『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2017年10月11日(水)35回2017年10月11日

 R・シュタイナー著『音楽の本質と人間の音体験』(西川隆範訳、イザラ書房)を読む。
 
 この書の最終章は神秘的な表題であり科学的な論述の文章でもある「音をとうしての霊界体験」(p155~159)。この文章を下記に掲載させていただきました。この章を読み、ふりかえり、この書籍全体の読書をお勧めいたします。
 
「音の世界をとおして、人間の魂のいとなみは深化し、活気づけられます。人間は音そのもを体験し、その音とべつの音との関係を体験するのです。将来、人間は音の背後を体験できるようになるでしょう。人間は音を霊的世界に入っていく窓のように考察するようになるでしょう。ある音がほかの音やメロディーに対してどのような位置にあるかは不定の感情に依存するものではありません。音をとおして、個々の音の背後に、魂は道徳的―霊的な体験をするのです。音という窓をとおして、魂は霊的世界に突き進むのです。個々の音の秘密が、音の背後の個々の音の体験のなかで明かされるのです。
 音という窓をとおして感覚界から霊的世界に上昇するという感情から、わたしたちはまだ遠く離れています。しかし、やがて、そのような感情をもつようになってきます。彼方の霊的世界から、この物質的―感覚的世界への扉として神々が開けたものとして、音を感じるようになります。そして、わたしたちは音をとおして、物質的―感覚的世界から霊的世界へ上昇していくようになります。たとえば一度をとおして、感覚界から霊的世界に、危険に満ちた方法で上昇していくのを感じるようになります。一度は恐ろしい吸引力をもって、わたしたちを音の窓をとおして霊的世界に取り込み、霊的世界のなかに消滅させようとします。それが一度の危険性です。一度を絶対的なものと感じるとき、わたしたちは物質的―感覚的世界においてまだあまりに虚弱で、その窓をとおって上昇すると、霊的世界に吸収されるように感じることになります。これが、わたしたちが一度をとおして霊的世界に上昇するときに有する道徳的感覚です。単純に述べましたが、その道徳的感覚のなかには非常に複雑で、さまざまなものが含まれています。
 二度という窓をとおして物質界から霊的世界に上昇すると、彼方の精神的―霊的世界に、わたしたちの弱さを哀れむ力があるのを感じます。その力は、「おまえは、物質的―感覚的世界では虚弱だった。もし、おまえが一度をとおしてのみ霊的世界に上昇するなら、わたしはおまえを吸収し、粉砕して、消滅させなければならない。だが、おまえが二度をとおして霊的世界に上昇しようとするなら、わたしはおまえに霊的世界からなにかをもたらし、おまえのことを覚えていよう」と、いいます。
 わたしたちが二度をとおして物質界から霊的世界に上昇するときに特徴的なのは、あたかも多数の音の総体がわたしたちにむかって響いてきて、その音が人間を受け入れることです。絶対一度をとおして霊的世界に歩み入ると、まったく無言の世界に入っていくことになります。二度をとおして霊的世界に入ると、人間の弱さを慰めようとする、かすかに高さの異なったいくつかの音が聴こえる世界に到ります。地上では、だれかの家の窓からなかに入り、その窓を取り外して持っていくと家の持主から変な顔をされるでしょうが、音という窓をとおして到る霊的世界では、音を持っていって、音と一体になり、わたしたちを物質的・感覚的世界から分離させる皮膚の彼方に生きなければならないのです。
 三度をとおして霊的世界に入ると、もっと大きな弱さの感情を持ちます。霊的世界に入ると、物質的―感覚的世界において、霊的なことがらに関して虚弱であったことが感じられます。いまや自分が音になり、自分が三度になります。彼方では、三度ではない友人がこちらにやってくるのを感じます。二度をとおして霊的世界に入ると、多くの音がかすかに響いています。三度をとおして霊的世界に入っていくと、親しい音がやってきます。作曲家になろうとする人は、とくに三度をとおして霊的世界に入っていかねばなりません。三度をとおして入っていく霊的世界で、芸術的創造を刺激する旋律が生じるからです。三度をとおして精神生活に入っていくと、いつも同じ音の友人に出会うわけではありません。自分の気分、体験、気質、つまり自分の生活状態しだいで、いろんな友人に出会うのです。無限に多様な音の世界が、そこに生じるのです。
 四度をとおして霊的世界に参入すると、つぎのような注目すべき体験をします。どこからも音が現われず、三度をとおして経験したものがかすかな思い出のように心のなかに生きているという体験をするのです。四度をとおして霊的世界に参入し、音の思い出とともに生きることによって、その音の思い出がいつも異なった色合いを帯び、明るく快活なものになったかと思うと深い悲しみになったり、太陽の輝きのように朗らかになったかと思うと墓場のような陰鬱さになります。声の加減、音の上昇と下降、つまりある音楽作品の気分の経過が音の思い出をとおして生じるのです。
 五度はむしろ主観的な体験として生じ、魂的体験を刺激し、拡張します。五度は魔法の杖のような作用をし、計り知れない深みから音の世界の秘密を呼び出します。
 世界の現象をたんに見たり、聞いたりするのではなく、内的に体験すると、このような体験をすることになります。このような色彩体験、音体験、形態体験、すなわち芸術体験をとおして、人類が進むべき道が見出されるにちがいありません。唯物論の時代の特徴は、事物に対してたんに外的に振る舞うことですが,そのような特徴を抜け出て、事物の内的な深み、事物の秘密にいたる道が見出されるのです。
 そうして、自分を導く意識下の神的―霊的な力との関連を意識するようになります。そして、人間を受肉から受肉へと導いていく力を内的に体験するようになります。
 石炭を燃やさないと、機関車は走りません。世界の出来事を引き起こす力は、絶えず点火されねばなりません。そのように、人間を前進させる力も、刺激されねばならないのです。人間はこの力と結びつくことを学ばねばなりません。」

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2017年10月11日(水)36回2017年10月11日

 R・シュタイナー著『音楽の本質と人間の音体験』(西川隆範訳、イザラ書房)の「訳者あとがき」を紹介したい。シュタイナーの音楽論が理解し易くまとめられている。その一部を下記に掲載させていただきました。

「 芸術において人間は、
  世界のなかに結びつけられた霊を解放する。
  音楽芸術において人間は、
  自分自身のなかに結びつけられた霊を解放する。
                    ルドルフ・シュタイナー 

 アポロンは立琴を奏で、ディオニュソスは笛を吹く。オルフェウスが奏でる立琴は獣たちを魅了し、浪風を静めた。ダヴィデは竪琴で悪霊に憑かれたサウルを癒やし、エリコの城壁は、祭司が吹く角笛と民の鬨の声によって崩れ落ちた。雲中供養菩薩は歌舞奏楽し、阿弥陀如来の来迎も音楽を伴っている。ナーガールジュナは四智讃を歌詠することによって、南インドの鉄塔の扉を開いた。
 インドの音階は、魂・頭・腕・胸・喉・腰・足の意味を持ち、音は神とされた。わが国の「歌」も呪力を秘めたものであった。声明の五音音階は宮・商・角・徴・羽からなり、宮は中央―大日如来、商は西―阿弥陀如来、角は東―阿閦如来、徴は南―宝生如来、羽は北―釈迦如来に結びつけられている。この五音が三重(十一位)に用いられ、呂と律の旋法が用いられた。中国では黄鐘(壱越)から応鐘(上無)にいたる十二律が用いられてきた。
 東洋音楽には五音音階が多いのに対して、西洋音楽は七音音階を基本にしている。
 ピュタゴラスが割り出した音階に比べると、バッハは以後決定的になった平均律では転調に問題はなくなったが、響きにやや濁りを生じている。階名は、バッハに七〇〇年ほどさかのぼるグィード・ダレッツォの「聖ヨハネ讃歌」によるものであり、ギリシャ音階の原理を基にしたグレゴリオ旋法を経て、一六世紀にイオニア旋法とエオリア旋法から長音階と短音階が成立した。近代になると、ドビュッシーが半音程を排除した全音音階を創始し、シェーンベルクが十二音音階を唱えることになる。
 シュタイナーの音楽論は、このような楽典に新しい観点を提示しようとするものである。……」

 是非この書籍を購入し読んでいただきたいと思います。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2017年10月23日(月)37回2017年10月23日

 R・シュタイナー著『色と形と音の瞑想』(西川隆範訳、風濤社)を読み始めている。

 この間、イギリス絵本の流れをつくるビアトリクス・ポターのピーターラビットシリーズを読む。グレート・ブリテン島中央に位置する湖水地方の自然保護運動ナショナル・トラスト運動の初期から参加し、所有地や書籍印税など含め全財産をその運動に寄付したビアトリクス・ポターの生き方に敬意を表します。
 福島県の原発事故後の復興に思いを寄せる福島県生まれ育ち暮らす作家や詩人の作品に目を入れました。先ず、福島県三春町で僧侶の仕事をしながら小説を書く芥川賞作家の玄侑宗久氏、その著『光の山』を読む。福島第一原発事故後の福島の人々の心象を描いた作品である。芥川賞受賞作品『中陰の花』は人間存在の心の襞を感じる内容だと思った。
 南相馬市から福島第一原発事故の不条理を語る詩人若松丈一郎氏の作品『わが大地よ、ああ』他を読む。若松丈一郎は福島第一原発事故前にチェルノブイリ原発事故の現場から福島原発事故を予言していた詩人である。その迫力ある言葉に触れる。
 福島市生まれの詩人和合亮一氏は高校の国語教師を務めながら詩を書いている。岩波ジュニア新書から『詩の寺小屋』を出版。今注目されている詩人である。吉永小百合がポエムリーディングで和合亮一氏の原発事故後の福島の思いを描いた『詩の黙礼』『詩の邂逅』『詩の礫』を取り上げている。さらに、吉永小百合は若松丈一郎の『ひとのあかし』も読み上げた。   
 1966年郡山市生まれの古川日出男氏はエンターテインメント作家である。原発事故後の福島文化を盛り上げる企画を郡山市を拠点に毎年秋に開催している。2014年秋、村上春樹氏を囲んで、翻訳家の柴田元幸氏、作家の川上未映子氏、企画者の古川日出夫氏他出演のトークイベントが開催された。私も除染作業の合間に、そのイベントを傍聴した。三春町の除染宿泊から磐越東線を使い郡山市の会場に出かけていったことを思い出す。
 その古川日出男著『女たち三百人の裏切りの書』は源氏物語の宇治十帖の謂われ、紫式部から材やモチーフを引き出した物語でもあり、面白かった。
 次に『100まんびきのねこ』を読む。アメリカ絵本の開花期後期の中心的役割を担ったワンダ・ガアグの作品である。出会う「ねこ」全てに可愛さを発見する主人公は読者そのものである。出会う「ねこ」は出会う「人間」に置換えて読んでもよい。
 
 日本列島は太平洋に向かって張り出し、海の向こうのアメリカ大陸に対峙している。対峙しつつ環太平洋で繋がっている。アジア大陸の前面にたち、太平洋の打ち寄せる荒波を受けとめている。日の丸の旗のように、赤い太陽が昇る太平洋上に向かって張り出している日本列島の東北地方にある福島県。そこに東京電力福島第一原子力発電所が原子力技術平和利用の下に国策として建設された。
 1911年3月11日、東日本大震災による大地震大津波により、福島第一原子力発電所の電源系統があっけなく破壊され、原子炉冷却装置が停止し、原子炉内でウラン燃料がメルトダウンした。原発作業員の必死の努力で原子炉爆発は避けられた。が、原子炉を囲む建屋と周辺機器が水素爆発などで破壊されて、そこに溜まっていた放射能が飛散した。福島県や周辺大地までセシウムが風に運ばれて周辺30㎞を超えて飛散した。阿武隈高原の自然や動植物、大地だけではなく、日常生活や暮らしの破壊、人びとの心が傷ついた。そして今でもそれからの多面的な復興復旧、日常の暮らしの再生再建、リハビリや癒しの活動が問われている。それらの傷が癒されるにはながい時間が必要である。