『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』 2017年1月8日、17回2017年01月08日

 この間去年から新年にかけて、松井るり子著『七歳までは夢の中』『私のまわりは美しい-14歳までのシュタイナー教育』その他を読書しました。
 松井るり子さんファミリー5人は、伴りょであるパートナーの仕事の関係で、アメリカ西海岸、東海岸での生活を3回にわたり経験しています。アメリカでの子どもの教育は現地のシュタイナー学校に入学することができ、そこで貴重な体験が培われてます。親子共どもシュタイナー教育を実体験することになるのです。そこで体得したシュタイナー教育をベースにして、作者の見分と感性、思考の積み重ねからこの本は書き上げられています。
 私自身、現在、幼児の保育支援をする場面をちょくちょく持っていますから、触れ合いの仕方の深みをこの著書から知り、感じ取り、うれしいことです。そして、その松井るり子さんの感性と行動を讃えます。
 この2つの著作からそれぞれ、下記の個所を引用させていただきました。

『七歳までは夢の中-親だからできる幼児期のシュタイナー教育』(松井るり子著 学陽書房 初版発行1994年7月10日)p150~152)より。
子どもをイメージする
「子どもをかわいがるエネルギーの出どころは、親からかわいがられた体験であり、夫と居る幸福感であり、自らの意思であり、子ども自身であろう。しかし、親と早くに死に別れ、本を読んだこともなく、夫は出征中、という戦争中のお母さんたちも、平和な時代の我々に劣らず、上手に子どもをかわいがってきた。シュタイナーは、宇宙からその力がやってくると言っている。
   母の祈り
 宇宙を導く神の力から
 流れる
 光と熱よ。
 私をつつみ
 守って下さい。
    (シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育』)
 私のお祈りは、つい「あれをお願い、これもかなえて」の神頼みになってしまう。けれどもこの「母の祈り」は、受胎告知の時に「お言葉の通りになりますように」と答えた聖母マリアや、「私をあなたの平和の道具にお使いください」と祈ったアッシジの聖フランシスコの祈りに近い。子どもを育てて行くときに、不安な気持ちに駆られることはしばしばあるが、この祈りによって「私は宇宙の力に守られている。この子を守ることも、きっとできる」と力づけられるだろう。
 子どものそばに居る者はまた、その子がどのように育ててもらいたがっているかを見極めるために、その子のイメージの中に沈潜するように勧められている。
 「眠るまえに、その子どもの姿を心に浮かべて、その子がどのように歩くか、どのように手を動かすか、どのように笑い、泣くかという細かい点にいたるまで思い浮かべて、そのイメージのなかに沈潜することをお勧めします。(中略)子どもがどのようにあってほしいかを思い描くのではなく、子どものありのままの姿を観照的に受け入れるのです。そのようにしていると、その子どものイメージが教師の心のなかで、どのようになりたいかを語るようになるのです」(ハイデブラント著『子どもの体と心の生長』)
 そういえば夫と二人で子どものことを話すとき、「あの子はこれが苦手でねー、困ったね、どうしよう」と悩んだところで、よい結果を得たためしはない。
 「こういうところがちょっと真似できないほど素晴らしい。ああいうところがワルかわいくてたまらない」とおしゃべりしているうちに、今度こういう遊びを教えようとか、どこそこへ連れていこうねと思いつく。
 ハイデプラントには、どうしてそういうことがすっとわかるのかと不思議だが、ありのままに受け入れると、イメージそのものが語り始める。つまりどうすればよいかの答えは「子どもの中にある」と言っているのだろう。まさにその通りだと思うから、毎晩とは行かないまでも、ときどきは、子どものことをイメージすることにしている。

『私のまわりは美しい-14歳までのシュタイナー教育』(松井るり子著 学陽書房 初版発行1997年6月25日)p174~176)より。
覚めた頭で動くオイリュトミー
 ………
 シュタイナー学校の必須科目であるオイリュトミーは、「体の動きで表した詩、体の動きで表した音楽」と言われている。自ら詩を朗読したり音楽を演奏したりしてみると、それらを受け身で開いているだけのときよりも、作品に描かれた世界がより立体的に感じられる。詩や音楽をオイリュトミーという身体の動きで表現し直してみるとまた、思ってもみなかったところにはっとする。
 例えば幼児のためのオイリュトミーで、先生が動きとともに「梅の実がぽとりと落ちた」とおっしゃるとき、梅の実のあの大きさ、重さが今、枝から地上に落下した様子を、私は心に持つことができる。と同時に今言葉では聞かなかった、梅の実が空を切る感じや、土の上に落ちて、見えない波紋がゆっくり広がっていく様まで、思い描くことができる。
 また、「パン屑がぱらりと落ちた」という言葉が、オイリュトミーの動きとともに『ヘンゼルとグレーテル』のお話に出てくると、パン屑の軽さ、頼りなさが、ヘンゼルとグレーテルの計画をどんなふうに裏切ってしまうかも含めて、ここでは「パン屑がぱらり」でなければならない必然性まで納得してしまう。
 実際に梅の実やパン屑を持ってきて、私の目の前で解説付きで落としてもらっても、このように感じることはできないと思う。オイリュトミーで体験したものを暮らしのなかに持ち帰ると、ものを見る目もほんの少し変わる気がする。
 一年生からのオイリュトミーの授業では、母音と子音の動きに始まって幾何学のフォルム、リズム、メロディー、音階、長調と短調の動き、文法などを動きで表すという。音楽と言語の授業と直接結びつき、幾何、理科、社会、美術、手芸その他、あらゆる教科と深いつながりを持って、芸術的な授業の根源をなしている。
 オイリュトミーの舞台を見ると、「私にはよくわからないけど、どこか嘘でないものの香り」がする。あまり難しいことを考えずに、舞踏芸術の一つとして楽しんでいいのだろうが、オイリュトミーがダンスと根本的に違うのは、「忘我の境地」にならないことである。どんな天女のような美しい動きをしているときでも、オイリュトミストの意識は完全に目覚めて、身体の動きの上位で頭が輝いている。
 これこそ私たちが生きていくときの、あらゆる場面で必要な態度ではないだろうか。学生時代、集中講義にいらして下さった、福祉の一番ケ瀬康子先生が、福祉で大事なことは「冷たい頭と熱い胸」ですよと教えてくださった。博愛の念や優しい気持ちは尊いが、情熱に駆られて頭に血が昇っている状態では、冷静な判断ができず身動きがとれない。逆に合理的、経済的なことばかり追求していたら、よそよそしい管理主義となるだろう。往々にして「のぼせた頭と冷たい胸」になりがちなとき、この言葉を思い出してくださいとおっしゃった。私は時々思い出す。そしてオイリュトミーを見ていると、この言葉が体現されたときの美しさを感ずることができる。

 一言付け加えると、松井るり子さんは、絵本について書いている書籍を複数出している。絵本を深く読み込んでいる.。海外絵本の翻訳も手かけている。そしてシュタイナー教育実践者、研究者である松井るり子さんに今後も注目して行きたい。