機嫌な気持ちとなってふたたび現れているのです。そのような場合、子どもであった私たちは、その印象に無関心だったのではなく、特別の印象を受けていたのです。後になって忘れてしまったとしても、感情に強く働きかけた印象の場合、それと似た体験が後になって現れてくると、同じ感情があらためて強烈に実感されるのです。

 死後のアストラル体験の影響
 さて、ここで「カマロカ期※」のことを思い出しおきましょう。死後、人間の大半のエーテル体が第二の遺体となって離脱すると、死者は前世のすべてを生き直します。人生の終わりからはじめまで、すべての体験の傍らを通り過ぎていくのですが、そのときはまだ生前のアストラル体が保たれているため、生前体験してきたことのどれもこれもが深い感情を呼び起こすのです。
 (※カマロカkama-loka(サンスクリット語で欲の世界に由来する)。死後約三日後に、生前の生活に執着しつづける魂が生前の生活体験を遡行的にたどりなおす時期のこと。執着を焼きつくす苦難の過程でもあるので、「煉獄」とも呼ばれる。)
 たとえば誰かが七十歳で亡くなり、生前の生活を四十歳まで遡って、誰かの頬を殴った時点にまで来たとします。そのとき、死者は相手に加えた痛みを体験し、一種の自己非難を呼び起こします。そしてその非難を憧れに変え、来世でこのことを償おうと思います。死後から新しい誕生までの間には、さまざまな仕方でこのようなアストラル体験をもつのです。私たちの行なってきた行為がますます強く、ますます深く体験され、私たちの内的本性に刻印づけられて、新しい身体形成への働きに協力するのです。ですから日常生活の中の体験が不機嫌な気分を呼び起こしたような場合、それはカマロカ期に、はるかに強烈な印象となって現れ、新しく生まれる肉体組織の深いところにまで影響を及ぼします。そしてその結果、新しい人生において、容易に魂の不調和を生じさせ、神経症や、ときには精神病をも生じさせてしまいます。
 カルマを深く掘り下げようと思うなら、この世における行為が死後強烈な感情に変化する、という事実をよく知らねばなりません。この感情は、前世での私たちのすべての行為を、現世での私たちの存在と結びつけ、現在の身体組織まで作用させているのです。
 非常に自己中心的な考え方、感じ方、行ない方をしてきた人が死後、自分の利己的な思考、感情、行為の結果を知らされるとき、その人は生前の自分の行為に対して、激しい反感をもち、自分の本性に反発する傾向をもつようになります。そしてこの傾向は、それが前世での利己的な本性に由来するものであるかぎり、現世における虚弱な体質となって現れます。ここでは「虚弱体質」という言葉を本質的な意味で用いているのであって、外的な印象について言っているのではありません。虚弱な体質は、カルマ的には、前世の利己的な行為の結果なのです。
 それでは、嘘をつく傾向はカルマ的にどのような結果を生じさせるのでしょうか。この傾向はしばしば、魂の深い層から生じてきます。常に意識的に人生を送っているならば、嘘をつかずにすむでしょうが、潜在意識から働きかけてくる感情が好んで嘘をつかせます。そのような場合、嘘をつく行為は、死後、自分自身に対してこの上なく激しい反応を生じさせます。そのような人が新しく生まれてくると、単なる虚弱体質ではなく、いわばまちがって構築された身体組織ーー精妙な組織の中に不規則的に形成された内部諸器官ーーを作り出します。身体組織のどこかに狂いが生じるのです。
 それでは虚偽への傾向そのものは、何に由来するのでしょうか。人間はそもそも。虚偽への傾向などもつはずがないのです。ですからこれに答えるには、前世よりもさらに過去に遡っていかなければなりません。神智学によれば、帰依も愛も知らない軽薄な人生、表面的な人生が、次の転生において、虚偽への傾向を生じさせ、そして虚偽への傾向をもった人生が、さらに次の転生において、まちがって形成された器官を生じさせるのです。
 このように、カルマ的関連の下で三つの相前後する転生をたどることができます。最初は表面的で軽薄な人生、次に虚偽への傾向、第三に病的な体質です。
 ここに健康と病気とに対するカルマの働きかけが見られるのです。
 以上述べたことは、神智学研究によって得られた事実です。理論を提示しているのではなく、事実を提示しているのです。
 今日は、植物の治癒力に眼を向け、次いで動物におけるアストラル体と結びついたエーテル体が、治療活動を行なえなくなった事情を考察しました。そしてさらに、人間の場合を取り上げました。人間の場合には、善と悪、真と偽の間で個的な生活をいとなむ自我が働いています。すでに動物においても治癒力を妨げていたアストラル体は、人間がさらに自我を受容したことによって、カルマ的な病因を人間に組み込むのです。
 植物の病気は、まだ外的なところにしか存在していませんから、エーテル体の治癒力は弱められずに働いており、内因性の病気は生じません。下等動物のエーテル体は、まだ肢体部分を再生させうる程度の治癒力をもっています。しかし動物が進化を遂げ、次第にそのアストラル体がエーテル体にみずからを刻印づけるようになると、それによってエーテル体の治癒力が制限されます。
 しかし動物の個性は輪廻転生を通じて生きつづけることはありませんので、エーテル体の中に存在するものは、個性化された道徳的=知的な性質ではなく、一般的な類型に留まっています。一方、人間の場合には、生まれてから死ぬまで、自我の働きがエーテル体に作用しつづけるのです。
 幼児期の体験は、前述したような後年の心の働きに際して、軽度の病気を生じさせます。このように神経症、ノイローゼ、ヒステリーその他の病因は、同一の人生の中に見出せますが、しかし、より重い病気の原因は、前世の中に求めなければなりません。なぜなら、新たな誕生に際して、前世での道徳的・知的体験がすでにエーテル体の中に深く作用しているからです。
 一般に人間のエーテル体は、単一の人生の中では、道徳的あるいは反道徳的な深い体験を自分の中に取り込むことができません。とはいえ、後述するように、個々の例外的な場合ーーそれも非常に重要な場合ーーが存在します。
 以上、ひとつの人生における善と悪、道徳と知性と、次の人生における健康と病気との関係を取り上げました。」

 これを契機にこの文章の前後及び全容を書籍全体の読書を通じて理解を深めていただくことをおすすめいたします。