『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2018年7月6日(金)53回2018年07月06日

 R・シュタイナー著『歴史のなかのカルマ的関連』(西川隆範訳、イザラ書房)を読みはじめている。目次をみると、二部構成になっており、第一部は人類の歴史的生成に関するカルマ考察、第二部は個々の人生のカルマ的考察、となっている。
 第一部の人類の歴史的生成に関するカルマ考察は五構成で、第一講はマルクス・エンゲルス・ハウスナー、第二講はランケ・シュローサ―・マイヤー、第三講はぺスタロッチ・エマーソン・グリム。第四講はイプセン・ヴェーデキント・ヘルダーリン・ハマーリング、第五講はルドルフ皇太子。それらの人たちが取り上げられている。
 第二部の個々の人生のカルマ的考察は四構成で、第一講は実践的カルマ考察―人間の背後の土星衝動・太陽衝動・月衝動、第二講はカルマ洞察の方法、第三講は身体形姿に現われる前世のありよう、第四講は月に棲む原初の導師たち。
 この現在の人生だけではなく、前世を含めて個の生き方や社会について考えることが必要な時代がやって来る。R・シュタイナーはそのように考えっていると私は思った.。さらにこの書籍から何を知り得るか。そのことを問ながらページをめくりはじめています。

 この書籍を手にする合間に、前回に引き続き、絵本のハンス・アウグスト・レイ(H.A.レイ)及びマーグレット・エリザベス・レイ(M.E.レイ)共作『おさるのジョージ』(『ひとまねこざる』)シリーズ、その他作品はたくさんあるのでさいたま市図書館から借りてきて読んでいます。それらの中にあった書籍『戦争をくぐりぬけたおさるのジョージ(作者レイ夫妻の長い旅)』(ルィーズ・ボーデン文、アラン・ドラモンド絵、福本友美子訳、岩波書店)に出会いました。H.A.レイとM.E.レイ夫妻はともにドイツ生まれのユダヤ人であった。1940年レイ夫妻はパリで暮らしていましたが、ヒットラー率いるドイツ軍のパリ占領直前に自転車でパリ市街から二人で脱出していきました。この書は絵本作家夫妻の生い立ち、第二次世界大戦のヨーロッパを背景にして戦禍を生き抜く姿、絵本への創造がビビッドに描かれていて、引き込まれてしまいます。
 宇宙への時代に入りつつある現代、H.A.レイ著『星座を見つけよう』(草下英明訳、福音館の科学の本)は星の世界を知る入門書としての価値ある書籍です。子どもと共にぜひ一読してください。
 
 香川豊彦全集にも目をいれています。19巻に収められている「小説キリスト」「小説使徒パウロ」「石の枕を立てゝ」 に目をいれた。14巻は散文小説「死線を超えて」上・中・下巻が収められていて、ページ読みしました。
 20巻には散文、詩が掲載されている。次のような作品が入っている。「涙の二等分」、「永遠の乳房」、「天空と黒土を縫合せて」、「北斗星の招宴」、「銀色の泥濘」、「雑―基督者詩歌集「発車」より―」、「友情」、「預言者エレミヤ」、「馬の天国」、「爪先の落書」、「イエスさまとお弟子、「こどもとイエスさまま」、「キリストの生涯」、「野に咲く花」の14作品が収められている。
 21巻は「地殻を破って」、「雷鳥の目醒むる前」、「地球を墳墓として」の三作品が収められています。
 22巻も「暗中隻語」、「黎明を呼び覚ませ」、「空の鳥に養われて」の三作品です。
 23巻も同様に「雲水遍路」、「彷徨と巡礼」、「世界を私の家として」の三作品です。
 最終の24巻は「身辺雑記」、「所信・声明・放送」、「祈・聖霊」、「続空の鳥に養われて」の四作品が収めれられています。
 賀川豊彦は1888年7月10日に神戸市兵庫島上町で生まれ、1960年4月23日東京都世田谷区上北沢で亡くなりました。キリスト教全般を読み込み、思想基盤をそこにおきながら、仏教や神道やイスラム教、ギリシャ哲学、ギリシャ神話、ロバート・オーエンほもちろん、マルクス、エンゲルス、ウイリアム・ジェームスその他多数の思想家の著籍、文学書を読み込んでいます。賀川作品にはそれらの思想家、作家の書籍や思想がいたるところに引用されています。
 ルドルフ・シュタイナーとの接点を賀川著書の中に探しましたが現在のところ発見出来ていません。引き続き調べていきます。

 ルドルフ・シュタイナーを読みながら人生についてあれこれ思う。自分自身は目的とか目標をどのように考えてきたのか。自己の人生をどのようにとらえているのか。
 シュタイナーによると私たちはすでにカルマの中に生きている。だから、目的目標は私たちの生の中に秘められていることになる。私たちには願望があるがそれもカルマからきているのかどうか。それはどうなのだろうか。自問するが願望とカルマの関係がわからない。カルマから願望が生まれるのか。願望の源泉はカルマとは別のものなのか。輪廻転生は科学的事実かどうかは現代科学は未だ判明できていない。シュタイナーは輪廻転生もカルマも事実であると言い切っている。願望への意志は実在するが、願望の源泉はカルマや輪廻転生とは別かどうか。
 R・シュタイナー著『歴史のなかのカルマ的関連』(西川隆範訳、イザラ書房)76~80ページ、90ページを下記に引用させていただきました。このページにはキリスト教のゴルゴダの秘儀や背教者ユリアヌスについて触れている文章、病気と健康の捉え方等があり、興味を深めました。

「紀元後数世紀に、西南アジアの密議の特徴をすべて備えた密議の場がありました。それらの密議に人々が参入した古代には、まだ伝統がありました。人間の心魂の深みに導き、宇宙の彼方に導く認識を得るために心魂に適用しなければならない法則についての意識が、まだ多かれ少なかれありました。この西南アジアの密議において、紀元後数世紀に大きな問が生じました。
 それらの密議においては、無限の叡智が供儀の場から流れ出るのが見られました。『神秘的事実としてのキリスト教と古代の密議』には当時おおやけの書物で述べることが可能であったかぎりのことがらが書かれていますが、それを読んでもらうだけでも、それらの密議の叡智すべてがゴルゴダの秘儀を理解することを目指しているのがわかります。西南アジアの密議のなかに、大きな問がありました。「ゴルゴダの秘儀をとおして地球に流れてくる現実の内容の偉大さは、人間の心情をとおして、さらにどのように発展していくのだろうか。星々に住む存在にまで上がっていく太古の叡智、宇宙と人間の生を導くさまざまな種類の神的―霊的存在たちの認識を内に含む太古の叡智が、ゴルゴダの秘儀のなかに集中したもの、高次の太陽存在キリストから人類のなかに流れ込むべき衝動とどのように結びつくのか」というのが、西南アジアの密議の燃えるような問です。
 この問いに深い印象を受けた、ひとりの秘儀参入者がいました。カルマ的関連の探究のなかで、紀元後数世紀における西南アジアの密議における秘儀参入者にいたると、心をゆさぶられるような印象を受けます。当時の秘儀参入学が有したものすべてをもって、ゴルゴダの秘儀全体を理解するのです。「これから、どうなるのか。弱い人間の心魂は、この出来事をどのように受け取れるのか」という問に取り組むのです。
 この秘儀参入者の魂はキリスト教の運命への燃えるような問いに取りつかれ、ある日、密議の場を遠く離れて散策していました。そして、衝撃的な印象を与える事件を体験しました。彼は、背教者ユリアヌスが謀殺された光景を見たのです。秘儀参入者の知をもって、そのような体験をしたのです。
 彼は背教者ユリアヌスがある段階まで古代の密議に参入したことを知っていました。古代の密議のなかで育成されてきたもの、古代の密議のなかに生きていたものを、背教者ユリアヌスは霊的な方法で維持、発展させようとしました。背教者ユリアヌスはキリスト教を古代の密議の叡智と合体させようとしたのです。背教者ユリアヌスは古代の密議の叡智の意味で、「物質的な太陽のかたわらに霊的な太陽がある。霊的な太陽を知る者はキリストを知る」と、語りました。しかし、そのような言葉は、背教者ユリアヌスの時代には、悪しきものと見なされたのです。そのため、彼はペルシャに向かう途上で殺害されたのです。この世界史の意味深い兆候を、その秘儀参入者はともにしたのです。
 世界史のなかのカルマ的関連に関して、シュトゥットガルトにおける『世界史の秘密』と、クリスマス会議に際してドルナッハでおこなった『密議の歴史』でお話したとき、わたしは人類の歴史における背教者ユリアヌスの悲劇に触れました。
 その悲劇を、この秘儀参入者は体験します。この秘儀参入者が西南アジアの密議の場において習得した秘儀参入学は、「キリスト教からなにが生じるか」という問に圧倒されていました。この徴候をとおして、彼の魂には、「キリスト教が誤解され、キリスト教がたんに伝統のなかにしか生きなくなる時代がくる。人々は、ナザレのイエスのなかに生きた太陽霊キリストの崇高さについてなにも知らなくなるだろう」ということが明らかになりました。
 この思いが、この人物の魂に押しかかっていました。彼の余生の心情は、キリスト教の発展を考えて、物悲しい哀調を帯びたものになりました。その兆候は彼をうろたえさせました。このようなことに気づくだけでも、大きな衝撃です。このような印象を、この秘儀参入者は受けました。その印象の結果、彼は早く再受肉し、三十年戦争の時代にも生まれ変わりました。人類の歴史のなかで大きな役割を果たした、多くの際立った、興味深い受肉が、この時代に見られます。
 彼は三十年戦争がはじまる十七世紀初頭に生まれて、三十年戦争の時代を生きました。そして、薔薇十字団の側から霊的―精神的な方法で三十年戦争を訂正しようとしながら、三十年戦争の残忍さと野蛮さを体験しました。三十年戦争の直前に、クリスティアン・ローゼンクロイツの『化学の結婚』は書かれました。この本のほかにも、三十年戦争によってすべてが暴力的に打ち砕かれるまえに、人類のなかに入ってきた衝動がまだたくさんありました。
 そして、十九世紀になります。かって秘儀参入とともに背教者ユリアヌスの運命を体験した人物は、十七世紀における女性としての転生を経て、ふたたび受肉します。女性としての人生をとおしてさらに内面化されたもの、秘儀参入者の叡智ではなく、震撼した心情のなかに有した ものすべてが、秘儀に参入した魂に注ぎ込まれました。そのすべてが、一八六〇年代、七〇年代から十九世紀末に、独特の世界考察、人間存在の矛盾に深く入っていく世界考察のなかに注ぎ出されました。
 前世からの秘儀参入の叡智を十九世紀、二十世紀のなかに担っていく者が行為をとおして作用しうることはできない状態になっています。そのために、大きく変容して表面的なものになったように見えながらも内的になったもの、古代密議の叡智を有した人間の心から感覚および感覚による観察へと進むものは大きく変容し、すべてが誌的なかたちで表明されようとします。
 十九世紀末、二十世紀初頭にその人物のなかに存在したものだけが活動したのではなく、すでに退廃した密議に参入した者に到来する衝撃がともに作用しているのが見られます。・・・・・・」

 「病気と健康は、運命の関連のなかで考察すると、ひとつの人生の枠内で考察するのとはまったく異なって見えます。 
 霊的世界をとおして引き起こされる秘密に満ちた出来事に対する聖なる恥じらいが、このような観察方法から人間の心情のなかに発生する、とわたしは考えています。センセーションを巻き起こそうとしているのではなく、精神生活の認識を深めるために、このような考察をおこなっていることを、もう一度強調しておきたいと思います。このように深く精神生活に入っていくことによってのみ、外的な人間の感覚的な人生は解明されるのです。」

 この場面に登場する一人の「秘儀参入者=彼」は、R・シュタイナーその人ではないか。私はそのように思った。

『ルドルフ・シュタイナー、希望のある読書』2018年7月22日(日)54回2018年07月22日

 R・シュタイナー著『歴史のなかのカルマ的関連』(西川隆範訳、イザラ書房)を読んでいます。行間読みの少しずつ進める読書です。
 輪廻転生は事実であるとシュタイナーは言いきっています。仏教においてもキリスト教においてもそれが真実であるといっています。シュタイナーを含めて少数の科学者、哲学者は輪廻転生の実体を理解していると考えるが、現代社会の多くは未だ輪廻転生の理解に到っていません。そのような状況下であるが、人類は無意識のなかで、輪廻転生に希望を抱いています。私も同様です。シュタイナー書籍の理解が先ず今私の重要なテーマであるのはそこに由来します。
 前回に続きこの書から引用をさせていただき下記に掲載させていただきました。「第三講 身体形姿に現われる前世のありよう」の161~171ページです。目を入れていただき、その後この書を手に持ち是非ご覧頂きたい。シュタイナーが輪廻転生の細部、前世の個人の生き方の細部状況と現在の今世の関係を細かくわかり易くとらえて示しています。興味深い文章です。

「ここで、図式的に述べれば、生まれてから七歳までのあいだ、頭以外の部分、筋肉、骨などは、頭から形成される。頭がそれらの部分に力を送る」ということを考えてみなければなりません。頭が地上生活をとおして地上の力へ強い結びつきを発展させたら、なにが生じるでしょうか。そうすると、人間が構築されるとき、人間は胎児のときから乳歯が永久歯に生え変わるまで頭部によって保護されます。地の力は頭の力によって強く保護されます。その結果、地球の力に依存するものを、人間はよく発達させます。つまり、人間は強い骨を得るのです。たとえば、広い肩甲骨を持ち、肋骨がよく発達します。すべてが、よく形成されます。前世における注意が現世へともたらされ、いかに身体が形成されるかがわかります。空間的には、すべては頭から発するのですが、本質的には心魂と精神から発しているのです。この形成力のすべてに、心魂と精神が関与しているからです。ですから、「頭は、前世の状況をとおして、地球に結びついたものになる」ということがわかります。額はとくに高くはありませんが、鋭く、強く形成されています。額が高いと、地球とは結びつかなくなります。
 人間は進化し、骨を力強く形成します。そのような地球に結びついた力が前世から強く作用すると、髪の毛が早く伸びます。髪の毛が伸びるのが早い子どもの場合、その特徴を前世における注意深さに結びつけねばなりません。人間はある人生における道徳的―精神的な態度から、来世の地上生を形成するのです。
 アリストテレスの時代には、輪廻転生について語られることはなくなりながらも、輪廻転生の観照からのみ得られる認識がまだありました。アリストテレスは「人相学」に、顔がいかに道徳的な態度と関連しているかを、みごとに書いています。
 反対に、意気地なし、臆病者を考察してみましょう。カルマの考察は、未来のことを考えて今生をどう生きるかにとっても意味があります。現在の人生を前世に結びつけて解明するのは、知識欲の満足のためだけではありません。現在の人生において自己認識ができれば、来世の準備ができます。なにごとにも興味を抱かず、表面的に生きると、来世ではたいへんな小心者になります。周囲に注意を払わず、物事と関わることの少ない人間は来世では、地球の力と結びつかない頭を持つことになります。骨は未発達で、髪の毛はゆっくり伸びます。しばらくO字脚、X字脚になります。
 そのようなことが、精神―心魂と自然―物質との関係をよく示しています。頭の構造の細部から、人間全体から前世を見通すことができるのです。
 カルマ考察の準備としてみなさまにお伝えしている内容は、外的な方法ではなく、精神科学的な、内的な方法で観察されたものです。今日の生理学、解剖学がおこなっているような外的な方法で人間を取り扱ってはならないということを、精神科学は示しています。たんに器官を調べ、器官相互の関係を調べることには、なんの意味もありません。人間は一個のイメージだからです。ある部分においては人間は死と再受肉のあいだの力のイメージであり、べつの部分においては前世のイメージです。たんに人間の各部分を考察する、今日の生理学、解剖学は無意味です。頭は、現在の身体と関係しているよりも、はるかに前世と関係しているのです。
 「前世を振り返ったときに、肉体のプロセスははじめて理解できる」と、いうことができます。前世において世界に大きな関心を持っていた人間の髪の毛は、早く伸びます。前世で世界をあまり知らなかった人の髪の毛は、ゆっくり伸びます。前世において非常に大きな興味を世界に対して持ち、なにごとにも首を突っ込んだ人は、剛い髪の毛になります。さまざまな身体のありようと、前世における体験との関係を明らかにすることができるのです。個々に詳細にいたるまで、そのような関係が見出されます。ある人生でよく塾考した人を取り上げてみましょう。その人は、つぎの人生で痩せた体になります。あまりじっくり考えずに、外界に生きた人は、つぎの人生で脂肪がつきます。このようなことも、未来に対して意味を持ちます。ダイエットをひとつの人生で遂行することはできません。場合によっては、肉体的な療法は助けになることもありますが、昨日お話ししたような方法で、とくに考えるのに労苦を要するものごとについてよく思考することによって、来世のためのダイエットができます。瞑想する必要はありません。よく考え、内的な決意をする意志を持てばよいのです。どのように人生を生きるのかという精神的―道徳的な方法と、来世における肉体の状態とのあいだに、そのような関係があるのです。
 べつの例をあげてみましょう。ある人が思想家として生きたとしてみましょう。大学教授のことをいっているのではありません。耕作をすることもできるし、熟考することもできる人間のことをいっているのです。これは冗談ではありません。どのような境遇にあるかが問題なのではありません。農耕をしたり、手工業にたずさわりながら、優れた思想家であることもできます。おもに地上生とともに消えゆくものについて思考し、来世に力を送るもの、来世で頭部を形成するものについて思考しなかった人は、軟らかで華奢な肉体になります。特徴的なのは、よく思考した人はよい肌になることです。皮膚にしみがあったり、皮膚の汚い人は、前世であまりものを考えなかった人です。もちろん、ほかの理由もあり、ひとつの特徴からすべてを結論づけることはできませんが、きょうお話している心魂―精神と物質の関係は、おおむね正しいものです。そばかすの多い人が前世で思想家でなかったことは確かです。
 このように、精神科学は抽象的―霊的なことだけに関わるのではなく、物質のなかにおける精神の作用にも関わります。唯物論の悲劇は、たんに物質のみを見ることではなく、物質についてなにも知らないことです。物質のなかにおける霊の作用を認識しないので、物質についてなにも知ることができないのです。人間考察において、正しく物質を見るべきなのです。人間形姿において、人間の本質において、物質のなかに霊の働きが表現されているからです。物質は霊の外的な開示です。
  『ダス・ゲーテアヌム』誌に連載されている『人智学指導原理』のなかに、イマジネーション認識をもっとも外的なものに適用するときにのみ、人間の頭を正しく考察することができる、と書きました。人間の頭の形態、耳の形態、鼻の形態、目の形態はイマジネーションの雛形にしたがって作られているのです。人間の頭は、外的に目に見えるイマジネーションからできているのです。
 それは、人間がいかに構築されているかについてもいえます。胴の下部が上部よりも長い人、すなわち、胴の下から胸までが長く、胸の中央から喉までが短い人がいます。
 死んでから、死と再受肉のあいだの生の真中までを速やかに進み、それからゆっくりと地上に下った人は、胸の中央から喉までが胴体下部よりも短くなります。
 喉から胸の中央までの部分が、胸の中央から胴体の下までの部分よりも長い人は、死と再受肉のあいだの生の真中までをゆっくりと進み、それから速やかに地上に下った人です。このように、死と再受肉のあいだの前半期と後半期をどのように過ごしたかが胴体の形の現われています。
 人間において物質的なものは、霊的に人間の基盤になっているものの模像です。その霊的な基盤となっているものが、人生に作用を及ぼします。胸部上部が短く胸部下部が長い人間aと、胸部上部が長く胸部下部が短い人間bを取り上げてみましょう。胴体下部が長く、胴体上部が短い人間aは、たくさん眠る必要があります。もう一方のbは、そんなに眠る必要がありません。胴体には、その人間が眠りをたくさん必要としているか、必要としていないかが表現されており、死と再受肉のあいだの生の前半と後半を、素早く通過したか、ゆっくり通過したかが表現されています。
 このことも前世に関係しています。自分の素質によってではなく、教育や生活によって、人生にあまり興味を抱かず、鈍感であった人は、死から再受肉までの生の前半に、なんの関心も持ちません。死と再受肉のあいだの生の中心を過ぎて、ふたたび地上に下るときに、はじめて関心を持ちます。
 反対に、悟性と心情をもってあらゆることに関わる人は、死と再受肉のあいだの生の前半に大きな関心を持ち、地上に下るときは素早いのです。「よく寝る人は、前世で鈍感な人生を送ったのだ。活発で、あまり眠らない人、眠るために読書等のことをしなければならないような人は、前世で鈍感ではなく、悟性と心情をもって活発にものごとに関わった人だ」と、いうことができます。
 先に進みましょう。食道楽の人がいます。食事に関心のない人もいます。食い意地の張った人、とはいいません。食べるのが好きな人と、あまり好きでない人です。
 このことも、その人が死と再受肉のあいだの生をどのように通過し、存在の真夜中を通過したあとなにを体験したかに関連しています。
 死と再受肉のあいだの生において、非常な霊の高みまでに上昇する人と、そんなに高く上昇しない人がいます。非常に高く上昇した人は、生きるために食べます。高く上昇しなかった人は、食べるために生きます。
 そのような生き方のちがいが生まれます。肉体的欲求に関連することがらから、カルマがどのように前世から到来するかを見ることができます。
 そのように観察できると、人が食卓でどのような動作をするかを見て、前世を解明することができます。
 今日は、物質的なことについてお話ししています。明日は、より道徳的な面についてお話ししようと思っています。物質的なことをよく把握しておかないと、道徳的な面の理解が不十分になります。
 熱心に梨ばかり食べる人がいます。そのような人は凡庸な前世を送った人です。そのような人は道徳に関して、習慣、伝統のなかに安住していた人です。このことも、生き方に大きな意味を持っています。現代人はこのように考察することに慣れていないので、このようなことを語ると、奇妙なことに思われ、笑われてしまいます。しかし、このようなことを非常に真剣に考察しなければなりません。今日、ありきたりの慣習に没頭し、通常の習慣から抜け出たものを好まない階層の人々がいます。
 たんに立ち居振る舞いだけではなく、たとえば話し方からも前世を探ることができます。従属複合文を恣意的に語ることのできない言語があります。その言語においては、主語をべつの場所に置くことはできません。べつの言語においては、主語をどこに置いてもいいし、述語をどこに置いてもかまいません。そのような言語だと、人間は個性を伸ばすことができます。
 人間はありきたりの慣習に縛られています。凡庸な人生を送ると、つぎの人生において大食漢になるのです。
 人間はひとつの人生のみを計算に入れるのではなく、地球進化全体を見て、ある人生においておこなわれたことがつぎの人生にもたらされ、人間はある時代からつぎの時代へと事象を担っていくということを知る時代が、いま始まろうとしています。このような意識が現われるためには、大人と同様、子どももこのようなことを受け入れる必要があります。・・・・・・」